1923年9月1日、 関東大震災がおこり、死者・行方不明者が約10万5千人という大災害となりました。 日本共産党は、 1923年6月の第1次弾圧で党指導部ら約80人が検挙され、投獄されていました。 しかし、党の指導のもとに1923年4月に結成された日本共産青年同盟(今の日本民主青年同盟)の初代委員長の川合義虎をはじめ、弾圧をまぬがれた党員や労働組合員が、命がけで被災者の救援にあたりました。
関東大震災が起こったとき、 川合義虎は猛火が迫る中、幼児3人を救いだし、 赤ちゃんには粉ミルクを買ってのませ、 子どもにはビスケットを食べさせ、 自分の上着を掛けて上野公園で一晩中抱いて、 安全な所に移すということをやっております。 彼のお母さん――たまさんは、その話を聞き、わが子の勇気とやさしい心づかいがうれしく、涙を浮かべて喜びます。 ところが、川合義虎は、その直後に捕まって、亀戸の警察署で21歳の若さで虐殺されました(「亀戸事件」)。 お母さんは、亀戸署に抗議に行き、 「私の子はどんな罪で殺されたのか」と激しい怒りと涙で署長に抗議します。 生まれたばかりの日本共産党と日本共産青年同盟は、こうした不屈の活動にとりくんだのであります。 亀戸の警察署長は「当然の処置」と開き直りの談話を出しましたが、 それを出させたのは後に読売新聞社社主となった当時警視庁官房主事の正力松太郎という人物でした。 この名前は、原発問題にも出てくる名前です。
当時の日本共産党は、その前の月の2月20日に小林多喜二が特高警察によって虐殺されるなど、苛烈な弾圧のさなかにありましたが、 全国に救援をよびかけます。 これは当時の日本共産党の機関紙の「赤旗」の1933年3月10日付です。 1面は、小林多喜二の労農葬の呼びかけです。 2面に、「大津波、飢餓、凶作の東北三陸沿岸を襲ふ 革命的労働者はいかに罹災民を救援するか」という大きな訴えが載っています。 この訴えでは、被害の深刻さを克明に伝え、次の要求を掲げています。 「一、米、着物、燃料、家屋材料は、国家、資本家地主から即時無償で直接罹災民に支給せよ! 二、罹災地農民の小作料、税金、借金の棒引免除 三、漁具、船、農具、種子肥料等一切の仕事に必要な用具の政府から無償支給」 こうした要求を示して、「東北の兄弟のために、真実の労働者的立場から救援金、救援品を直接罹災民の手におくれ!」。
天皇制権力は、この救援活動に対しても大弾圧をくわえ、逮捕された数は300人余りにおよびました。 逮捕された1人に、東京の大崎無産者診療所――今日の民医連運動の発祥の地――で看護師として働いていた砂間秋子さんという方がいます。 夫の砂間一良さんは、当時、投獄されており、戦後、衆議院議員などをつとめた大先輩です。 秋子さんたちは、被害の最も大きかった(岩手県)田老村に行くことになり、盛岡からは官憲の目を避けるため雪の中を歩き、 約100キロ離れた宮古へ行き、 船で1時間半かけて現地に向かいました。 役場で救援金と医薬品を渡し、すぐに診療をはじめます。 たちまち行列ができました。 ところがわずか3時間で特高警察によって逮捕されました。 地元新聞は、特高情報でこう書きました。 「罹災地に赤い魔手 三名のオルグ逮捕 診療行ひつゝ運動」。 被災者の命よりも天皇制権力を守ることを上に置いたのです。
災害から国民の命を守るために、それこそ命がけでがんばりぬきました。 この伝統は、戦後の、阪神・淡路大震災をはじめ、数々の災害救援でも脈々と発揮され、受け継がれてきました。 いま被災地で発揮されている 「国民の苦難軽減のために献身する」 という日本共産党の精神は、 不屈の伝統の積み重ねのうえに築かれたものであるということを、 私は、先輩たちへの心からの敬意をこめて強調したいと思います。 ◆住民合意の復興を ◆89周年講演 |