従属と屈辱の日
「祝う」のか
日本共産党幹部会
委員長 志位和夫
 安倍内閣は、サンフランシスコ平和条約が発効した4月28日に、政府主催で「主権回復の日」式典開催を決定した。
 サンフランシスコ平和条約は、三つの重大な問題点をもつものだった。
全面講和でなく
単独講和であった

 第一は、全面講和でなく単独講和であったことである。
 日本軍国主義の被害をもっとも深刻にこうむったのは、中国、韓国・朝鮮だったが、中華人民共和国の代表も、韓国の代表も、北朝鮮の代表も、サンフランシスコ会議には招待されなかった。
ソ連など3カ国は条約に署名しなかった。

沖縄本土切離し
千島列島放棄
はこの条約から

 第二は、「領土不拡大」というカイロ宣言、ポツダム宣言に明記された第2次世界大戦の戦後処理の大原則に背く、重大な誤りが持ち込まれたことである。
サンフランシスコ条約第3条で沖縄を日本から切り離し、米国の支配下におけるようにした。
第2条C項で千島列島を放棄し、ヤルタ協定にもとづくソ連の不当な占領を追認するものとなった。
これらの条項によって、沖縄は、長きにわたって本土から切り離されて米軍の直接統治下に苦しみ、千島列島はロシアの支配下におかれるという問題がつくりだされた。

米軍駐留継続
を認める規定

 第三に、第6条で、「連合国のすべての占領軍」の撤退を規定しながら、新たな条約にもとづく「外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない」として、米軍駐留の継続を認める規定が設けられたことである。
日本占領の目的が達成されたら、占領軍は直ちに日本から撤収することを明記した、ポツダム宣言に反するものだった。

国民苦しめる
根源は安保条約

 サンフランシスコ条約と連動して旧日米安保条約が結ばれた。
旧安保条約は、基地のすべてを提供する条約となった。
旧安保条約は、1960年に改定されたが、基地貸与条約にくわえ、米軍と自衛隊が共同してたたかう日米共同作戦条項などが新しい柱として盛り込まれ、日本をアメリカの対米従属的な「基地国家」として固定化するものとなった。

 国民を苦しめている米軍基地の重圧も、憲法第9条に反する米軍と自衛隊との軍事的共同も、根源をたどると1952年4月28日に発効した日米安保条約にゆきつく。

一切の批判弾圧
国会除名処分

 旧安保条約の締結は、完全な秘密交渉としておこなわれ、全権代表団のなかで吉田茂首相をただ一人の例外として、1951年9月8日の署名の日まで、日本側の全権代表団にすらその内容を知らされず、国民にもまったく秘密とされた。
当時の日本国内は、占領軍への一切の批判を弾圧する戒厳令同然の状態であり、デモも集会も禁止されていた。国会ですら、日本共産党の川上貫一衆議院議員(当時)が、「ポツダム宣言にもとづく全面講和」を求めたら、保守政党によって国会を除名処分にされるという暗黒状態だった。

国民の選択でない
押付けられた安保

 サンフランシスコ平和条約と日米安保条約は、言論の自由を封殺したもとで、押し付けられたものであり、日本国民の選択の結果ではない。
条約発効の日を「祝う」ことは、
異常な対米従属が固定化された日を「祝う」ことであり、
沖縄を本土から切り離した屈辱の日を「祝う」ことであり、
千島列島を放棄したことを「祝う」ことにほかならない。
式典中止求める

 この日は、一部勢力にとっては「祝日」かもしれないが、日本国民の「祝日」には断じてなりえない。
同時に、日本国憲法を安倍政権の言う「主権回復」以前に制定されたものとして、その改変を求める動きと一体のものであることもきわめて重大である。

 日本共産党は、「主権回復の日」式典の企てを、ただちに中止することを、要求する。


赤旗日刊紙
13年3月15日要約
◆こんにちはトップ
■資料