西暦1300年代、今から600年以上前に、中国福建省の三十六姓が沖縄に渡来し、幾度かの往来のうち中国拳法が沖縄で広まった。 沖縄では、その拳法を手(ティー)と名付け又、唐手術と名付け復旧して行った、現在の古武術・古武道・空手である。 沖縄剛柔流空手道は、 宮城長順(ミヤギチョウジュン)先生を流祖とする。 長順先生は、1888年4月25日、那覇市東町で出生した。 1898年長順先生10歳の時から手(ティー・空手)の名人新垣先生に手(ティー・空手)を習う。 1902年14歳から新垣先生の紹介で、那覇手中興の祖、(剛柔流開祖)東恩納完量(ヒガオンナカンリョウ)先生に師事。 当時、完量先生は、福州に渡り中国拳法南派少林拳を学んできており、那覇の青年達に空手を指導していた。 幼少期、完量先生もまた、手(ティー・空手)を習っており、空手をよりいっそう極めようと思い、中国に渡ったとの事です。 長順先生は、1908年 20歳の時、第6師団歩兵23連隊入営、2年後兵役終え、那覇に戻り、完量先生のもと、稽古に励む。その後、完量先生を自宅に受け入れる。 1914年完量先生が病身となる。 身体の動く内は、空手を続けると頑張ったのですが、 1915年10月長順先生の看病のもと看取られ、完量先生他界、同年、長順先生は福州へ渡り中国拳法界を視察する。 長順先生が学校教育で指導を開始したのは、1918(大正7)年、那覇尋常高等小学校を皮切りに、師範学校、那覇商業高等、沖縄県警察練習所などで空手師範として携わった。 本土では、1927(昭和2)年、京都帝国大学で空手の講習会を持ち、その後、関西大学、立命館大学などでも指導した、国外ではハワイに赴き、空手の普及に尽力していった。 1929(昭和4)年、高弟の1人、新里仁安先生が明治神宮で開催された御大典奉祝全国武道大会に出場した際、流派を問われたのを機縁に、 自派『拳法之大要八句』の「法剛柔呑吐(法は剛柔を呑吐する)」から引用し、剛柔流と命名した。 宇宙、世界、日本で始めての空手流派として剛柔流は誕生した。 (左2)宮城 長順 先生 (左1左3)宮里 栄一 先生 (左4)伊波 康進 先生 |