学校に行きたい

 李さんは、1927年に釜山で生まれました。家は貧しく、母が市場で野菜や飲み物を売って日銭を稼ぎました。

 いつも学校に行きたいと、母親に泣いてせがんでいました。しかし、そんなお金はありません。

 「養女にしてやる。学校にも行ける」という飲食店主が現れ、行く気になったと言います。行ったら、蔚山の居酒屋に売り飛ばされました。

騙され15歳で慰安婦に

 15歳のとき、買出しの途中で日本人と朝鮮人の2人組によってトラックに押し込められ、貨物列車で中国に連れて行かれました。

 慰安所では、毎日、何人もの相手をさせられ、逃亡を図った際には、殴るけるの暴行を受けました。

 「慰安婦は軍用品。慰問袋みたいなもの」
 「賠償しろ、謝罪しろといい続けてきた」という李さん。1992年1月から毎週水曜日、被害者と支援者らはソウルの日本大使館前で抗議集会を開催。既に930回を超えました。

 「私の15歳を返せといいたい。私の名誉を回復して欲しい」ナヌムを訪れた学生に語ります。

若者に未来を託

 李さんは戦後、中国国内で放り出され、朝鮮人の夫と中国で暮らしました。韓国に戻ることができたのは2000年6月。

 「家族が随分前に死亡届を出していたから帰国に1年以上かかった」。
 戦後も苦労の連続でした。

 一度も学校に行けなかった李さん。学生に
 「間違った事をしない、まともな国を作って欲しい」と未来を託します。

赤旗日刊紙10年8月24日号より要約

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