原始時代において、我々の祖先が外敵から自己防衛のため自ら創意工夫し、今日へ伝承した術が空手のはじまりである。
沖縄においては単に手(ティ)と言って、伝えられてきたが、その発展進歩の過程においては、中国拳法の影響が大きい。

1372年 明の太祖の時から沖縄との交易がはじまり、その擦封を受けることとなり、また貿易や留学生などにより、明の文化が伝来したこと、積極的に明の文化を採り入れるため多数の福建人の帰化などに基因した。

拳法の修業は、中国においても極秘主義で行われ、従って沖縄においても、殆ど文献がなく、初めて文献にあるのは、1763年沖縄の官船が薩摩に向かう途中暴風にあい、高知県宿毛市大島の海岸に漂着した際、土佐藩の戸部良煕が、潮平親雲上地52名の乗組員から聞き書きした大島筆記である。

潮平親雲上は、物頭役で江戸や北京にも数度往来した見識の広い高官だったため、当時の沖縄の地理・風俗・政治・経済などを知る上で貴重な資料である。

その三巻に「先年組合の上手とて、その技、左右の手うち、1つは乳の方を押さ、片手にて技をし、すり足をよくきかせる術なり。はなはだ痩せ弱々しい人でありしが、大力の者、無理に取り付きたるを、そのまま倒したことなどありしない」と述べている。
また、1609年 薩摩軍が侵攻し、支配するようになってから、武器の製造は勿論、購入を禁止し、常時、携帯することも禁止した事によって、空手の研究が発展した。

明治後期からは、諸大家の方々の賢察と努力により、閉鎖的であった空手の修行が、漸次広く一般に公開され、また学校教育に取り入れられるようになり、その成果が広く一般から認識され、普及発展してきた。

日本本土においても、国技である柔道・剣道が正式に学校教育に正課として採用されたのは、大正2年(1913年)からであり、いかに沖縄の空手の先人達が見識深かったかが窺われる。