◆剛柔流空手道開祖◆
◆那覇手の創始者◆
◆東恩納 寛量先生◆

◯東恩納寛量先生は、
士族父寛用、母真鶴の四男として
1853年 3月 10日
那覇市西村に出生した

○1863年 10歳頃から家業(商業・薪販売)の手伝いをする、家業の関係で、お得意様であった、手(ディー・唐手術・空手)の名人 新垣世璋先生と出会い(空手を習う)師事する。

◯1868年 武術家を目指し15〜16歳頃(新垣先生が通訳の為、中国に渡ったと言う事もあり)
完量先生は、那覇港を船で出発、慶良間、久米島を通り、台湾の基隆、タンスイ、ショウセンを経て、中国福建に渡る。
[資料が二つ有る為もう一つの説]
1873年23歳の頃、中国福建省、福州に渡ったと言う説も有ります。

◯1868年 福州で武名高き老師、中国福建福州 南派少林拳 劉良興(リュウリュウコウ)先生と出逢い、弟子となる「ワンシンザン先生にも武術を習ったとも言われてます。」

◯1868年から1882年迄 南派少林拳 リュウリュウコウ先生のもとで14年間修行する「完量先生は、師範まで行ったとの事です。」
[資料が二つ有る為もう一つの説]
1873年から1888年迄劉良興(リュウリュウコウ)先生の元で、15年間修行した。と言う説も有ります。

○1882年 沖縄に帰国する。
[資料が二つ有る為もう一つの説]
1888年38歳の時、沖縄に帰国した。という説も有ります。

○帰国後家業(商業)に専念していたが、その高名は、次第に広がり、名家や先輩方から敬意を表され、止もなくその師弟を指導するように成った。
優秀な門下生が多数集まり、社会からも尊敬され、那覇手(唐手術・空手)の創始者となる

◯1902年 宮城長順先生(剛柔流 流祖)が、新垣先生の紹介により東恩納寛量先生の弟子と成る。
当時、寛量先生49歳 宮城長順先生14歳、ほぼ毎日、1対1で8年間、長順先生に空手を、教える。

○1908年 宮城長順先生が兵役任務に付く、長順先生20歳、寛量先生55歳

◯1910年 2年間の兵役を終えて那覇に帰って来た宮城長順先生に、殆ど毎日、寛量先生が空手を指導する。

○1912年頃には、長順先生宅に、寛量先生が同居し稽古に励む様に成りました。

◯1915年 10月 東恩納寛量先生 体調を崩し、元々持病の気管支喘息が悪化した。
長順先生が懸命に看病したのですが、看病通じず、看取られ
他界 享年62歳 合掌