語り継ぐことの大切さ
亀谷敏子さん

家族の遺体と対面し
「捜すことで精一杯。
涙も出なかった」と
亀谷さんは話した。

母が地下室にいる

逃げ遅れて着いた近所の
味噌屋ビルは、既に人で
溢れていました。

中には入れましたものの
先に避難した母達がいる
地下室には行けません。

1945年3月10日未明の
東京大空襲。

13歳の亀谷敏子さん
(77)=京都=は
込み合った1階で父と
身を潜めました。

奥から悲鳴とざわめきが
伝わってきました。
猛火がガラス戸を溶かし
て入ってきたようです。

中にいては死んでしまう
と判断した父親。
亀谷さんの手を引き表に
飛び出しました。

猛火を逃れ

B29爆撃機は次々と
焼夷弾を投下。
強烈な熱風に何度か
吹き飛ばされました。

父は飛んできたトタン板
を亀谷さんに
かぶせました。
「バラン、バラン、
カラン、カラン」。

おびただしい火の粉が
トタン板を
たたきました。

工場のコンクリートの
陰に隠れて猛火を
逃れました。

ぐずぐずの身体に

3月14日。ビルの
地下室から遺体が
運び出され、道路に
並べられました。

水に漬かった地下室で
「何時間も煮立てられた
豚肉のように、軟らかく
なってぐずぐずだった」

「お母ちゃん、
お母ちゃんがいたよ!」
丸坊主の母は着物と
モンペ、割烹着のまま。

歩き始めたばかりの弟は
頭と足首がありません。

5歳の妹は胴体だけ。

10歳の妹は胴体から上が
ありませんでした。

15才の姉と12歳の妹は
見つかりませんでした。

一夜で家族6人を
失いました。

6月10日の土浦の空襲
では、海軍航空隊の
予科練生だった17歳の
兄を亡くしました。

私も加害者でもあった

両親は兄の予科練志望に
猛反対し、
禁足状態にしました。

亀谷さんはそんな両親を
「非国民」と心の中で
ののしり、兄の頼みを
聞いて、代わりに
願書を出しました。

兄を予科練に送出した
亀谷さん。「私も加害者
でもあったんだと罪の
意識で辛くなった」。

「体験を話すことは
辛いこと」。

憲法改正に賛成だった
中学生が「亀谷さんの話
を聞いて変えては
いけないと思った」と
感想を寄せました。

「語り継ぐことの
大切さを実感しました」
と亀谷さんは話します。


(本吉真希)
09年9月28日
しんぶん「赤旗」

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