命がけの引き揚げ

昭和20年

終戦後の上海で生まれ

父は
生まれてくる
我が子の顔を見ること
なく現地で病死

翌年母子2人で
命からがら日本に
引き揚げて来ました

「あの時
中国で死んでいても
残留孤児となっていても
おかしくなかった・・・・」

のちにポツリと語った
母の言葉が

今も忘れられません

「二宮金次郎」と言われ

母の実家に身を寄せ
僅かばかりの田圃を耕し
行商で生計を補って
私を育てた母

家はあばら家で
雪が降り込む冬の夜は
布団に油紙をかけて
寒さをしのぎ
眠りにつきました

食べるのがやっとの生活

小学生の頃から
たんぼ仕事を手伝い
夜は藁を打ち
草履を作る生活でした

近所の人からは
「二宮金次郎」と
言われていました

忙しくも充実の青年時代

早く社会人になって
母を助けたかった

育英資金を受けながら
浮羽工業高等学校に進学

卒業後は電々公社に就職
夜間勤務を続けながら
福岡工業大学に通った

共産党との出会い

仕事、勉強、
労働組合運動と
多忙な中にも充実した
日々を過ごしました

多くの仲間に
助けられました

なかでも
「職場の仲間のために」
といつでも献身的に
頑張っていた人が
いました

それが共産党員の
人たちでした

「あのようになりたい」と
心を動かされました。

そして
日本共産党が戦前には
命がけで侵略戦争に
反対していたことを
知った時
深い感動を覚え入党
時に23歳でした

『今の自分があるのは
共産党員だから』と
いつも思います


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