生きて帰りたい
島田 尚一さん

戦争に青春の花を
散らした仲間達。
毎年、慰霊碑の前で
頭を下げると、
涙が止まりません。


息が詰まる軍隊生活

1945年7月29日の夜
浜松市を連合軍の
艦砲射撃が襲いました。

海軍浜名海兵団に
入団したばかりだった
長田尚一さん(83)は、
死線を越えて
生き延びました。

長田さんが
入団したのは7月1日。
防空壕を掘り、
爆弾を抱えて
突撃する訓練の日々。

手旗信号の訓練では、
1人がへまをすると、
班全員が鉄の棒で
たたかれました。

食事は麦飯とたくあん。
青年達は日に日に
頬がこけ、
目玉が出ていきました。

空切裂く音の中壕へ

29日の夜、みんなで
「腹が減ったな・・・」
と言い合って床に
就きました。

「ドカーン、ドカーン」
深夜0時近く、
目が覚めました。

「艦砲だ!
防空壕へ逃げろ!」。
上官が怒鳴ります。
防空壕までは数十m。
走りました。

パッ、パッと沖の空が
明るくなり、
「ヒュー、ヒュー」と
空を切裂く不気味な音を
立てて飛んでくる砲弾。

近くを走っていた仲間が
砲弾の直撃を受け
「もうだめだ」と
何度も思いました。

生きて帰りたい

壕の中はいっぱいでした
人を掻き分けて
奥へたどり着いた
その瞬間ーーー。

「ドスーン」
壕が砲弾に
直撃されたのです。

「痛い」「苦しい」
という、うめき声。
やがてそれは消え、
砲弾の音もやむと、
静寂に覆われました。

真っ暗な中で
長田さんは翌朝まで
恐怖に震えました。

「生きて帰りたい、
父母の顔を見たいという
気持ちだけでした」

目にした生き地獄

夜が明けて目にしたのは
生き地獄でした。

肩から先を
だらりと下げた体。

腹をえぐられ、
臓器が飛び出た死体。

長田さんの1・2m先の
仲間達は皆死にました。

「こいつはひょうきんな
男だったな。
こいつは頭が良かった。
そういう仲間達が、
死体になっていました」

長田さんたちは、
担架で仲間の死体を運び
福を脱がせました。

死体を怖がっていると、
「何が怖い事があるか!
軍国の神ではないか。
とっととやれ!」と
上官の声が飛びました。

九条守らなきゃ!絶対に

8月15日、日本が敗れ
帰れる事が知らされると
皆喜びをかみしめました

「貨物列車で
品川駅に着くと、東京が
明るく見えました。
ずっと暗い軍隊の中に
いましたから」。

辛い体験を通して
一番思うのは、
「戦争は絶対いけない」
と言うことです。

「自分の孫が戦争に
引っ張られていくなんて
事はあってはいけない。
憲法九条だけは、
絶対に守らなきゃだめ。
絶対に」


(細川豊史)
09年10月1日
しんぶん「赤旗」要約

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