街頭で新聞読聞かせ
抗日運動参加の訴え

 1944年、愛知県でなくなった宋学海さん(本名・宋振海、連行時27歳)の弟の宋殿挙さん(69)の家は、許東民さんの家から20分ほどの河北省威県杏園屯にあります。

 遺骨は、同県出身の7人が日本から持ち帰りました。

 宋殿挙さんは、兄が連行されたとき3歳でした。
「遺骨は、一時、県が預かり、家族が村の幹部といっしょに引き取りに行きました。
葬式は村が行い、村人全員が参列しました。
遺骨を持ち帰った人が家に手紙をくれたようですが、私は見ていません。

 38年に抗日活動に参加した宋振海さんは、該当で読み物や新聞を民衆に読み聞かせ、抗日運動に参加するよう働きかけました。

抗日戦争で死亡
「烈士」に認定

 宋振海さんの家は、村はずれにありました。
よく、秘密の連絡場所になっていました。
44年、県境の寺荘村で日本軍の捕虜になり、日本に連行されました。

 宋振海さんがなくなったときの様子を許東民さんは、今年の5月の劉宝辰河北大学教授の調査に対し、次のように証言しています。

 “土石の上で発破をかけるので、上のものが下にいた者に逃げろと叫んだが、たぶん宋学海には聞こえず、埋もれてなくなった。”

 威県は、宋振海さんを抗日戦争で命を落とした「烈士」と認定し、烈士名簿に記載。
「烈士証」を発行し、1980年に父親がなくなるまで年金を支給しました。

宋振海さんを
村の人が尊敬

 日本に強制連行された被害者の中には、文化大革命の時期に、日本に行ったことで日本のスパイ等と攻撃された人もいます。
しかし、宋殿挙さんの場合、村の人たちは宋振海さんを尊敬しており、中傷されるようなことはありませんでした。

 宋殿挙さんは、「兄は、結婚しないままなくなりました。
それで、85年に『死親(ししん)』を行いました」と言います。
死者同士の「結婚式」のことで、隣村の若い女性が死んだので女性の家に礼金を渡し、棺おけを運んできて、いっしょに埋葬したとのことでした。


10年11月11日
赤旗日刊紙要約

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