遺骨は、同県出身の7人が日本から持ち帰りました。 宋殿挙さんは、兄が連行されたとき3歳でした。 「遺骨は、一時、県が預かり、家族が村の幹部といっしょに引き取りに行きました。 葬式は村が行い、村人全員が参列しました。 遺骨を持ち帰った人が家に手紙をくれたようですが、私は見ていません。 38年に抗日活動に参加した宋振海さんは、該当で読み物や新聞を民衆に読み聞かせ、抗日運動に参加するよう働きかけました。
よく、秘密の連絡場所になっていました。 44年、県境の寺荘村で日本軍の捕虜になり、日本に連行されました。 宋振海さんがなくなったときの様子を許東民さんは、今年の5月の劉宝辰河北大学教授の調査に対し、次のように証言しています。 “土石の上で発破をかけるので、上のものが下にいた者に逃げろと叫んだが、たぶん宋学海には聞こえず、埋もれてなくなった。” 威県は、宋振海さんを抗日戦争で命を落とした「烈士」と認定し、烈士名簿に記載。 「烈士証」を発行し、1980年に父親がなくなるまで年金を支給しました。
しかし、宋殿挙さんの場合、村の人たちは宋振海さんを尊敬しており、中傷されるようなことはありませんでした。 宋殿挙さんは、「兄は、結婚しないままなくなりました。 それで、85年に『死親(ししん)』を行いました」と言います。 死者同士の「結婚式」のことで、隣村の若い女性が死んだので女性の家に礼金を渡し、棺おけを運んできて、いっしょに埋葬したとのことでした。 10年11月11日 赤旗日刊紙要約 ◆侵略戦争の真実 ◆元日本兵が語る ◆平和への願い ◆今日はトップ |