現地検証と臨床尋問
 
裁判官だった小中信幸氏が印象に残っている出来事は現地検証と原告の臨床尋問でした。

 弁護士、新井章氏も「現地検証に裁判所が踏み切ったことで、その後の訴訟運動が大きく前進した」と言います。


ベッド囲む特別法定

 朝日さんは、危険な状態の重症患者でした。出廷したのは一審で1度。病室での臨床尋問だけでした。

 1959年7月、国立岡山療養所で、現地検証と岡山地裁特別法定が開かれました。

 ベッドを、裁判関係者がマスクをして取り囲みました。
 小中信幸氏はこのとき初めて原告と対面。

 「闘志的な感じは全く無く、非常に温厚で遠慮がち、礼儀正しい人だなと感じました」

ほど遠い文化的生活

 朝日さんは、月600円の生活扶助費の基準では生活できない、せめて1,000円にしてほしいと訴えました。
 当時の大卒初任給月1万円程度でした。

 厚生省が長期入院患者について定めた生活保護基準は、シャツは2年に1着、パンツは1年に1枚だけ購入するものとして、生活扶助(日用品)として支給されるのです。

 エンピツ月半本という基準や「修養娯楽費」が全く無いことも小中氏は気になりました。

 宗教書を読むなど、長期療養生活にとって精神衛生的なケアが必要不可欠なのに、これでは文化的生活は望めない」と思いました。

裁判長の憲法感覚

 「生活保護基準、憲法25条や生活保護法のいう『健康で文化的な最低限度』の水準に達しているとは見られない違法不当なものだ」。これが3人の裁判官が一致した判断でした。

 小中裁判官は夏休み中も自宅で判決の起案と格闘しました。
 書き上げた原稿に、浅沼武裁判長がエンピツで丹念に書き加えました。
 特に重要な点は、3人の裁判官で議論して、判決文を仕上げていきました。

 小中氏は裁判長が加筆した部分を何度も読み返しました。
 「さすがに憲法感覚が鋭い浅沼さんでなければ書けないなと心から敬服しました」

10年10月15日
赤旗日刊紙要約

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