原子力問題の決議

 1955年に、日米原子力協定が結ばれ、原子力基本法がつくられ、初代原子力委員長には正力松太郎氏――関東大震災の救援を弾圧したその人――が就任します。
当時の自民党も、社会党も賛成するなかで、その危険性の問題を指摘して反対したのは、当時、労農党と共同会派をくんでいた日本共産党だけでありました。

 1950年代後半、研究炉と商業炉の導入が急ピッチで進められます。
日本の東と西で二つの原発計画に反対する住民の運動が起こり、日本共産党はその先頭に立ちました。

一つは、関西研究用原子炉の設置に反対する運動です。
もう一つは、茨城県東海村に初の商業用原発導入に反対する運動です。

日本共産党は、1961年7月の中央委員会総会で、
「原子力問題にかんする決議」を採択します。
その決議には、
「わが国のエネルギー経済、技術発展の現状においては、危険をともなう原子力発電所を設置しなければならない条件は存在しない。東海村の原子力発電所の建設工事の中止を要求する」
とはっきり明記しています。


70年代以降新規ゼロ

 1960年代以降、日本共産党は、計画に反対し、全国各地で住民とともにたたかってきました。
国会論戦でも、「安全神話」のウソを追及し、原発の危険性と、管理・監督する政府の無責任さを具体的にただしてきました。

 私が,強調したいのは、草の根のたたかいと国会での論戦によって、政府と電力会社の思い通りには、事がすすまなかったということです。

 全国で17カ所の原子力発電所が建設され、54基の原発が存在しています。
原発の総発電能力は約4800万キロワット、総発電量に占める原子力発電の割合は25%。
17カ所の原子力発電所は、すべて1960年代までに、電力会社の立地計画があきらかになったり、自治体が誘致したりしたもので、

1970年代以降に計画された原子力発電所で稼働までこぎつけたものは一つもないのです。

計画つぶせた25カ所

 住民運動と日本共産党の共同の奮闘によって、原発を断念させたたたかいが無数に生まれました。
主なものだけでも全国で25カ所におよびます。

新潟県巻町、
石川県珠洲市、小浜市、川西町三里浜、
京都府久美浜町、舞鶴市、宮津市、
兵庫県御津町、香住町、
三重県紀勢町・南島町芦浜、紀伊長島町城ノ浜、海山町大白浜、熊野市井内浦、

和歌山県日置川町、日高町、古座町、
岡山県日生町鹿久居島、
山口県豊北町、萩市、
徳島県海南町、阿南市、
愛媛県津島町、
高知県窪川町、佐賀町、
宮崎県串間市。25カ所全部つぶしたのです。

原発立地計画を、住民動で、住民投票で、首長選挙で、中止においこんだ。

自信と誇りをもとう

 1972年に政府がつくった「長期計画」では、当時、182万キロワットだった原発を、
1990年には「1億キロワット」まで増やす計画を立てています。
恐るべき原発大増設の野望であります。
これが実現していたら、日本の電力の半分は原発となり、
“原発中毒”で体はボロボロとなり、
そこから抜け出すのは大きな困難となったでしょう。
しかし「1億キロワット」という目標は達成できず、
約4800万キロワットと半分以下に抑えられたのです。

 住民のたたかい、日本共産党のたたかいが、原発大増設の計画を半分以下に抑えこんだ。
全国各地で展開された草の根のたたかいの歴史に、大いに自信と誇りをもとうではありませんか。

粘り強いたたかい

 福島県議会の佐藤憲保議長が、私につぎのように話されました。
 
 「(日本共産党の)宮川えみ子県議が、昨年、県議会のエネルギー政策議員協議会で、
『地震・津波対策がとられていない。
事故が起きればどうするのか』
と発言されたのが忘れられません。

1年前の宮川さんの発言をもっと真剣に受け止めていれば、と反省しています。
福島県議会で原発からの撤退の方向性を確認しました。
原発に協力してきた大きな責任があり、だからこそ今後の対応に大きな責任を背負っていると考えています」

 私は、「たいへん立派な姿勢で、胸にしみました」と応じました。
私は、その危険に警鐘を鳴らし続けた活動は、けっして無駄ではない。
今後に生きるものだということを、確信をもっていいたいと思います

 みなさん。戦後半世紀余りにわたって、国民の安全に責任を負う立場から、住民とともに原発の危険に反対をつらぬいた政党が日本共産党であります。

今回の「原発撤退提言」は、この歴史の積み重ねのうえにつくられたものであり、私は、長年にわたって住民の命と安全を守って草の根のたたかいにとりくんでこられたすべての方々に、心からの敬意を表したいと思います

◆原子力村ペンタゴン
◆89周年講演