いつも学校に行きたいと、母親に泣いてせがんでいました。しかし、そんなお金はありません。 「養女にしてやる。学校にも行ける」という飲食店主が現れ、行く気になったと言います。行ったら、蔚山の居酒屋に売り飛ばされました。
慰安所では、毎日、何人もの相手をさせられ、逃亡を図った際には、殴るけるの暴行を受けました。 「慰安婦は軍用品。慰問袋みたいなもの」 「賠償しろ、謝罪しろといい続けてきた」という李さん。1992年1月から毎週水曜日、被害者と支援者らはソウルの日本大使館前で抗議集会を開催。既に930回を超えました。 「私の15歳を返せといいたい。私の名誉を回復して欲しい」ナヌムを訪れた学生に語ります。
「家族が随分前に死亡届を出していたから帰国に1年以上かかった」。 戦後も苦労の連続でした。 一度も学校に行けなかった李さん。学生に 「間違った事をしない、まともな国を作って欲しい」と未来を託します。 赤旗日刊紙10年8月24日号より要約 ◆今日は植木トップ ◆平和への願い |