1959年7月、国立岡山療養所で、現地検証と岡山地裁特別法定が開かれました。 ベッドを、裁判関係者がマスクをして取り囲みました。 小中信幸氏はこのとき初めて原告と対面。 「闘志的な感じは全く無く、非常に温厚で遠慮がち、礼儀正しい人だなと感じました」
当時の大卒初任給月1万円程度でした。 厚生省が長期入院患者について定めた生活保護基準は、シャツは2年に1着、パンツは1年に1枚だけ購入するものとして、生活扶助(日用品)として支給されるのです。 エンピツ月半本という基準や「修養娯楽費」が全く無いことも小中氏は気になりました。 宗教書を読むなど、長期療養生活にとって精神衛生的なケアが必要不可欠なのに、これでは文化的生活は望めない」と思いました。
小中裁判官は夏休み中も自宅で判決の起案と格闘しました。 書き上げた原稿に、浅沼武裁判長がエンピツで丹念に書き加えました。 特に重要な点は、3人の裁判官で議論して、判決文を仕上げていきました。 小中氏は裁判長が加筆した部分を何度も読み返しました。 「さすがに憲法感覚が鋭い浅沼さんでなければ書けないなと心から敬服しました」 10年10月15日 赤旗日刊紙要約 ◆人間裁判のいわれ ◆朝日訴訟50年 ◆今日は植木トップ |