反共・革新分断作戦

第二の時期は、
日本共産党をのぞく
「オール与党」政治への
転換の時代です。

日本共産党躍進に恐れた
支配勢力は、1970年代の
中頃からの日本共産党を
「暴力と独裁」の党だと
する反共キャンペーンを
皮切りに、徹底的な
日本共産党の「封込め」
作戦を開始しました。

社会党・総評を取込む
革新分断作戦が
行なわれました。

決定的転機となったのが
1980年に社会党と公明党
との間で結ばれた
日本共産党排除、
日米安保条約容認の
「社公合意」でした。

党と無党派との共同

革新自治体もつぎつぎと
破壊され、日本共産党を
除く「オール与党」体制
が、全国の自治体を
覆っていきました。

日本共産党は、一定の
後退を余儀なく
されながらも、国政での
陣地を踏みとどまり、
党勢を持ちこたえ、
この攻撃に不屈に
たちむかいました。

統一戦線運動では、
日本共産党と無党派との
共同という方針を提唱し
1981年に全国革新懇が
発足しました。

この運動は、今日、
ますます幅広い人々の
参加を得て、その生命力
を発揮しています。

日本共産党と無党派の
人々との共同で
革新・民主の自治体を
つくろうという動きが
広がりました。

この動きは、
東京都狛江市、
岩手県陸前高田市、
埼玉県蕨市をはじめ、
今日もさまざまな形で
発展しています。

オール与党体制の矛盾

困難な時代のなかでの
奮闘の値打ちは、
後から振返ってみると
よくわかります。

わが党が、
「日本共産党を除く」と
いう締出しに屈しないで
人々との新たな共同を
探求した事は、私達への
信頼を広げ、新たな
友人を広げました。

国民の闘いとわが党の
不屈の活動によって、
「オール与党」体制に
矛盾とほころびが
起こりはじめました。

二大政党へのはめ込み

1989年4月、
消費税が導入され、
それに反対する
国民世論が日本列島を
揺り動かしました。

この年の3月の
千葉県知事選、
4月の名古屋市長選挙で
政党は日本共産党だけが
推薦する革新候補が、
「オール与党」候補と
対決して、40%以上の
得票を獲得したことは、
支配勢力に衝撃を与え、
「地殻変動」という
言葉が飛び交う状況が
生まれました。

「オール与党」体制は
失敗すれば国民の批判の
「受け皿」となるのは
日本共産党しか
ありません。

ですから、支配勢力は、
この体制では限界がある
と感じはじめました。

それが日本の政党戦線を
無理やり「二大政党」に
はめ込もうという
動きであります。

■二大政党化との闘い