1942年、松原さんは第4海軍施設部に軍属として所属し、トラック島で働いていました。 施設部の仕事には、慰安所の管理もありました。 トラック島は、東京から3000キロ以上はなれた南洋諸島。 軍人、軍属、囚人までいたこの島は、原住民も合わせると人口3万人ほど。 商店街、学校、病院、神社もありました。
50人ほどいた「慰安婦」は7、8割が朝鮮人。10代や20代の女性ばかりでした。 女性達は、「高級将校のメイドの働き口がある」「病人の付添婦の仕事だと言われた」と騙されて連れてこられたことを泣きながら訴えたといいます。 「併合と戦争で、彼女達の青春を全て奪ってしまった。1日10人以上を相手にさせられて、身も心もぼろぼろだったはず。日本の責任は本当に重い」
松原さんは、「93年に河野官房長官談話で、軍の関与を認めているはず。歴史の事実を、無かったことにしようとする発言は許せない」と証言を始めました。 松原さんは、萩原勘一海軍大佐の印鑑が押してある「出入証」を持ち帰っていました。「軍の管理下にあった証拠です」
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