掛川ひかりのオブジェ展は、掛川最大にして最強のモニュメント「掛川城」からお城への参道というべき「城下町通り」「駅通り」を通って「モニュメント玄」、そして「掛川駅」に至る場所をギャラリーにして開催されます。

 市民有志の実行委員が企画運営し、市民・企業・学生・地元商店会などからの公募による「手作りのひかりの造形物」を展示するイベントです。

 このオベントは、さまざまな形で市民が関わることで、このまちに市民の気持ちを集めよう、市民一人ひとりが、まちに「居場所」を見つけ、このまちをもっと好きになってもらいたいという願いを表現したものです。

 いつも、どうして「掛川」で「ひかりのオブジェ」なの?と尋ねられます。その答えは、漠然とはしていますが「地の声だから」となってしまいます。
 なぜならばこの地は、鎌倉時代の掛川城築城からはじまり、道や駅や広場の建設・整備、市街地の整備と続き、脈々と先人の知恵と英知が掛川発展のために注ぎ込まれました。先人たちのこの地への思いが、私たち後世に生きる市民へ伝わってこのイベントに発展したと感じています。
 お城は、この地の一番良い所につくられます。領地を守ることと発展の願いも込められていたでしょう。城に続く道ができ、人が住み、駅ができ、市街地の形が変わりながらも、貫かれているのは「掛川の発展」であり「ここは人の気持ちの集まるとところであれ」という願いだと思います。

 この「掛川ひかりのオブジェ展」は、1999年から2000年に至る、ミレニアムカウントダウンイベントで「提灯行列」を企画したことがきっかけでした。
 そこには、暗がりの中を提灯のひかりに身を寄せ合って歩く市民の姿がありました。太古の昔から「火」「ひかり」には、ひとを集め、安心させ、ほのぼのと心温かくする作用もあることを思い起こさせられました。
 そして、まちのために働く、熱い気持ちを持った一般市民スタッフがいました。翌年の新世紀歓迎イベントは、東海道400年祭と重なり、多くのイベントを企画しました。その中の一つとして「ひかりのオブジェ展」は始まりました。
 この新世紀歓迎イベントは、掛川の発展のためにと設置されたモニュメント「玄」のメッセージにちなみ「玄2001年掛川」と名付けました。掛川駅ができた時から、市街地は北と南に分断され、北の市街地という観念が生まれました。
「玄」は「北の守り」という意味もあり、北は陰・銀・雌・地・夜・冬の極りなども意味しています。また、そのメッセージには「続くことを始める」「掛川城から続く駅通りと玄とつながり、気の流れを再生させ、まちに活力を与え、ひとの気持ちを集めよう」というのもありましたので、実行委員の総意として「一過性ではない、ずっと続けられるもので、人の気持ちの居場所づくりができるイベントを始めよう」と決めました。
しかも、それはやはり、お城から駅のこの通りに、ひかりに関わることで、冬の夜にできることとして考え付いたのがこの「掛川ひかりのオブジェ展」です。
 これらの経緯を考えてみると、このイベントの必然性がみえてくると思いますが、いかがでしょう。