徴用そして棄てられ

 「日本政府は、『内鮮一体』『産業戦士』といって、朝鮮人を戦争にかり出し、戦争が終わったら三国人だからとサハリン(旧樺太)に置き去りにしたんだ」

 こう語るのは李義八さん(87)=東京都足立区=です。1958年に日本人の妻、と3人の子どもをつれて日本に戻ってきました。

 終戦直後の樺太には、約43000人の朝鮮半島出身者がいました。46年の米ソ協定で日本人の帰還が決定。一方、日本政府は朝鮮人を外国人とみなし、なんら対応をとりませんでした。

2年契約が再徴用に

 李さんは、23年韓国で、貧しい農家の末っ子として生まれました。
 樺太の石油会社の「募集」について、行政の責任者から「50人の募集が集まっていない。戻ったら仕事を見つける」といわれ応じました。

 2年契約の李さんは、58歳だった母親に「帰ってきたら還暦のお祝いをするから」といって樺太に向かいました。

 行ってみると、賃金は広告の半分、強制的に貯金させられました。通帳と印鑑は寮長が管理。自由に使えるお金は、ほとんどありませんでした。
 毎日12時間働き、休みはつきに1度という過酷な労働。

 2年がたち、李さんらは、帰りたいと申し出ます。すると、憲兵が「こんな非常時にどこに帰るんだ」と怒鳴り、同じ寮にいた約200人が、その場で再徴用されました。
 その3ヵ月後に終戦を迎えます。

帰れぬ同胞残して

 56年、日ソ共同宣言で日本人妻を持つ外国人は、引揚が許されました。「日本に行けば、何とか韓国にいけるんじゃないかと思ったよ。うれしかったねえ。」と当時を振返ります。

 帰れない同胞が見送りに来た港で言いました。
 「俺達も戻れるように運動してくれよ」

 李さんは、帰国した仲間と「樺太抑留帰還同盟」を立ち上げ、運動して来ました。現在、戦争中の郵便貯金などに関する損害賠償を求め、日本政府らを相手に訴訟を起こしています。

人生めちゃめちゃに

 李さんは日本に帰国した翌年、韓国を訪れました。還暦を祝う約束をしていた母親は既に亡くなっていました。

 「100年前の併合で、人生をめちゃめちゃにされた。日本政府が責任をとるのは当然」

 植民地支配が終わって65年。いまだに被害者は放置され、「併合」の清算が進んでいません。

赤旗日刊紙
10年9月12日号要約

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