こう語るのは李義八さん(87)=東京都足立区=です。1958年に日本人の妻、と3人の子どもをつれて日本に戻ってきました。 終戦直後の樺太には、約43000人の朝鮮半島出身者がいました。46年の米ソ協定で日本人の帰還が決定。一方、日本政府は朝鮮人を外国人とみなし、なんら対応をとりませんでした。
樺太の石油会社の「募集」について、行政の責任者から「50人の募集が集まっていない。戻ったら仕事を見つける」といわれ応じました。 2年契約の李さんは、58歳だった母親に「帰ってきたら還暦のお祝いをするから」といって樺太に向かいました。 行ってみると、賃金は広告の半分、強制的に貯金させられました。通帳と印鑑は寮長が管理。自由に使えるお金は、ほとんどありませんでした。 毎日12時間働き、休みはつきに1度という過酷な労働。 2年がたち、李さんらは、帰りたいと申し出ます。すると、憲兵が「こんな非常時にどこに帰るんだ」と怒鳴り、同じ寮にいた約200人が、その場で再徴用されました。 その3ヵ月後に終戦を迎えます。
帰れない同胞が見送りに来た港で言いました。 「俺達も戻れるように運動してくれよ」 李さんは、帰国した仲間と「樺太抑留帰還同盟」を立ち上げ、運動して来ました。現在、戦争中の郵便貯金などに関する損害賠償を求め、日本政府らを相手に訴訟を起こしています。
「100年前の併合で、人生をめちゃめちゃにされた。日本政府が責任をとるのは当然」 植民地支配が終わって65年。いまだに被害者は放置され、「併合」の清算が進んでいません。 赤旗日刊紙 10年9月12日号要約 ◆日韓併合100年 ◆平和への願い ◆今日は植木トップ |