産経新聞2024・4・25
朴氏は2013年に出版した「帝国の慰安婦」に関し、慰安婦が「日本軍と同志的関係にあった」などとする虚偽の記述で慰安婦の名誉を傷つけたとして、15年に在宅起訴された。
一審無罪、二審逆転有罪の後、最高裁は昨年10月、問題となった記述は「学問的主張、意見の表明」にとどまると判断。無罪の趣旨で高裁に審理を差し戻し、ソウル高裁が今月12日に無罪判決を言い渡していた。


2023年12月30日の産経新聞に掲載されたオピニオン、「久保田るり子の朝鮮半島ウオッチ」で慰安婦問題の現状についての記事がありましたので一部紹介します。詳しくは産経新聞をお読みください。


(写真の説明文)12月上旬、ソウルの在韓国日本大使館跡地付近で、正義連を追及する保守系団体「オンマ(お母さん)部隊」の女性ら。正義連元代表の尹美香を「拘束しろ」などと書いたカードを掲げている(久保田るり子撮影)

ー慰安婦運動の30年は詐欺劇ー

ソウル中心部の日本大使館跡地付近の慰安婦像前では、現在も慰安婦支援団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連)」が毎週、日本政府に抗議する「水曜集会」を開いている。だが最近は、近くで開かれる保守系の慰安婦運動批判派の集会の方が、人数も威勢も優勢だ。
12月上旬に集会の場を訪れると、正義連など日本政府糾弾派は2団体なのに対し、「慰安婦=性奴隷」説を「詐欺だと批判する市民団体は3団体が集まっていた。糾弾派に聴衆はおらず、人を集めていたのは運動批判派の方だった。
批判派は「日本軍慰安婦は業者と契約、金を稼ぎに行った職業女性」「慰安婦詐欺、今すぐやめて」「半日の象徴、少女像を直ちに撤去!」などと書かれたプラカードを掲げ、ハンドスピーカーで反日勢力を問い詰めていた。
水曜集会は1992年1月の宮沢喜一首相(当時)の訪韓直前に始まった。訪問は前年夏に火がついた慰安婦問題を受け、謝罪外交となった。2011年には当時の日本大使館前に慰安婦像が設置され反日の聖地になった。だが、19年末に「徴用工は強制連行ではない」と主張する経済学者、李ウヨン氏がすぐ近くで正義連帯を真っ向から批判する「一人デモ」を始め、韓国の日本統治被虐史観に疑問を持つ保守グループが参加するようになった。
批判派の主導者の一人で国史教科書研究所の金柄憲(キム・ヒョウンホン)所長は「慰安婦は貧困が生んだ。慰安婦は慰安所と契約した女性たちだ。この30年間の慰安婦運動は、韓国と世界の人々を騙し続けた詐欺劇だ」と話す。集会のプラカードには当時の慰安婦の高収入と日本軍の兵士や大将の給料との比較まで書かれている。



ー久保田るり子の朝鮮半島ウオッチー

一方、韓国では今月上旬、「日本軍慰安婦インサイド・アウト」という新著が出版された。慰安婦問題を「約30年間もウソで固めたバベルの塔」として、「慰安婦強制連行、性奴隷説を撃破する」と韓国人だけでなく日本人研究者らの「不誠実な分析」まで徹底追及する本だ。
著者は韓国近現代史の研究者、朱益鐘(チュイクチョン)氏。韓国の民族主義に潜む敵対的な対日歴史観について鋭く論評し、日韓で四年前にベストセラーとなった「反日種族主義」の著者グループの一人でもある。今回は韓国人が反日史観で信じ込んで来た慰安婦20万人説や性奴隷説、「日本軍が市中から連れ去った少女が慰安婦」といった通説をただす根拠や証言を提示するために3年間を費やした。
朱氏は「私の主張の核心は、日本軍慰安婦が拉致や誘拐、連行ではないということだ。女性たちは父母が金をもらい、警察などで何種類もの書類を書き、商売をするために戦地に行った」と話す。
朱氏はそれを体系的に実証するため、旧日本軍慰安所の実情をはじめ、慰安婦になった女性の証言や日記、日本統治下の酌婦の研究などを基に、慰安婦の実態を明らかにした。
韓国ではこれまで、慰安婦が「戦時下の公娼」という事実を明かしたのは、19年の「反日種族主義」をまとめた李栄薫元ソウル大教授が初めてだった。それ以前は「慰安婦は日本軍人と敵対していた人だけではない」と13年の著書で書いた世宗大の朴裕河(パクユハ)名誉教授が名誉毀損罪で訴えられたように、反日史観に異を唱える人物は社会から指弾されてきた。朴氏は今年10月、大法院が「学問的な意見の表明」を認めて6年前の高裁有罪判決を破棄し、事実上の「無罪」となった。
朱氏はこう述べる。「現在の韓国では『慰安婦問題は終わった』という人はおそらく一人もいないだろう。『日本はまだ謝っていない』という人も多い。だが、論争が始まらなければ何も変わらない。少なくとも以前に比べれば問題を提起できる言論空間が生まれつつある」
出版から現在まで既存の慰安婦研究者からの反論はないという。朱氏は「公開討論会を提案したい」と話している。

慰安婦論文の米ハーバード大教授が反論
ー「太平洋戦争における性サービスの契約: 批判者への回答」(要約)ー
産経新聞令和4年1月23日

日本人と朝鮮人女性が戦時の「慰安所」で働いた際の契約の仕組みを探求した私の論文は、大きな論争を呼び起こした。学問の世界における通常のあり方によれば、論文に同意しないのであれば反論を書き、独立の論文として他の研究者による査読を経る必要がある。しかし、私の批判者たちは、こうした手続きを踏まず、学術誌編集部に私の論文を撤回するよう要求した。私への攻撃の多くは韓国からか、韓国とつながりのある欧米研究者によるものであった。
すべての批判者は、論文のテーマ売春宿と女性の契約を成り立たせている経済的関係であることを無視している。私が問うた2つの主な論点は、なぜ売春宿と募集業者は女性に多額の金銭を最初に支払ったのかということと、女性が働く期間を定めたのはどのような契約メカニズムであったかということである。批判の中で行われた証拠書類や引用の不十分さに関するいくつかの指摘には感謝しているけれども、それらは私の中心点論点とは関係がなかった。

経済学理解せず撤回要求

批判者たちは大きく分けてくれ3つの主張を行なっている。
第一の主張は、慰安婦は契約によって働いていたのではないというものである。多くの具体的証拠が示している通り、こうした主張は誤りである。もちろん、契約の下で働いていた事実と、その契約が公正で正義にかなったものであるかどうかは別の問題である。私の論文はどうあるべきかという規範ではなく、どうであったのかという事実に関する研究なのである。
経済学にある程度通じた読者であれば、個々人が明示的に交渉するかどうかとは関係なく、市場競争は売り手と買い手をわりあい効率的な契約を結ぶよう仕向けるものだということは容易に理解できるだろうし、この経済学の基本が、私の批判者には「基本的」でないようなのだ。
ハーバード大学のアンドルー・ゴードン教授とカーター・エッカート教授は、私が実際の慰安婦契約書を入手して調べていないと批判し、論文の撤回を求めているけれども、そもそも私は実際の契約書を持っていると主張してはいない。論文で明らかにしている通り、私が依拠したのは、公文書、戦時の回想録、新聞広告、慰安所の経理担当者の日記などから得た売春契約に関する情報である。
もちろん私が利用できたデータの限界を指摘することは、全く正当な批判である。両教授をはじめ批判者にはぜひ、私が誤った結論を導き出していることを示す当時の実際の契約書を提示し、私の主張に反論していただきたい。

欧米では今もペテンが・・・

第二の主張は、日本軍が銃剣を突きつけて朝鮮人女性を慰安婦として働くよう強制連行したというものである。日本軍が犯した罪をいかなる意味でも矮小化するものではないけれど、この主張は全くの誤りである。朝鮮半島における強制連行に関する同時代の証拠は一つも存在しない。論文は対象を日本と朝鮮半島に限定しており、東南アジアなどの戦場で強制連行があったかどうかは、私の主張と無関係である。
日本軍による慰安婦強制連行説は、1980年代に吉田清治が言い始め、朝日新聞によって広められた。96年の国連の報告も吉田「証言」に依拠している。
しかし、当初から日本では信ぴょう性に疑問を持たれていた吉田「証言」は全くの捏造であり、朝日新聞は関連する過去の記事を2014年に全面撤回している。
一方、ゴードン教授とエッカート教授は私の論文撤回要求では言及しなかったものの、自分たちの著作では、この吉田「証言」に依拠したジョージ・ヒックス氏の著作に基づき、強制連行説を繰り返している。慰安婦だった女性が強制連行されたと訴え始めたのは、吉田「証言」後であり、朝日新聞が記事を撤回する前であった。彼女たちを非難したり侮辱したりする意図は全くないけれども、強制連行説は彼女たちの証言にほぼ全面的に依拠しているため、その内容を精査せざるを得ない。悲しいことに、こうした女性たちのなかで最も著名な人たちは辻褄のあった話をしていないと結論づけざるを得ない。強制連行説に基づき日本政府を糾弾し、日本との和解を妨害してきた元慰安婦支援団体「正義連」(日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯、旧「挺対協」)は、元慰安婦が暮らす施設「ナムヌの家」とともに、彼女たちを利用してきた。なお、正義連に関しては、2020年に元慰安婦たちと理事長だった尹美香氏の間で内紛が起こり、尹氏は現在、資金不正疑惑で公判中である。

最後に第三の主張は、慰安婦が募集業者に騙されたり、売春宿主にひどく扱われたりすることがあったというものである。この主張は正しいし、私も論文で指摘したところである。まさに、売春宿主が取り決めを守らず、騙されるリスクがあることが、女性たちが多額の金銭を最初に受け取っていた理由の一つなのだ。期限付きで多額の前借金が支払われる慰安婦の年季奉公契約の経済的ロジックは単純明快である。この契約の経済分析が論文の要点なのである。慰安婦問題に関する欧米での通説に疑問を投げかけることが英語圏で専門家の激しい怒りを呼び起こしたのは、今回が初めてではない。2015年に日本政府が米国の高校歴史教科書の事実に反する記載に申し入れを行った際、ゴードン教授らは日本政府非難の声明を出した。
このひどい不寛容さは、欧米とくに米国の大学が作り出したものである。欧米では今も、日本専門家が強制連行という「コンセサンス」を押し付けている。日本では、吉田「証言」はペテンであって、これに基づく朝日新聞記事が虚偽であることは誰もが知っている。いまだ強制連行説に固執しているのは、減る一方の活動家や過激な左翼歴史家だけである。韓国では異議を唱える研究者が迫害を受けるなど、状況はより厳しいとはいえ、それでも、勇気ある研究者たちが増え続け、声を上げている。ただ欧米の大学でのみこのペテンが真実とされ、ペテンを支持する「コンセサンス」が存在するのだ。

「慰安婦=性奴隷」説否定ーハーバード大学 J・マーク・ラムザイヤー教授が学術論文
「太平洋戦争における性サービスの契約」(Contracting for sex in the Pacific War)要旨

j・マーク・ラムザイヤー氏
米ハーバード大ロースクール教授。同校終了後、UCLA、シカゴ大学教授などを経て、現職。幼少年期に日本在住。日本語著作に『法と経済学ー日本法の経済分析』、三輪芳朗東大名誉教授との共著『経済学の使い方』、『産業政策論の誤解』、『日本経済論の誤解』など。平成30年に旭日中綬章受賞。

慰安婦問題をめぐっては、日本軍が戦前、朝鮮出身の女性を「性奴隷」にしていたというイメージが世界に広まっている。最近、ドイツでもこうした主張に基づく慰安婦像が新たに設置された。こうしたなか、米ハーバード大のJ・マーク・ラムザイヤー教授が、慰安婦が当時政府規制下で認められていた国内売春婦の延長線上の存在であることを理論的実証的に示した学術論文が、3月刊行予定の「インターナショナル・レビュー・オブ・ロー・アンド・エコノミクス」誌65巻に掲載される(雑誌ホームページですでに閲覧 https//www.sciencedirect.com/science/article/pic/SO144818820301848)
米国の高名な社会法学者であるとともに、日本研究の大家でもあるラムザイヤー教授が、他の専門研究者の査読を経た学術論文で、「慰安婦=性奴隷」説に異議を唱える議論を展開した意義は大きい。
教授は、いかなる対象であれ、人間は与えられた条件下で、自らの利益を追求するという経済学の手法を用いて分析する。慰安婦もその例外ではない。
本論文では、他の研究者の業績や当時の日本・朝鮮の史料に基づき、朝鮮人慰安婦も日本人慰安婦も公認の売春婦であり、日本軍に拉致され、売春を強いられた「性奴隷」ではないこと、慰安婦をめぐる問題点は、朝鮮における募集業者にあったことが指摘されている。以下、教授ご本人の了承を得て、論文要約を掲載する。(解説・要約 青山学院大教授 福井義高)次回は2月14日掲載予定。

日本軍が東アジアに進軍し退却した1930年代から40年代にかけて、軍は兵士が現地で性病に感染し、病気が蔓延することを恐れ、リスクをコントロールしようとした。そのため、軍は海外軍事拠点近くに民間業者が半公式の売春宿(semi officialbrothel)
を設置することを促し、売春婦(prostitute )の定期的な検診をはじめ、厳格な衛生管理を業者に求める代償として、兵士が他の売春宿を利用することを禁止した。売春婦は業者によって主に日本と朝鮮から集められ、軍に協力する売春宿は「慰安所」(comfort station )と呼ばれた。
慰安所は当時の日本や朝鮮にあった公認の売春宿の海外軍隊バージョン(overseas military analogue )であった。
当時の日本における売春ビジネスの実態はどのようなものだったのか。売春は許可制であり、毎週の検診を義務付けられ、1924年には、5万100人の許可された売春婦が1万1500ある公認売春宿で働いていた。公認の売春婦の職を求める女性は多く、1920年から27年の間、東京では求職者の62%しか職を得られないほどだった。その結果、確実なデータはないものの、非合法の売春婦が公認のそれと同じくらいいたとされる。

《女性と売春宿の思惑一致》
公認の売春婦は以下のような年季奉公(indenture)契約のもとで働いていた。前借金が本人または親に支払われ、全額返すか、契約期間満了のどちらか早い時点まで働く。1920年代半ばの前借金の水準は1000〜1200円で無利子、最も一般的な契約期間は6年で、部屋と食事は売春宿が無料で提供する。売り上げの3分の2から4分の3は売春宿が取り、残った額の6割は前借金返済に、4割は本人に渡された。1925年の東京における売春婦の場合、返済相当分393円、本人受け取り分が262円で合わせて年655円[ちなみにラムザイヤー教授の別の論文によると、1926年の女性工員の年平均賃金は312円である]
売春宿が売春婦をだまして借金漬けにしたと主張する歴史研究者がいるけれども、少なくともそのようなことは大規模には行われなかった。実際、売春婦の平均労働期間3年程度、つまり標準的な契約期間6年の半分で返済を終えている。
売春婦の年季奉公契約はゲーム理論でいう「信頼できるコミットメント」のロジックに従っている。若い女性は売春が危険で過酷な仕事であり、たとえ短期間従事しただけでも自らの評判を損なうものであることを理解しているので、十分な報酬が得られるという信頼できる保証を求める。一方、売春宿は売春婦が顧客を満足させるよう動機づける必要がある。期間に上限を設けた上で、最初に売春婦に大金を支払い、顧客を満足させればさせるほど返済が進み、早くやめることができるという年季奉公契約は、両者の思惑が一致したものとなる。
当時、日本では改革論者が売春禁止を主張していたけれども、募集業者によって女性が売春宿に拉致されているという批判は絶無に近かった。売春婦自身によると、募集業者や売春宿に売春を強いられているという訴えもまれであった。改革論者の批判の対象は、娘を売春宿に売る親であった。
日本統治下にあった朝鮮でも日本と同様のシステムが導入されていた。朝鮮では相対的に非合法の売春婦が多く、そもそも慰安所ができる数十年前から、朝鮮人女性は海外で売春婦として働いていた。

《問題は朝鮮の募集業者に》
海外の戦地に慰安所を設けるに際し、日本政府は政治的リスクがあることを認識していた。日本国内の改革論者が数十年にわたり売春禁止を訴えている中、純朴な若い女性たちが悪徳業者に騙されて働かされるという事態は、是が非でも避けねばならなかった。
内務省はすでに売春婦として働いている女性のみ慰安婦として雇うことを募集業者に求め、所轄警察には、女性が自らの意思で応募していることを本人に直接確認するとともに、契約満了後直ちに帰国するよう女性たちに伝えることを指示した。
ただし、朝鮮には日本とは異なる固有の問題があった。それは専門の労働者募集業者が大量に存在し、欺瞞的行為を用いていたことである。売春婦だけでなく工員も募集の対象となっていたけれども、当時の新聞で報道された募集における不正は、女性を騙して海外の売春宿に送り込むなど、性産業に関するものだった。
日本の本国政府や朝鮮総督府が女性に売春を強制したのではないし、日本軍が不正な募集業者に協力したのでもない。業者がもっぱら慰安婦募集を行っていたのですらない。問題は数十年にわたり女性を売春宿で働くようたぶらかしてきた朝鮮内の募集業者にあった。
慰安婦は日本国内の公認の売春婦と同様の契約で慰安所に雇われたけれども、重要な違いがあった。遠く離れた戦地で働くゆえリスクが高まることを反映し、契約期間が短縮され2年が通例となり、もっと短い場合もあった。慰安所は大きなリスクの代償として、他の仕事よりも多く稼いでいた朝鮮や日本の売春婦より、さらに高い報酬を得ていたのである。
一部の研究者は戦争末期に慰安婦募集がさらに進められたとするけれども、事実は逆である。戦局が悪化するにつれ、徴兵される男性に代わって女性が軍需工場に動員され、売春婦も売春宿から工場に移された。
女性たちは慰安所と1〜2年の年季奉公契約を結び、多額の前借金を受け取って戦地に赴き、契約期間を勤め上げるか、期限前に前借金を全額返済して、故郷に帰っていったのである。

『19世紀の日本について考える』(1)黒船来航の背景、捕鯨問題

『19世紀の日本について考える』(1)黒船来航の背景、捕鯨問題

百田尚樹氏の『日本国紀』には次のように記載されています。p351

激動の幕末を語る前に、アメリカ側の事情を述べておきます。アメリカが日本に開国を 求めた理由は、日本が捕鯨船の寄港地として最適だったからです。当時、捕鯨はアメリカの重要な産業の一つでしたが、捕鯨船は一年以上の航海を行うため、大量の薪や水や食料を入手できる補給拠点や、難破した時のための避難港が必要だったのです。捕鯨の目的は、ランプの燃料となるクジラの脂をとることでした。当時、まだ石油(灯油)は使われておらず(ペンシルベニア州でアメリカ初の油田がされるのは1859年、加えてアメリカは1848年にメキシコとの戦争に勝って、カリフォルニアを含む西海岸を手に入れたことで、太平洋全体が重要なエリアとなっていたのです。もう一つ「米清貿易」のための寄港地が欲しかったという理由もありました。

『19世紀の日本について考える』(2) 日本を取り巻く世界の動き

『19世紀の日本について考える』(2)日本を取り巻く情勢


(『日本国紀』(上)百田尚樹著から)

1760年代からロシア船が日本近海に出没し始めていた

1778年、蝦夷地の厚岸に通商を求めてくる。松前藩が拒否。

1790年代には、ロシア船、イギリス船、アメリカ船が次々と来航して、幕府に通商を要求
1792年、ロシア遣日使節が根室に来る。幕府は長崎への入港を許可する。(大黒屋光太夫帰国する。ロシアのラクスマン使節団と一緒)

1796年、室蘭にイギリス船が来航して港の水深を測る。

1804年、ロシアは長崎に来航して通商を求める。幕府は拒否。(レザノフ代表団)

1803年、長崎にアメリカ船が来航して通商を求める。

1806年、1807年(文化3、4年)ロシアは樺太や択捉島で略奪や放火を行う。「文化露寇」といわれる事件で、弘安の役以来525年ぶりの外国による攻撃でした。ちなみに樺太南部と択捉島は1600年代以降、日本が実行支配していた。

1808年(文化5年)、フエートン事件、イギリスの軍艦フエートン号がオランダ国旗を掲げて長崎に入港。

1817年、イギリス船が浦賀に来航

1818年(文政元年)、再度イギリス船が浦賀に来校。通商を求めるが幕府は拒否。

1822年、イギリス船浦賀に来航。

1824年、「大津浜事件」イギリスの捕鯨船の乗組員12人が水戸藩の大津浜に上陸した事件です。

1824年、薩摩沖の宝島でも(奄美大島と屋久島の間に位置する島)、イギリスの捕鯨船の乗組員と島民との間で争いが起きる。

1825年、幕府は「異国船打払令」を出すに至る。

1828年(文政11年)、シーボルト事件。これはオランダ商館付きの医師シーボルトが、国外への持ち出しが禁じられていた「日本地図」の縮図をオランダに持ち帰ろうとした事件。海岸線が詳細に描かれた日本地図は、国防上きわめて重要な資料でした。この事件でシーボルトは追放、彼に関わった多くの日本人が処分されました。

1837年(天保8年)、モリソン号事件。アメリカの商船モリソン号は日本人漁民7人を保護し、日本に届けるために浦賀に来航。ところがイギリスの軍艦と勘違いした浦賀奉行が砲撃し、モリソン号を追い払う。

1842年(天保13年)、アヘン戦争で清帝国がイギリスに負けたことを知った幕府は・・・・それまでの政策を180度転換して「異国船打払令」を廃し、遭難した船に限り「天保の薪水給与令」を発令。

1843年(天保14年)、イギリス船が八重山諸島を調査・測量するという事件が起きる。

1844年、オランダ国王が幕府に対して「開国勧告」の手紙をよこす。幕府は翌年に拒否。またフランス軍艦アルクメーヌ号が那覇に入港、貿易とキリスト教の布教許可を求める。琉球側は4年後に拒否の回答。

1849年(嘉永2年)、アメリカの戦闘小型帆走船に乗ったジェームズ・グリンが長崎に入港し、日本で幽閉されていたアメリカ船員の引き渡しを要求。

1853年(嘉永6年)6月3日(新暦7月8日)、ペリー率いるアメリカの軍艦4隻が浦賀にやってくる。武力行使をほのめかし、開国を要求。

1854年(嘉永7年)、ペリー大艦隊を伴って再来航。日米和親条約を締結。その後イギリス、ロシア、オランダなど次々と和親条約を結ぶことになる。

1855年(安政元年)、日露和親条約を締結、国境線は択捉島とウルップ島との間に引かれた。日露和親条約以前から北方四島は日本の領土です。ロシア側に改めてそれを確認した上で、択捉島とウルップ島の間に国境線を引いたのです。

1856年(安政3年)、アロー戦争、清がイギリス・フランス連合軍に完敗。

1858年(安政5年)、井伊直弼は朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約を結ぶ。アメリカの領事裁判権を認め、関税自主権がなかった。幕府はアメリカと結んだ不平等条約とほぼ同内容の条約をオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結ぶ。「安政の五カ国条約」と呼ばれるこれらの不平等条約を解消するのに、その後、日本は大変な苦労をすることになります。

1860年(安政7年)、桜田門外の変

1861年、生麦事件

1861年、ロシア軍艦による対馬占領事件

1863年、薩英戦争 馬関戦争

1868年、明治維新


『19世紀の日本について考える』(3)ヨーロッパから見て、極東に位置する日本は、最後に残されたターゲットでしたー『日本国紀』(上)p333より

『19世紀の日本について考える』(3)ーヨーロッパから見て、極東に位置する日本は、最後に残されたターゲットでしたー

「日本国紀」(上)百田尚樹、p333より

15〜17世紀の大航海時代に、スペインとポルトガルが、アフリカ、南北アメリカ、インドへ進出し、その後、イギリス、オランダ、フランスが続き、18世紀までに有色人種が住む地域の多くを植民地化したのです。その流れは18世紀後半にイギリスで起こった産業革命によりさらに加速しました。こうして東南アジア諸国も、1800年代に次々とヨーロッパの国々に滅ぼされ、多くが植民地とされていきました。ヨーロッパから見て極東に位置する日本は、最後に残されたターゲットでした。私が文化文政の頃の日本を累卵の危うきと表現したのはまさにこの状態を指しての言葉です。

『19世紀の日本について考える』(4)列強は、つねにキバから血をしたたらせている食肉獣であったー『坂の上の雲』p145「列強」より

『坂の上の雲』2、P145「列強」司馬遼太郎より

「この19世紀末というのは、地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない。謀略だけが他国に対する意識であり、侵略だけが国家の欲望であった。
帝国主義の時代である。そういう意味では、この時代ほど華やかであった時代はなかったかもしれない。列強は、つねにキバから血をしたたらせている食肉獣であった。その列強どもは、ここ数十年、シナというこの死亡寸前の巨獣に対してすさまじい食欲をもちつづけてきた。」

『19世紀の日本について考える』(5)
米国のペリー提督の日本に対する評価について、
佐々木譲氏は著作『くろふね』(角川書店)ー第7章長崎海軍伝習所の日々ーのなかで、ペリー提督の米議会への報告書の中から、次のように紹介しています。

「このころ、アメリカ合衆国のニューヨーク市、32番街の屋敷で、マシュー・カルブレイス・ペリーが息を引き取ろうとしていた。
彼は日本遠征からの帰国後、この大航海に関する膨大な量の報告書を議会に提出し、さらにその公刊本の編集作業を終えた後、病の床に伏せったのだった。
日本では、尊大で権力主義的な軍人、という印象が定着してしまっていたが、彼はその報告書の中で、世界の行く末と国際関係をこのように記すだけの人物であった。 『近年の国際法や戦争に関する概念の変遷によって、世界の状況は進歩をとげ、前近代的な強制や残酷な手段の行使が、もはや正当化されることはないであろう。世界は二度と強奪や殺戮を黙認したり、宗教・学問の殿堂や芸術品・個人資産等の無差別な破壊を看過することはないと思われる。これからの戦争は、名誉と誇りを重んじた形式で行われ、現在までの一般的慣行であった残虐行為を容認する国家は、良心のある世界の民衆から厳しい非難を受けることになるはずである』。
そうしてまた、彼が接した日本人のうちの幾人かの顏を想い起こしながら、彼はこうも書いたのだ。
『他国民の物質的進歩の成果を学び取ろうとする旺盛な好奇心と、それらをすぐに自分たちの用途に同化させようとする進取性からしても、彼らを他国との交流から隔離している政府の方針が緩められるならば、日本人の技術はすぐに世界の最も恵まれた国々と並ぶレベルに到達するであろう。そしてひとたび文明世界の過去から現在に至る技術を吸収した暁には、将来の機械技術進歩の競争をめぐり、日本は強力な競争相手として出現することになるであろう』
ペリーが不帰のひととなったのは、1858年3月4日であった」

『19世紀について考える』

「もし忠徳と万次郎がいなければ、今日、小笠原諸島と周辺の海は外国のものとなっていたでしょう」(『日本国紀』百田尚樹)下巻P30より

「1850年代には、ペリーが寄港してアメリカ人住民の1人を小笠原の植民地代表に任命しています。同じ頃、イギリスが諸島の領有権を主張し、両国は領有権で衝突します。この時、小笠原諸島の領有権確保のため現地に赴いたのが水野忠徳でした。1861年、幕府の軍艦『咸臨丸』
で小笠原諸島に上陸した46歳の忠徳は、島々の測量等の調査と、欧米系の島民に対して、彼らの保護を約束して日本の領土であることを承認させます。その一方、アメリカとイギリスに対して、小笠原諸島の領有権が日本にあることを認めさせたのです。外国人が居住していた島だったにもかかわらず、二大国が主張していた島の領有権を欧米諸国に認めさせたというのは一流の外交手腕と言えます。この時、忠徳のしたたかな交渉を支えたのが通訳の中浜万次郎でした。」
「明治9年、日本政府は各国に小笠原諸島の領有を通告、正式に日本領土となりました。明治13年、小笠原諸島は東京府の管轄となり、居住していた外国人は全員、日本国籍を取得しました。小笠原諸島は希少な自然が残る美しい島々ですが、重要なのは自然だけではありません。21世紀の今日、日本の広大な排他的経済水域の約三分の一は、小笠原諸島を中心とする海なのです。その海洋資源と海底資源は膨大なものがあります。もちろん当時の忠徳がそれを知っていたはずはありません。しかし彼は領土・領海の持つ価値と重要性を十分に理解していました。だからこそ自ら島に乗り込み、領有権を確保したのです。もし忠徳と万次郎がいなければ、今日、小笠原諸島と周辺の海は外国のものとなっていたことでしょう」

『日本国紀』(上)(百田尚樹 上p386〜「コラム」より)
咸臨丸に乗っていた中浜万次郎は、日本史の教科書などで大きく取り上げられることはありませんが、私は幕末史を語る上で避けて通れない重要人物だと思っています。敢えて言えば、幕末の日本を動かした人物だとすら考えています。
万次郎ほど数奇な運命を辿った人物はないと言っても過言ではありません。文政10年(1827年)、土佐国幡多郡中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)の貧しい漁師の家に生まれた万次郎は幼くして父を亡くしたために、寺小屋にも通えず、読み書きもできませんでした。14歳の時、乗り組んだ漁船が難破して、仲間4人とともに絶海の無人島(鳥島)に漂着します。
そこで幸運にもアメリカの捕鯨船に助けられますが、当時、海外に出た日本人は帰国すれば処刑されてしまうため、船長のホイットフィールドは一行をハワイに降ろそうとしました。しかし万次郎は仲間と離れてただ一人捕鯨船員として船に残ることを希望します。万次郎は船の中で見た世界地図で、日本の小ささを知り衝撃を受けていたのです。
同年、捕鯨船がアメリカに帰国した後、万次郎はマサチューセッツ州ニューヘッドフォードのフェアヘイブンに住むホイットフィールド船長の養子となります(当時船長は新婚だった)。そこから高等教育機関のバーレット・アカデミーに通い、高等数学、測量、航海術、造船技術などを学びます。万次郎はその学校を首席で卒業していますが、日本では寺子屋にも行かず、14歳で初めて英語に触れたことを考えると、彼がいかに優秀であったかがわかります。また学問だけでなく、当時の日本にはなかった自由な民主主義の概念をも身につけました。しかし、その一方、アジア人であることによる人種差別をも経験しています。当時のアメリカは南北戦争前で、黒人はまだ奴隷の状態でした。
卒業後はホイットフィールド家を出て、捕鯨船に乗って世界を回ることとなります。途中、船長が病気で船を降りた時、新しい船長を決める船員たちの投票で、万次郎ともう一人の船員が同数一位となりますが、万次郎は年長者に船長の座を譲り、自分は副船長となります。そして普通なら10年はかかると言われた一等航海士にわずか三年で選任されたのです。
23歳の時、日本に帰ることを決意した万次郎は、嘉永2年(1849年)に帰国資金を得るためにサンフランシスコの金鉱で金の採掘をします。余談ですが、この年のカリフォルニアのゴールドラッシュにはアメリカ全土から約30万人の人が金を求めて集まったといわれ、それまで人口わずか200人くらいの小さな町であったサンフランシスコが一挙に大都市になりました。そこに一人の日本人の若者がいたというのはドラマを感じさせます。
万次郎は、そこで得た資金をもとに上海行きの商船に乗りました。途中、かつてハワイで別れた漁師仲間に再開して彼ら(全員ではない)をも帰国の船に乗せます。
嘉永4年(1851年)万次郎は仲間とともに、商船から小舟に乗り換えて、琉球に上陸しました。すぐに鹿児島へ送られて薩摩藩による取り調べを受けますが、藩主、島津斉彬が自ら万次郎に会い、万次郎の語るアメリカの話に真剣に耳を傾けたのです。万次郎が『異国では、人の値打ちは身分によって定まらず、才能によって決まる』と語った時、斉彬は何度も深く頷いたと言います。薩摩藩は万次郎を厚遇し、藩の洋学校の英語教師に採用しました。また彼から得た知識をもとに、後に和洋折衷の超通船(おっとせん)を建造します。万次郎はその後、土佐に戻り、11年ぶりに母との再会を果たすのですが、この時、土佐藩は万次郎を士分として取り立て、藩校の教授に任命しました(このときの生徒に後藤象二郎や岩崎弥太郎らがいる)。
嘉永6年(1853年)黒船来航によって慌てふためいていた幕府は、アメリカの情報を得るために万次郎を江戸に招き、旗本の身分を与えます(この時、中浜という名字が授けられた)。その後、軍歌操練所の教授となり、測量術や航海術などを指導し、えいごきょういくも行いました。
一方、艦隊を率いて日本に開国を迫ったペリーとの交渉の通訳に、万次郎ほどの適役はいませんでしたが、老中がスパイ疑惑を持ち出したため、役目から外されました。もし万次郎が交渉で重要な役目を負っていたなら、日米修好通商条約の中身は相当変わっていたでしょう。
この頃、勝義邦も万次郎と会い、アメリカ文化を学んでいます。勝の先見性と視野の広さは万次郎から授けられたところ大ではないかと私は思っています。万次郎は幕末から明治の時代に当時のアメリカにおける民主主義を最もよく理解していた人物でした。坂本龍馬も万次郎の世界観に大きな影響を受けたと言われています。この後、日本は勝や龍馬が思い描いたように動いていきますが、彼らの師として「世界」を教えたという意味で、万次郎こそが幕末の日本に最も大きな影響を与えた一人だと言えます。
遣米使節団の一員として咸臨丸に乗り組んだ際には、艦長格を自任する勝義邦がひどい船酔いでほとんど動けなかったため、代わって万次郎が操船の指揮をとることとなりました。この時、万次郎の操船技術の高さにもアメリカ人が感嘆しています。咸臨丸に乗船していたアメリカ海軍のジョン・マーサー・ブルック大尉は、『咸臨丸日記』で、「咸臨丸上では、ジョン万次郎だけが、日本海軍を改造するには何が必要かを知っている唯一の日本人だった」と書いています。
その後も万次郎はいくつかの役職に就きますが、いずれも彼の高い能力に見合うポストとは言えませんでした。幕府に取って代わった明治政府も彼を重用しなかったのです(明治政府が与えたポストは東京大学の英語教授)。理由は、少年時代に漢文などの素養を身につけておらず、日本語の文章力に乏しいからというものでした。いかにも日本の官僚的な考え方です。アメリカの近代的な政治やシステムを肌で知っていた万次郎が明治政府の要職についていたなら、日本の明治はまた違ったものになっていたに違いありません。
なお、明治3年(1870年)、ヨーロッパへ派遣された万次郎は、帰国の途中アメリカに立ち寄り、恩人のホイットフィールド船長と四半世紀ぶりの再会を果たしています。余談ですが、万次郎の子孫である中浜家とホイットフィールド家の子孫の間では今も交流が続いており、万次郎の故郷である土佐清水市と、ホイットフィールド家があったマサチュウーセッツ州のフェアヘイブン市は姉妹都市の関係となっています。

『19世紀について考える』
シーボルト事件ー『星の旅人』(小前亮)p227よりー

シーボルト: (1796年〜1866年)
ドイツの医師、博物学者。長崎オランダ商館の医師として来日。長崎郊外の鳴滝に診療所もかねた私塾を開き、医学をはじめ西洋の学問を教えた。日本に関する研究資料も多く集めた。

文政11年(1828年)、ドイツ人医師シーボルトが、禁じられていた日本地図などを国外に持ち出そうとしてつかまりました。これをシーボルト事件といいます。
シーボルトは事件の5年前に来日し、出島のオランダ商館で医師として働いていました。自分も博物学者として日本に興味があり、またオランダから日本の調査研究を命じられていたため、シーボルトは日本に関する資料を大量に集めていました。その中に、伊能図の写しがあったので、大きな問題になったのです。
地図の写しをシーボルトに渡したのは、天文方の長である高橋景保でした。高橋至時の息子で、伊能図を完成させた責任者です。
シーボルトは幕府の役人や学者に海外の書物や宝物を贈り、かわりに日本の資料を得ていました。高橋景保には、最新の世界地図などを贈って、伊能図をもらったのです。景保は地図の管理が厳しいことは当然、知っていたはずですが、脇の甘いところがありましたので、写しならいいやと思ったのかもしれません。
事件が明らかになったきっかけは、間宮林蔵でした。シーボルトは林蔵が持つ植物標本が欲しくて、いつものように贈り物をしました。ところが、林蔵はそれを幕府に提出したのです。幕府の隠密であった林蔵としては、外国人から贈り物をもらうわけにはいきませんでした。
これによって、シーボルトが様々な品を集めていることがわかり、景保ら関係者はとらえられて、取り調べを受けました。景保はもともと病気がちであったため、これに耐えきれず、牢屋で亡くなりました。シーボルトは国外退去となります。幕府はこの3年前に異国船打払令を出して、外国に対する対決姿勢を強めていたところでした。そのため、関係者には厳しい処分が下されたのです。
なお、シーボルトは伊能図の写しをさらに写して、こっそりと持ち出していました。のちに、その地図をもとにした日本地図を出版しています。シーボルトは伊能図をもとにしたと明らかにしていましたので、日本人の測量と地図作成の技術が、世界に広まることになりました。
一方、日本では、天文方の関係者たちが処分されたので、地図作成だけでなく、蘭学の流行にも水を差されてしまいました。
ちなみに、シーボルトは開国後に再び日本を訪れて、一時は幕府の顧問になるなど、日本と関わり続けました。その息子たちも日本で働いており、またシーボルトが日本人女性との間につくった子どももいて、一族で日本に足跡を残しています。

『19世紀について考える』

大黒屋光太夫日本に帰国、1782年天明2年12月(漂流)〜1792年寛政4年9月(帰国)
吉村昭著『大黒屋光太夫』(下)(毎日新聞社)p192より、

松前藩からそれらの報告を受けた幕府は、ロシアが接近してくることは確実と判断していたが、その予想は的中、光太夫、磯吉を送還するためラクスマンが使節として蝦夷に来航した。
幕府は、漂流民返還は口実で、日本との交易を求める意図があると考え、石川将監、村上大学両目付を派遣し、松前で応接させた。三度にわたる会談で、予想通りラクスマンは交易を要求し、老中の意を体した両目付は、交易の折衝については長崎以外の地では応じられぬと伝え、ロシア船の長崎入港を許す信牌を与えてラクスマンを退去させた。
これによって、ロシアとの折衝は将来の重要課題となり、ロシア事情に通じロシア語も身につけている光太夫と磯吉をそれにそなえさせる重要人物と判断した。そのため二人をただちに江戸に護送したが、道中、食物を毒味し付き添いの医師に絶えず体調を留意させたのは、対露交渉になくてはならぬ存在と考えていたからであった。
そのような幕府の姿勢の現れとして、光太夫と磯吉に対し将軍家斉が引見することが伝えられ、二人は驚き恐懼(きょうく)した。
9月18日、二人は目付に伴われて江戸城内に入り、吹上御所見所に召し出された。・・・・
やがて家斉が御座につき、光太夫と磯吉は笠を足もとにおいて立って拝礼し、床几に腰をおろした。二人は身じろぎもしなかった。
問答が始まり、質問者は豊かな学識をそなえた蘭学者の侍医桂川甫周(ほしゅう)で、まず、「其の方ども最初着船したるところは、なんと申す所にて候哉」と、問うた。
これに対して光太夫は、天明2年(1782年)12月に「神昌丸」で伊勢国白子浦を出船し、破船漂流して翌年7月ロシアの属島アミシャツカという地に漂着した。と答えた。その後の経過について光太夫は、ロシア各地を転々とし、それらの地の風土、会った人たち、住居、食物、風俗風習等あらゆることを問われるままに語った。
列座した老中たちは、興味深げに光太夫たちを見つめて耳を傾けていた。

『19世紀について考える』

小前亮著『星の旅人』p188よりー大黒屋光太夫の冒険ー

大黒屋光太夫(1751年〜1828年)伊勢の国の船乗りだった光太夫は台風にあい、アムチトカ島に漂着した。それから10年後の1792年、ロシア使節団に連れられ、蝦夷地(根室)に帰り着いた。

大黒屋光太夫は宝暦元年(西暦1751年)、伊勢国(今の三重県)の商人の家に生まれました。船頭として働いていた光太夫の運命が変わったのは、天明2年(1782年)でした。
紀州藩の米を江戸に運ぶ船が嵐にあって、漂流してしまった のです。7ヶ月にわたって海を漂った末に、流れ着いたのは、はるか北、アリューシャン列島のほぼ中央部にあるアムチトカ島でした。現在はアメリカ領ですが、当時は先住民とロシア人が暮らしていました。
光太夫らはこの島で4年暮らし、ロシア人とともに船をつくって脱出します。まずはシベリアのカムチャツカに到着しましたが、ここでも飢えと寒さに苦しみました。2年後の寛政元年(1789年)、光太夫はシベリヤの役所があるイルクーツクにたどり着きます。このとき、一行は最初の17人から、6人にまで減っていました。
光太夫はロシア側に帰国を許してくれるよう頼みましたが、なかなか受け入れないまま、2年がたちます。当時ロシアは日本語学校をつくっており、光太夫をその教師にやとおうとして、引き止めていたのです。
光太夫は統率力や能力を高く評価されており、人あたりもよくて、ロシア人にも信頼されていました。それが逆にわざわいしていました。
しかし、ここでキリル・ラスクマンという学者が救いの手を差し伸べます。キリルは光太夫を連れて都のサンクトペテルブルクにおもむき、女帝エカチェリーナ2世に謁見する手はずを整えてくれました。光太夫はサンペクトブルクに7ヶ月滞在し、各界の有力者に会い、様々な施設を見学して、江戸時代の日本人としてはきわめてまれな体験をしました。
女帝は光太夫を気に入り、また、日本との国交樹立をもくろんで、帰国を許可します。キリルの息子アダム・ラスクマンがロシアの使者として同行し、光太夫は 根室にたどり着きました。
寛政4年(1792年)の帰国ですから、遭難してから10年がたっています。この間、光太夫はアリューシャン列島からシベリアへ、そしてシベリヤを横断してサンクトペテルブルグへ、そこでヨーロッパの先進文化にふれ、再びシベリアを横断、オホーツク海を渡って日本に帰るという、大冒険を成し遂げました。
ロシア正教に改宗してロシアに残った者もいて、帰国を果たしたのは光太夫を含め3人、うちひとりは根室で病死したので、江戸まで帰ったのはたった2人です。
江戸時代は海外への渡航が厳しく禁じられていましたが、彼らは事情が事情ですので、重い罰は受けませんでした。
光太夫の珍しい経験ともたらした情報は、幕府にとってきわめて貴重なものでした。江戸城内で行なわれた聞き取りには、将軍家斉も立ち会ったといいます。光太夫の話した内容は旅行記と地理書にまとめられ、多くの人に読まれました。光太夫自身も蘭学者たちと交流して、じかに情報を伝えています。
光太夫は江戸に屋敷を与えられ、幕府の保護のもとで、文政11年(1828年)まで生きました。
かつて、光太夫は江戸から出られず、なかば囚人のような生活を送ったと考えられていました。しかし、昭和の終わりころに新しい史料が発見された結果、それなりに自由に暮らしており、伊勢にも里帰りを果たしていたということがわかっています。
ちなみに、光太夫の後にも、漂流の末にロシアにたどり着いて、帰ってきた人はいます。中でも、寛政5年(1793年)にアリューシャン列島に流れ着いた若宮丸の水夫、津田儀兵衛たちは、光太夫と同じようにサンクトペテルブルクまで行き、最終的に4人がロシアの使者と一緒に帰ってきました。
この時の使者は、サンクトペテルブルクから西回りの航路をたどって、日本に来ました。大西洋をわたり、マゼラン海峡で南米を周り、太平洋をななめに突っ切るというルートです。彼らはそれまでに、日本からロシアまで行っていますから、この航海で地球を一周したことになりました。記録に残っている限りでは、日本人として初めての偉業です。
ただ、彼らはそれほど有名ではありません。あまり読み書きが得意でなく、教養もなかったので、見聞をうまく伝えることができなかったからだとされています。

「文学的な修辞を使うことがゆるされるなら、時宗という人物は、蒙古から日本を守るために生まれてきた男だったといえるでしょう」(百田尚樹)

「しかしこの時代に武士による政権が生まれたことは、日本にとって僥倖と言えるものでした。というのは、鎌倉幕府が成立して百年経たずして、大和朝廷誕生以来、最大の敵が日本を襲ったからです。ユーラシア大陸の大半を支配したモンゴル人です。もしこの時、勇敢な鎌倉武士団の存在がなければ、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません」(百田尚樹、日本国紀p153)

・執権だった北条政村は、この国難に際し、鎌倉武士団の団結を高めるため、北条得宗家(本家嫡流)の時宗に執権の座を譲り、自らは補佐役に回りました。この時、時宗は満16歳でした。

文永の役
・1274年(文永11年旧暦10月5日)蒙古軍来襲、
蒙古軍は7百〜9百艙の軍船に、水夫を含む4万人の兵士を乗せて襲ってきました。内訳は蒙古人2万人と、蒙古に征服されていた高麗人1万人でした(他に1万人の水夫がいた)。
・対馬、壱岐を襲い、博多に上陸。未曾有の国難に際し、九州の御家人らは命を懸けて立ち向かう。
・旧暦10月20日、蒙古・高麗の軍船は一斉に引き上げる。

弘安の役
・1275年、フビライは日本を服属させるために再び使節団を送ってきましたが、時宗は斬首に処しました。
・1281年(弘安4年)、蒙古再度来襲
軍船4400艙、兵士・水夫は約14万人。フビライが日本との戦いに総力をあげたことが分かります。

両班(ヤンバン)とはどのような身分だったのか。

イギリス人の女性旅行家イザベラ・バード『朝鮮紀行』より
・「両班は自分では何も持たない。自分のキセルすらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属するものは旅行をするとき、大勢のお供をかき集められるだけかき集めて引き連れて行くことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない」「朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在がある」

マリ・ニコル・アントン・ダブリュイ『朝鮮事情』より
・「朝鮮の両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振舞っている。大両班は、金がなくなると、使いのものをおくって商人や農民を捕らえさせる。その者が手際よく金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて投獄され、食物も与えられず、両班が要求する額を支払うまでムチ打たれる。両班の中でも最も正直な人たちも、多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれるものは誰もいない。なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかってないからである。彼らが農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしで済ませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(スリョン)は、一人もいない」「両班が首尾よくなんらかの官職につくことができると、彼はすべての親戚縁者、最も遠縁の者にさえ扶養義務を負う。彼が守令になったというだけで、この国の普遍的な風俗習慣によって、彼は一族全体を扶養する義務を負う。もし、これに十分な誠意を示さなければ、貪欲な者たちは、自ら金銭を得るために様々な手段を使う。ほとんどの場合、守令の留守の間に、彼の部下である徴税官にいくばくかの金を金を要求する。もちろん、徴税官は、金庫には一文の金もないと主張する。すると、彼を脅迫し、手足を縛り手首を天井に吊り下げて厳しい拷問にかけ、ついには要求の金額をもぎ取る。のちに守令がこの事件を知っても、略奪行為に目をつむるだけである。官職につく前は、彼自身もそのようにするはずだからである」「朝鮮の貴族階級は、世界中で最も強力であり、最も傲慢である」
・ダブリュイは1886年に、漢城で処刑されています。

百田尚樹著『今こそ韓国に謝ろう』(飛鳥新社)【両班の実態】より
・併合前の両班の特権は、凄まじいものでした。彼らは完全な支配階級であり、同時に徹底した搾取者でした。常民に対しては生殺与奪の権利を持ち、常民のものは食べ物であろうと、妻であろうと娘であろうと平気で盗りました。その収奪は有無を言わさぬものであったと伝えられています。しかし常民はそれに対して逆らうことはできませんでした。
また両班は、気に入らない常民がいると、捕らえて、家の前庭でムシロ巻きにして地面に転がし、雇い人たちに棍棒で打たせました。どこの村でも、打たれた常民たちが「アイヤー!アイヤー!」(痛い!痛い!)「ヨンソへチュセヨ!」(許してください!)と泣き叫ぶ光景が日常茶飯事であったと言います。
両班が常民に与える最も恐ろしい罰は「周牢」(チュリ)というものです。これは縛った両脚の間に固い木の棒を差し込み、それをねじるという残虐な仕打ちです。これをやられると、激痛もさることながら、しばしば膝の関節が抜けたり、骨折したりしました。併合前の朝鮮の村々には、「周牢」のために障碍者になったり、一生歩けなくなったりした人が見られたそうです。

【両班とは】ウイキペディアによれば
・王族の次の身分
・科挙に合格が必要、30歳になっても笠を被ること(科挙合格)できないものは、12〜13歳でも笠を被れた者から「童」と呼ばれて下に扱われた。
・身分が売買されたために両班の数は増加し、李氏朝鮮末期には自称を含め朝鮮半島の人々の相当多数が戸籍上両班となっていた。
・李氏朝鮮では両班階級が官僚機構を独占
・両班を一番上に、中人(チュンイン・雑科を出す階級)、常民(農民)、賎民という4段階の身分制度が出来上がった。
・北朝鮮では「3大階層51分類」の上位。韓国でも国会議員、公務員、大学教授、財閥一族が現代の両班だと指摘されている。
・これら両班は、李氏朝鮮の国教になった儒教の教えのもとに労働行為そのものを忌み嫌うようになった。これが「転んでも自力では起きない」「箸と本より重いものは持たない」と言われる両班の成立である。

【戸籍の導入】

・百田尚樹著『今こそ、韓国に謝ろう』(飛鳥新社)【戸籍の導入】P69より
日韓併合後、総督府は、朝鮮半島に長らく続いた身分制度を破壊しました。王族を除くすべての人を平等に扱ったのです。
日本の戸籍制度を導入して、それまで人間とはみなされていなかった賎民に戸籍を与えました。これにより姓を持ち、身分差別から解放された白丁は、子供を学校へ通わせることも許されました。
さらに奴婢を解放し、奴隷制度を撤廃させました。長きにわたって行われていた、幼児売買や人身売買も禁止させました。こうして朝鮮の伝統的身分制度をほぼ壊滅させてしまったのです。
これはもちろん、両班や中人の許可を得てしたことではありません。したがって両班たちは、「こんなものは認めない」として、総督府に激しく抗議しましたが、日本政府は断固として抗議を認めず、白丁や奴婢に人権を与え、それまであった禁止事項も廃止させてしまいました。

李氏朝鮮時代の【奴婢】とは。

・ウイキぺディア【朝鮮の奴婢制度】によれば
1039年、高麗王朝(靖宗の治世)で婢女が生んだ子供は主人(非賎民)の所有物とされ、生母が選民ならば子供も奴婢とするという、「賎者随母法(奴婢随母法)」が定められた。官吏は8世代に渡って家族に奴婢がいないことが証明できないと登用されないとされ、この高麗で完成された随母主義の原則がその後も朝鮮では引き継がれた特徴である。
奴婢となったいきさつは、奴婢の子、捕虜、犯罪者、窃盗犯、逆賊の妻子で賎民に落とされた者、借金の抵当など様々であった。しかし最も数が多いのは王朝が滅亡した時であり、百済滅亡時には百済の民はいずれも奴婢とされた。
1300年にモンゴルから高麗の征東行省に派遣されていた皇族、コルギスは奴婢制度の廃止を求めたが、ときの国王忠烈王は「わが始祖は賎類とは種類が違う」と言って拒否した。
奴婢は主人の所有物であり財産であって、売買・略奪・相続・譲与・担保・賞与の対象となっていた。奴婢の人口比や王族や貴族の奴婢保有数が1410年代には全盛期を迎えていた。それほど多かったので、王族や貴族など奴婢を保有できる高位でも奴婢を300人以上所有してはいけないという法律まであった。当時の王で名君とされている世宗は奴隷制の拡大と妓生制の拡散、事大主義の強化を行なっている。両班と女性奴婢が結婚すると、子は父に沿って両班という高位身分になるようにした既存の良い法さえ廃止した。奴婢でない男性と奴婢の女性の間で産んだ子を奴婢に規定して、父が誰であれ全ての奴婢の子は、母に沿って奴婢になるようにした法律が制定されたのは、多くの奴婢を望む要望があったからだと分析されている。

1894年(明治27年、日清戦争のとき)の甲午改革に至って奴婢制度・白丁制度が法的に廃止されたが、奴婢、白丁といった賎民階層への差別は続き、実質的に存続していた。甲午改革を推進した金玉均は、朝鮮社会の封建的身分制度こそ不平等の根源であり、ひいては国家の腐敗、衰退の主因と主張している。

朝鮮半島で実質的に奴隷制度が廃止されたのは、日韓併合の前年1909年である。この年に韓国統監府は戸籍制度を導入することで、人間とはみなされていなかった姓を持たない賎民階層にも姓を許可した。これにより、彼らの子供達は学校に通えるようになり、身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された。


・百田尚樹著『今こそ韓国に謝ろう』(飛鳥新社)よりP78〜
すべての奴婢は人間ではなく品物と同じでしたから、主人は勝手に売買でき、またその奴婢にどんな暴力をふるっても、あるいは殺しても何ら問題にはなりませんでした。奴婢が女性の場合、主人が犯すのも自由です。実際、併合前の朝鮮では、奴婢の女性の多くは主人の性の道具にされました。主人に弄ばれた婢女の多くは、不幸なことに主人の妻の怒りと嫉妬を買いました。そして主人の妻に打ち据えられたり、ひどい場合には殺されることもありました。・・・・・・
運良く奥方の怒りから逃れた婢女が主人の子を産んでも、奴婢が産んだ子は奴婢となり、親と同じく主人の所有物として財産目録に記入されました。・・・
かつてアメリカでは、黒人奴隷が非人間的な扱いを受けていましたが、それと同様か、あるいはそれ以上に厳しい奴隷制度が朝鮮には存在していたのです。驚くべきことは、それらが同じ民族に対して行われていたということです。
アメリカの場合は白人と黒人の双方が、百年以上の年月をかけて黒人の人権と自由を拡大させてきましたが(とはいえ、今も差別はあります)、朝鮮においては、日本の総督府が併合と同時に奴婢を解放しました。

・この他にも、奴婢(奴隷)という身分がありましたが、これは家畜同然で、容易に売買される存在でした。驚くべきことに、李朝末期の朝鮮には、奴隷が約3割いたとされています。(P68)

李氏朝鮮時代の【従母法】とはどのようなものだったのだろうか。

【従母法】
・従母法では奴婢の子は奴婢であり、従ってまた主人の財産であり、自由に売買された。
・さらに奴婢従母法という法により、父が両班で母が奴だった場合は子も奴婢になり、奴の所有者がその子の所有権を持つように定められた。
・従母法では、奴婢の子は奴婢であり、従って一度奴婢に落ちたら、代々その身分から離脱できなかった。

・奴婢は主人の財産(奴隷)。奴婢は売買・略奪の対象であるだけでなく、借金の担保であり、贈り物としても譲与され、主人の財産として自由に売買(人身売買)された。従母法では、奴婢の子は奴婢であり、従って一度奴婢に落ちたら、代々その身分から離脱できなかった。

【妓生(キーセン)】について調べてみます。

妓生とは、元来は李氏朝鮮時代以前の朝鮮半島において、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕などをするために準備された奴婢の身分の女性のことを意味する。

高麗から李氏朝鮮末期まで約1000年間、常に2万から3万名の妓生がおり、李朝時代には官婢として各県ごとに10から20名、郡に30から40名、府に70から80名ほどが常時置かれていた。

1932年に李氏朝鮮が成立し、1410年には妓生廃止論が起こるが、反対論の中には妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子を犯すことになるとの危惧が出された。この妓生制度存廃論争をみても、「その性的役割がうかがえる」。4代国王世宗の時にも妓生廃止論が起こるが、臣下が妓生を廃止すると官吏が人妻を奪取し犯罪に走ると反論し、世宗はこれを認め「官吏は妓をもって楽となす」として妓生制度を公認した。

李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15から20歳の女子に妓生の育成を行った。

李王朝の歴代王君のなかでは9代国王成宗とその長子である10代国王燕山君が妓娼婦をこよなく愛した。とりわけ燕山君は暴君、もしくは暗君で知られ、後宮に妓娼をたくさん引き入れ、王妃が邪魔な場合は処刑した。化粧をしていなかったり、衣服が汚れていた場合は妓生に杖叩きの罰を与え、妊娠した妓生は宮中から追放し、また妓生の夫を調べ上げてみな惨殺した。燕山君は名寺刹円覚寺を潰し、妓生院を建て、全国から女子を集め大量の妓生を育成した。燕山君の淫蕩の相手となった女性は万に至ったとも言われ、晩年には慶会楼付近に万歳山を作り、山上に月宮を作り、妓生3000余人が囲われた。燕山君の時代は妓生の全盛期ともいわれる一方で、これらは燕山君の淫蕩な性格に起因するといわれており、妓生の風紀も乱れた。

全国から未婚の処女を「青女」と呼んで選上させたり、各郡の8歳から12歳の美少女を集め、淫したとも記録され、『朝鮮実録』では「王色を魚す区別なし」と記している。

妓生は外交的にも使われることがあり、中国に貢女(コンニョ)、つまり貢物として「輸出」された。高麗時代には宋の使いやまた明や清の外交官に対しても供与された。

川村湊は、朝鮮の中国外交は常に事大主義を貫き、使臣への女色供応は友交外交のための「安価な代価(生け贄)にほかならなかった」とし、また韓国併合以後の総督府政治もこのような「妓生なくして成り立たない国家体制」を引き継いだものであるとした。

李氏朝鮮の妓生は女楽のほかに宮中での医療を行い、衣服の縫製もしたので、薬房妓生、尚房妓生という名称も生まれている。妓生は、官に属する官妓と私有物である妓生が存在したが、大半は官妓だったようである。妓生になる女性のほとんどは奴婢であるが、実家の没落・一家離散または孤児となったり、身をもち崩すなどした両班の娘などが妓生になる場合も多かった。李氏朝鮮の妓生は高麗女楽をルーツにしており、宮中での宴会に用いるための官妓を置き、それを管理するための役所、妓生庁が存在した。一般的に、妓生は両班を相手とするため、歌舞音曲・学問・詩歌・鍼灸などに通じている必要があった。また、華麗な衣服や豪華な装飾品の着用が許され、他国の高級娼婦と同様に服飾の流行を先導する役目もした。

【高麗・李朝時代の身分制度】
《七賎》
高麗・李朝時代の身分制度では、支配階級の両班、その下に中庶階級(中人、吏族)、平民階級があり、その下に賎民階級としての七賎と奴婢があった。七賎とは商人・船夫・獄卒・逓夫・僧侶・白丁・巫俗のことをいい、これらは身分的に奴隷ではなかったのに対して、奴婢は主人の財産として隷属するものであったから、七賎には及ばない身分であった。

《奴婢》
奴婢はさらに公賎と私賎があり、私賎は伝来婢、買婢、祖伝婢の三種があり下人を指した。奴婢は売買・略奪の対象であるだけでなく、借金の担保であり、贈り物としても譲与された。従母法では奴婢の子は奴婢であり、従ってまた主人の財産であり、自由に売買された。そのため、一度奴婢に落ちたら、代々その身分から脱却できなかった。

《婢女》
女性の奴婢は筒直伊(トンジキ)とも呼ばれ、下女のことをいい、林鐘国によれば、朝鮮では婢女は「事実上の家畜」であり、売買(人身売買)、私刑はもちろん、婢女を殺害しても罪には問われなかったとしている。さらに「韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っ掛かっている年頃の娘たちの遺棄死体があったといわれる。局部に石や棒切れを差し込まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された不幸な運命の主人公であった」とも述べている。・・・若くして美しい官婢が妾になることも普通で、地方官吏のなかには平民の娘に罪を着せて官婢に身分を落とさせて目的をとげることもあったとしている。

《房妓生・守廳妓生》
また、性的奉仕を提供するものを房妓生・守廳妓生といったが、この奉仕を享受できるのは監察使や暗行御使などの中央政府派遣の特命官吏の両班階級に限られ、違反すると罰せられた。



日韓併合について考える。
【百田尚樹著『日本国紀』(幻冬舎)より】

《韓国併合》P326より
日本は日露戦争後、大韓帝国を保護国(外交処理を代わりに行う国)とし、漢城に統監府を置き、初代統監に伊藤博文が就いた。この時日本が大韓帝国を保護国とするにあたって、世界の了解を取り付けている。
日本は大韓帝国を近代化によって独り立ちさせようとし、そうなった暁には保護を解くつもりでいた。日本国内の一部には韓国を併合しようという意見もあったが、併合反対の意見が多数を占めていた。これには「朝鮮人を日本人にするのは日本人の劣化につながる」という差別的な意識もあったが、一番の理由は「併合することによって必要になる莫大な費用が工面できない」ということだった。日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行うつもりはなく、朝鮮半島は東南アジアのように資源が豊富ではなかっただけに、併合によるメリットがなかったのだ。統監の伊藤博文自身が併合には反対の立場を取っていた。
しかし明治42年(1909)、伊藤がハルビンで朝鮮人テロリストによって暗殺され、状況は一変する。国内で併合論が高まると同時に、大韓帝国政府からも併合の提案がなされた。大韓帝国最大の政治結社である「一進会」(会員80万〜100万人)もまた、「日韓合邦」を勧める声明文を出した。
それでも日本政府は併合には慎重だった。世界の列強がどう見るか憂慮したためだ。そこで日本が列強に「大韓帝国の併合」を打診すると、これに反対した国は一国もなかった。それどころかイギリスやアメリカの新聞は、「東アジアの安定のために併合を支持する」という内容の記事を書いたのだ。ここに至って日本はようやく大韓帝国の合併を決断する。
繰り返すが、韓国併合は武力を用いて行われたものでもなければ、大韓帝国政府の意向を無視して強引に行われたものでもない。あくまで両政府の合意のもとでなされ、当時の国際社会が歓迎したことだったのである。もちろん、朝鮮人の中には併合に反対するものもいたが、そのことをもって併合が非合法だなどとはいえない。
余談になるが、大東亜戦争後に誕生した大韓民国は、併合時代に日本から様々なものを奪われたと主張しているが、そのほとんどは言いがかりで、むしろ日本は朝鮮半島に凄まじいまでの資金を投入して、近代化に大きく貢献した。
いくつか例を挙げると、併合前まで百校ほどしかなかった小学校を4271校に増やし、全国児童に義務教育を施し、10%程度であった国民の識字率を60%にまで引き上げている。この時にハングルを普及させている。
また全土がほぼはげ山だったところに約6億本もの木を植え、鴨緑江には当時世界最大の水力発電所を作り、国内のいたるところに鉄道網を敷き、工場を建てた。新たな農地を開拓し、灌漑を行い、耕地面積を倍にした。それにより米の収穫量を増やし、30年足らずで人口を約2倍に増やした。同時に24歳だった平均寿命を42歳にまで延ばした。厳しい身分制度や奴隷制度、おぞましい刑罰などを廃止した。これらのどこが収奪だというのだろうか。
たしかに当時の内務省の文書には「植民地」という言葉があるが、これは用語だけのことで、政策の実態は欧米の収奪型の植民地政策とはまるで違うものだった。また日本名を強制した事実もなければ、「慰安婦狩り」をした事実もない。その傍証はいくらでも挙げられるが、本書のテーマではないので、詳細は省く。
ただ結果論ではあるが、百年以上後の現代まで尾をひく国内および国際問題となった状況を見れば、韓国併合は失敗だったと言わざるを得ない。日本は大韓帝国に対し、あくまで保護国として自立させる道を選ぶべきだった。その場合、韓国の自立や近代化はおそらく何十年も遅れたことだろうが、それが両国にとって最善の道であったと思う。
※1905年日米政府間覚書: アメリカのフイリピン支配と日本の韓国支配を相互に確認する覚書。
※1905年イギリスは日英同盟更新のおりに、日本の韓国支配を承認し、かわりに、日本にインド防衛の同盟義務を負わせた。
※1907年日仏協約: インドシナの植民地支配の承認と引き換えに、日本の韓国支配を支持した。
※1907年日露協約: ロシアの外モンゴル支配と北満州の勢力範囲、日本の韓国支配と南満州の勢力範囲とが、互いに承認された。

【李栄薫著『反日種族主義』より】
P19より
朝鮮王朝を滅ぼした主犯を挙げよと言われれば、誰が何と言っても当時の主権者だった国王、高宗コジョンです。彼は王朝を自分の家業と考えた、愚かで欲の深い王でした。王朝を日本に売り渡したのは、他でもないこの人だったのです。そのおかげで彼の王族は、日本の王侯族の身分に編入され贅沢三昧できました。しかし、2000万の人々は「亡国の民」の身の上となってしまいました。

P333より
その当然の帰結として、この国の歴史家たちは今も、大韓帝国がなぜ滅びたのか分かっていません。中・高校の教科書を見てください。李完用イワニョンなど五人の売国奴のせいで国が滅びた、と言っているではありませんか。1905年の当時の韓国人たちはそのようなことを言いました。その言葉を114年経った今も繰り返しているのです。国というものは、詐欺で売られてしまうような不動産でしょうか。長い間、外に対して閉ざされて来た中、専制政治の暴圧を受け、大多数の国民が奴隷根性に染まり、精神文化が堕落し、嘘をつくという悪習が横行し、官吏はひたすら王に従順であることだけが忠誠であると考え、王が卑怯で愚かだったせいで、国が滅びたのです。一言で言えば、自由と独立の精神を知らなかったため、国が滅びました。李承晩が漢城監獄で断腸の思いで指摘したその事実に、未だにこの国の歴史家たちは気づいていません。このことを日帝下の崔南善は「我々朝鮮は滅びることにも失敗した」と言いました。

【『新しい歴史教科書』(扶桑社)より】
日露戦争後、日本は韓国に韓国統監府を置いて支配を強めていった。日本政府は、韓国の併合が、日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた。イギリス、アメリカ、ロシアの3国は、朝鮮半島に影響力を拡大することを互いに警戒し合っていたので、これに異議を唱えなかった。こうして日本は韓国内の反対を、武力を背景におさえて併合を断行した。韓国の国内には、一部に併合を受け入れる声もあったが、民族の独立を失うことへの激しい抵抗が起こり、その後も独立回復の運動が根強く行われた。韓国併合のあと、日本は植民地にした朝鮮で鉄道、灌漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した。しかし、この土地調査事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また、日本語教育など同化政策が進められたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた。

【『読むだけですっきりわかる 日本史』(宝島社)】
日露戦争後、日本の韓国支配は早急に進んだ。何せ邪魔ものの清もロシアも直接戦争で打ち破っている。怖いものはない。韓国を保護国としていた日本は、韓国の首都漢城に韓国支配のための役所韓国統監府を設置し、伊藤博文が初代統監として赴任した。韓国の青年安重根はこれに憤り、伊藤を暗殺した。実はこれは皮肉な結果を呼ぶ。伊藤は、意外かもしれないけど、この段階の日本の有力政治家の中で韓国の併合に反対の立場をとるほぼ唯一の政治家だったんだ。その伊藤が亡くなってしまったことで併合に反対する政治家はいなくなり、1910年、日韓併合条約が締結され、「韓国の皇帝が韓国の支配権を完全に永久に日本の天皇に譲渡」し、韓国は国際法上は日本の領土となった。


【韓国併合に関する条約】
韓国併合に関する条約は、1910年(明治43年)8月22日に漢城府で寺内正毅・総統と李完用・総理が調印し、29日に裁可公布して発効した「韓国皇帝が大韓帝国の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝に譲与する」ことなどを規定した条約。

世界的に「『韓国併合に関する条約』は当時の国際法上、合法であった」とするのが多数派である。違法論は現在では、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国以外の国では少数派である。

2001年にハーバード大学アジアセンター主催で開かれた韓国併合再検討会議において韓国併合の合法性が議論された。韓国や北朝鮮の学者は無効・違法論を展開したが、欧米の国際法学者らからは異なる見解が出された。イギリスのケンブリッジ大学のJ・クロフォード教授(国際法)は「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦以降のもので当時としては問題になるものではない」と反論されたほか、併合条約に国王の署名や批准がなかったことについても、国際法上必ずしも必要なものではないとする見解が英国の学者らから出された。またこの会議では、朝鮮学会の原田環から、併合条約に先立ち日本が外交権を掌握し韓国を保護国にした日韓保護条約(1905年)について、皇帝の日記など韓国側資料の「日省録」や「承政院日記」などを分析し、高宗皇帝は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする見解を新たに紹介している。

韓国併合に関する条約は1965年(昭和40年)に締結された日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)によって「もはや無効であることが確認される」とされた。

日韓併合条約全文(1910年8月22日)
日本国皇帝陛下及び韓国皇帝陛下は、両国間の特殊にして親密なる関係を考慮し、相互の幸福を増進し東洋の平和を永久に確保しようと、この目的を達成するには韓国を日本帝国に併合することが望ましいと確信し、両国間に併合条約を締結することを決定した。
この為日本国皇帝陛下は統監子爵寺内正毅を、韓国皇帝陛下は内閣総理大臣李完用を各々その全権委員に任命すると同時に、上の全権委員は合同協議の上、下記の諸条を協定するものとする。
一、韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全且つ永久に日本国皇帝陛下に譲与する。
二、日本国皇帝陛下は前条に掲げたる譲与を受諾し且つ韓国を完全に日本帝国に併合することを承諾する。
三、日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下、太皇帝陛下、皇太子殿下並びその皇后、皇妃及び後裔をして各其の地位に応し相当なる尊称、威厳及び名誉を享有せしめ且つこれを保持するに十分なる歳費を供給することを約束する。
四、日本国皇帝陛下は前条以外の韓国皇族及びその後衛に対し各相当の名誉と待遇を享有せしめ、之を維持するのに必要な資金を供与することを約束する。
五、日本国皇帝陛下は勲功ある韓国人として特に表彰すべきと認めたる者に対し栄誉を授け、恩金を与える。
六、日本国政府は前記した併合の結果として完全に韓国の施政を担任し当該地域に施行する法規を遵守する韓国人の身体及び財産に対し十分なる保護を与え、其の複利の増進を図る。
七、日本国政府は誠意忠実に新制度を尊重する韓国人として相当の資格ある者を事情の許す限り韓国における帝国官吏に登用する。
八、本条約は日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下の裁可を経たるものであり、公布の日より之を施行する。
上記を証拠として両全権委員は本条約に記名調印するものなり。
明治四十三年八月二十二日 統監子爵 寺内正毅
劉煕四年八月二十二日 内閣総理大臣 李完用

滅ばざるを得なかった朝鮮、朝鮮が消滅する瞬間ー池萬元著『反日への最後通告』より

1904年2月8日に勃発した日露戦争は、1905年秋まで続き、大方の予想に反して日本の勝利で終わった。1905年6月、ロシアと日本はアメリカのポーツマスで講和会議に臨んだ。1905年7月、セオドア・ルーズベルト大統領の指示を受けた米陸軍長官のウイリアム・タフトはフイリピン訪問の途上で日本に立ち寄り、桂太郎首相と会い、フイリピンに対するアメリカの権益と朝鮮に対する日本の権益とを相互に承認する協定を結んだ。
桂・タフト協定の内容は以下の3つだ。1つ目は、親日的であるアメリカがフイリピンを統治するのは日本にとって有利なことであり、これにより日本はフイリピンに対して、いかなる侵略的意図を持たない。
2つ目は、極東の平和維持には、日本、アメリカ、イギリスの相互理解を達成することが最善の道であると同時に唯一の手段である。
3つ目は、アメリカは、大日本帝国が大韓帝国を保護国にすることは日露戦争の論理的帰結であり、極東平和に直接的に貢献することであることを認める。
この秘密協定は、20世紀初頭におけるアメリカの極東政策の基本方針に基づくもので、アメリカはロシアと日本によるポーツマス講和会議に先立ち、すでに大韓帝国に対する態度を表明していた。すなわち、日露戦争の勃発後、ルーズベルト大統領は「1900年以降、韓国は自治能力がないが、アメリカは韓国に対して責任を負えないので、日本が韓国を支配して、韓国人には不可能だった法と秩序を維持し、能率的に統治するならば、万が一のためにも良いことだと確信する」として、日本の朝鮮支配を承認していた。
この秘密協定(1905年)によってアメリカの朝鮮介入を拝した日本は、同年8月に第二次日英同盟、9月にはポーツマス条約を締結し、朝鮮に対する国際的支配権を手にした。これを足場として、日本は朝鮮に対して、乙巳保護条約を強要し、アメリカはこれを積極的に支持した。この協定の内容は、1924年まで、日米両国が極秘にしていたので、世の中に知られることはなかった。当時の世界情勢と朝鮮の状況を考え合わせると、ルーズベルト大統領の対朝鮮観に異議を唱えることは難しかったに違いない。

(1)ハングルの普及
【日本政府は「劣等文字」ハングルを普及させた】ー百田尚樹『今こそ韓国に謝ろう、そして「さらば」と言おう』より

「当時の朝鮮人で文字が読める人は人口の10%以下だった」
「日本政府が朝鮮の子供たちに一番教えなければならないと考えたのは、文字でした。読み書きこそが、すべての教育の基本だからです」
「文字が読めた人はほとんど両班であり、しかも彼らが書いていた文字は漢文でした。漢文とはつまり中国語です。朝鮮は長い間、清の属国であり、中国文化を最上のものと崇めていたので、特権階級である両班は漢文を書き、公文書の類も漢文が使われていました。しかしふだん話している言葉は朝鮮語です。・・・・朝鮮半島は15世紀半ばまで、自国の言葉を表す文字を持ちませんでしたが、李氏朝鮮四代目王の世宗が作らせたのがハングルです。ところがこの文字は、両班からは、『劣等文字』『下賤の者が使う文字』として馬鹿にされていました。ところが日本政府は、これを朝鮮半島の子供たちに広めようと考えたのです。1911年(明治44年)に出された第一次朝鮮教育令で、朝鮮語は必修科目とされ、ハングルが教えられるようになりました。ところが、ここでまた一つ困ったことが持ち上がりました。当時、朝鮮半島には本を大量に作ることができる印刷所も製本所もなかったのです。そこで日本は、最初のハングルの教科書を東京で印刷し製本しました。ちなみに、最初のハングル活字を作ったのは福沢諭吉です。しかも私費でした」
「当時の朝鮮人で文字が読める人は人口の10%以下だったと書きましたが、文字が読めた人々はほとんど両班(ヤンバン)であり、しかも彼らが書いていた文字は漢文でした。漢文とはつまり中国語です。朝鮮は長い間、清の属国であり、中国文化を最上のものと崇めていたので、特権階級である両班は漢文を書き、公文書の類も漢文が使われていました。しかし普段話している言葉は朝鮮語です。子供達に文字を教えるには、ふだん話している言葉をそのまま文字にするのが一番ですが、朝鮮語を漢文では書き表せません。おそらく日本政府も頭を悩ましたと思いますが、便利な文字を発見しました。それがハングルです。朝鮮半島は15世紀半ばまで、自国の言葉を表す文字を持ちませんでしたが、李氏朝鮮四代目王の世宗が作らせたのがハングルです。ところがこの文字は、両班からは、「劣等文字」「下賤の者が使う文字」として馬鹿にされていました。ところが日本政府は、これを朝鮮半島の子供達に広めようと考えたのです。1911年(明治44年)に出された第一次朝鮮教育令で、朝鮮語は必修科目とされ、ハングルが教えられるようになりました。ところが、ここでまた一つ困ったことが持ち上がりました。当時朝鮮半島には本を大量に作ることのできる印刷所も製本所もなかったのです。そこで日本は、最初のハングルの教科書を東京で印刷し製本しました。ちなみに、最初のハングルの活字を作ったのは福沢諭吉です。しかも私費でした」
「話を戻しますが、現代の朝鮮で使われているハングルがかつて劣等文字とされてきたことは歴史的事実です。朝鮮半島では昔から記録はすべて漢文で行われていたために、古代の朝鮮人がどのような言葉を使っていたのかほとんどわかっていないのです」
「しかし学校というものが存在しないに等しかった朝鮮では、当然のことながら一般民衆には普及しませんでした。後には一部の両班も使うようになりますが、日韓併合時においても、上流階級の間では、ハングルは一段下に見られていました。日本は下層階級が使う文字とされていたハングルを、彼らの意向もおかまいなしに勝手に朝鮮全土に広めてしまったのです。今日、韓国においては、漢字は人名を除いてほとんど消滅し、本や新聞を見ても、書かれている文字はすべてハングルです。つまり、日本が一国の文字文化を完全に変えてしまったというわけです。これでは朝鮮人が怒るのも当然です。たとへ今、彼らがそれを重宝に使っていたとしてもです。ただ、韓国が主張する「日本は言葉を奪った」というのは、明らかに彼らの勘違いです。日本人は朝鮮人にハングルを押し付けました。もちろんこれは責められるべきことで、日本が大いに反省すべきことです」

【朝鮮語の単語を作ったのは誰か?日本が作ってくれた】
ー池萬元著『反日への最後通告』よりー
「1446年に世宗が頒布した『訓民正音』は現在のハングルに生まれ変わるまで文字として機能を発揮できないまま放置されていた。10月9日を『ハングルの日』と定めたのは1928年だ。日帝がハングルを使えないようにしたという左翼の主張が偽りだということが、ここでも露わになる。・・・朝鮮の王たちが弾圧したハングルを日本が蘇らせ広めたのだ。・・・朝鮮第10代の燕山君は世宗大王が作った『訓民正音』を『諺文』だと蔑み、『諺文』そのものを抹殺してしまった。その抹殺された『諺文』を日本が『朝鮮語』として現代化させ、奨励手当まで与えて広く普及させたのだ。そして1928年には今でも続いている『ハングルの日』まで定めてくれた。・・・それでは現在われわれが使っているこの単語は誰が作ったのか?驚いてはならない。日本が作ってくれたのだ。1835年生まれの福沢諭吉が作ってくれた。この事実は誰も否定できないだろう」。

朝鮮語の単語を作ったのは誰か?
「1443年の世宗時代に作られた訓民正音は現在のハングルとあまりにも違いすぎている。左上の写真は世宗が作ったという訓民正音だ。この文字を見れば現在のハングルとかなり異なっていることが分かる。どのようなプロセスを経て訓民正音の字が現在のハングルに進化したのかについて説明した資料はあまりない。いくつかの説があるだけで、科学的説明はない。
1446年に世宗が頒布した訓民正音は現在のハングルに生まれ変わるまで文字としての機能を発揮できないまま放置されていた。10月9日をハングルの日と定めたのは1928年だ。日帝がハングルを使えないように弾圧したという左翼の主張が偽りだということが、ここでもあらわになる。この時期の朝鮮の学者たちは、なぜ朝鮮語の文字を訓民正音と呼ばずにハングルと呼んだのだろうか? 我々が現在使っている「経済」「文化」「民主主義」といった単語は誰が作った単語なのか? 世宗はこのような文字や単語は作り出してはいない。
そして諺文(オンムン・ハングルの前身)を弾圧した中心は朝鮮の歴代の王たちだった。燕山君(ヨンサングン)年間の10年(1504年)7月20日付けで記録された王朝実録の一部にこのような文章がある。
《諺文で書かれた投書が多いので、諺文は教えることもやめ、習うこともやめて、すでに習った者は使わぬようにし、諺文を使う者をすべて摘発して告発せよ、知っていても告発しない者はその隣人にまで罰を与えよ》
朝鮮の王たちが弾圧したハングルを日本が蘇らせて広めたのだ。1921年3月12付、及び1922年7月12日付の『東亜日報』の朝鮮語奨励手当についての記事には、朝鮮語の試験を実施して、合格者に対して症例手当を支給せよと書かれている。朝鮮第10代の燕山君は1504年に世宗大王が作った訓民正音を諺文だと蔑み、諺文そのものを抹殺してしまった。その抹殺された諺文を日本が朝鮮語として現代化させ、奨励手当まで与えて広く普及させたのだ。そして1928には今でも続いているハングルの日(10月9日)まで定めてくれた。この記事は、日本が朝鮮の精神を抹殺するために、朝鮮語の使用を徹底的に禁止したというこれまでの学校教育が、どれほど事実を歪曲したものなのかをまざまざと証明している。
それでは現在我々が使っているこの単語は誰が作ったのか? 驚いてはならない。日本が作ってくれたのだ。1835年生まれの福沢諭吉が作ってくれた。この事実は誰も否定できないだろう。・・・・朝鮮時代には、諺文だ、女文字だと見下されていた訓民正音が福沢諭吉によって、現在のハングルに新しく生まれ変わったのだ」

日本はハングルを抹殺しようとしたか?
「多くの韓国人は、日本がハングルの使用を強制的に禁止したと考えている。しかし、それもまた事実を180度歪曲した主張だ。福沢諭吉は次のように強調した。『教育の普及が近代化の第一歩だ。朝鮮の独立と朝鮮民族の啓蒙には朝鮮語による新聞の発行が不可欠だ。井上がいなかったらハングルはなかった』
この井上とは、井上角五郎という福沢門下生の1人で、彼は福沢の意を汲んで漢字を用いた翻訳語の集大成に貢献した。朝鮮時代の書堂(寺子屋)の様子と現代式に建てられた学校の建築物を見比べた写真からも、日本が朝鮮人を大いに開化させたことが見て取れるはずだ。朝鮮時代にはごく少数の両班階級だけが窓戸紙(楮こうぞで作った紙)に筆で文を書いていた。印刷技術も普及していなかったので、教科書などはもちろんなかった。ところが日本の植民地時代には教科書が刷られ、子供たちに支給された。この教科書は朝鮮人が作ったものではなかったが、その内容はハングルで書かれており、『わたしの父』『わたしの母』『父母の恩』『他人に迷惑をかけるな』などの現代的な表現があった。ハングルと漢字混用の新聞も発刊されている。そして、次ページの図表を見れば、1911年にはゼロに近かった就学率が、1945年には64%、1948年には74.8%に急増したことが分かる。
ドイツ人旅行家のヘッセ・バルテッグは朝鮮の両班が庶民の暮らしをよくする努力を妨げていたと書いているが、日本は朝鮮人を開化させるために、訓民正音を実用に適したハングルに進化させ、それまでになかった単語を創出し、辞典まで作った。日本がハングルを抹殺しようとしたという話は、反日種族主義が捏造したデマであり、そのデマが今の教科書に載っているのだ。朝鮮総督府の統計年譜によれば、1911年から1942年までに日本が朝鮮に建てた学校数は3753校で、学生数は191万人を超えている」。


(2)【小学校・中学校・高等学校・大学などの教育の充実】百田尚樹著『今こそ、韓国に謝ろう 、そして「さらば」と言おう』より
1905年当時は「朝鮮半島には小学校と言えるものはわずかに40校しかありませんでした」
「5年後日本が大韓帝国を併合した時、真っ先に行った一つが、朝鮮全土に小学校を建てた事です」「日韓併合当時、朝鮮人の文盲率は90%を超えていたと言われています。戦前の『東亜日報』には1920年代まで、朝鮮人の文盲率は80〜99%であったという推計記事が出ています。・・・・日本政府は凄まじい国家予算を投入して小学校を建設したのです。その結果、1943年までに4271の小学校を開校したのです」「1936年には、そのせいで長年、90%以上あった文盲率は40%に下がりました」「日本が作ったのは小学校だけではありません。24の専門学校、75の中学校、75の高等女学校、133の実業高校、145の実業補習学校、1つの大学予科を作りました。36年間で建てたすべての公立学校の総数は5000校近くになります」「日本はさらに22の師範学校まで作りました。つまり教師も養成して、この教育制度を永続させようとしたのです」「驚くことに、日本は朝鮮に帝国大学まで作っています」「(京城帝国大学は1924年、台北帝国大学は1928年、大阪帝国大学は1931年、名古屋帝国大学は1939年です)」「日本と総督府はほとんど教育制度がなかった朝鮮半島に、莫大な資金と人的投資を行い、教育システムを完成させました」

池萬元氏の著書、『反日への最後通告』には、「朝鮮総督府の統計年鑑によれば、1911年から1942年までに日本が朝鮮に建てた学校数は3753校で、学生数は191万人を超えている」と書かれている。またP99に示された図表では朝鮮人の就学率について、1911年は1.7%に過ぎなかったが、1945年には64%となっている。また日本が発行したハングルの教科書や二階建の京城普通学校の写真が載せられている。そして「多くの韓国人は、日本がハングルの使用を強制的に禁止したと考えている。しかし、それもまた事実を180度歪曲した主張だ」と。

【戸籍の導入】百田尚樹著『今こそ韓国に謝ろう そして「さらば」と言おう』より
「日韓併合後、総督府は、朝鮮半島に長らく続いた身分制度を破壊しました。王族を除くすべての人を平等に扱ったのです。日本の戸籍制度を導入して、それまで人間とはみなされていなかった賎民に戸籍を与えました。これにより姓を持ち、身分差別から解放された白丁は、子供を学校へ通わせることも許されました。さらに奴婢を解放し、奴隷制度を撤廃させました。長きにわたって行われていた、幼児売買や人身売買も禁止させました」
「まず、日本が手をつけたのは朝鮮の身分制です。併合前の朝鮮は、『20世紀初頭の国家』とは思えないほどの階級社会であり、厳しい身分制度が敷かれていました」
「併合前には朝鮮人の多くが戸籍を持っていませんでした」
「数多い賎民の中でも、最も身分が下とされたのが白丁と呼ばれる人々です。白丁には戸籍などなく、従って姓もありません。・・・白丁がこれらの禁を破った場合、鞭打ちや足を折るなど、非常に残酷な刑が待っていました。時には刑罰以外に、リンチで殺害されることもありました。しかし白丁を殺した人間は何の罰も受けませんでした。白丁は人間ではないとされていたからです。このほかにも、奴婢(奴隷)という身分がありましたが、これは家畜同然で、容易に売買される存在でした。驚くべきことに、李朝末期の朝鮮には、奴隷が約3割いたとされています。今日の感覚で言えば、非人間的な身分制度とも思えますが、朝鮮半島では、これが千年以上にわたって維持されてきたのです」。

【日本統治下における身分解放・身分差別撤廃】ウイキペデイアによれば
「1909年に日本政府によって韓国総督府が設置されると、戸籍制度を導入する事で、人間とは見なされていなかった姓を持たない白丁をはじめとする賎民とされていた階層にも姓を許可し、身分差別を撤廃したとされる。また、身分解放された白丁も学校に通うことが許可された。これに対し両班はこの施策を認めず抵抗活動を繰り広げたが、日本政府はこれを断固として鎮圧した。1926年の朝鮮総督府の統計調査によると、当時の朝鮮半島でかつて白丁とされていた階層は8211世帯、3万6809人にのぼる」
「1910年に朝鮮総督府は奴隷の身分を明記していた李氏朝鮮の旧戸籍制度を廃止し、新戸籍制度を導入して奴婢制度を撤廃した。しかし、北朝鮮では政治犯強制収用所が設置され、同時に実質的な奴隷制度が再現されている。中国でも、多数の脱北女性が人身売買の対象とされて農村部や風俗店に売られている。それのみならず、子供までも人身売買の対象になっている」

【人口の1割にすぎない両班が残りの9割の同族を奴隷のように扱い搾取していた朝鮮】池萬元著『反日への最後通告』より
「朝鮮は、西暦1392年に李成桂(イソンゲ)がクーデタによって高麗を滅ぼして建てた国だ。高麗の忠臣や重臣、そして彼らと関わりのある人々はすべて奴隷と化した。世宗が1432年に制定した『奴婢従母法』によって、両班系の男性と奴隷系の女性の間に生まれた子供は生母の身分に従い奴婢(奴は男奴隷、婢は女奴隷)になるしかなかった。こうしてますます膨れ上がった奴婢層は、人間ではなく牛やロバの半分にも満たない値で取引される家畜のように扱われた。人口の1割に過ぎない特権支配階級が残りの9割の民を奴隷のように扱い、さらに、奴が婢を支配する稀有な国が李氏朝鮮だった。1910年に朝鮮半島全土で行われた戸口調査では、総世帯数289万4777戸中、両班は5万4217戸で、全体のわずか1.9%にすぎなかった。屠殺業などに携わる白丁や物づくりに携わる工人などもいたが
彼らの占める割合は微々たるものだった。・・・これに加えて第四代の世宗が『奴婢従母法』を制定し、奴婢身分の女性が生んだ両班の子どもは奴婢になると定めたため、奴婢が幾何級数的に増加した。奴婢は両班が飼う家畜のようなものであり、ロバの半値以下で取引されるいわば商品だった。奴婢は両班の慰み者であり、両班の財産目録の上位を占める奴婢を生産してくれる道具だった」
「我々一人一人のアイデンティティは何か?人口の1割しかいなかった階級の子孫か、それとも人口の9割を占める階級の子孫か? 大韓民国の族譜と戸籍を仮に全部調べてみたとしよう。なんと皆が両班の子孫だ。我々の大部分が自らを欺いて生きてきた種族ということになる。両班の子孫だからといって 奴婢より優れていることは何もない。記録によると、朝鮮の人々は、王族、両班、奴隷を問わず嘘と陰謀と野蛮という共通したDNAを持つ人種だったことがわかる。文明に感化されない人間は獣よりも危険だ」
「朝鮮が少数の両班と多数の奴婢から成る社会体制として歳月を重ねている間、王と両班たちは、奴婢は言うに及ばず、奴隷と化した9割の民を物質的に搾取し、性的に搾取することに興じていた」
「1910年に日本が李朝から受けたものは、迷信深い9割の無知蒙昧な人々と欲深く嘘つきで陰謀が得意な1割の両班、そして汚物で被われた大地と伝染病だった。日本はこんな朝鮮を接収するなり、わずか10年で漢陽を東京風に変貌させた。朝鮮人に日本の真心を信じてもらうために、日本本土で使用すべき予算を朝鮮に投入して本土の建物より立派な現代式建物を建て、工場やダムや水力発電所を建設した」
「日本による強制開花がなかったら、そして未だに朝鮮の王朝が続いていたとしたら、1910年からの109年間で朝鮮が今ほど発展していただろうか? はなはだ疑問である。しかし、日本は違った。朝鮮を無能な独裁王朝から救った。奴婢や両班の奴隷と化していた民を解放させた。科学と教育の力で開花させた。朴正煕はその礎石の上にさらに18年の功績を積み上げた。それが今日の韓国である」。

【李氏朝鮮時代の身分制度】前掲の百田尚樹著の本より、
併合前の朝鮮は、「20世紀初頭の国家」とは思えないほどの階級社会であり、厳しい身分制度が敷かれていました。
1) 王族及びその親戚である「貴族」
2) 「両班」
1)と2)が支配階層です。
3) 「中人」(チュンイン) これは官僚機構を担った専門職ですが、両班からは厳しく差別されていました。
4) 「常民」(サンミン)多くは小作農であり、実質的な人権はありませんでした。常民は「常奴」(サンノム)という蔑称で呼ばれていました。併合前の両班の特権は、凄まじいものでした。彼らは完全な支配階級であり、同時に徹底した搾取者でした。常民に対しては生殺与奪の権利を持ち、常民のものは食べ物であろうと、妻であろうと娘であろうと平気で盗りました。その収奪は有無を言わさぬものであったと伝えられています。しかし常民はそれに対して逆らうことはできませんでした。また両班は、気に入らない常民がいると、捕らえて、家の前庭でムシロ巻きにして地面に転がし、雇い人たちに棍棒で打たせました。どこの村でも、打たれた常民たちが「アイヤ!アイヤ!」(痛い!痛い!)「ヨンソへチュセヨ!」(許してください!)と泣き叫ぶ光景が日常茶飯事であったといいます。両班が常民に与える最も恐ろしい罰は「周牢」(チュリ)というものです。これは縛った両足の間に固い木の棒を差し込み、それを捻るという残虐な仕打ちです。これをやられると、激痛もさることながら、しばしば膝の関節が抜けたり、骨折したりしました。併合前の朝鮮の村々には、「周牢」のために障害者になったり、一生歩けなくなったりした人が見られたそうです。
5)「賎民」、常民の、その下に位置するのが賎民階層です。高麗王朝時代から「七賎」とも呼ばれた選民がいました(商人、船夫、獄卒、逓夫、僧侶、白丁ペクチョン、巫女)。李朝時代には賎民の種類はさらに増えていきます。
6) 「奴婢」(奴隷) 、という身分がありましたが、これは家畜同然で、容易に売買される存在でした。驚くべきことに、李朝末期の朝鮮には、奴隷が約3割いたとされています。今日の感覚で言えば、非人間的な身分制度とも思えますが、朝鮮半島では、これが千年以上にわたって維持されてきたのです。すべての奴婢は人間ではなく品物と同じでしたから、主人は勝手に売買でき、またその奴婢にどんな暴力をふるっても、あるいは殺しても何ら問題にはなりませんでした。奴婢が女性の場合、主人が犯すのも自由です。実際、併合前の朝鮮では、奴婢の女性の多くは主人の性の道具にされました。主人にもてあそばれた婢女の多くは、不幸なことに主人の妻の怒りと嫉妬を買いました。そして主人の妻に打ち据えられたり、ひどい場合には殺されることもありました。かつてアメリカでは、黒人奴隷が非人間的な扱いを受けていましたが、それと同様か、あるいはそれ以上に厳しい奴隷制度が朝鮮には存在していたのです。驚くべきことは、それらが同じ民族に対して行われていたということです。
【戸籍の導入】日韓併合後、総督府は、朝鮮半島に長らく続いた身分制度を破壊しました。王族を除くすべての人を平等に扱ったのです。日本の戸籍制度を導入して、それまで人間とはみなされていなかった賎民に戸籍を与えました。これにより姓を持ち、身分差別から解放された白丁は、子供を学校へ通わせることも許されました。さらに奴隷を解放し、奴隷制度を撤廃させました。長きにわたって行われていた、幼児売買や人身売買も禁止させました。こうして朝鮮の伝統的身分制度をほぼ壊滅させてしまったのです。朝鮮においては、日本の総督府が併合と同時に奴婢を解放しました。

(3)日本が育てた山林
【朝鮮の山々はもともと禿山だった】
「朝鮮の山々はもともと手付かずの禿山だった。そこへ日本は科学の力で経済性のある木を植え始めた。・・・そのため解放当時、韓国全土の山々には日本が植えた木がうっそうと生い茂っていた。しかし李承晩政権に変わってから、あちこちの軍の基地が作られた、『厚生事業』という名の下、師団長らが先を争って『軍の厚生』という名目で伐採に手を染めた。・・軍隊が大手を振って歩いていた時代、韓国の山は再び禿山となってしまった」(池萬元著『反日への最後通告』より)

【日本政府による植林事業、30年間で5億9000万本】
日韓併合当時、朝鮮の山々は北部のごく一部の地域を除いてほとんど木が生えていませんでした。朝鮮人には植林という考えがなく、建築や燃料のために木を伐った後はそのまま放置していたので、山々は禿山となりました。そのため山には保水力がなく、大雨になれば洪水を引き起こし、多くの土壌が流出しました。・・・総督府は朝鮮の山々に、なんと記念植樹だけで総数5億9000万本の木を植え、禿山を緑が茂る山に変えてしまいました。(明治44年(1911年)から昭和15年(1940年)までの記念植樹の本数。記念樹だけでも5億9600万本以上植樹している。『朝鮮半島の山林』20世紀前半の状況と文献目録 財団法人土井林学振興会)」(『今こそ、韓国に謝ろうそして、「さらば」と言おう』より)

池萬元著『反日への最後通告』(本書は韓国で出版された池萬元著『朝鮮と日本』(2019年、図書出版システム)を翻訳し、日本語版として刊行したものです)という本より、李氏朝鮮の時代とはどのような時代だったのか?考察の参考にしたいと思います。ここでは一部の引用となりますので、詳しくは本を読んでいただければと思います。

まずこの本の【エピローグ】では、この本の執筆について「日韓の感情的な戦争と経済戦争を1日でも早く終わらせなければならないという思いがあるからだ。2019年9月10日から書き始めてわずか40日で脱稿した。途方もない強行軍だった。それだけ本書を早く世に出したかったのだ」「また、筆者は誰が何の目的で、国民に『このような誤った認識とイメージを植え付けたのか』ということについて伝えたかった」と記しています。

【本書について】
「朝鮮は花の国、日本は悪魔の国というのは共産主義者がつくり上げた虚像だった。1392年李氏朝鮮が誕生して李氏の姓を持つ27名の王が、1910年まで518年間統治したが、外国人が描写した首都・漢陽は、不潔で伝染病が蔓延し、嘘と陰謀と収奪が横行する辺境の地だった。女性は、男性の奴隷であり、両班のために奴隷を産んでくれる生産道具であった。1割の両班が9割の同族を奴隷としてこき使い、その楽しみに耽っていたが、やがてやってきた弱肉強食の時代の趨勢から取り残されて滅亡した部族国家が即ち朝鮮だ。
こうした未開の状態の国を治めた日本は、わずか30年で日本式の建物を建て、広い道路を整備し、鉄道を作って汽車を走らせ、ダムを建設して電気を供給するとともに、各地に学校を建てて近代的な教育を施した。1504年に燕山君が葬ったハングルを科学的に開発して、朝鮮語試験を実施して合格した人々に朝鮮語手当てを支給し、1928年には10月9日をハングルの日と定め、重い鋳貨の代わりに紙幣の使用を導入した。日本の1万円札に印刷されている福沢諭吉がいなかったら韓国人が現在使用している単語もなかったし、世界と疎通できるパイプラインもなかった。日本が一番先に教えたことは嘘をつかずに両親に孝行しろという道徳教育だったが、その教育は金大中と李海瓚(イ・ヘチャン)が葬り去った。この時から子供たちは訓育されるのではなく、飼育されて来た。今日の若い世代を見ると、訓育なしに育った人間の人格が獣より危険なように感じられる。
日本が40年間朝鮮で築いた財産は総額52億ドルであり、韓国に23億ドル、北朝鮮に29億ドルあった。アメリカは奪われた国を取り戻して、日本が南韓(韓国)に置き去りにした23億ドルもの財産を差し押さえて李承晩政権に与えた。1965年に受け取った請求権資金3億ドルの実に8倍に上る。これは建国したての大韓民国の総経済規模の80%を占めた。アメリカは『敗戦に伴って引き揚げる日本人』のポケットや荷物をくまなく調べて着の身着のままの状態で帰国させた。これを足掛かりにして朴正煕が18年間築き上げたのが韓国経済だ。日本の力を借りることができなかったならば、京釜高速道路も浦項製鉄所も重化学工業も昭陽ダムもなかった。日本が素材、部品、技術、資本を供給しなければ、韓国を支えている組み立て産業は廃業せざるを得ない。本書は写真と事実資料を豊富に引用している。あくまで事実に基づいて書いた。写真と資料を見る限り、朝鮮半島の人々が知っている朝鮮よ日本は、実際の朝鮮と日本とは異なる。朝鮮半島の人々の頭に刻印されている両国のイメージとは正反対だ。
朝鮮が美しい花の国というのも嘘、日本が悪魔の国だというのも嘘、日本がハングルを葬ったというのも嘘、慰安婦に関する話も嘘、強制徴用という話も嘘、すべて嘘づくめだ。今日の韓国の大企業はほぼ例外なく日本が残していった企業を母体にして成長した企業である。日本は憎悪すべき国ではなく利を与えてくれた国であり、日米韓の三角経済構造を宿命として受け入れなければならない韓国経済にとって絶対的に必要な国だ。それでは、このような歪曲を、誰が、どのような目的でやったのか? 我が韓国民はぜひとも知るべきである」と書かれています。

歴史歪曲で組み立てられた「慰安婦判決」、日韓対立の構図、決定的に
--産経新聞オピニオン2021.1,24−−久保田るり子の朝鮮半島ウオッチ

日本政府に元慰安婦らへの賠償を命じた韓国の地裁判決が確定した。日本政府は「到底考えられない異常な事態」と強く批判し、韓国政府に「解決のための行動」を求めている。慰安婦を「人道に対する罪」と決めつけてナチスの大量虐殺と同列に扱い、国家は他国に裁かれないとの国際法の原則「主権免除」を排除する奇策を弄した韓国司法のやり方に、「反日でさえあれば無法も許すのか」との声も上がっている。文在寅大統領は18日の年頭会見で判決について「正直、困惑している」などと述べて日韓対話を求めたが、日本は一蹴した。日韓は決定的な対立構図に入った。

《ボールは韓国側に》
茂木敏充外相と菅義偉首相は当面、新任の駐日韓国大使、姜昌一氏とは面会をしない方針だ。菅首相は南官杓大使の離任あいさつも受けなかった。これは慰安婦判決がもたらした深刻さを韓国政府に伝えるシグナルだ。茂木外相は文氏の発言について、「姿勢の表明だけでは評価できない」「具体的提案を見て評価したい」と記者会見で述べ、韓国にクギを刺した。いわゆる徴用工問題や慰安婦問題は1965年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決」しており、韓国政府こそが関係改善の具体案を提示すべきだとの強いメッセージだ。ボールは韓国側に投げられた。今回の判決を受けた日韓関係の、いわば「第一ステージ」だ。
韓国側から適切な返球がなかった場合、「第2ステージ」として想定されるのは国際司法裁判所(ICJ)への提訴だ。韓国はICJ提訴を無条件に受け入れる「強制管轄権」を受諾していないため、日本が提訴しても審理は成立しない可能性が高いが、提訴は「主権免除」まで排除した判決の不当性を国際社会に広報する機会になる。
では、「第3ステージ」はどのようなものになるのか。自民党外交部会では現在、政府に対し、ICJへの提訴に加え▽駐日大使に与えられている外交官優遇のアグレマン(同意)の撤回▽日本政府の資産が差し押さえられた場合に韓国資産を凍結したり金融制裁を科したりすることの検討▽国際社会への発信強化ーなどを要求している。

《根拠なく事実認定》
今回の判決文には「主権免除」の適用除外を正当化する目的で、慰安婦に関する事実無根の主張や、検証不能な体験談が、「日本帝国」の不法行為としてふんだんに盛り込まれている。例えば、「日本帝国」が慰安婦を動員した方法は1⃣暴行、脅迫、拉致による強制的な動員2⃣地域の有力者、公務員、学校などを通しての募集3⃣「就職させてやる」「金をたくさん稼げる」などと騙しての募集4⃣募集業者への委託5⃣勤労挺身隊や供出制度を通じた動員ーだったと断定している。
しかし、日本側の行為として事実なのは「募集業者への委託」だけで、残りは民間業者一部が行ったと見られる蛮行だ。日本軍や警察はむしろ、こうした悪質な民間業者を取り締まっていた側だった。
また判決では、「日本帝国の役割」として、「慰安婦が逃走した場合、日本軍が直接追撃し、逃走した慰安婦を再び慰安所に連れ戻したり、射殺したりした」とも書かれている。しかし、その証拠や根拠は全く示されていない。まさに、1991年に慰安婦問題が日韓関係に浮上して以来、韓国側によって歪曲されてきた歴史そのものだ。
韓国ではこの判決の約6時間後、外務省が「判決を尊重する」としながら、慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決を明記した2015年の日韓合意が「両国政府の公式合意だという点を想起する」とした。矛盾する内容の論評を発表した。
実際に判決が下されるまで、韓国では対日関係の専門家の殆どが「主権免除」を理由に訴えが却下されると予想していた。それは外務省も例外ではなかったことを、この論評の困惑ぶりが物語っている。
判決は、慰安婦とはすなわち性奴隷であり、ナチスの犯罪を裁いたニュルンベルク裁判で規定された「人道に対する罪」に該当すると判断。これを裁くことは、他の条約の効果に優越する国際法上の「強行規範」にあたるため、「主権免除」は適用されない、とのロジックを展開した。
これを韓国で批判しているのが、日韓でベストセラーとなった『反日種族主義』(李栄勲編著)の研究者グループだ。その一人で、ソウルの日本大使館前で慰安婦像撤去運動を実施している歴史学者の李宇行氏は判決に対する批判文を発表した。
その中で同氏は「慰安所は性売買業という業種だった」「日本政府が犯罪行為をしたという証拠は全くない」「むしろ、日本の軍人が慰安婦を暴行すると処罰の対象になった」と指摘している。
同氏は判決の論理は、過去の2つの司法判断に基づくものだとも指摘している。一つは2011年、韓国憲法裁判所が「慰安婦問題を解決しないのは韓国政府の不作為」であり違憲だとした判決。もう一つは、韓国最高裁が18年に「徴用工の個人請求権は消滅していない」として日本企業に賠償を命じた判決だ。
ネットメディアへの寄稿で「これらを総合すると『強制・強要された慰安婦動員は不法だが、2015年の日韓合意では、その不法性が明示されず不法行為の損害賠償も行われなかった。したがって原告らは損害賠償を請求することができる』という論理だろう」と解説。「しかし、日韓合意のような外交的約束の効力は政府だけでなく立法府、司法府にも及ぶ。そうでなければ、どの政府が他国と外交協約など約束するのか」と述べている。

慰安婦は契約した公娼「左翼が日韓の和解を妨害」
ーーEPOCH TIMES JAPAN 2021.2.62021.2.6ーー

米ハーバード大学ロースクールの教授は第二次世界大戦中に慰安婦となった女性たちは性奴隷ではなく、慰安所との関係を維持するための、契約を交わした公娼だと指摘する論文を発表しました。
ジョン・マーク・ラムザイヤー教授が執筆した「太平洋戦争当時の性行為の契約」と題した論文が2020年12月学術誌「インターナショナル・レビュー・オブ・ロー・アンド・エコノミクス」のオンライン版で公開されました。
それによると、当時の慰安所は女性に対して、風俗の仕事に従事することの危険性や、風評被害を打ち消すのに十分な寛大さを持ち、なおかつ戦争中の過酷な仕事でありながらも、努力できる動機付けのための工夫を行なっていたということです。
女性たちとの交渉の中で、例えば最大1年または2年の期限付きの高額な給与の前払いや、十分な収入を得られれば早期退職できることなどが決まっていたということです。
ラムザイヤー教授はまた、日本政府や朝鮮総督府が女性に売春を強制したり、日本軍が不正募集業者に協力したわけではなく、「慰安婦」募集の過程で、悪徳な朝鮮の売春宿運営業者が不当な方法で女性を誘ったことが問題だと指摘しました。
他の研究者に査読されている今回の学術論文は同誌3月発行の65巻に掲載されます。
一方この論文内容をメディアが報じたところ、教授あてに憎悪表現に満ちたメールが殺到しているということです。韓国メディアのペンアンドマイクが報じました。
教授はこの事態に非常に驚いていると、同メディアに語りました。ペンアンドマイクによると、「強制連行」説を主張する団体が活動する韓国国内では、ラムザイヤー教授に関するネガテイブな報道が、噴出したということです。
また批判内容は“論文への具体的な批判ではなく個人攻撃が主だ”と指摘しました。
ラムザイヤー教授は2019年3月にもハーバード大学ロースクール教授陣への論考で「慰安婦と教授たち」という文書を発表し、同様の論文を書きました。
教授は記録と証拠がないにもかかわらず、「1930〜40年代に日本軍が10代の朝鮮人少女20万人を強制的に慰安所に連れて行ったというのは奇妙」としています。
また韓国政府が「慰安婦は売春」と主張した大学教授を名誉毀損で起訴し、6ヶ月の懲役刑が下った例をあげて、歴史問題の政治利用を批判しました。
論文は“多くの売春婦は親によって売られていた可能性もある。一方一部の女性は軍人と恋愛もしている”と論じました。
教授は恋愛と歪曲について、元慰安婦女性の証言が、のちに変化していることも指摘しています。
その一例として、1991年慰安婦の事案を最初に公にしたとされる李容洙(イ・ヨンス)さんは、戦時中の出来事について“真夜中に友人と一緒に家を出て赤いドレスと革靴をプレゼントしてくれた日本人男性のところへ行った”と話していました。その後李さんは2002年“銃剣で連れていかれた”と連行をほのめかしました。
別の慰安婦を自称する金額順(キム・ハクスン)さんについては、“彼女は養父母に売られ満州慰安所に行くことになった。しかし後に日本人によって拉致されたと主張した”ということです。
教授は“韓国における少女の強制連行の主張には、極左団体が背景にある”と指摘しています。
教授は“強烈な左翼団体が、高齢の元慰安婦たちの介護施設を運営し面会できる人を管理している”とし、異論を申し立てる人を誰でも誹謗中傷していると、見ています。
市民団体の正義記憶連帯(旧称、韓国挺身隊問題対策協議会)を挙げ、反日感情を助長するために、歴史を操作していると主張しました。
加えて親北朝鮮団体による歴史捏造と解釈できると教授はみなしています。
韓国の慰安婦関連団体の動きを分析し、“日本と韓国の和解を妨害することで、北朝鮮の主要な政治目標を促進することに重点を置いている”としました。
正義記憶連帯は2020年5月以降、慰安婦女性支援と称して寄付金を不正流用したなどの疑惑が報じられています。

「朝鮮総督口ひげ」攻撃されたハリス氏、「韓国の人種差別に驚いた」
ー中央日報、2021年2月8日ー

ハリー・ハリス前駐韓米国大使が在任中に韓日葛藤に関連した人身攻撃を受けたことに対して「人種差別に驚いた」と話した。英国フィナンシャル・タイムズが5日(現地時間)に報じたハリス氏の退任前の最後のインタビューでだ。
ハリス氏は「韓日間の歴史的葛藤が深まったとき、個人的にそれほど多くの攻撃を受けるとは思わなかった」とし「一種の人種差別racial baiting に対しては驚いた」と話した。ハリス氏は日本人の母親と在日米兵の父親を持ち、日本で生まれた。
フイナンシャル・タイムズは「ハリス氏は日系だったために一部の韓国メディアのターゲットになり、在任当時トランプ前大統領の韓国への対し方のせいでハリス氏に向かった怒りもさらに大きくなった」と伝えた。ハリス氏は2019年7月中央日報のインタビューでも「韓国で、私の民族的背景のために批判を受けたりもする」とし「韓国のような進歩的な国で驚くべきことだ」と語っている。
ハリス氏の在任中は韓日関係は悪化の一途をたどり、トランプ政府が防衛費分担金引き上げ圧迫など、同盟に対して無理な要求を押し付けたために、このような本国の立場を代弁する駐韓大使として袋叩きに合わざるを得なかったという分析もある。
ハリス氏の口ひげまで批判の材料になるほど、度を越した指摘につながることもあった。日帝強占当時の総督を連想させるとのことだった。ある市民団体はハリス氏の写真で口ひげを剥がすパフォーマンスを行い、与党「共に民主党」の宋永吉(ソ・ヨンギル)議員は「大使は朝鮮総督か」と話した。
CNNは昨年1月、「ハリス氏の口ひげが日帝強占期に対する韓国人の敏感な感情に触れた」とし「韓米同盟の亀裂とも関連がある」と分析した。ハリス氏は口ひげが議論になると「軍人と外交官人生を区分するためにひげを伸ばした」と説明したが、世論を意識したように昨年7月「マスクをしていると暑い」と言って口ひげを剃った。

「日本海」の単独呼称継続
韓国「東海」併記主張も国際機関が暫定承認ー産経11月17日20時50分配信

日本海の呼称をめぐり韓国が「東海」への改称や併記を主張している問題で、国際水路機関(IHO)の総会は17日、従来通り「日本海」との単独呼称を維持するとした事務局長案を暫定承認した。茂木敏充外相は記者会見で「きちんと我が国の主張が通っている」と歓迎した。月内に最終確定される見通しで、加藤官房長官は記者会見で「正式に採択されることを期待している」と語った。・・・・
IHOが作った海図の指針「大洋と海の境界」は1928年の初版から「日本海」を単独表記してきた。指針について16日から始まった総会でIHOは「引き続き公に利用可能なものとする」との決議案を提案し、各国の総意を得た。

各国に蔓延する歴史の歪曲を許さない!

ー「ソウルの中心で真実を叫ぶ」(李宇行、扶桑社)よりー
(1)私が毎週水曜日に「一人デモ」で辻立ちする理由
・私は殴られてもデモをやめない
このデモを始めたときから、暴力は想定していた。それだけ韓国社会の反日種族主義は根深く、強力であるからだ。とはいえ、金の亡者である「ソウルの声」のようなユーチューバーらからまで、ストーカーのように追い回されるとは思ってもいなかった。何にせよ、この程度の暴力でデモをやめるなら、最初から始めはしなかった。今までに起きた暴行よりはるかに深刻な事態が起きたとしても、私たちはデモを続けるだろう。もちろん、そのようなことが頻繁に続く場合、怖くなって参加者が減るのではないかという心配はあるが。
私がデモを通じて韓国社会に訴えたいことの核心を、もう一度確認しておこう。慰安婦は、日本の官憲に連れていかれた10代前半の少女ではなく、義理の父など知人による人身売買や就職詐欺の犠牲になった二十代半ばの女性であった。自由がなかったわけではなく、借金を返済したり契約期間が終了したりすれば、朝鮮に戻れたのである。よって、彼女たちは性奴隷ではなく、売春業の出稼ぎだったと言える。特別な点は、売春の場所が戦場であり危険性が高かったので、それだけ給料も高かったということである。またこのことを韓国人が本当に理解し、反日種族主義のくびきから真の意味で逃れるその日まで、私たちの闘いに終わりはない。

ー「ソウルの中心で真実を叫ぶ」(李宇行)よりー
(2)「偶像崇拝」される「慰安婦像」を撤去せよ!
・そこで私たちは何を主張しているのか
私たちがデモで一貫して訴えているのは、旧日本大使館前の慰安婦像は歴史を歪曲しているのであるから撤去すべきである、そして、その像を利用して行っている水曜集会を中止しなくてはならない、という主張である。水曜集会に参加する人々にとって、慰安婦像は「性奴隷」を象徴している。彼らは、十代前半の少女が日本の官憲に拉致され、性的に酷使・搾取されたと言っている。しかし、慰安婦の平均年齢は二十代半ばであった。彼女たちは義父など周りの人に騙されたり、人身売買の対象になったりして慰安婦にされたのである。さらに、彼女たちは高い給料をもらっていたし、約束した条件さえ満たせば帰国することもできた。それゆえ彼女たちを性奴隷と見なすことはできない。
ウイーン条約に基づき、韓国政府は外国公館を保護する義務がある。この条約では外国公館の半径100メートル以内における集会を禁止している。だが正義連は「文化祭」の名を借りて、1992年1月8日から現在に至るまで水曜集会を続けている。水曜集会は慰安婦像を通じて歴史の歪曲を全国民に広め、そうした国民情緒に力を得て勢力を拡大してきた。その結果はどうだろう。韓日関係が悪化しただけである。したがって、水曜集会は中止されなくてはならない、それが韓国にとって国益になる。私たちの一人デモは、それを国民に知らしめるためのものである。


ー「ソウルの中心で真実を叫ぶ」(李宇行)よりー
(3)「強制連行」「強制労働」はなかったー朝鮮人労務者の研究
第三は、1939〜1945年、日本に動員された朝鮮人労務者の賃金と生活に関する研究である。これは第二の賃金に関する研究がきっかけとなった。ここでの重要な論点は、韓国における通説でもあり常識ともなった「強制連行」「強制労働」論が、歴史的な証拠によって証明されるかどうかという点である。賃金や生活において、朝鮮人が制度的に日本人とは違う差別待遇を受けたのか、という問題も重要である。
私の結論は「NO」である。朝鮮人は当時も、奴隷の如く連行され奴隷のように労働を行うほど、簡単に諦めて従ったりはしなかった。強制連行があったなら全国的に民族的な抵抗があったであろうし、日本で奴隷のように働かされたなら日本全域で蜂起したであろう。しかし、そのようなことは起きなかった。そもそも朝鮮人強制連行や強制労働などなかったからである。

・韓国人が歴史認識に疑問を持つ機会を与えたい。
朝鮮人の戦時労働を研究しはじめたのは、単に前から賃金に関する研究をしていたので、その分野において優位な立場にいたからである。しかし、研究を重ねていくうちに「強制連行」「強制労働」論が虚構であることが分かった。これが経済史研究者、歴史研究者としての私の責任意識をかきたてた。その虚構性を明らかにするとともに、反日種族主義を清算し、韓国人がみずから歴史認識を考え直す貴重なチャンスを提供できるという自負心が、研究の原動力になっている。
反日種族主義は歴史を歪曲した結果であり、それと同時に歴史歪曲をもたらす。戦時動員された朝鮮人の労働と生活の客観的、歴史的なイメージを修正し、新しい歴史像を構築することで、反日種族主義の重要な主張の一つである戦時労働の「強制連行」=「奴隷狩り」と「強制労働」=「奴隷労働」論を根絶したい。反日種族主義の強力な根を除去し、それと同時に、韓国人が持つ歴史認識に疑問を投げかける機会にしたい。きっかけを与えられれば、韓国人は歴史認識全般にわたって新たな問題意識を持ち、新しく学習を始めるであろう。

ー「ソウルの中心で真実を叫ぶ」(李宇行)よりー
(4)慰安婦像撤去と水曜集会中断を求める声明
慰安婦像は歴史を歪曲して韓日関係を悪化させます。慰安婦像は「強制的に連れて行かれた少女」という歪曲されたイメージを作って国民にこれを注入・伝搬しています。
しかし実際の慰安婦は10代初めの少女ではなく、平均的に20代半ばの成人でした。そしてほとんどの就職詐欺や人身売買を通じて慰安婦になりました。彼女らを慰安婦にした主役は日本官憲でなく、親戚と近しい朝鮮人知人たちでした。
水曜集会に参加した幼い小学生の少女がマイクをとって「私のような年齢の少女が日本によって連れていかれた」と話すのは慰安婦像がどれくらい我が国民、特に精神的、身体的、情操的に未成熟な幼い生徒たちにまで深刻に歪曲されたイメージを植え付けるのか見せつける証拠です。
慰安婦像は絵画や映画などの二次創作物と結合し、歪曲された情緒と歴史認識を爆発的に伝染させています。慰安婦が日本官憲によって強制的に戦場に連れて行かれた存在というイメージを形成して、特定の政治集団の不純な政治メッセージを宣伝することに悪用されています。
慰安婦像は韓国人が崇拝する偶像になってしまいました。数多くの公共の場所に展示され、無差別な大衆に無理に情緒的共感を強要します。冬ならマフラーと手袋をさせ厚いショールをかけるのも、このような情緒的強要の一環です。さらに慰安婦像をバスに乗せて市内を運行しました。
知的に情操的に成熟した大人たちが、自分の両親にもしない丁寧なお辞儀を慰安婦像に捧げます。大韓民国は朝鮮時代よりさらに後退した、偶像崇拝の神政国家へと後退しています。慰安婦像はそのような退行の最も鮮明な象徴です。
旧日本大使館の前に建てられている慰安婦像は不法造形物です。2011年設置当時に挺対協は管轄区庁の許可を得ないで自分勝手に像を設置しました。政府は反日種族主義に便乗したり、それを助長したりする大衆追従的で人気迎合的な態度でこの像の設置を追認しています。
市民団体らと大学生が2016年に釜山の日本総領事館の前に奇襲的に設置した慰安婦像も同じことです。これらの像は「外交関係に関するウイーン条約」22条に規定された「公館の安寧の妨害または、公館の威厳の侵害」に該当する設置物です。
1992年から30年近く開かれている水曜集会も、歴史を歪曲して韓日関係を悪化させます。この集会は像を崇拝する霊媒師の厄払いであり、歴史を歪曲する政治集会です。全教祖所属などの一部教師たちは「現場学習」という美名のもと、父兄の無関心を利用して純真な生徒たちを歪曲された政治・歴史意識を注入する集会に導いています。中高生だけでなく低学年の小学生の子供さえ動員対象です。
水曜集会は事実上、不法集会です。「外交関係に関するウイーン条約」により外交公館から100メートルの地域のデモは禁止されます。しかし水曜集会は記者会見の形式で毎週開催されています。あらゆる口実を動員して韓日関係を悪化させて大韓民国の安保と国際的地位を墜落・傷つけるのがその本当の意図でないのかと疑うほかありません。
慰安婦像は撤去されなければならず、水曜集会は中断されるべきです。私たちは私たちの正当な要求が実現されるその日まで退かないで戦います。

2019年12月4日
慰安婦と労務動員労働者銅像設置に反対する会
反日民族主義に反対する会
韓国近現代史研究会
国史教科書研究所

(5)歴史歪曲に基づく「徴用工」判決は誤審である
2019年7月2日、ジュネーブで開かれた国連人権委員会に出席して提出した「第二次世界大戦末期、日本へ動員された朝鮮人労働者に関する意見書」(李宇行)

1、日本への朝鮮人労務動員は「強制連行」や「奴隷狩り」ではなく、自発的意思または徴用という法律的手続きによるものであった。

 朝鮮人の労務動員は1939年9月に制定された国家総動員法に基づき、日本本土で徴用が実施されるとともに始まった。その後、1945年3〜4月までに約72万5000人の朝鮮人が、戦時労働力の需要を満たすため日本へ移った。韓国と日本の一部の研究者、ジャーナリストらは、朝鮮人が日本人官憲によって「強制連行」され、日本に連れて行かれたと主張している。朝鮮人を対象に「奴隷狩り」をしたという主張すらある。これは事実ではない。日本本土と異なり、朝鮮では「募集」という形で朝鮮人の動員が始まった。労働力が不足していた日本本土の企業は、従業員を朝鮮に直接派遣して応募者を選抜した。「募集」による朝鮮人動員は1942年2月ごろまで行われ、13万人くらいがこうした経路で日本に行ったものと推定される。特に1939年と1940年には朝鮮南部に大きな飢饉が起きて、多くの青年が日本行に志願した。その結果、志願者数が募集人員を大幅に超える企業が非常に多かった。1942年3月から1944年9月までは「官斡旋」という形で朝鮮人が動員された。これは日本本土の企業に、より適切な労働者を選抜するため、朝鮮総督府が民間の職業紹介所のような役割を担う動員方式であった。これを通じて約35万人ほどが日本に移動した。「募集」と「官斡旋」による朝鮮人の移動は、本質的に本人の自発的意思によって行われた。日本の企業や官憲には、日本行を拒否する朝鮮人に対してこれを強制できる法律的な手段がなかった。法律的な強制力を伴う労務動員は、日本本土より5年1か月遅い1944年10月以降、徴用令が朝鮮にも敵用されることになって初めて開始された。徴用に応じなければ「100円以下の罰金または1年以上の懲役」に処された。「徴用」は徴用令状の発付、受領、決まった時間と場所に出頭するという手順で執行された。ここでもあくまでも任意であり、暴力的な「強制連行」はなかった。アメリカ空軍が韓日海峡の制空権を掌握した1945年3〜4月頃になると、朝鮮人を日本本土に輸送することができなくなり、徴用は事実上終了した。労務動員が実施された約65か月のうち徴用が行われたのは6か月間であり、これによって日本に動員された朝鮮人は20万人と推定される。
戦時労務動員と関係なく、1939年から1945年までに約170万人の朝鮮人が、日本の高賃金を求めて渡航した。合法的な渡航が不可能な場合、朝鮮人は大金を払って小さな船を利用して、命がけで密航を試みた。このような状況で朝鮮人を「強制連行」して日本に連れて行く理由はなかった。また、そのような試みがあったならば朝鮮人は強く抵抗しただろう。「強制連行」や「奴隷狩り」による労務動員はあり得ないことであり、実際に存在しなかった。

2、朝鮮人の労働は民族的差別を受けた「強制労働」や「奴隷労働」ではなく、通常の労働または日本人と同じ条件で行われた戦時労働であった。

日本に動員された朝鮮人のうち、46%が炭鉱で働いていた。金属鉱山を含めると、鉱山が54%を占めている。13%は土木建築業、33%は工場などでの労働であった。日本に動員された朝鮮人は、ほとんどが農家の出身であった。したがって、炭鉱の地下労働は朝鮮人にとって非常に苦しく、つらいことであった。朝鮮人の炭鉱労働を中心に見てみよう。
@朝鮮人と日本人は同一の環境で労働した。
A賃金は正常に支払われた。
B賃金など処遇において民族差別はなかった。
要約すると、日本にとっての朝鮮人労務動員は「強制連行」や「奴隷狩り」ではなく、自発的意思や徴用という法律的手続きにより行われた。労働環境、賃金と処遇、日常生活を考慮すると、朝鮮人は民族的差別の中で「強制労働」や「奴隷労働」で苦痛を受けたのではなく、通常の労働または戦時動員体制の下で日本人と同じ労働を行なった。国連人権理事会は韓国政府に対し、日本統治時代の朝鮮人労務動員と関連して、これらの歴史的事実に注目すべきだと勧告するよう願っている。

3、歴史的虚構に基づく韓国大法院判決

日本はハングルを抹殺しようとしたか?(池萬元)「反日への最後通告」(ハート出版)p88,p89

多くの韓国人は、日本がハングルの使用を強制的に禁止したと考えている。しかし、それもまた事実を180度歪曲した主張だ。福沢諭吉は次のように強調した。「教育の普及が近代化の第一歩だ。朝鮮の独立と朝鮮民族の啓蒙には朝鮮語による新聞の発行が不可欠だ。井上がいなかったらハングルはなかった」。この井上とは、井上角五郎おいう福沢の門下生の一人で、彼は福沢の意をくんで漢字を用いた翻訳後の集大成に貢献した。朝鮮時代の書堂(寺子屋)の様子と現代式に建てられた学校の建築物を見比べた写真からも、日本が朝鮮人を大いに開花させたことが見て取れるはずだ。
朝鮮時代にはごく少数の両班階級だけが窓戸紙(楮こうぞで作った)に筆で文を書いていた。印刷技術も普及していなかったので、教科書などはもちろんなかった。ところが日本の植民地時代には教科書が刷られ、子供達に支給された。この教科書は朝鮮人が作ったものではなかったが、その内容はハングルで書かれており、「わたしの父」「わたしの母」「父母の恩」「他人に迷惑をかけるな」などの現代的な表現があった。ハングルと漢字混用の新聞も発刊されている。そして、次ページ下の図表を見れば、1911年にはゼロに近かった就学率が、1945年には64%、1948年には74.8%に急増したことが分かる。
ドイツ人旅行家のヘッセ・バルチックは、朝鮮の両班が庶民の暮らしをよくする努力を妨げていたと書いているが、日本は朝鮮人を開花させるために、「訓民正音」を実用に適したハングルに進化させ、それまでになかった単語を創出し、辞典まで作った。日本がハングルを抹殺しようとしたという話は、反日種族主義が捏造したデマであり、そのデマが今の教科書に載っているのだ。朝鮮総督府の統計年譜によれば、1911年から1942年までに日本が朝鮮に建てた学校数は3753校で学生数は191万人を超えている。

朝鮮語の単語を作ったのは誰か?池萬元「半日への最後通告」p89〜

1443年の世宗時代に作られた「訓民正音」(ハングル創製当時の名称)は現在の「ハングル」とあまりにも違いすぎている。左上の写真は世宗が作ったという「訓民正音」だ。この文字を見れば、現在のハングルとかなり異なっていることが分かる。どのようなプロセスを経て、「訓民正音」の字が現在のハングルに進化したのかについて説明した資料はあまりない。いくつかの説があるだけで、科学的説明はない。
1446年に世宗が頒布した「訓民正音」 は現在のハングルに生まれ変わるまで文字としての機能を発揮できないまま放置されていた。10月9日を「ハングルの日」と定めたのは1928年だ。日帝がハングルを使えないように弾圧したという左翼の主張が偽りだということが、ここでもあらわになる。この時期の朝鮮の学者たちは、なぜ朝鮮語の文字を「訓民正音」と呼ばずに、「ハングル」と呼んだのだろうか?我々が現在使っている「経済」、「文化」、「民主主義」といった単語は誰が作った単語なのか?世宗はこのような文字や単語は作り出してはいない。
そして「諺文オンムン(ハングルの前身)」を弾圧した中心は朝鮮の歴代の王達だった。燕山君ヨンサンクン年間の10年(1504年)7月20日付けで記録された王朝実録の一部にこのような文章がある。

【「諺文」で書かれた投書が多いので、諺文は教えることもやめ、習うこともやめて、すでに習ったものは使わぬようにし、諺文を使う者をすべて摘発して告発せよ、知っていても告発しない者はその隣人まで罰を与えよ】

朝鮮の王たちが弾圧したハングルを日本が蘇らせ広めたのだ。
1921年3月12日付、および1922年7月12日付の『東亜日報』の「朝鮮語奨励手当」についての記事には、朝鮮語の試験を実施して、合格者に対して奨励手当を支給せよと書かれている。朝鮮第10代の燕山君は1504年に世宗大王(1418〜1450)が作った「訓民正音」を「諺文」だと蔑み、「諺文」そのものを抹殺してしまった。その抹殺された「諺文」を日本が「朝鮮語」として現代化させ、奨励手当まで与えて広く普及させたのだ。そして1928年には今でも続いている「ハングルの日」(10月9日)まで定めてくれた。この記事は、日本が朝鮮の精神を抹殺するために、朝鮮語の使用を徹底的に禁止したというこれまでの学校教育が、どれほど事実を歪曲したものなのかをまざまざと証明している。
それでは現在我々が使っているこの単語は誰が作ったのか?驚いてはならない。日本が作ってくれたのだ。1835年生まれの福沢諭吉が作ってくれた。この事実は誰も否定できないだろう。

(8)朝鮮経済の基礎を築いた渋沢栄一(池萬元)
日本は朝鮮に教育・文化の面だけでなく、経済の面でも基礎を築いてくれた。その立役者は、福沢諭吉と双璧をなした渋沢栄一(1840〜1931)だ。渋沢は日本独自の資本主義文化を創り出した人物だ。当時ヨーロッパとアメリカの経営哲学は、ひたすら損得勘定だった。
しかし、渋沢は「片手に論語、片手に算盤を持て」と教えた。ここでいう「論語」は孔子の説いた道徳を指している。同じ孔子から学んだ「道徳」を日本は「実用」の面で生かしたが、一方、朝鮮は儒教の「観念論」に固執した。日本が孔子から学んだのは「利益ではなく改善を追求せよ、利益は改善から生まれる」ということだ。彼は「経営人は精神的貴族たらんとすべし、利益は自然とついてくる」と説いた。1920年代の松下幸之助を始めとする日本屈指の実業家たちがこれに従い、日本企業の文化となった。顧客を満足させるためなら、投資を惜しまなかった。このことを信じられないという読者は、第6章「日本は学ぶことの多い国」を精読されたい。そして、渋沢の経営哲学を受け継いだ人々の中でも有名なのは1894年に生まれた松下幸之助だ。
渋沢栄一は西欧の手に渡っていた朝鮮鉄道敷設権を買い取り、京釜鉄道、京仁鉄道、中央線などの敷設という、世紀の大事業を達成した。朝鮮に「第一銀行」を創設し、1902年から1904年にかけて、重い葉銭(李朝時代の銅銭である常平通宝の通称)の代わりに紙幣を印刷して流通させた。「第一銀行」発行の一円札、五円札、十円札には渋沢栄一の肖像が刷られていた。
京釜鉄道株式会社は、日韓併合前の1901年6月に設立された。日本は36年間、朝鮮を統治したとされているが、実際には少なくとも45年の間、朝鮮を開花させ続けていたのだ。そして、朝鮮の地に築いた52億ドルの固定資産をそのまま残して手ぶらで帰っていった。その資産は、朴正煕の近代化事業の礎となった。
・・・結果的に、日本は朝鮮に、1学問と文化の基礎をきずき、2経済の基礎を築き、3朝鮮としては思いもよらなかった52億ドルの固定資産と大企業を残してくれた国なのだ。朝鮮が抑圧されたとされているが、実際には、そのほとんどが捏造だ。朝鮮人が日本を批判する根拠には具体性が欠けていて、ただ漠然と「あくどいチョッパリ(日本人に対する侮蔑語)」と言っているだけだ。

李承晩TV「日本軍慰安婦問題の真実」、朝鮮戦争と韓国軍慰安婦
ー李栄薫(李承晩学堂の校長)ー

歴史に嘘をつくことはできない。李栄薫『反日種族主義』より。

反日種族主義を打破しよう!シリーズを始めるにあたって
ー李栄薫(イ・ヨンフン)李承晩学堂の校長、ソウル大学名誉教授ー

今日我が国は政治、経済、社会全ての面において危機に処しています。いつ可視化するかもしれない潜在的危機状態だと言えます。1998年、外換支給不能という国家不渡り事態に直面し、全国家経済が深刻な危機を経験しました。そして再び、それと類似した破局が襲ってくるかもしれないという、危機感が韓国人すべてを憂鬱な気持ちにさせています。韓国経済は活気を失って久しくなっています。企業の投資が萎縮しています。零細自営業の没落が深刻です。青年の失業はさらに深刻な状況です。政府はこれらすべての結果を十分に予測できる、悪性の分配指向一辺倒の政策に固執しています。
政治はさらに暗鬱です。我々大韓民国の自由市民は2年前、大統領の弾劾というとてつもない、政治的災いを経験しました。そのことを振り返ってみれば、今も精神が昏迷します。大統領がどんな大きな過ちを犯したのか、果たして賄賂を受け取ったのか、確かでないだけでなく、もし、たとえそうだとしてもそれが、国家元首を弾劾する理由になるのかも納得しかねます。弾劾に成功した勢力は、彼らが政治的に勝利したと信じています。これで充分だ、正当だと叫んでいます。弾劾が判決された日、国民の半分は祝杯を挙げましたが、後の半分は悲痛の涙を流しました。国民の心はズタズタに引き裂かれました。このことはこれから何年にも続く、とてつもない政治的葛藤とそれに伴う破局を予言しています。
新しい執権勢力文在寅政府は、北朝鮮の3代世襲王政に対して、宥和政策をとることにより、北朝鮮の核の脅威を解消し、さらに民族の統一を成就できるものと信じています。“我々民族同士”というスローガンが、理念と体制の差から生じる葛藤と対立を封鎖できると楽観しています。それは徹底して迷信であり幻想です。彼らは大韓民国の建国に抵抗または、批判する政治勢力の系譜を引く人々です。彼らは1980年代までを見ても、韓国の民主主義と自立的国家経済の成立を悲観し暴力的な民衆・民族革命を追求してきた勢力です。彼らはこの国が先進経済の仲間入りをなし、社会主義国家体制が失敗すると、その革命路線を平和統一のスローガンに偽装し、その政治的影響力を養っていきました。ついに執権を執ることに成功した彼らは、長年の夢を実現しようと急いでいます。その結果、この国の将来にどのような災害が降りかかるかとても心配です。
私は歴史家として、長い歴史の観点から、この国の昨今の危機状況を眺望してみます。この状況は決して見慣れない、新しい現象ではありません。昔からずっとあったことだし、今ついに我々を脅かすほどに可視化したというだけのことです。危機の根本原因は他でもない自由と独立の精神、その理念の欠如にあります。自由とはなんでしょうか?みなさんは自由についてどれほど考えたでしょうか?大多数の韓国人が習ったことも、考えたことも、実践したこともない自由です。自由と独立とは他の干渉や圧迫を受けない状態を言うのではありません。言いたい放題に言論し、書きたい放題出版し、集まりたいだけ集会し、信じたいように信仰するからといって、自由人になれるのではありません。それは法で規制された自由の形式であり要件に過ぎません。自由と独立の真の精神は勤労し、貯蓄をし、交換し、競争し、解放し、通商することです。自由と独立とは結局は文化です。小さな村に閉じ籠ったり、大きかろうが小さかろうが、国境に閉ざされていては、外の世界を知ることができず、たのちほう、他の民族、他の国を排斥し、敵対する人間であっては真の自由人とは言えません。自由とは本来、世界に向かう冒険であり、世界を舞台にした通商、世界と競争をする学問そして科学です。このような自由の思想を、自由の精神を初めに気づき、自由の旗を高々と揚げた人が、我ら建国の大統領李承晩でした。1904年、漢城監獄で青年李承晩が「独立精神」という本を著述し、同胞に伝えた自由と独立の精神が、今少し前に紹介した内容のものです。この朝鮮がどうしてこんなに、嘆きもがくほどにまで陥ってしまったのか?自由と独立の精神というものを知らなかったからだ。数百年間門戸を閉ざし、自分だけが一番だと思い、井戸の中の蛙のように、広い世の中を知らずにいたためである。そんなに守旧、古式でいるなか、学問が行き詰まり、知識が退化し、市場が萎縮し、生産が後退し、道徳が堕落し、嘘が蔓延し、ついにお互い食うか食われるかの阿修羅の世になってしまいました。青年李承晩がいち早く解き明かしたその自由と独立の精神を、今も大多数の韓国人は知らずにいるか、または敵対しています。それで危機は潜伏した状態でずっと潜んでいたわけです。
崔南善先生が嘆きました。この民族は滅びるのにも失敗したと。この言葉の意味は何でしょうか?1910年大韓帝国が日本帝国に併合されてしまいました。王と民が力を合わせて一致団結して、最後の瞬間まで激烈に抵抗し、ついに力尽きて倒れてしまったのではありません。衝撃が加わると王室は王室なりに、両班は両班なりに、庶民は庶民なりに、散らばってしまいました。それで崔南善先生が滅びるのにも失敗したと言ったのです。自分の力で滅びたわけでもないので・・。ひたすら強暴な外敵が攻め込んできて、我々の美しい社会と文化を破壊したんだ、というだけです。崔南善先生の言葉を借りれば、この民族は国を建てるのにも失敗しました。どういう国が建てられたのか、未だにわからずにいるからです。民族が分かれてしまったので、この大韓民国が誤って建てられた国だと言います。国史学の主流がいわゆる分断体制の歴史学と言う名のもとに、我々の建国史をこのように教えて一世代になります。民族統一が最優先だ、民族は永遠である。資本主義だの共産主義だのという理念は一時的に押し寄せる波に過ぎない。そんな饒舌でこの国の建国を呪った政治家を高く評価しています。誰か、名前を挙げなくても皆分かっていることと思います。共産主義は我々の行く道ではない、もしそうしたなら、二度と抜け出すことはできない、どん底に落ちてしまう。南韓だけでもまず健康を保全し、その後北朝鮮から共産主義を追い出すのだと、主張した建国大統領李承晩は、今もなお、あらゆる悪口と陰湿な攻撃の対象になっています。自由と独立を理解できないままきた大韓民国に、精神史は今なお朝鮮時代にとどまっています。それで崔南善先生が言うように、滅びるに於いても失敗した。その危機的状態に再び陥らないという保証がどこにもないというのです。一国の政治と知性が自国の建国史を否定し、批判しようものなら、その国はすでに滅びたも同然です。それで危機は、すでにだいぶ以前から発生しており、成熟してきたと言えます。
いろいろな国の歴史を学んでみると、野蛮と文明を区分することが容易ではありません。文明時代の象徴として国家が成立したとは言いますが、野蛮の上部つまり部族社会の特質を依然として共有します。歴史のある段階で文明の水準が急上昇し、その部族社会の特質から完全に解放されます。人間社会が部族的象徴から脱皮し科学と合理の理性の世界に進出します。そのような文明史的経験をなした国が、今日でいう先進国です。宗教改革以降の西ヨーロッパです。幕藩体制下の近世日本もそうです。しかしながら、私は韓国史においてこのような文明史的高揚、野蛮の上部からの最後の脱出、そんな経験が無い、もしくは不完全だったと考えます。それによって精神文化の遅滞が、過ぎし20世紀の韓国史を貫通しました。20世紀に展開された近代化の歴史は、大多数の韓国人には無賃乗車の歴史でした。国が滅びるにおいても、自力で滅びたのではなく、国を建てるにおいても、自らの力で建てたのではなかったためです。近代文明の法、制度、機構は日帝の支配とともにこの地に移植されました。そういう歴史であるにもかかわらず、この国が過ぎし70年の間に、偉大な成就を遂げることができたのは、李承晩と朴正煕大統領に続く創造的少数、そして彼らの権威主義の政治が国を正しく建て、正しく礎を築いたからであります。つまり、自由と独立の精神で国を建て経営したのです。そうであるにもかかわらず、韓国人が歴史の中から受け継いだ、歪んで遅れた精神史には、大きな進展がありませんでした。
結論に入りましょう。昨今の我々を憂鬱にし、我々を恐れに駆り立てている危機の根元には歴史とともに久しく、野蛮の上部に根をおく種族主義がはびこっています。種族主義は近代科学の合理的な精神世界とは、かなり距離があります。種族主義の精神はシャーマニズムとトーテミズムにパターンを置いています。種族主義の社会は迷信と嘘で成り立っています。何が真実であり何が偽りであるのか区別できません。それで種族主義の政治は嘘で固まった扇動です。種族主義の外交は敵対種族の存在を前提とする呪いと境界の連続です。私は今日の韓国の民族主義は、以上のような種族主義の特質を強く有していると考えます。人間は感情の動物です。どの国であれ民族主義や国家主義から完全に自由にはなれません。民族の神話を創り出し象徴を操作します。そのようにして、前近代の地方民を近代の国民に統合したのが民族主義の役割です。神話と象徴の操作が度を過ぎ、民族主義は他民族を侵略する帝国主義の論理になりました。そのような歴史的経験を経た後、今日のアメリカ、西ヨーロッパ、日本のような先進国では、民族主義は昔話になってしまいました。日本のような先進国では、民族主義は昔話になってしまいました。しかし、民族主義は歴史的に前近代の身分制度や王政を否定し、民主主義と共和主義を高揚する肯定的な役割を実行しました。残念ながら韓国の民族主義は、このように付与された歴史的責務を実行できませんでした。国民を統合するより分裂させました。国家の正当性を高揚させるより、それを格下げすることに没頭しました。韓国の民族主義は先進国の民族主義が行った国家と国民の健全な統合という、最小限の役割を全うできませんでした。それは韓国民族主義の基礎をなす種族主義の特質のためでした。韓国の種族主義はその国際感覚において不均衡です。日本に対しては無限に敵対的である反面、中国に対しては理解できないほど寛大です。中国政府が中国に進出した韓国企業に対し、誰の目から見ても不当な措置を露骨に強行していても、憤ることを知りません。中国の最高指導者が韓国はもともと中国の一部だったと発言しても平気です。後進中国です。その後進中国をまるで世界をリードする強大国であるかのように錯覚し、待遇しているのです。500年間中国を父の国と敬ってきた朝鮮王朝が残した文化的遺伝子かもしれません。それで韓国の種族主義の特質は反日種族主義と親中事大主義で成り立っていると思います。李承晩TVはこれから、反日種族主義を告発し批判しようと思います。我々韓国人が知っている日本支配期の歴史家、それに対し限りなく憤る感情が、どれほど非科学的であるか、実際の事実とかけ離れたものか、我々文化に、精神史に潜伏しているシャーマニズムとトーテミズムに根拠を置いているか、くまなく解剖し批判して行きます。目下、司法部の波紋を呼んでいる話にならない日本の朝鮮人労務者動員問題を取り上げます。たくさんの青年が日本軍に支援入隊した、その時代の実像をあるがままに伝達します。日帝が食料と土地の無制限収奪をしたという歴史学の通説が、どれほど不合理な事であるかを暴露していきます。過去26年間、日本との外交を跛行に導いた日本軍慰安婦問題が実は当時の公娼制度とどれほど密接な関連を持っていたかを隠すことなく指摘します。竹島が果たして、朝鮮王朝の領土だったのか、客観的証拠が有るのか、果敢に発言して行きます。我々は、我々が扱おうとする主題についていかなるタブーも認めません。私たちはそれを信じて、押し進んでいくつもりです。私たちは大衆の怒りを恐れません。本当に恐れるべきことは、この国の、この民族の種族主義的世界が、結局この国を失敗に追い込んでしまうという、蓋然性が多分にある危機そのものです。これを克服できなければ、この国の政治、経済が安定しないばかりか、高い水準に先進化することも不可能なことです。これから進行する講義において視聴者の皆様の積極的な批判と建設的な討論をお願い致します。李承晩TVは開かれた心で、それに対し積極対応していきます。視聴者の皆様の積極的な声援を願ってやみません。ありがとうございました。

李栄薫氏「韓国人の自己批判書だ」発言全文

韓国でベストセラーとなった『反日種族主義』の編著者、李栄薫元ソウル大教授は21日、東京・内幸町の日本記者クラブで記者会見し、同書について「韓国現代文明に沈潜している『原始』や『野蛮』を批判した」「韓国人の自己批判書だ」などと説明した。慰安婦問題やいわゆる徴用工問題についても見解を述べた。冒頭発言の全文は次の通り。

私と同僚研究者5人が書き、さる7月に出版した本『反日種族主義』は、韓国現代文明に沈潜している「原始」や「野蛮」を批判したものです。こんにち、韓国はその歴史に原因がある重い病を患っています。個人、自由、競争、開放という先進的な文明要素を抑圧し、駆逐しようとする集団的、閉鎖的、共同体主義が病気の原因です。一言で言えば、文明と野蛮の対決です。私は世界のどの国もこのような対決構図から自由な国はないと思います。

世界中のどの国も、その近代化の歴史において、このような対決構図による危機を経験していない国はありません。日本も1868年に明治維新を遂行して以来1930年代に至って、国家体制の大きな危機に瀕したことがあります。1948年に成立した大韓民国も、やはり建国70余年で大きい危機を迎えています。

危機の兆候は非常に深刻です。下手すると、この国の自由民主主義体制は解体されるかもしれません。本『反日種族主義』は、そのような危機感から書きました。韓国人たちに危機の根源がどこにあるのかを叫びました。それは、他でもない、我々の中に沈潜している野蛮な種族主義であると告発しました。

世界の先進社会の構成員は、自由人としてその活動範囲が世界に延びている世界人です。ある社会が先進化するということは、そこに属する人々が自由な世界人として進化することでもあります。大韓民国の建国は、このような自由、開放、永久平和の先進的理念に基づいてなされました。その後から今まで、この国が、第二次世界大戦以後に成立した数多くの新生国の中で、稀に見る大きい成功を成し遂げたのは、このような世界が共有する先進理念に服したためです。

1965年に韓国と日本の間で国交正常化がなされたのも、このような理念に基づいてのことでした。国交正常化を推進した朴正煕大統領は、わが国民に歴史の旧怨にとらわれないで、アジアの模範的な反共産主義、自由民主の国家として自信感と主体意識を持ち、日本と対等な位置で新しい未来を開いていこうと訴えました。それ以降の日本との緊密な協力関係は、韓国経済の高度成長を可能にさせました。1990年、盧泰愚大統領は、日本の国会で次のように演説しました。

「こんにち、われわれは、自国を守れなかった自らを自省するだけで、過ぎ去ったことを思い返して誰かを責めたり、恨んだりしません。次の世紀に東京を出発した日本の若者たちが玄界灘の海底トンネルを通り抜けてソウルの友だちと一緒に北京やモスクワへ、パリとロンドンへと大陸をつないで、世界を一つにする友情の旅行ができるような時代を共に作っていきましょう」
韓国人がこのような認識と国際協力にもっと専心していたら、今頃より自由で豊かな先進社会を作れたはずです。しかし、その後に展開された歴史は、それとは違う方向に進みました。歴史は、大きい費用を払ってこそ、ほんの少しの進歩を許すのかもしれません。

1993年に成立した金泳三政権以来、「民主化」と「自律化」の名の下で、韓国社会に深く沈潜してきた野蛮な種族主義が頭をもたげました。日本との関係は、協力から対立に転換しました。北朝鮮との統一政策では、「自由」の理念に代わって「わが民族同士」という民族主義が優位を占めるようになりました。韓国の「自由民主主義体制」と北朝鮮の「全体主義体制」が連邦の形態で結合した後、統一国家へ前進できるという幻想が国民的期待として成立しました。

1992年に提起されてから今までの27年間、韓日両国の信頼と協力を妨げてきた最も深刻な障害は、いわゆる慰安婦問題です。朝鮮総督府と日本軍の官憲が日本軍の性的慰安のために、純潔な朝鮮の乙女を連行・拉致・監禁したという主張ほど、韓国人の種族主義的な反日感情を刺激したものはありません。度重なる日本政府の謝罪と賠償にもかかわらず、この問題が韓国で鎮定されることなく、むしろ増幅してきたのは、それが当代韓国人の精神的動向、すなわち「反日種族主義の強化」という傾向に応えたからです。

私は、本『反日種族主義』の中で、さる27年間この問題に従事してきた韓国と日本の研究者たちと運動団体を批判しました。彼らは元慰安婦たちの定かでない証言に基づいて、慰安婦の存在形態とその全体像を過度に一般化する誤りを犯しました。彼らは朝鮮王朝以来、今日まで、長期存続した性売買の歴史において、日本軍慰安婦が成立した1937年から1945年の8年間だけを切り取る間違いを犯しました。日本軍慰安婦制は、近代日本で成立し、植民地朝鮮に移植された公娼制の一部でした。慰安婦制は、公娼制の軍事的編成に他なりません。女性たちが軍慰安所に募集された方式や経路も、女性たちが都市の遊郭に行ったそれと変わらないものでした。就業、廃業、労働形態、報酬の面でもそうでした。韓国における慰安婦制は1945年以後、都市の私娼、韓国軍特殊慰安部隊、米国軍慰安婦の形へと、さらに繁盛しました。1950年代、60年代において、韓国政府によって慰安婦と規定され、性病検診の対象となった女性の数は、1930年代、40年代の娼妓と慰安婦に比べてなんと10倍以上でした。彼女たちの労働の強さ、所得水準、健康状態、業主との関係は、1930年代、40年代に比べてはるかに劣悪なものでした。既存の研究は、このように韓国現代社会に深く浸透した慰安婦制の歴史には目をつぶっています。この点は、既存の研究者と運動団体が犯した最も深刻な誤りと言えます。

さる27年間、韓国において慰安婦問題が悪化してきたのは、関連研究者たちと運動団体の責任が非常に重いです。彼らはまるで歴史の裁判官のように振舞ってきました。彼らが元慰安婦を前に立たせて行進するとき、彼らを阻止できる何の権威も権力も存在しませんでした。彼らがこの問題に関する日本政府との協約を破棄するよう叫ぶとき、韓国政府は黙従しました。彼らは政府の上から君臨しました。国民の強力な反日種族主義が彼らを絶対的に支持したからです。彼らは強制連行説と性奴隷説を武器にして、日本の国家的責任を追及してきました。その執拗さは、日本との関係を破綻にすると言っても過言ではないほど盲目的でした。

皮肉にも、強制連行説と性奴隷説は、日本で作られたものです。ある日本人は、朝鮮の女性を強制連行した自身の犯罪を告白する懺悔録を書きました。ある歴史学者は、性奴隷説を提起して、韓国の研究者と運動団体を鼓舞しました。それは、歴史学の本分を超えた高度に政治化した学説でした。彼らは、韓国の社会史、女性史、現代史に対して何も知らない状態でした。彼らの韓国社会と政治に対する介入は不当であり、多くの副作用が派生されました。

今のところ、両国の関係を難しくしている徴用工問題も韓国人の種族主義的な視点から提起されたものです。信じ難いかもしれませんが、2005年に盧武鉉政権が被徴用者に補償を行う当時まで、韓国ではそのことに関する信頼できる論文や研究書が一つも存在しませんでした。韓国政府は、1939年から日本に渡った全ての朝鮮人を徴用の被害者と見なしました。その中には、1944年の8月以後の、本当の意味での徴用だけでなく、以前からあった日本の会社の募集や総督府の斡旋も含まれていました。募集と斡旋は、当時の政治情勢から見て、全く圧力がなかったとは言えませんが、あくまでも日本の会社との契約関係でした。彼らに加えて、韓国政府は連鎖移民の形で日本に自由渡航した人々まで徴用の被害者とみなしてしまう、笑っては済まされない寸劇を演じました。以降、何人かの韓国人がより多くの補償を求めて国境を越えて日本でも裁判を起こしました。彼らは皆、徴用ではなく募集と斡旋の経路で日本に渡った人達です。自国の国際的威信などには見向きもしない彼らの「僭越」は、彼らだけの責任ではありません。韓国の反日種族主義は、彼らの国際裁判を支持しました。彼らは日本でも心細くありませんでした。慰安婦問題のときと同様、いわば「良心的」日本人が彼らを物心両面で支援しましたが、結果的には両国の信頼・協力関係を阻害するのに寄与しただけです。

歴史の進歩は、遅い速度でしか進まないようです。韓国は人口が5000万以上でありながら一人当たりの所得水準が3万ドル以上の世界で10ヶ国もない先進グループに属しています。それでも、この国の精神文化には19世紀までの朝鮮王朝が深い影を落としています。朝鮮王朝は、明・清の中華帝国の諸侯国でした。朝鮮王朝は、完璧に閉鎖された国家でした。中国は世界の中心として、日本は海の中の野蛮人として認識されていました。人間の「生と死」の原理は、自然宗教のシャーマニズムに多く規定されていました。個人、自由、利己心、商業を正当化する政治哲学の進歩はないか、微弱でした。その結果、18世紀から19世紀の朝鮮の経済は、深刻な停滞を招きました。人口の多数は、なお原始と文明の境界線でさまよっていました。さる20世紀に渡って韓国人の物質生活には実に大きい変化がありました。しかし、人々の社会関係、精神文化、ひいては国際感覚において本質的な変革はありませんでした。私は、こんにちに韓国の反日種族主義を以上のような歴史的視座から理解しています。こんにち、韓国で日本は理解の対象ではありません。もっぱら仇怨の対象なだけです。日本が韓国を支配した35年間は恥の歴史なだけです。それに対する客観的評価は、「植民地近代化論」と言われ、反民族行為として糾弾されます。その結果、こんにちの韓国人は、自分たちの近代文明がどこから、どのように生まれてきたのかを知りません。こんにちの韓国人は、自分の歴史的感覚において朝鮮王朝の臣民そのままです。同様に、こんにちの韓国人はこんにちの日本を旧帝国の延長として、ファシスト国家として感覚しています。

本『反日種族主義』の日本語翻訳と出版には多くの煩悶がありました。すでに指摘したように、本『反日種族主義』は、韓国人の自己批判書です。自国の恥部をあえて外国語、しかも日本語で公表する必要があるかという批判を予測することは難しくありません。それでもわれわれが出版に同意したのは、それが両国の自由市民の国際的連帯を強化するのに役立つだろうという判断からでした。広く開かれた国際社会においてその波長が国際的でない事件は一件もありません。韓国人が患っている病もそうです。病気は知らせた方がよいです。実は、われわれのそのような悩みは本『反日種族主義』の韓国語版の出版の時からありました。それでもわれわれの主張に多くの韓国人が応えてくれました。建国70年に、少なくない韓国人が自由理念に基づいた世界人として成熟しました。全国の主要書店で本『反日種族主義』は、総合ベストセラー1位の地位を相当な期間占めました。それはまさに望外の事件でした。

遅いながらも、歴史は着実に進歩の道を歩みました。そのような期待を本『反日種族主義』の日本語版にもかけたいです。韓国人には自身の問題を国際的な観点から省察する好機になるでしょう。また、日本人には、韓国問題を、「親韓」あるいは「嫌韓」という感情の水準を超えて前向きに再検討できるきっかけになれると思います。韓国と日本は、東アジアにおける自由民主主義の堡塁(ほうるい)です。この自由民主主義が、韓半島の北側に進み、大陸にまで拡散できることを望みます。
このような歴史的課題のため、韓日両国の自由市民が、お互いに信頼・協力する必要があります。本『反日種族主義』がそのような国際的な連帯を強化するのに、ほんの少しでも役立てば、それ以上の喜びはありません。

最後に、本『反日種族主義』の日本語版の出版をしていただいた文藝春秋様には感謝の気持ちを申し上げたいです。また、韓国に対するご愛情と憂慮のお気持ちでこの本を購入していただいた日本の読者の皆様にも御礼申し上げます。以上です。

韓国の歴史、国民に知られていない真実、
反日種族主義を打破しよう!「嘘の国民、嘘の政治、嘘の裁判」
(李栄薫、イ・ヨンフン、 ソウル大名誉教授)李承晩TVより

題目は「嘘の国民、嘘の政治、嘘の裁判」、すなわち韓国の嘘の文化に対して告発します。視聴者の皆様こんにちは、反日種族主義を打破しようという企画シリーズのはじめの時間です。韓国の嘘の文化は国際的に広く知られた事実です。2014年虚偽罪で起訴された人々が1400名にもなります。日本に比べ172倍です。人口数を考慮した一人当たりの虚偽罪は日本の430倍です。虚偽の事実に基礎した告訴、つまり◯告の件数は500倍です。一人当たりで見ると1250倍です。保険詐欺が蔓延しているのは周知の事実です。自動車保険、交通保険、生命保険、損害保険、医療保険などにわたり、保険詐欺の総額は2014年、4兆5000億を超えると制定されています。アメリカの100倍だといいます。民間に対する政府の各種支援金も詐欺によって漏れています。この間の国政監査のとき、明らかにされたことですが、知的財産権をとりまく訴訟に対する政府の支援金の33%が詐欺による支給でした。嘘と詐欺が横行しているため、社会的信頼もだんだん低くなっている傾向にあります。世界70ヶ国が参加する世界価値観調査で“一般的に人を信頼できるか”という質問に対し、肯定的応答率は1935年38%でした。それが2010年まで26%に持続的に落ちてきています。韓国は国際的比較において低信頼の社会に属しています。お互い信じあえないため、各種の訴訟が相次いでいます。人口一人当たりの民事訴訟の件数が日本に比べ4〜5倍も高くなっています。一人当たりの訴訟件数が世界で一番多いと主張する人もいます。OECD国家の中で韓国はメキシコ、トルコとともに、社会的葛藤水準が最も高い国として分類されています。

社会だけがそうなのではありません。政治がその見本を示しています。嘘が政治において有力な手段として登場したのは2002年の大統領選挙の時であると私は考えています。金大業という人物が、民自党の李会昌候補の息子が軍隊に行かない理由として、わざと体重を減らしたと主張しました。後で裁判の結果として判明されましたが、それは嘘だということでした。しかし全国民が騙されました。その嘘のため大統領選挙の情勢が変わってしまいました。その後この国の政治は嘘の巨大な行進でした。アメリカから輸入した牛肉を食べれば脳に穴があくといったデマを皆さんはよく覚えていることでしょう。海軍艦艇天安艦が北朝鮮の奇襲攻撃によって沈没しました。海軍将兵四十余名が戦死しました。その時もあらゆる流言飛語が飛び交いました。北朝鮮の素行であることに間違いないという物証が明らかにされても、嘘とデマは止むことを知りませんでした。朴槿恵政府は結局ウソ(デマ)によって倒れてしまいました。セウオル号が沈没するその時間に大統領が青瓦台で美容手術をしただの、麻薬をしていたとか、とんでもない嘘が国中を埋め尽くしました。崔順実事件が騒がれると全国は嘘の狂乱でした。人々は崔順実の娘が朴槿恵の隠し子であるかと熱を帯びた論戦をくりひろげました。青瓦台で大統領がクッパン(巫女のお祓い)をしたとも言いました。その嘘の行進は今も続いています。このあいだ光化門に出かけていくとセウオル号を追慕する黄色のテントが今だに張られてある中“なぜ救わなかったのか”というプラカードが掲げてありました。もう何年でしょう。真相はみな明かされたではないですか。補償もみな済みました。それなのに“なぜ救わなかったのか”ですか。しかしそんなデマのテントと宣伝に誰も抗議しようとしません。数多くの人々がその横を通り過ぎていきました。私はボーッとその人々を眺めていました。その嘘の宣伝が人々をあざ笑っています。人々は知らんふりし息をひそめて通り過ぎて行きました。みな死んだ霊魂です。または死んだけれど肉体は生きてよたつくゾンビです。私はこの国の首都ソウルの真ん中でゾンビの行列が続いていると思いました。嘘の文化、嘘の社会、嘘の政治は結局この国を滅ぼしてしまうでしょう。110年前一度滅んだ国です。その国が今だ目覚めないのなら、もう再び滅びることはそう難しいことではないかも知れません。
このような悲愴な気分で私は1904年青年李承晩が漢城監獄で書いた「独立精神」という本のある題目を思い出しました。青年李承晩は亡国の責任がどこにあるかを本の中で問いました。他でもない堕落した精神文化が、嘘をつくという悪習が国を滅ぼしたと絶叫しました。そのまま引用して読んでみたいと思います。「今この大韓をこんなにも台無しにしてしまった一番大きな原因が何かと言えば、嘘をつくことがまず第一番目である。この嘘を言う悪習について列挙しようものなら限りない。上の者は下の者を、息子は父親を騙し、他人を欺くものを聡明だの、賢いだのといい、騙せない人間をできそこないだの、おめでたいなどという。親が子どもを教えるのに騙されるなと言い、先生が生徒を教訓するのに嘘の称賛をし、人間万事において嘘とはかりごとで満ちている」
続けて「嘘で家庭を修め、嘘で友達と交際し、嘘で国を治め、嘘で世界と交渉するというのだから、一人二人の人が私的な事も相談もできず、そうであるのにどうして国の重大な問題を語り決定できるだろうか、それで世界の人々は大韓と清の国を、嘘の天地だと言って公使や領事で選ばれ送られると本当に正直な人は額に皺をよせ頭をふり、赴任してくるのを嫌がるのだが、実に恥ずかしく悔しいことである」青年李承晩はこのように言いました。
人がお互い騙し合い、嘘をつくことを当たり前のように考える国、他の国との外交さえも嘘で成り立ち、どんな条約をしても信じられない国が亡国直前の大韓帝国でした。そんな国が滅ばないとすれば、いったいこの世でどの国が滅ぶというのでしょうか。青年李承晩の絶許が胸に響くのは、まさに今の大韓民国がこのような嘘の文化、嘘の政治、嘘の外交に転落し、このままでは必ず再び亡国の悲哀を避けることができないからです。

ついにこの嘘は司法部まで深く浸透していきました。ひたすら事実に根拠し、正義の原則に従って剛直に裁判をしなければならないこの国の判事たちは、何が事実であり、何が嘘なのか見分けることができない中、デタラメな判決をめちゃくちゃに下しています。つい先日、最高裁合議部は1941〜1943年、日本製鉄で労務者として働いた人とその子供に対し、新日本製鉄が1億ウオンの賠償金を支払えという判決を下しました。この判決は当時日本製鉄で働いた朝鮮人労務者たちが奴隷として連れていかれ、奴隷として酷使されたという事実、言い換えると世界が憤り、時効を置かずに処罰する普遍的な反人権的犯罪の被害者であることを前提にしています。しかしながらこの前提自体が全く事実と違っています。多少荒っぽい言い方ですが、真っ赤な嘘だと言えます。

そのことに関してはこれからの講義シリーズで関連分野最高の権威者である李宇行博士が詳しく説明します。1937年以降毎年10万名以上の朝鮮の人々が自発的に、ある意味では必死に日本に渡っていきました。より多い所得と、より良い職場を求めてです。その数が太平洋戦争勃発直前の1940年には20万をこえていました。その後戦争が酷くなっていくに従って数が減ったりしましたが、それでも1944年まで毎年10万名以上の朝鮮人が日本に自発的に渡って行きました。それとは別途に1939年から労働力が不足してきた日本の会社が朝鮮から労務者を募集し始めました。1939年から1941年まで約17万名がその募集によって日本に行きました。到着した労務者の3分の1は6ヶ月以内に他の職場に逃げて行ってしまいました。日本の会社の募集を日本に行くための機会として利用したのです。副作用が甚だしく1942年からは総督府。その後1944年8月まで約25万名が総督府の斡旋を通して日本に渡っていきました。募集であれ斡旋であれ、当事者の同意なくしては不可能な労務契約関係だと言えます。戦争末期の1944年9月からは徴用が実施されました。令状が発布され応じなければ処罰される戦時動員が実施されました。

ところで今回の裁判の原告たちは時期的に見ても募集と斡旋によって日本に渡った人々です。それなのに奴隷として連れていかれたというのでしょうか。話があいません。裁判部は歴史的事実がどうなっているのか知らずに、原告の主張を真に受け判決に利用しました。朝鮮人労務者たちが正常な賃金をもらえずに奴隷として酷使されたという主張も事実ではありません。それは1960年から日本にある朝総連系の学者たちが作り出した嘘です。募集と斡旋は勿論のこと徴用の場合においても賃金は正常に支払われました。その点は炭鉱と工場の賃金支出簿を通してわかります。そのことに関しても李宇行博士の直接の説明があります。労務者たちは賃金所得の一部を実家に送金しました。外国から郵便換で送金された額が1938年だけでも年間48万円にすぎませんでしたが、日本への募集が始まった1939年に突然106万円に、1943年には452万円にまで増加しました。終戦の混乱の中、未支払い賃金、預金、債権、保険などがあったことは事実です。未支払い賃金とはいえ大抵1〜2ヶ月に過ぎませんでした。日本政府は韓国から提起されるかもしれない請求に対して、未払い賃金、預金、債権、保険等を金融機関に供託するようにしました。約二千万ドルの総額でした。個人や会社が保有した預金、債権、保険などがその主なものでした。未支払い賃金はどれほどにもなりませんでした。

1965年韓国政府は国交正常化のための交渉結果として日本政府から請求権を含んだ経済協力資金という名分で3億ドルを受領しました。当初日本政府は日本の企業と政府に対し、韓国人が保有している債権に対しては、日本政府が当事者に直接支給するという立場をとりました。それに反して韓国政府は将来提起される一切の請求権を含みこれを完全に、そして永久に清算するという名分をつけて3億ドルを一括受領しました。このように強力に日本政府に要求したのです。その後朴正煕政府が民間に補償を行なったのが1975年〜1977年のことです。このようにして韓国人が保有していた対日債権は大方清算されたわけです。するとこれから外れた人々の情緒を刺激しながら、強制労働説や奴隷労働説が拡散され始めました。

光州事件の被害者と、生存日本軍慰安婦に巨額の賠償が実施されたのも同じ要因からでした。すると盧武鉉政府は何らかの事前調査も研究もなく、それに対し追加補償を約束しました。その結果約六万余名の人々が2005年から2007年の間に補償を受けました。死亡者には2000万ウオンを、負傷者 には程度に応じて相応の支給を、生還者には年間80万ウオンの医療費補助を支給するという内容でした。どうであれ、このような過去40〜50年にかけての経過にもかかわらず、今回の裁判を提起した原告たちは再度日本企業から補償を貰う権利があると主張しました。いったい70年前自分の意思で日本に行き、工場や炭鉱で働き賃金を受け取ったその個人の人生史に対して、しかもそのことに関して二度にわたる韓国政府の補償にもかかわらず、何度も法理で追加補償を要求するというのでしょうか。いくらもらったら、その数ヶ月の未支払い賃金に対する補償が完全になされるのでしょうか。国民情緒の中に浅はかな金銭主義がはびこっています。労務者の動員過程や賃金の実態に関しては、更に両国間の請求権を取り巻く交渉とその結果については、すでに優れた数々の論文や本が出回っています。にもかかわらず、国内の言論はそのことについて沈黙しました。嘘の文化とは、他でもない言論が助長し伝播しているのです。

更にはこの国で一番高邁であるべき最高裁の判事までもが嘘による、デタラメな判決を下したのです。最高裁の判事たちはこの問題に関する限り、何も知らない小学生水準の低劣な知性でした。初めから強制連行でも奴隷労働でもありませんでした。わずか数カ月の未支払い賃金だったのです。一定期間に時効をおいた民間の債権関係でした。国家間の条約で永久に精算すると合意した問題でした。そしてこの国政府が二度にわたって清算した問題です。そうであるのに、このすべての歴史的真実と過程を超越した永久的で普遍的権利で、請求権が今だ生きていると言うとは、私はこの国の裁判官たちが、こうまで不精で無知で傲慢だとは知りませんでした。嘘をつく国民、嘘をつく政治、嘘の裁判の淵源は深いです。

その中で一番深く太い根が何かと言えば、他でもない反日種族主義です。反日民族主義と言ってもよいでしょう。民族主義は現在韓国人が共有する一番強力な共同体いしきです。ところで私は韓国の民族主義が正常ではないと考えます。 西ヨーロッパで発生した民族主義は成長する市民階級の政治意識でした。封建的身分制度、絶対君主制を否定し、それに抵抗しながら、市民形成と国民統合を追求するという肯定的な役割を担当しました。しかし、韓国の民族主義はそれと違ったものです。市民形成と国民統合の歴史的役割を見出すことができません。ご存知のように韓国政府は中国に対しては限りなく屈従的です。韓国の企業が中国で不当な待遇を受けても何の反応も見せません。中国をG2などと言って過大評価している世界で唯一の国が他でもない我々の国韓国です。反面日本に対しては限りなく敵対的です。感情の憤怒がいつも先立ちます。正常な討論が不可能です。数々の嘘が捻出され無分別に横行します。それで国民を統合するのではなく、国民を分裂させる副作用を生んでいます。それに同調しない多くの国民がいるからです。この国韓国人はいまだに本当の意味での市民として一つの国民として統合されていません。それで私は韓国の民族主義を種族主義と呼ぶことが妥当だと考えます。野蛮の上段に横たわる種族間の敵対感情をもって種族主義だと言います。

韓国の種族主義はその国際感覚において不均衡です。日本の実態、日本の歴史、日本の文化を正確に知りません。日本を仮想の敵対種族と考えています。韓国人の国際感覚が反日種族主義、親中事大主義で織り成されています。そんな低劣な国際感覚でこの国は行く道を失い、迷っています。李承晩TVはこれから、韓国を再び亡国の道へと陥れかねないこの反日種族主義を批判し、打破するために、その代表的事例を順を追って紹介する計画です。視聴者の皆様に大きな激励と批判、大きな声援を願ってやみません。ありがとうございました。



李承晩TV「挺対協は、日本軍慰安婦問題をこのように大きくした」
ー 朱益鐘 李承晩学堂教師 ー 日本語翻訳: 林寿泉

「日本軍慰安婦問題の真実」の14回目の時間です。今日は、1990年ごろ以降、日本軍慰安婦問題がどのように展開していったのかを見てみます。この問題には、三つの行為者、即ちプレイヤーがいますが、慰安婦運動団体である「挺対協」、「韓国政府」、そして「日本政府」です。この三者がどのように相互作用して日本軍慰安婦問題が展開されたかご注目ください。

1990年11月、「挺対協」、すなわち「韓国挺身隊問題対策協議会」が結成されました。挺対協の主軸をなす人達は、まず「韓国協会女性連合会(韓教女連)」という団体と、リーダーとして加わった梨花女子大学校の尹貞玉(ユン・ジョンオク)教授を挙げることができます。両者により、挺対協が結成されましたが、韓国教会女性連合会は、1970年代から妓生観光問題を批判してきた団体で、尹貞玉教授は慰安婦問題を研究していた学者でした。両者が会って、1988年から一緒に慰安婦問題を扱ってきましたが、彼らは妓生観光の元祖が慰安婦であるとの認識の下、その根源を見つけ出すためと、慰安婦の足跡を探して、1988年と1989年の2年間、3回にわたって沖縄、九州 、北海道、東京、埼玉県、そして東南アジアのタイ、パプアニューギニアなどを踏査しました。この調査結果はセミナーで発表され、今ご覧の画面のように、1990年1月「ハンギョレ新聞」に「挺身隊、怨魂の足跡の取材記」という題目で4回にわたって連載されました。
「怨魂」という表現は、「朝鮮人女性たちが日本軍によって戦争中に慰安婦として使役され、配線の時には虐殺された」という意味です。つまり、彼らは慰安婦を挺身隊と間違えるほど、事実関係を知らないのにもかかわらず、日本の慰安婦虐殺という先入観を持って、この問題に取り掛かったのです。

彼らは、挺対協を組織する前から、日本政府を相手に、慰安婦の強制連行に対する事実認定と謝罪を要求する書簡を出しました。日本政府が慰安婦の強制連行を否認すると、彼らは大々的な世論化の必要性を感じ、それ故挺身隊被害者の証言を企画したのです。彼らは1991年に、全部で3人の証人を連れ出しますが、最初の証人は、原爆被害者を中心に慰安婦被害者生存者を探し、金学順に会いました。それで1991年8月14日、光復節の前日ですが、慰安婦証言を発表し、多くの関心を寄せることに成功します。

次いで12月には、文玉珠氏、金福善氏の証言を発表することに成功しました。ご覧の画面のように、文玉珠氏の証言は、そんなに大きく扱われることにはなりませんでした。ところが、その頃、済州島での「慰安婦狩り」云々の吉田清治の嘘が作った火種が作られ、そのことに慰安婦の証言という油が注がれたようなこととなり、慰安婦問題は直ぐホット・イシューとなりました。

そんな中で1992年になると、連日のように、その記事が新聞の紙面を覆うようになりました。挺対協は、日本政府に対する抗議として、1992年1月8日から在韓日本大使館前で水曜集会を始めました。それが、2019年の現在までも、毎週の水曜日に開かれる、27年も続く、世界で最長期集会として、毎回、記録を塗り替えていると言われるほどのこととなりました。

ところで、この問題に一人の日本研究者がさらに加わりました。1992年1月の中旬、日本の中央大学の吉見義明教授が、日本軍文書に 基づいて、日本政府が慰安婦の募集と慰安所の運営に関与したと発表しました。今までの日本政府の公式立場を否定するものですが、画面でご覧の方が吉見義明教授です。この方は、1992年1月11日か12日に、研究結果を発表しましたが、実は、以前から調査してきた結果ですが、偶然、挺対協が水曜集会を始めた翌週にこの結果が発表されたのです。吉見教授は、日本の防衛庁(現在の防衛省)の防衛研究所の図書館で、日本本土の陸軍省と中国に派遣された日本軍、その両者間で交換された公文書6点を発見しました。その中で、1938年3月4日付けで、陸軍省が中国前線の部隊に送った文書は、社会問題を起こさないような人物で慰安婦募集業者を選定するよう、指示した内容でした。また、この文書には、前年の7月に陸軍省が中国に派遣した部隊に出した文書も添付していましたが、1937年7月に送られた文書には、各部隊が直ちに慰安所を設置するよう、陸軍省が指示した内容がありました。このように、陸軍省が、中国に派遣した部隊に、慰安所をつくり、その業者を慎重に選定するような指示を下し、中国にいた部隊がそれを履行した結果を報告するのです。三番目に表しているものがその報告文書です。それで、中国前線にあった部隊が慰安所を開所したと陸軍省に報告する文書もありました。これで、日本軍が慰安婦の募集と慰安所運営に深く関与したということが、初めて明らかになり、日本政府は大きな打撃を受けました。ちょうどその月の1月下旬に日本の首相が我が国を訪問することになっていましたが、この時、慰安婦問題が大きくなったので、日本政府は前向きな対応をします。そして、1992年1月17日に訪韓した宮沢喜一首相は、韓国の国会で慰安婦問題に対して謝罪をしました。今ご覧の写真は、宮沢首相が国立墓地で参拝する場面です。そして国会で次のような演説をします。

「私は、この間、朝鮮半島の方々が我が国の行為により堪え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、心からの反省の意とお詫びの気持ちを表明いたします。最近、いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが、私は、このようなことは実に心の痛むことであり、誠に申し訳なく思っております」と発言しました。

以降、日本政府は、調査作業を進めて、同年7月に慰安婦一次調査報告書を発表しました。軍慰安婦募集に日本政府が関与したことを認めながら、強制連行の証拠は発見されていないという内容でした。つまり、日本政府の責任を認めるが、強制連行は否認していることが焦点でした。

日本の加藤紘一官房長官は、「慰安婦として耐え難い辛苦をなめられた方々に謝罪と反省の気持ちを申し上げたいとともに、謝罪をいかなる形で表すかについては、各方面の意見を聞きながら、発表する」とし、日本政府が何らかの謝罪措置を取ることを明らかにしました。そして、同年12月から二次調査を実施し、翌年の1993年8月に報告書を発表しました。ここで、日本政府は、軍部が慰安所の設置、経営、管理、そして慰安婦の移送に直・間接的に広く関与したことを認めました。

ご覧の画面は、有名な河野談話ですが、慰安婦問題に対する画期的な内容でした。その内容は、「今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧 日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧によるなど、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲などが直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。政府は、この機会に、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦難を経験され、心身にわたり、癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からのお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。・・・」のような内容でした。

つまり、慰安婦の動員と慰安所の運営に日本軍が直・間接的に広く関与したことを日本政府が認め、また慰安所での生活が強制的で凄惨なものだったことを認めました。そうしながら、どう謝罪するかは追って発表する、という内容です。しかし、挺対協は、日本政府が慰安婦募集の強制性を曖昧に認めただけだと反発しました。つまり、慰安婦が「公権力によって暴力で強要された性奴隷」であり、慰安所の運営は、戦争犯罪であることを日本政府が認めていないということでした。

挺対協は、慰安婦問題の国際化を図りました。日本にも日本政府の過去史認識に対して批判的な人達がいますが、挺対協は、そのような日本人グループと協力しながら、また、日本研究者たちとともに韓日合同研究会を作って調査活動を行いました。そして、慰安婦問題と関連した、いわばアジアの諸被害国と「アジア連帯会議」というのを組織して、毎年、大会を開催しています。挺対協は、国連にもこの問題を持ち込みました。国連人権委員会の内部には、専門家で構成された小委員会がありますが、人権委小委員会の委員達を相手に、慰安婦問題に関する宣伝・広報活動をしたのです。そのため、小委員会は、慰安婦問題を研究主題にして、「戦争中の組織的強姦、性奴隷制及び類似奴隷制」という題目の研究報告書を発表しました。それは、日本軍慰安所が「強姦所」であり、それは強姦禁止など国際法違反という内容でした。挺対協の宣伝の結果、国連人権委員会が女性暴力問題に関する特別調査報告官を任命し、この報告官がこの問題を研究・調査して報告書を提出しました。それで、1996年に、「戦争中、軍隊の性奴隷問題に関する調査報告書」を発表しました。

ところで、ちょうどその頃、ユーゴスラビア連邦共和国の解体・再編の過程で内戦が起きます。皆様もお覚えだと思いますが、ボスニア・ヘルツエゴビナ内戦などが起き、「民族浄化」と呼ばれる程の殺傷、女性に対する強姦事件などが行われて、「戦争中の女性に対する性暴力、強姦事件」として大きな国際問題化されましたが、「日本軍慰安所の運営」も、そのようなものと包められ、女性に対する戦争中の性暴力、戦争犯罪とみなされるようになりました。その上、挺対協は、国際労働機構(ILO)にも、日本軍慰安婦が戦争中の強制労働に該当すると言い、この問題に対する調査を要請しました。専門委員会に、報告書を提出させることに成功しましたが、ついで総会の案件にもあげられるよう、執拗な活動をしました。

日本政府の謝罪を拒否した挺対協と違って、韓国政府は河野談話を肯定的に評価しました。ただ問題は、慰安婦被害に対する補償、あるいは賠償ですが、それに関しては、1965年の請求権協定によって過去史と関連した一連の請求権が整理されたため、新たな対日補償を要求できないという立場を取りました。金永三政権は、日本政府に新たな補償を要求せず、自ら元慰安婦を支援することを決めました。1993年6月、「慰安婦被害者に対する生活安定支援法」制定され、生存慰安婦申告者121人に対して、同年8月から生活安定金500万ウオンと、毎月の生活支援金15万ウオン、永久賃貸住宅先入住権などを提供しました。次は、日本政府がどのような措置を取るか、という問題だけが残りました。日本政府も、法的措置ではない、道徳的責任という趣旨で慰労金を支給することを決定しました。これに関しては、細川護煕首相の訪韓のとき、韓日両国に慰労金の支払い方法について了解があったそうです。それで、いろいろな準備段階を経て、解放50周年になる、1995年8月15日、日本としては、戦後50周年の終戦記念日に、日本の村山富市総理が談話を発表しました。いわゆる「村山談話」ですが、そこで、村山総理は、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」と言いました。この談話は、日本として過去の植民地支配と侵略戦争に対して最も積極的に謝罪したものです。その後、日本政府は「女性のためのアジア平和国民基金」を創設しました。民間から募金したお金で、財団法人を組織し、その基金から慰安婦一人当たり200万円の慰労金を支給、日本政府が政府資金で医療費を支給、財団運営費を支援するものでした。このように、元慰安婦たちに順次、一時金を支給した後、基金を清算するとしました。しかし、問題は挺対協ですが、挺対協はそれを拒否しました。日本政府が謝罪して賠償すべきであり、慰労金はけしからん、と言いました。また、慰安婦被害者たちが国民基金を受け取ることを憂慮して、国民基金が被害者間、被害者と挺対協間の分裂を画策すると非難しました。慰安婦を支援する挺対協が反対をするので、韓国内では慰安婦のおばあさん達が公に日本国民基金のお金を受け取りづらくなりました。そこで、国民基金は、基金を受領した元慰安婦の名簿を公開しないことにし、1997年1月に、7人に一人当たり200万円の慰労金を支給して、事業を始めました。しかし、反対が激しくて翌年の1998年に事業を中断、結局2002年には、韓国内の慰労金支給を集結しました。

ここで問題は韓国政府でした。挺対協主導の世論に押された金永三政権は、当初の了解と違い、日本国民基金の支給を反対しました。韓国外務部は、1997年1月の最初の慰労金が支給される時に、「甚だしく遺憾」と表明しました。通常、外交関係で、「甚だしく遺憾」というのは非常に強い反対の立場を表す表現です。韓国政府は、今度は、日本の国民基金より大きい金額の個別慰労金を支給することにしました。政権が変わり、金大中政権になりましたが、金大中政権は、慰安婦申告者186人に(人数が増えました)、一人当たり3800万ウオンを支給しました。(政府資金3150万ウオン+挺対協募金650万ウオン)。日本の国民基金の支給額の一人当たり2000万ウオンより大きい金額です。しかし、この時、日本の国民基金を受け取った慰安婦に対しては韓国政府のお金を与えないことにしました。韓国政府も慰安婦おばあさん達に日本の国民基金を受け取らないようにさせたのです。日本の国民基金は、結局、2007年3月に解散しましたが、分析によると、総364人に慰労金を支給したそうです。
推定生存慰安婦が700余人と言われていましたが、その人数は、韓国だけでなく、東南アジアまで入れてのものですが、大体、半分を超える人々に基金を渡す成果を挙げたことと自評しました。国内でも相当数の慰安婦生存者がこの慰労金を受け取ったと推定されます。基金の民間募金額は5億7000万円ですが、総費用は46億2500万円だったので、費用が民間募金額を遥かに超えます。実は、費用の90%は日本政府が出したのです。実質上、この基金は、日本政府出捐金でした。

結局、挺対協と韓国政府は、日本政府が出したお金を拒否したことになります。その後、挺対協は、慰安婦問題を国際問題化するための努力をやり続けました。日本軍の慰安所運営が戦時の女性に対する性暴力であり、戦時に女性を性奴隷とした反人道的戦争犯罪であると、広く宣伝しました。挺対協は、海外の人権団体とともに2000年の東京模擬法廷で慰安婦国際戦犯裁判を開きました。この法廷では、強姦と性奴隷犯罪という有罪判決を下しましたが、被告人の中には、裕仁昭和天皇も入っていました。また、挺対協は、2007年には、米下院と欧州議会に、日本政府の慰安婦問題解決を促す、決議案を出させることにも成功しました。米下院は、日本軍が慰安婦に性奴隷を強制した事実を日本政府が公式に認めて謝罪することと、関連事実を日本の内外で教育することを勧告しました。挺対協が国際社会での世論づくりに成功したのです。勿論、挺対協は、国内でも慰安婦世論づくりを続けました。画面でご覧の通り、慰安婦少女像を建てるのです。2011年12月に水曜集会の1000回目を記念して鐘路区所在の日本大使館前に慰安婦少女像を建て、日本政府に対する圧迫強度を一層高めました。当時の李明博政権は、それをやめさせるべきだったにも関わらず、気が抜けたのか、区庁の所管とし、傍観してしまいました。このような造形物は、一度建ててしまうと、事実上、後で撤去できないという点で、非常に重大な誤りでした。大使館の保護等を規定したウイーン条約22条2項には、「接受国は、使節団の公館の安寧の妨害または公館の威厳の侵害を防止するため適当なすべての措置を執る特別の責務を有する」と、規定されていますが、この少女像によって、日本大使館の安寧が妨害され、威厳が侵害されたという点は明らかです。つまり、韓国政府がこの規定に違反したのは明らかであるということです。

2016年8月には、ソウル市が南山の旧統監官邸の敷地を慰安婦を記憶するところに造成しました。統監及び総督官邸があったところなら、植民地期の歴史に関わる、より意味のある公園として造成するのが良かったと思います。それでも、専ら慰安婦だけを記憶するところにしました。そして、2016年末、釜山の日本総領事館前にも少女像が建てられ、次いで慰安婦と何の関係もない、若者たちの街であるソウル弘益大学前にも少女像を建てようとしました。その後も、全国の各所に慰安婦の造形物が建てられましたし、またも建てられるでしょう。このままだと、どこに行っても慰安婦の造形物を見るようになるはずですが、まさに狂気としか言いようがありません。

一方、2006年に元慰安婦たちは、韓国政府が日本軍慰安婦の賠償請求権問題の解決を図っていなかったのが、基本権侵害という憲法訴願を出しました。つまり、元慰安婦達と挺対協の立場は、慰安婦問題の被害者が賠償請求権を持つということですが、韓日請求権協定によって一切の請求権が消滅したと見るのが日本政府の立場です。要するに、このような韓日両国間の意見不一致に対して韓国政府が積極的に解決しなかったこと、それが基本権の侵害という憲法訴願でした。5年後の2011年に憲法裁判所は、「韓国政府が日本軍慰安婦の賠償請求に関する韓日間紛争を解決しようとしなかったのは違憲」という判決を下しました。もう政府が出なければならない状況になり、そこで、朴槿恵政権がこの韓日間紛争を解決するために動きました。

朴槿恵政権は、日本側との水面下での交渉を通じて2015年末の頂上会談後、両国の外務長官(大臣)の名義で、慰安婦合意案を発表しました。ご覧のように、この合意の際、日本は慰安婦問題に対して「軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」であり、「責任を責任を痛感し、慰安婦被害者の苦痛と傷に対して謝罪と反省の気持ちを表明する」、としていました。つまり、もう一度、慰安婦問題に対する責任を認め、それに対する謝罪を表明したのです。韓国政府は、日本政府から10億円の基金を貰って財団を設立し、個別被害者に慰労金を支給し、これを以って慰安婦問題を韓日両国間に「最終的かつ不可逆的に解決されることを確認」して、「国際社会において、本問題について互いに非難・批判することは控える」と約束しました。この合意に対して、「密室外交であり、被害当事者との合意がなかった」と、挺対協が強く反発をしましたが、それでも朴槿恵政権は2016年に「和解・癒し財団」を設立して、被害者個人に対する慰労金支給の実行に入りました。相当数の慰安婦おばあさんと遺族が一人当たり1億ウオンの慰労金の支給を受けました。私はその人数が約30人と聞いております。しかし、挺対協は反発を続けました。

そして、朴槿恵政権が崩れた後に登場した文在寅政権は、この合意を間違ったものとし、2018年末に、「和解・癒し財団」の解散決定をしました。文在寅政権は、2015年の慰安婦合意を正式に破棄もせず、従って再交渉も要求しないまま、曖昧に無効化したのです。つまり、問題だけを復活させたのです。2016年12月に、慰安婦と遺族の20人は、「精神的かつ肉体的苦痛を強要された」と、日本政府に対して総30億ウオンの損害賠償を要求する訴訟をソウル中央地方裁判所に提起しました。つまり、日本政府に対して損害賠償の要求をするのですが、それを日本の裁判所に訴えたのではなく、韓国の裁判所に訴えたのです。これに対し、日本政府は「国家は、同意なしに他国の裁判所で被告になることはない」という国際法上の主権免除の原則に基づいて拒否しました。しかし、少し前の2019年5月初、韓国裁判所は、当該書類を裁判所に掲示して、公示送達の効果を揃えたとし、その審理を開始することを決定しました。今後、韓国裁判所が日本政府に賠償命令判決を下す可能性が大きくなりました。文在寅政権の「和解・癒し財団」の解散措置、そして韓国司法部の慰安婦損害賠償訴訟開始の措置によって、慰安婦問題は出口が全く見えなくなりました。結局、振り返ってみると、慰安婦問題は、挺対協、即ち慰安婦運動家団体がこの問題を執拗に大きくし、韓国政府と日本政府がそれに振り回されながら、解決策をまともに見つけ出せなかったと、いうことができます。これに対する評価と展望については、次の講義の時間に、ご説明します。ありがとうございます。(日本語翻訳: 林寿泉)

日本軍慰安婦問題の真実(完) ー李承晩学堂の校長、ソウル大学名誉教授ー

「日本軍慰安婦問題の真実」の講義が、今日で最後となります。日本軍慰安婦問題と関連した、諸歴史的主題の殆どを省くことなく、一度は見てみたと思います。今日は、特別な内容はなく、最後に全体の内容を、一度まとめてみる、そのような最後の講義の回にしたいと思います。
講義を始めた時、この講義の視聴者の皆様に、また我々韓国民全般に、どのような影響を与えるだろうかという憂慮がありました。従って、単語一つ一つに至るまで、講義ノートを準備するとき、注意を払いました。私が12回の講義を、朱益鐘先生が3回の講義をする間、既存の通念に対する、ある程度、大胆な挑戦がなされたのではないかと、この問題に対して今まで28年間、研究あるいは運動をしてきた団体からは、何の反応もありませんでした。その理由は、簡単に言えば、我々の韓国社会が「歴史認識」また「政治意識」において、甚だしく分裂している、そのような状態にあるからだと思います。私は、その状態を「種族主義」という言葉で表現しました。種族主義とは、一つの社会がいくつかの氏族や種族を単位に分立している、分裂している、そのような状況であり、互いには、強い「無関心」や「敵対意識」が支配している中で、客観的な論弁が成立しない、そのような状態の「社会テーゼ」、「社会の形態」を種族主義と言えます。韓国の言わば「進歩」と「保守」、「嶺南」と「湖南」、「既得権者」と「非既得権者」のように、よく分けられる集団の間には、現在ある「客観的な学術的論争」が成立していません。「君達は、君達の道を歩め」のような主張であります。
我らが李承晩学堂では、この慰安婦問題に対して、相当な準備と細心の配慮をもって講義をしてきましたが、何の反応も得られなかったのは、講義内容が不十分だったからではなく、この問題をめぐる韓国の、いわば「保守」と「進歩」の間の感情が「種族主義的形態」として対立しているからだと思います。しかし、いずれにしても、このような「種族主義的対立状態」は、克服していかなければならないものです。
我々の後世、次の世代は、このような種族主義的な感情を克服して、自由市民として、互いの意見の差異を、険しくない表情と真剣な討論の姿勢で、共に分け合い、悩む中で克服し、共通の回答を模索していく、そのような自由市民として成熟していかなければならないと思います。私は、いつかは実現できる、我々の次世代の、そのような美しい姿を想像しながら、この講義を続けてきました。
私は、日本軍慰安婦問題の「歴史的な道筋」をたどることに、4ヶ月間の講義中の相当の時間を割愛しました。私は、日本軍慰安婦問題を、単純にある日に突然生じたのではなく、つまり、日本軍が何もなかったところに慰安所の建物を作り、通りすがりの少女を拉致して、集団強姦したのだという認識を越えて、一つの歴史的事件が発生するまでの、長い前史を追跡してみました。15〜19世紀の朝鮮時代にも軍慰安婦と呼ぶことができる、下層身分の女性を対象にする、支配身分による性の略取があり、それがまさに妓生制度でした。そして、それに続いて、日政期に入ると、公娼制が施行されましたが、この公娼制は、最初は朝鮮に渡ってきた少数の日本人のための売春業だったのが、植民地的開発とともに1930年以降になると、朝鮮人たちもこの公娼制に積極的に参加する、一種の大衆売春社会が形成されました。このような公娼制の施行と共に、妓生とは異なる、身分的性暴力の支配から商業的契約の時代が成立しました。しかし、商業的契約とは言え、貧しさと家庭暴力も横行・支配する極貧階層の戸主・家父長たちが斡旋業者たちが提供する前借金に唆されて、仕方なくあるいは喜んで自分の娘を売り渡す行為、そういうことを当時は「人身売買」と言いましたが、主に、このような「人身売買」によって、貧困家庭の女性たちが泣きながら、或いは、殴られながら連れていかれて、公娼制に入っていきました。しかし、それは当時の家族制や公娼制という方的枠組内のことであって、決して不法的なことではありませんでした。
父親が娘を公娼への就業を承諾して斡旋業者に手渡す時に、娘は当時の家族制度下では、それを拒否できる法的能力がありませんでした。これこそが、まさに「家父長時代」、「戸主制家族」と呼ばれるもので、そういう時代的状況を前提としなければならないということを強調しました。その延長線上で、日本軍慰安婦制度というのは、そのような公娼制が日本軍に編入され、日本軍人のための公娼の形態として動員・再編成されたものでした。
まるで、公娼制という後方部隊があり、日本軍慰安所制度は、その一部分を前方に動員・再編したようなものでした。しかし、本質の差異はない。そのため、募集過程、女性たちの労働、慰安所内での生活の実態、勤労条件、所得、勤労強度など、全ての面において本質的な差異はなかったという、軍事的に再編成された公娼制でした。
それから、私の研究成果として自負できるものですが、この慰安婦制度の歴史は、日政期が終わるとともになくなったのではなく、解放以降になっても、この慰安所制度は、むしろ日政期より量的にも遥かに膨張、また、慰安婦たちの生活実態も、以前より劣悪なものになったということでした。1942年現在、全国の公娼業に従事していた女性たちは、南・北を合わせて9千500人でした。しかし、1965年になると、以前の講義でご説明しましたが、南だけで33万人でした。全20代の女性の8%でした。解放後の混乱、戦争による破壊と貧困が、既に活性化した大衆売春社会の展開とともに多くの女性たちを、公娼でない公娼、すでに私娼ですが、私娼に追い込み、性売買を専業とする女性たちとさせ、彼女達はなお慰安婦と呼ばれました。そして、慰安婦制度は、1950〜60年代の韓国社会のも存続しましたが、当時の慰安婦達は、1日に接する遊客人数、1日の性交労働の強度、また労働の実態、所得、抱え主との関係、むしろ、日本軍慰安所にいた女性たちよりも劣悪な境遇にいたということを指摘しました。その点は、私自身も具体的な研究成果を確認しながら、非常に驚いた事実でした。
日本軍慰安婦制度として終わったのではなく、1950、60、70年代を経て韓国社会においてその「本舞台の歴史」が繰り広げられ、その長い歴史的過程は、今もなお存続しているという事実を、私は指摘したかったのです。
2002年、韓国政府の「女性部」は「刑事政策研究院」に依頼して全国の性売買産業の実態を調査しました。その結果、全国の約68ヶ所の集娼村が存在するなか、9千92人の性売買を専業とする女性たちがいることが分かりました。その他、茶房やカラオケなどの業所で性売買をする女性たちの人数をも入れると総33万人ですが、この数値は1966年とほぼ同じです。20〜30代の女性の就業人口の8%でした。このような巨大な人口が2002年まで性売買産業に従事していましたが、20〜30代の女性就業人口の8%というのは非常に衝撃的な調査報告でした。1966年よりも性売買はより拡散されていたのではないかと思われますし、この「女性部」の報告書によると、性売買産業において発生する年間売上額は、一次産業である農林漁業よりも大きかったそうです。慰安婦という言葉は無くなりましたが、慰安婦制度は、1990年代、2000年初めまで存在し、国家が放任する間に、女性と抱え主との関係は、まさに奴隷的束縛の場合が多く、2003年の郡山市で、大集娼村で大火災が発生したとき、12人の女性が部屋に監禁されたまま、脱出できず、焼死した悲劇的な事件も発生しました。従って、私は、慰安婦事件は、決して日政期の日本軍慰安所のことだけに限って言われることではなく、我々の中の慰安婦、我らの現代史の慰安婦、今もなお存続している、全慰安婦問題の一環・一部分として、日政期の慰安婦、特に日本軍慰安婦問題を見ていかなければならないと、私は強調しました。
それにもかかわらず、1992年以降に日本軍慰安婦問題が生じ始めたのは、以前の朱益鐘先生の講義内容でわかりますように、解放後の1945年からの45年間は、慰安婦問題に対して何の認識もありませんでした。慰安婦に関する社会的・政治的関心は全くありませんでした。時として、日本軍慰安婦に関する映画や小説が公開される場合は、彼女たちは、不幸な女性たちと描かれただけでした。日本軍に押さえつけられた性奴隷というイメージは存在しませんでした。
しかし、1991年、この問題が発生した時には、いろいろな契機が作用し、今までも韓国人全体を一致させるような、一つの巨大な歴史的なトーテムとして、この日本軍慰安婦問題が浮上しましたが、私個人的には、1992年になって、そのような事件が発生できたのは、「反日種族主義」が充分に成熟していたからだと思います。1950、60、70年代までは、反共イデオロギーに基づいて国家を建て、自由民主主義の制度的基礎を作り、祖国近代化のための国民的動員があった時期だったので、反日種族主義はむしろ抑えられ、潜伏した形態として存在しました。しかし、権威主義時代が去り、いわば民主化時代へと流れていくにつれ、この国民を国家的アジェンダで統合してきた権威主義時代が消去されるとともに、我が韓国人をとらえていた種族主義的感情、そして、この種族主義の基礎となる「物質主義」ないし「肉体主義」のような感情が爆発したのではないかと思います。これに関しては、以前の「反日種族主義を打破しよう」という講義で、私が行いました「反日種族主義の神学」というタイトルの講義を一度ご確認いただければ、と思います。
この慰安婦問題と関連して、今まで言及する機会がなく、最後の機会に後回しにしてきたことですが、朴裕河(パク・ユハ)教授と、この「帝国の慰安婦」という本について申し上げたいです。この本は2013年に「プリワイパリ」という出版社から出版されましたが、出版の直後には、国内は勿論、日本でも慰安婦問題をめぐる歴史的矛盾を総体的に、深層的に解剖したという好評を得ていました。国内の言論も、いわば左派・進歩と呼ばれる言論でも、この本に対する書評が好意的だったことを私も覚えています。しかし、以降朴裕河教授は、この本のために、元慰安婦の9人から名誉毀損を理由として、彼女たちの名義で、訴訟代理人によって提訴されるような苦難を受けており、未だに4年近く裁判が最高裁に係争中の、そのような苦難を受けていると聞いています。この「帝国の慰安婦」と、以降の裁判過程において、朴裕河教授が裁判で弁論をした内容が、この「帝国の慰安婦、法廷での1460日」という本、また、朴裕河教授を批判した多くの人々、特に知識人達の朴裕河教授に対する批判が論理的にも、実証的にも、多くの問題点を持っていることを告発した、「帝国の慰安婦、知識人を語る」という3冊の本を視聴者の皆様にご紹介をし、まだお読みでない方々は、一度ご一読願いたいと思います。私がこの講義の中で行った相当部分は、この「帝国の慰安婦」という本と、それ以降の法廷闘争過程で、詳細に明らかにされたものです。この「帝国の慰安婦」を訴えた元慰安婦の訴訟代理人達、いわゆる「ナムヌの家」やその他の運動団体の主張は、「日本軍慰安婦は純潔な少女たちであった」、「この純潔な少女達が、ある日突然日本軍によって拉致された」、そして「慰安所という場所に連れて行かされ、集団強姦をされた」の3つです。「純潔な少女達だった」、「強制拉致された」、「集団強姦された」、従って、「これは軍による戦争犯罪だ、国際社会が禁じている奴隷制を犯した、日本軍の戦争犯罪行為だ」のようなものです。そして、その3つの、我ら韓国人達の四半世紀に渡って蓄積された「常識的理解」に反して、慰安婦たちを売春婦と理解されそうな記述をしたから、その売春という言葉を「消せ」と、また、本の中の34ヶ所の関連部分を削除するよう、「帝国の慰安婦」のパク裕河教授は、そのような行政処分を受けました。しかし、朴裕河教授は、自発的であろうが、非自発的であろうが、強制的であろうが、売春は事実である、売春をして報酬をもらう抑圧され管理された市場であったことは
諸事情から見て、否定できないことであると、その実態を正確に見なければならない、純粋な少女像が全国に70ヶ所建てられているという、少女像が象徴する14〜5歳程度の少女たち、短髪少女達が軍により、拉致されたのではないと言っています。一部は既に売春産業に従事していたのか、あるいは家出をして、貧困と家長の暴力から逃げて彷徨った後、人身売買の組織に連れられていった女性たちでしたが、純粋な良家の拉致された少女達というのは当時の実態とは異なると、そして、道端で通りすがりの、或いは川で洗濯をしていた女性たちを拉致したとのように話をしているが、そのような証拠は、今まで一件も発見されたことがないと、朴裕河教授は、勤めてその全ての史料を提示しています。そうしながら、今はそのような「奴隷狩り説」、「強制連行説」を主張する人は、国内でも、日本でもほとんどいない実情であると言っています。「帝国の慰安婦」という言葉の中には、慰安婦と日本人との同志的な関係というニュアンスがあります。しかし、朴裕河氏は、「慰安婦という制度そのものは、帝国主義、国家、男性による女性に対する支配が作り出した現象であると、当時の朝鮮人たちは法的には、日本帝国の臣民であった。従って、心にもないその努力を強要されたということより、帝国のために、日本軍兵士達の面倒をみるというような、心と姿勢が全くなかったのではない。それはこの慰安婦制度が持っている、複雑な側面を露わにするものであり、この『帝国の慰安婦』というのは、そういう内容を表す表現である、決して、日本軍が創設して運営した慰安婦制度を美化するか、日本軍の責任を免れるためのものではない」と主張しています。
それで、私がこの本を読み通してみて、朴裕河教授も指摘していますが、韓国の知性社会が実に大きな危機に瀕しているということがわかりました。朴裕河教授もそのように指摘しています。「批判する法学者や社会学者達、また文芸批評家達は、『慰安婦達は純潔な少女であった』、『強制拉致された』、『集団強姦された』という3つの史料によって裏付けられていない認識が固着された状態にいる、むしろ売春という文字を『消せ』と主張することにより、彼らは現実的に存在している、今も存在している売春産業に従事している女性達への差別意識を露骨化している。売春婦というと、むしろ日本軍にやられても良いという、家父長的な暴力的な心情を表しているのではないか」と、朴裕河教授は批判しています。その批判は、私が客観的に判断しても正しい批判だと思います。とにかく、朴裕河教授の指摘通り、韓国の知性社会は大きな危機に陥っています。この慰安婦問題が提起されて以来、今までの28年間、韓国の、この問題に関しての責任のある歴史学会が公式的な反応を示したこともないまま、彼らは平然と慰安婦数万人説、または20万人説を今もなお教科書に記しており、また、勤労挺身隊として女性たちが行って、慰安婦になったとの、でたらめな歴史叙述をしています。どの歴史学者たちも責任を持ってこの問題に対応しませんでした。帝国の慰安婦の問題で朴裕河教授が苦難を受けていた時に、いわば自ら韓国の進歩と自称する歴史家の中で、誰一人、朴裕河教授のために、公開的に弁論した人はいません。これ自体が、深刻な精神的危機状況を表しています。私は、本質的に彼らはファシストだと思います。本の表現を消せとういのはとんでも無いことです。日本帝国主義時代に日本憲兵が本の内容をむやみに削除して、本に穴が多数あったような、そういう発想、全体主義的発想をもって、この記憶以外に他の記憶を持つ自由はない、そのような記憶を持つと反民族的だ、のような乱暴な心情で、一人の研究者の研究の自由、学問の自由を制約していることは、深刻な危機的現象であると言わざるを得ません。私も、この講義で何回も強調しましたが、多くの慰安婦女性達に告白を強要し、彼女たちのかおっを露出させ、デモ現場に連れ回し、わずか2〜3年に過ぎなかった彼女達の慰安婦生活を暴露することで、彼女たちの70〜80年の全人生を消すような慰安婦運動団体の暴力的運動方式、それをまた好んで受け入れる韓国人たちの心性の態勢、それ自体がまさに種族主義的暴力性を、遺憾無く露出しているのではないかと、私は思います。この慰安婦問題によって、韓国の知性社会は、事実上、解体されてしまいました。韓国の外交は、事実上、麻痺していると思います。慰安婦運動家の何人かが、外交部の天辺に座り、外交部の対日政策を牛耳っています。慰安婦の何人かが車椅子に座って現れると、誰もその前をさえぎることのできない、全能な精神的権力として君臨しています。正常的な国民国家の知性と外交と呼ぶことができません。この対価をどう払うつもりなのか、この国が、果たして、どのような精神状態で、そのような能力を持っているのか、どのような破綻が我々の前で待っているのか、そのような、怖くて心配でこの講義を今まで続けてきました。今日、最後の講義のために、朴裕河教授の本を読み、その点をもう一度再確認しました。今まで、今日の講義も含めて16回の講義をご覧下さった視聴者の皆様、本当にありがとうございました。以上です。

李承晩TV 果たして『奴隷労働』だったのか。
洛星大経済研究所研究委員 李宇行(行の間に氵が入ります)氏

日本語翻訳:鈴木喜久子

今日は2回目の講義として「果たして“奴隷労働”だったのか」という点でお話しします。日本に渡った朝鮮人は「強制」で「奴隷」のように働いた。これが学会の一般的見解であり国民的常識です。「強制連行」を初めて主張した朴慶植は「多くは1日20時間」働いたが賃金は「現金では払われずみな貯金」され「送金は到底考えられず、自分1人が生きていくのも大変な水準」だったと主張しました。また賃金自体が「日本人の半分程度」にすぎなかったと言いました。彼によると、朝鮮人は炭鉱の坑内労働のような「一番過酷な労働」に疲れはて、殴る蹴る、集団リンチや監禁、このようなことが日常的だったと言いました。結局「強制労働」、「奴隷労働」だったというのが核心的主張でした。今日までも大部分の研究者達が全く同じ主張を繰り返しています。〈日帝占領下強制動員被害真相究明委員会〉委員長を務めた全キホ教授は、「日本人が忌避する辛く危険で汚い仕事」を朝鮮人がするように強制的に配置し、額のこずかいを抜き、残りをみな強制的に貯金するようにした。このように書いています。また「民族的賃金差別」が明らかだと主張しました。それとともに「鞭と暴力」そして「監禁」をとおし「自由と自律が全くなく」、朝鮮人を「監獄的」に、「奴隷的」に待遇したと言いました。大部分の反日種族主義の立場に基づいて行われた韓国の研究、そして日本のいわゆる「良心的」知識人、社会団体の人々が主張したようなこのような事実は歴史的事実とは全く違っているというのが今日お話ししようとする内容です。
誇張を超えて歴史的歪曲、強く言えば「捏造」と言えます。賃金は基本的に正常的に支払われ、強制貯金が確かにありましたが、それは日本人についても同じでした。そして2年の契約期間が終わると、みな正常的に利子とともに引き出し、朝鮮にいる家族に正常に事故なく送金することができました。賃金は基本的に成果給でした。それは日本人も同じでした。従って日本人より賃金が高い場合もたくさんありました。日本人より賃金が低い場合はほとんど朝鮮人が炭鉱の作業の経験がないため、生産量が少なかったからです。業務中殴るといった前近代的労務関係がないわけではありませんでした。が、それは日本人についても同じでした。しかし生活はとても自由でした。夜通し花札をしたり、仕事が終わると市内に出かけ飲み過ぎ、次の日出勤できないということも多く、ある人は酒と朝鮮女性のいるいわゆる「特別慰安所」というところで月給を使い果たすほど、彼らは自由でした。
今お見せするこの写真を通し、誠信女大徐慶徳教授はニューヨークのタイムズスクエアーで映画《軍艦島》を宣伝しました。腹ばいになり炭を掘る朝鮮人の姿だと広告したのです。このように反日種族主義に傾倒した「作業上または作業配置上の差別」を主張する研究者の視角がよく顕れた写真です。次のこの写真が上の写真の原本です。この写真もまた国立日帝強制動員歴史館に展示されました。しかしこの写真も戦争の時、日本に行った朝鮮人の写真ではありません。この写真は実際には日本の写真作家、斎藤こういち氏が1950年代中盤に、貧しい日本の庶民の生き様を盛り込んでという目的で、筑豊炭田地帯のある廃鉱、つまり作業をしなくなった炭鉱で石炭を盗掘している場面を撮影したものです。斎藤氏はそのフィルムを今も所蔵しています。
韓国の研究機関、国家機関と徐慶徳氏が日本人の肖像権や斎藤氏の著作権を無視した結果となりました。また、アメリカまで行って日本人を韓国人だと無理を言い張り、我々がこのようにやられてきたんだと、でたらめな写真で扇動したことになってしまいました。国際的な恥です。韓国の反日種族主義をアメリカ人たちがどのように考えるのか、本当に恥ずかしい話です。
斎藤氏は昨年国立歴史館を訪問し抗議し展示を中断するよう要求しましたが、歴史館側では基本的に「強制動員」の実像がそれと同じなので、続けて展示するつもりだと言ったそうです。
少し前に見られたのと同じ採炭方式は基本的に19世紀後半の日本の炭鉱で炭を掘る方式でした。しかし日本の鉱業は20世紀に入り急速に発展しました。この写真は鍬ではなく、coal pick つまり空気圧縮式削岩機を使用し採炭する姿ですが、1934年の写真です。1930年になると日本の炭鉱の大部分の坑道はこの写真のようなすがたでした。ここで腹ばいになって石炭やら鉱石を掘る理由がどこにありますか?何の根拠もない宣伝扇動であり、歴史歪曲だとしか言いようがありません。結局朝鮮人たちを意図的に辛く危険な作業に配置したという主張です。
たとえば、炭鉱で坑外よりは坑内、坑内でも一番難儀で危険な仕事、つまり炭を掘る採炭夫、抗を掘り進める掘進夫、坑道が崩れないよう木材などで構造物を造る支柱夫、このような仕事に朝鮮人を配置したと言います。しかし、このような作業現場での民族差別論は事実と全く違っています。
まず多くの人々が証言するのに、日本人は同じところで一緒に仕事をしたと言います。朝鮮人と日本人がそれぞれ4名と3名、3名と2名、このような方式で作業組を組んで一緒に仕事をしたのです。日本人と朝鮮人が一緒に作業をするのに、どうして朝鮮人だけが難儀で危険な仕事ができますか?炭鉱の勤務実態について全くわかっていない人が言える、でたらめな話に過ぎません。
炭鉱技術の歴史を見ても作業配置においての民族差別という主張は全く根拠がありません。1930年頃から日本の炭鉱では2つの大きな技術革新がありました。まず第一は長壁式採炭という新しい技術です。過去においては少数、つまり2〜3名が1組になり炭脈にそって何組かが目まぐるしく掘っていく方式でした。従って多くの石炭が底まで採掘されないまま残るようになりました。ところが長壁式採掘法では、少し前にご覧になったように、大きな坑道を炭脈にそって長く掘ります。その長さがなんと200メートル以上になる場合もあります。この時、朝鮮人と日本人5〜6名が一つの組みになって、各組みが5〜6メートルほどの間隔で並んで一斉に作業をするのが長壁式採炭法です。この方法によって以前よりずっと効率的に、炭脈全体の石炭をみな完璧に掘り出せるようになりました。
2番目の技術革新は機械化でした。1929年世界大恐慌以後、日本の鉱業にも人件費を削減するため機械化が急速度で推進されました。先に削岩機を使用する姿を見られましたが、ここでは1934年にcoal cutter 、すなわち石炭裁断機が使用されているのを見ることができます。朝鮮人が配置された大規模な炭坑ではこのように機械が大きく進展していました。石炭を運ぶコンベアも広く使われていました。
長壁式採炭法についてお話ししましたが、もし朝鮮人だけで作業組を組んだとしましょう。この時もし、朝鮮人作業組が高い熟練度を要求されるとか、または危険な切羽にであったとすれば、結局朝鮮人だけで構成された作業組が担当した切羽は、ほかの坑道と違って突出してしまいます。そうなると全体の作業組が一つの大きなコンベアを使っているのに朝鮮人が担当する坑道だけがとびだし、一文字に置かれたコンベアを同時に一直線に炭脈に沿って移すことができなくなります。従って朝鮮人の一つの組のために全体の採炭作業に大きな損失が発生します。このような理由で必ず朝鮮人と日本人を一つに組んで、作業組を編成しなければなりませんでした。機械化はそれ自体が朝鮮人による独立的作業組の編成と作業自体を不可能にしました。
それまで農業しか知らない朝鮮人が機械式ドリル、圧縮式削岩機、小型ショベル、コンベアを操縦しようとすると、長い期間の訓練と、機械に対する知識が必要でした。しかし契約期間2年が過ぎると、朝鮮人は大部分故郷に戻ってしまいました。機械化によって火薬、ダイナマイトの効率性もぐっと高くなりました。ノミと金槌の代わりに機械式ドリルで穴を開けるようになりました。それで以前よりずっと深く穴を開けることができ、深く爆薬を設置することで、一挙に大量の石炭を粉砕できるようになりました。これをブラスト式採炭と言い、このような技術が急速に拡散されました。それによって熟練された鉱夫の必要性も更に大きくなりました。なぜかというと、爆薬が広範囲に利用され、坑道が崩壊したり、天井が崩れる落盤など、坑道での事故発生の可能性も同時に高まり、こうなった場合多くの鉱夫が死亡したり大けがをしたりする大規模な炭鉱事故が起こりえるからです。これを未然に防ぐには熟練された日本人を経験のない朝鮮人と一つに組んで一緒に作業をさせるしかありませんでした。
「労働環境において民族差別」という主張は多くの経験者の証言に反しています。石炭鉱業に対する無知、また当時の技術に対する無知、そして反日主義的先入観に 基づくこのような主張は事実と合っていないばかりか、論理的にも合っていません。結局「労働環境においての民族差別」という主張は想像の産物であり、歴史的歪曲にすぎません。
反日民族主義に陥った労務動員関係研究者たちが主張する「作業上または作業配置上の民族差別」について、彼らの提示する根拠は、産業災害率、つまり作業中の死亡率と負傷率において朝鮮人側が日本人より断然高いという点です。これははっきりした事実です。1939年1月から1945年12月までサハリンを含む日本本土の炭鉱で死亡した鉱夫は全部で10330人でした。1943年、日本の主要炭鉱での朝鮮人の死亡率を見ると、朝鮮人が日本人より2倍ほど高くなっています。同じ年、炭鉱鉱夫中の朝鮮人は11万3千余名でした。日本人は22万3千余名でした。軍人として徴兵された日本人はみな青壮年層でした。このことは炭鉱においても同様でした。炭鉱で徴兵された日本人は、坑外よりは坑内部、坑内部でも比較的強い腕力を持ち、危険度の高い作業に従事していた採炭夫、掘進夫、支柱夫出身者が多かったです。炭鉱でこの空席を埋めたのが、まさに朝鮮から渡ってきた青年たちでした。日本の本社から朝鮮に派遣された職員は当然腕力があり、危険な仕事もこなせる健丈な青年たちを募集したためです。その結果炭鉱での配置、つまり職種分布は朝鮮人と日本人の間に大きな差が出てきました。1943年日本人は60%が坑内部だったのに対し、朝鮮人はなんと92%が坑内部でした。また坑内部の中でも採炭部、掘進部、支柱部この三つの職種が占める比率は日本人の場合約38%にすぎませんでしたが、朝鮮人は70%以上でした。つまりこれら3つの仕事を受けた朝鮮人の比率は日本人より1.9倍も高かったのです。その結果一番危険な作業を受け持った朝鮮人の比率が日本人の2倍も高く、朝鮮人の死亡率が2倍近くまでなりました。
今までお話ししてきた状況を考慮すると、朝鮮人の災害率や死亡率が日本人より高かったのは、朝鮮人が行う作業と朝鮮人労働者の肉体的特徴のため不可避的なことでした。戦争以前も日本の大規模炭鉱会社では、朝鮮から鉱夫を募集し採用していました。この時も朝鮮人の坑内部比率と坑内部中3つの重要作業を担当した坑夫の比率は、1939年から1945年まで戦争期間のように、日本人よりも比率がはるかに高かった。このことは勿論、若く健丈な朝鮮の青年たちがお金を儲けるため日本に行ったからです。1941年、北海道の6つの主な炭鉱の場合も同じことが言えます。朝鮮人は、坑内部が抗外部より1.4倍多いです。6カ所の炭鉱の朝鮮人の死亡率と日本人死亡率を比較計算してみると、朝鮮人が日本人より最低1.3倍から最大3.0倍高くなっています。AとF 炭鉱では朝鮮人の死亡率が日本人より1.4倍くらい高いです。死亡率と重症率の合計でも、似たような内容を見ることができます。坑内部の比率が高ければ高いほど、またその中でも3つの重要作業従事者が占める比重が高いほど、死亡や負傷のような災害発生率が高くなりました。たとへば、朝鮮人の災害率が高いのは人為的な「民族差別」ではなく、炭鉱の労働需要と朝鮮の労働供給から生まれた自然な結果と言えます。
もし、朝鮮人の相対的に高い災害率に対し、日本人の責任を問うならば、それは、粗悪に朝鮮人を危ないところに故意的に追い込んだと主張するのではなく、なぜ戦争を起こしたのか、このことに対して責任を問わなければなりません。さらには一世代前、朝鮮を植民地にしたその先祖の行動について責任を問うべきでしょう。戦時期「作業配置上の民族差別」問題は人為的なものではなく、労働需要と労働供給から生じた自然な結果であることをもう一度強調したいと思います。今日は客観的実体、実体的な歴史事実と、それに対し合理的な説明を通し、いわゆる「作業配置上の民族差別」という主張が持つ虚構性、もう一つの歴史歪曲を明らかにするという本来の目的に合わせ講義しました。ありがとうございました。

竹島(独島)、反日種族主義の最高の象徴
ー李承晩TV、李承晩学堂の校長、李栄薫ー 日本語翻訳:鈴木喜久子

事実と自由を追求する李承晩TV視聴者の皆さまこんにちは、危機の韓国の根源、反日種族主義連続講義、今日の主題は竹島です。竹島は今日の韓国人を支配する反日種族主義の最も熾烈な象徴です。それで、今日の講義の題目も竹島(独島)、反日種族主義の最高の象徴、このようにつけてみました。
南北韓を合わせて韓国民族主義の最高の象徴を挙げるとすれば、やはり白頭山だと言えます。しかしながら白頭山は朝鮮時代以来それなりの意味で大きな象徴として続いてきました。そこのは反日種族主義が表面に直接g現れず、底辺に潜伏したと言えます。反面、竹島はそうではありません。順次お話していきますが、朝鮮時代には竹島に関する認識がありませんでした。竹島の認識は大韓民国成立以後、それもさる20年の間に、急に反日民族主義の象徴として造られたものです。皆お分かりのことと思いますが、竹島は韓国と日本が争っている、解決が不可能に見える、韓国人の立場において譲歩不可能な象徴です。それで最も熾烈な象徴だと言えるのではないでしょうか。
それだけに竹島に対する今日の私の講義は大衆からの攻撃を招く危険性があります。そうまで危険を犯してまでも、この講義をする必要があるのか、と心配される方がいらっしゃいます。そのような心配に対してはありがたいと思っています。しかしながら私は1人の知識人です。大衆の票で生きていく政治家ならば大衆の反発に当然神経を使い対備しなければなりませんが、私は政治家ではありません。一人の知識人です。知識人が大衆に気を使い言うべきことを言わなかったり、文の論調を変えるとしたら、その人はもはや知識人ではないだけでなく、そのような知識人の社会は希望がないと考えます。
先進社会の国民は即世界人でもあります。世界人の観点から自身の属する国家の利害関係さえも、公平無私の観点で見つめなければならないと思います。それがすなわち世界平和の原理ではないかと考えています。私は1人の知識人として、一人の世界人として、我々の憲法が、また国際自由世界が保証する、良心の自由、思想の自由、学問の自由を信じ、自らの所信に従って発言するだけです。
実は去る2016年6月、鄭奎載(ジョンキュウジェ)TVに出て「漂流する島」という題の講義をしましたが、竹島(独島)に関するものでした。その時も心配しましたが、大きな反発はありませんでした。いわゆる左派民衆勢力の無関心のためでもありましたが、実証においても論理の点でも、私の講義に批判の材料を見つけるのは簡単ではないだろうと自負しています。今日は前の講義の繰り返しはしません。40分の講義でしたが、その講義を要約し、当時紹介できなかった、強調できなかった資料や論理を展開していくつもりです。
また、前の講義は1905年までの歴史でしたが、今日は大韓民国成立後、特に竹島が反日種族主義の象徴として持ち上がってきた最近の20年間も扱っていこうと思いもいます。
今日韓国の国民や政府が竹島は歴史的に韓国の固有の領土だ、と信じ主張する一番重要な根拠は、竹島が于山島(ウサンド)という名前で新羅以来王朝の支配を受けたという事実です。以前の講義で紹介しましたが、この于山島の最初の出現は『三国史記』です。三国史記新羅本紀智證王13年世紀512年のことです。東海に于山国がありますが、新羅に立ち向かいましたがイサブ将軍が征伐します。以後新羅に服属しましたが、その時、あるいは鬱陵島(ウルンド)とも言うといい、于山国の地域別称が鬱陵島だったことが三国史記に明白に表現されています。
ところで私はこの記事から、6世紀初め于山国という一つの政治単位に、今日の独島(竹島)が含まれていたということを証明するのは論理的に不可能だという点を指摘したことがあります。
于山という地名、島が歴史の本に再び登場するのは、それから800年が過ぎた15世紀初め、朝鮮王朝で編纂した『高麗史』と『世宗実録地理誌』という2つの歴史の本です。その間、特に高麗がモンゴルに服属した以来から、韓国史が海から撤退するという大きな変化がありました。新羅は我々が考える以上に大変活発な海洋国家でした。海洋国家だったため海に対する幻想などあり得ません。それに比べると13〜14世紀の高麗王朝は海から引き上げた状態です。そのような状態で海に対する幻想が特に東海を舞台にしたいくつかの幻想が創り上げられました。そういう観点から今からお見せするこの地図を考えてみる必要があります。この地図は韓半島に関する最初の地図です。1405年に朝鮮王朝初期に学者達が世界地図を描きましたが、世界地図の中で2番目に大きい国として描かれているのが朝鮮王朝です。前の講義では紹介しませんでしたが、15世紀初め朝鮮人たちの持つ国土に関する観念、地理観をよく表しているので紹介しています。ご覧のように東海(日本海)には結構大きな島々がずらっと連結されています。こんな島は存在していません。存在していないのですが、内陸に閉ざされた文明であるため海に対する幻想が、新羅時代にはなかった幻想が生じていく姿ですが、于山島が1405年には幻想の島として実際存在する姿をこの地図から見ることができます。
そういう観点から続いて出てくる世宗実録地理誌に我々韓国人なら知らない人がないという歌にも出てくる、実録地理誌の記事を検討する必要があります。このお見せしている画面は世宗実録地理誌の于山と武陵に関するものですが、于山と茂陵二つの島は蔚珍懸ま東の海の中にあります。そして二つの島は互いにあまり離れておらず、風と陽が穏やかであれば眺めることができる。歌までありますね。まさにこれを根拠にして武陵(ムルン)は鬱陵島(ウルルンド)、于山(ウサン)は独島というのが韓国の国民や政府の主張です。 先にお話したように三国史記には于山国の地域別称が鬱陵島でした。そうであった于山国と鬱陵島の関係がここでは天気がよければ互いに眺められる二つの島に分離されています。
ところで今日于山が竹島だと主張していますが、私が以前の講義で指摘したように、この記事だけで、ここでの于山が鬱陵島であると断定できません。なぜなら、二つの島の距離、方向などこの記事だけでははっきりしていないからです。鬱陵島でもあり得るし、そうでなくもあり得るので、検討してみたいと思います。これより少し時期が過ぎると一つの地図が描かれます。
15世紀当代の朝鮮人達が二つの島の関係をどのように考えていたのかを示す最初の地図が今画面に出ている地図です。1530年に編纂された『新増東国興地勝覧』という地理図に出てくる八道總圖という地図です。この地図は歴史上初めて鬱陵島と于山がお互いどのような位置関係にあるのかはっきり提示したものです。于山島は鬱陵島より小さく、半分ほどの大きさで描かれ、鬱陵島の西側つまり蔚珍懸と鬱陵島の間に横たわるこのように絵で描かれています。
我が大韓民国の外務省はこの地図を、于山がすなわち独島だと主張できる根拠として重要視し提示しました。そして、中・高の韓国史の教科書もこの地図を根拠に于山島は鬱陵島だったと教えています。しかし私はそれに同意できません。なぜなら、ご存知のように竹島は鬱陵島の東南87kmに所在しています。ここは鬱陵島の西に所在しています。方向が違っています。この地図を根拠に于山島が竹島だと主張するのは、小学生に東西南北を混同させて教える暴挙と同じで、悪く言えば、わがままを言い通せ、意地を張れと言っているのと同じではないかと思います。実際に日本のインターネットを検索してみると、日本の少なからずのネテイズンたちが韓国の外務省にこの資料が提示され、韓国政府は東西南北も区別できないのかとあざ笑っています。
以後多くの地図が描かれました。その全ての地図に、于山島の位置はそれぞれ違っています。この点を私は以前の講義でも力を入れて強調しましたが、今日ももう一度この点を強調しようと思います。お見せしている画面は4つのサンプルだけを提示していますが、一番左にあるこの絵は少し前にお見せした八道總圖と同じく鬱陵島西方と蔚珍の間に于山島があり、二つ目の絵には鬱陵島の南側に于山があります。3つ目の絵には鬱陵島の東側に于山島があります。四つ目の絵には鬱陵島の北東側に于山島があります。于山島の大きさや鬱陵島との距離も様々です。
このような地図が合わせて116枚です。16世紀17世紀18世紀19世紀まで、合わせて116枚の朝鮮全図や江原道の地図で、于山島の位置はそれぞれ違っており、鬱陵島との距離や鬱陵島と比較した大きさもそれぞれ違っています。その116枚の地図を分析した研究成果を総合してみると、17世紀まではたいてい于山の位置が鬱陵島の西側で描かれています。そうして18世紀になると鬱陵島の南側に移り、19世紀になると東側に、そしてだんだん北東側に移動するという傾向にあります。それで私は先に于山島を指して“漂流する島”といったわけです。
つまり朝鮮王朝は于山島に位置を特定できませんでした。鬱陵島東南87kmに所在する独島を客観的に認知できなかったのです。なぜなら于山島それ自体はいつからか、14世紀末から15世紀に生じた幻想の島として、ずっときたからです。
18世紀以後于山島が鬱陵島の西側から南側に、東側に漂ったことに関連しては、1693〜1696年の間にあった安龍福事件を考慮する必要があります。これもよく知られた事件です。朝鮮王朝は1405年以来、長い間鬱陵島を空けておきました。空島政策といって人を住まわせませんでした。すると17世紀以後に東海岸側にいる日本の漁民たちがこの鬱陵島を竹島だと呼んで毎年定期的に来ては漁も捕り、木も切って、そのように行き来しました。そうしているうちに鬱陵島は日本の領土だと考え始めました。長い間空けて置いたため自然にそういう変化が自然発生的に生じたのです。1693年釜山の安龍福という人が蔚山を経て、鬱陵島に数人の人々と共に漁を採りに行きました。すると鬱陵島にすでに日本の漁民がいるのを発見し互いに衝突しました。双方の記録は違っていますが、安龍福は日本の漁民について行ったのか、捕まったのか日本に行きます。日本に行って鬱陵島は朝鮮の領土だと主張します。そうして対馬を経て釜山に帰ってきます。これを契機に朝鮮政府と日本政府、東京の幕府と外交的交渉が展開します。日本は朝鮮政府の立場を通報を受けた中で、鬱陵島が歴史的に朝鮮の領土であることを認め、日本の漁民はこれからは鬱陵島に航海できないという、鬱陵島航海禁止令を発表します。
ところがこういう事実をまだ知らずにいた安龍福は1696年に再び鬱陵島を経て日本に行きます。日本に行って鬱陵島だけでなく、日本人が松島と呼ぶその島、それが今言う独島ですが、日本語のタケシマという、そのソンド(松島)と呼ぶ島も朝鮮の領土であると主張しました。その根拠として江原道の地図を提示し、この地図を見よ、ここに于山島があるじゃないか、この于山島が歴史的に我々の土地なのだ。それなのにあんたたちはそれをマツシマと呼び自分たちの領土だというが、それは間違っていると主張しました。つまり安龍福は我々の歴史上于山島を実際に目撃した最初の人物でした。
ところで日本は安龍福が個人的に勝手に国境を離脱したので朝鮮に追放します。江原道に戻った安龍福はソウル(漢城)に押送され、牢屋に入れられます。司憲部は安龍福が勝手に国境を離脱したので死刑にしなければいけないと主張しますが、領議政(太政大臣)が安龍福を弁護して、安龍福という人物のおかげで、日本が鬱陵島航海禁止令を下した、その功が大きいので死なせてはならないと言って、流刑に処されました。これが安龍福事件です。
要するに安龍福はそれまで地図だけで見ていた于山島を日本人を通して発見しました。その当時日本人が松島と呼ぶ今日の独島、その島でした。しかし、朝鮮王朝は安龍福のそのような主張に何ら関心も示しませんでした。“あなたが于山島を発見したというのか?どこにあるんだ?”というような関心を示さず、また官吏を実際に派遣して島を踏査することもしませんでした。朝鮮の為政者たちはどこまでも、鬱陵島だけに関心を置き、色々な地理書や地図に書かれている于山島には何らの関心も示しませんでした。
以後1699年、3年後に朝鮮王朝は官吏を鬱陵島に派遣し、人が住んでいるのか、日本人が住んでいるのか、日本人が果たしているのかいないのか監察しました。以後、3年間鬱陵島を監察した。
それで東海岸の蔚珍、三歩府と鬱陵島の間にあった地図上の于山島が無くなったのです。往来してみるとそこには島などないので、自然にそのような認識が拡散され、于山島は南側か北東側にさ迷い始めたのですが、このことに関しては前にお見せした通りです。このような事態が19世紀末までずっと続いてきました。
今お見せしているこの地図は1899年大韓帝国の学部(文部省)が描いた“大韓全土”です。伝統的方式の地図です。ただ、緯度と経度が表現されていて以前のものよりずっと正確になった。しかし完全に科学的方式で測量された地図ではないと見ますが、伝統的地図の最後の形態だと言いましょう。ところで鬱陵島の部分を拡大してみると次のようです。すなわち于山というのが鬱陵島の北東側、今日の竹島ですが、そこに于山が描かれているのが見られます。つまり歴史的にさ迷っていた于山は、今日鬱陵島の北東側に竹島を最終終着地としたと言えます。今日の地図をお見せします。鬱陵島全体、島です。鬱陵島全体、島の北東側に今日の竹島があります。次にその上に観音島という島があります。今は島で連結されました。ところで鬱陵島周辺に名前のある島は竹島、観音島2つしかありません。つまりこれ以外に小さな島があることはありますが、そこには人が住んでいないため、人が暮らせば島の名前ができます。
鬱陵島周辺に竹島と観音島がありますが、また大韓帝国の全図に戻ってみると、大韓帝国が最後に描いた大韓全図で、この鬱陵島の部分を拡大してみると、歴史的にさ迷っていた于山が今日の竹島を指しているということを確認することができます。
要約します。朝鮮王朝500年に渡って漂流していた于山島は19世紀末に至り、今日の竹島または観音島を終着地としました。そのように朝鮮王朝は19世紀末まで独島(竹島)の所在を客観的に認知できずにいました。朝鮮王朝が描いたいかなる地図にも、今日その位置に独島(竹島)がないだけでなく、今日の韓国人が主張する于山島もあちこちさ迷うなか、19世紀末には鬱陵島北東に竹島や観音島に付いているためそうなのです。
ところで1900年におかしなことが一つおこりました。1881年から朝鮮王朝は鬱陵島を解放しました。それで人々が島に入って暮らし始め、1900年にはすでに人口が1000名になりました。そんな中で日本人も約100名ほど暮らしましたが、主に独島(竹島)周辺でアシカ狩りのためでした。こうなると朝鮮王朝は鬱陵島を鬱陵郡に昇格しました。昇格し勅令41号を発表します。鬱陵島を鬱島に改称し、島監を郡守に改正すること、郡庁の位置は台霞洞と定め区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄するとこのようになっています。竹島は少し前にお見せした竹島で、この石島が問題です。この石島が何なのか?どうしても理解できないのは、一年前に描いた地図には于山がありました。1899年までを見ても鬱陵島に付属した島は于山でした。新羅時代以来のその于山が跡形もなくなり、突然竹島と石島が現れました。于山はどうして消えてしまったのか?これはどうにも納得し難い現象です。512年からこの島は于山でした。1899年まで1400年近く続いてきた于山が突然消えて無くなり竹島と石島が現れました。どうにも納得できない謎です。
一言でいって朝鮮王朝の地方行政体制は実質的だとか合理的ではありませんでした。科学的に地方行政区域を測量し、地方行政区域を地図で描かなかったのです。科学的に測量した地図とともに、行政区域とその名称を確定しなかったのです。そういう状態で何か新しい契機が生じ、以前まで于山と呼んでいたその伝統を破棄し、全く新しい竹島と石島という名前の勅令を発表しましたが、同時に地図も一緒にしなければいけませんでした。しかし地図を描いて一緒にくだしませんでした。朝鮮王朝の地方行政制度が持つ乱脈ぶりが、今日の混乱を引き起こしています。こういうことができます。1899年だとすでに大韓帝国は全国を近代的な科学測量法でその各区域を確実に描かなければならなかったでしょう。そうしませんでした。まさにここに混乱の根源があると言えます。
ところが今日の韓国政府と研究者たちは一様に勅令41号に出てくる石島を東南87km海上にある独島だと主張しています。その主張の論理は次のようです。石島の石は石を意味し、慶尚道や全羅道の方言では石(トル)は“トク”ともいう。それで石島を韓国の音で読むと“トクソム”(tokseom)になるがその音をまた漢字で表現してみると、“独りの独”という漢字を借りて書くようになった。それで独島という、独りの独(ドク)、島の(ド)、独島(ドクト)になったのだ。そのように主張します。この主張は政府も、有名な学者もみなします。独島研究者としてこの主張に同調しない人は誰もいません。しかし私はこれも無理強いだ、正直言って恥ずかしい無理強いだと考えます。他の文字を借りて借音するのは、ある意味を正確に代弁する漢字がないとか、漢字がわからない時に表れる現象です。
ところで我が韓国は世界でも1、2を争う漢字文明圏です。石の島という意味を当時鬱陵島の住民たちが、1880年からそこにいた人たちが独島を石島だと郷音で呼んだとしたら当然漢字では石島と表現するべきです。漢字文明圏なのですから。借音をする必要がありません。敢えて“独”という単語の漢字の音を借りて表現する必要がないほどに、トルソムは石島と表記しなければならず、他の代案はありません。また石(トル:tol)を表現する韓国固有の漢字、国字と言います。国字があります。石の字の下に“乙”を書いてトルと読みます。それでこの字もあります。この字もあるのになぜ“独”という漢字を借りて使ったのか。この字も広く使われていました。こういう字があるのに敢えて別の漢字の音を借りた、こういうことは考えにくいことだし、また納得しにくい論理です。そして何よりも客観的に見て、独島は石の島だというよりは、岩の島と見るべきです。石と岩は違います。従って石島だと石の字と島の字を漢字で書いて、わが国で使った郷音でトルソム(tolseom)という時は始めから独島でなかった可能性が大きいと思います。
私は長い間そのように考えていましたが、これといった証拠がなかったのでそのことを言及しにくかったのですが、最近一つの地図を発見したためここで紹介します。1911年に作成された朝鮮地図です。従来知られていなかった、独島研究者達が見たことのない地図ではないかと思います。1911年アメリカのサンフランシスコに暮らす僑民が出刊した李承晩の『独立精神』という本に載っている地図です。この地図の地名は全部ハングルです。ハングルで表示されている大変特別な地図です。アメリカに住む僑民達が祖国朝鮮に対する懐かしさと愛情が込められている地図ではないかと思います。この地図に独島がどのようになっているのか私が紹介します。その部分を拡大してお見せすると次のようです。鬱陵島の下に2つの島がありますが、実際は北東側にならなければいけないのですが、南側にあるので間違って描かれたものです。しかしこの島を指してトルドと表現しました。拡大してみたところ文字が若干ぼやけていますが、鬱陵島という島があり、その島に所属した小さな島をトルド(石島)とはっきり言っています。1911年当時の韓国人はトルドだ、石島イシジマだといえば、あ〜鬱陵島の横にある島を指している、そのように理解しました。
少し前の地図に戻ってみましょうか。1911年にできた地図は緯線、経線いくつかの点から、前に紹介した1899年大韓帝国学部(文部科学省)が描いた地図と同じです。大韓全図をモデルにしてここに出てくる漢字名を全部ハングル名に変えた地図ですが、そのとき鬱陵島にある、
その翌年に勅令が発表されているので、その勅令に出てくる石島を見て人々がトル(石)ド(島)と表現し、そのように表記したのが、少し前にお見せした1911に出た朝鮮地図です。
もう一度次のものをお見せしましょうか。はっきりと鬱陵島の下の二つの島を指してトルド(石島)だと言っています。つまり1911年当時我々朝鮮人はトルド(石島)を鬱陵島に隣接した島として理解し、それは1900年に勅令41号中のソクト(石島)が今日の独島ではあり得ないことを明確に立証しています。私はこの地図の資料をどうして今まで、韓国政府や独島研究者達が注目しなかったのか疑わしいです。
これまでの内容を要約してみます。朝鮮王朝はついに今日の独島(竹島)を客観的に認知できませんでした。認知したという証拠がありません。認知した後官吏を派遣した痕跡は更にありません。認知自体がなされていなかったと私は考えます。
多くの研究者は于山島を指して独島(竹島)だと言いましたが、色々な地図で見られるようの東西南北に漂う島でした。安龍福という人が1696年に、日本人が松島と呼ぶその島を于山島だと主張しましたが、朝鮮王朝はその事に対し関心を置きませんでした。一人の個人が見たものを、それは我が領土だと主張したものは法的効力がありません。当時の為政者たちはそのことについて、客観的に、その島を朝鮮の領土として支配し管理する統治行為がなければなりませんでした。それが成立したことがないのです。
また1900年勅令41号当時の石島が独島だと言い、研究者たちは慶尚道の方言がどうで、全羅道の方言がどうであるといった論理で主張しましたが、正直言ってそれらには無理があります。そんな中、石島が鬱陵島に隣接した島であることが目で立証される地図が発見されました。私が少し前に紹介したそのままです。
周知のように1904号日本は独島の履歴を調査しました。調査するようになった前後の事情については言及しませんが、そうしてからこの島が朝鮮王朝に属したことがないという結論を下し、それを自国の領土に編入させました。2年後の1906年、大韓帝国はこの事実を遅れて認知しましたが、それについて異議提起をしませんでした。
すでに日本に外交権を奪われた保護国なのでそうだったと人々は大韓帝国を弁解しますが、それも私から見るとき、どうかと思われます。第三国との外交をする権利を奪われたのであって、自身の国土と自身の民に対する支配権自体は独自的に行使している一つの国家でした。領土を奪われたら異議を提起しなければならないでしょう。大韓帝国が日本に異議を提起しなかったのは、独島に対する理解自体が不透明ななか、たとえ認知したとしてもそのことをたいして重要だと考えなかった事実のためだと言えます。まさにこの大韓帝国が何も異議を提起しなかった事実によって、今日の韓国政府は、この独島紛争を国際司法裁判部にもっていこうという日本政府の主張を受け入れることができずにいます。大韓帝国がなんの措置も取らなかったためです。これが即ちcritical point です。
ある国がある領土を支配するに於いて、周辺の国が異議を提起しなかったという事実、率直に言って韓国政府は歴史的に、独島がその固有の領土だということを証明するため、国際社会に提示できる結果的根拠を持っていません。視聴者の皆さま、非常に不愉快に聞かれたかもしれませんが、もし国際司法部で裁判が開かれたら公平無私の裁判官たちは、そのように判断することははっきりしています。 私はひとりの知識人として、また始めに言ったように一人の世界人としてこの点を指摘しなければならないと思います。
最後に1945年解放以後の事情を簡略に紹介します。1951年9月、日本と連合国の間で平和条約、即ちサンフランシスコ講和条約が結ばれた当時のことです。この条約は日本の領土の境界を決定する重要な意味を持つ条約です。当時韓国政府は連合国の一員として参与できる資格を認定されないなか、会談の主管者であるアメリカ政府に独島とパランドと対馬を日本の領土から分離してほしいと要求しました。独島、パランド、対馬。ところで韓国政府は要求はしましたが、それにふさわしい根拠を、膨大な書類とともに提出しませんでした。ただ要求だけしました。また、このパランドというのは存在しない島です。存在しない島を返してくれと国際社会に要求しました。対馬を返還しろと要求しましたが、韓国人が対馬に暮らしたい歴史の記録がありません。はじめから無理な要求でした。それでこの要求を受けたアメリカは韓国政府がどれほど誠実に真摯に問題を提起したかを疑いました。まさにこのことのため、独島に関する韓国政府の主張も、初めから重要だと真摯に取り扱うことができなかったのだと思います。韓国政府の要求を受けると、アメリカ政府のダラス国務長官が駐米韓国大使館に電話をしました。独島とパランドがどこにある島なのか?と聞きました。対馬は初めから問題になりませんでした。そうすると電話を受けた韓国政府の大使館にいたある外交官が答え、よくわかりません。独島とパランドは東海(日本海)にある島だと言いますが、正確には軽島、偽島がどうなのか、わかりませんと答えました。当時韓国政府の外交官は未熟で大雑把でした。外交というものをしたことのない新生国でした。私はこの点は不可避だったと思います。とにかくアメリカ政府は韓国政府の要求に答えました。1951年8月アメリカ国務省はジンラスク東アジア次官が韓国政府に対し、公式的にアメリカの立場を通報しました。独島、別の名前では竹島またはリアンクル岩と呼ばれることに関連し、我々の情報によると、通常、人が居住しないこの岩の塊は、韓国の一部として取り扱われたことがなく、1905年以来日本の島根県沖島管轄下に置かれていた。韓国は以前、決してこの島に対し権利を主張しなかった。二番目にパランド島を返してくれと言うが、パランドを講和条約で日本から分離された島としてくれとの韓国政府の要求は棄却されたこととして理解する。対馬は言及さえありませんでした。周知のように4ヶ月後、1952年2月に李承晩は平和線を宣布し、独島を韓国の領海に含ませました。上のようなアメリカの立場に強烈に反発したのです。この事を良かったのか、そうでなかったのかを話し始めると長くなるので言及を省略しておきます。とにかく以後、日韓間において竹島紛争が発生し今に至って続いています。アメリカは韓国に通報した方針があるにもかかわらず、日韓両国との関係が大切なため、紛争に直接介入せず、第三者的な観点で眺めています。
両国間の領土紛争は理性と法理の問題というより、興奮と感性の対象である場合が多いと思います。それで歳月が経つことによって、合理的に解決することができることが多いため、アメリカは今まで黙っていたのだと思います。この難しい問題を置いて李承晩政府以後の歴代韓国政府は、とても賢明に対処してきたと私は考えます。独島(竹島)が韓国の領土という立場を固守しながらも、相手を刺激する攻撃的立場を自制してきました。そんな立場から1965年、日本との国交を正常化しました。さらに2000年金大中大統領政府が、韓日間の漁業協定を改正し、独島(竹島)を含んだ海を両国の共同漁労区域として設定したことは非常に賢明な選択でした。当時民間のとても過激な民族主義者達が金大中大統領を非難しましたが、それに振り回されず冷静に対処しました。独島(竹島)を含んだ海全体を両国の共同漁労水域と設定したのです。
日本政府もこのような韓国政府の立場を了解しながらも、原則的水準で対応してきました。領土紛争は両国政府で適切に統制されてきて、そのために両国の友好協力関係を維持し、発展させてきたと言えます。ところが2003年盧武鉉政府の時から変わり始めました。盧武鉉政府は歴代政府の慎重だった独島(竹島)政策を破棄し、非常に攻撃的な措置を取り始めました。独島に軍事施設を置いたり、その他色々探査施設、接岸施設をしたり、住民を住まわせたり、民間の観光を推奨したりしました。
すると日本政府が強く抗議し、それがまた韓国政府と国民の感情を逆上させ、強硬な対応を呼ぶという悪循環が今に至るまで続いています。
以後韓国社会が独島(竹島)をどのように感覚したのかを最後に紹介します。2005年のことです。韓国詩人協会に属する詩人たちが、独島詩の朗読会を独島で開催したことがあります。実際には気候の関係上行くことができず、鬱陵島で行いました。その時発表された高銀詩人の詩を紹介します。お見せする画面は私が前の講義、白頭山長編叙事詩の表紙です。この中のある題に鬱陵島の聖人峯が出てきます。白頭山がここにあり、白頭山が体を動かすと、全国土が生まれたという国土身体論を詩で唄いながら白頭山がここにあり、(中略)、海を越え一点鬱陵島の聖人峯を産み、南に南に海を渡り漢ラ山を生んだのだこれらみな大山の裾、チマの裾なのだ、誰ぞ知る、白頭山の谷間の村々よ、白頭山がひとたび咳払いをすると全国土が生まれましたが、東の端に鬱陵島聖人峯があるといいました。南の端に漢ラ山があるといいました。この当時だけを見ても高銀(コウン)という詩人は独島(竹島)を重視していませんでした。彼の詩に、独島はいかなる象徴性も持ってはいません。
ところが2003年以後に紛争が発生すると、2005年の独島の詩朗読会で高銀が発表した詩を見ると次のようです。この場面は独島を眺めながら高銀が感慨無量で自分の詩を読んでいる場面です。独島、我が祖先の胆嚢、独島、お前の久しい胆汁で、私はあらゆる波も生きてきた 。独島は先祖の胆嚢です。胆嚢がなければ人は生きていけません。それで独島は国土の、我らの中心であるように物語っています。必ず、地球のどこに行こうとも子午線を越えアフリカに行こうが、必ず帰ってくる我が国土の中心として、自分の子となり、お前のもとに帰ってくるのに、私の胆嚢でもあるのだ。先祖の胆嚢でもあり、私の子の胆嚢でもある。胆嚢がなければ人は死んでしまいます。こういうように独島(竹島)を、国土を一つの体の、なくてはならない大切な部分として描写しました。詩朗読に参与した120余名の詩を集めて『私の愛、独島』という詩集を編纂しましたが、ここにある副題を詳しく見ると【独島の岩を砕くと韓国人の血が流れている】とあります。土地に血脈が流れているという韓国人の自然観、この講義シリーズで紹介しましたが、1995年金永三政府をして、全国あちこちに打ち込まれた鉄杭を抜き取るという、バカげた騒動をおこしその精神世界です。独島が反日民族主義の象徴として浮かび上がると、その象徴は間違いなく韓国精神文化の底辺に流れているシャーマニズムと種族主義の装飾を受け、その姿をもって現れたのです。このような精神世界では独島紛争に対する合理的解決が不可能です。
私は朴正煕政府から金大中政府まで続いた歴代政府の冷徹な国家理性に戻ることを主張します。私は日本が1904年独島を自国の領土に編入させた措置が道徳的に正当だとは考えません。そのような主張をする日本人の学者がいます。彼は主張します。独島が韓国固有領土であるという根拠は客観的にないようだ。しかし、韓国により接近している島を無人島だと判断し、自国の領土に編入させた日本の措置は、隣国との情誼上道徳的に正当ではなかったと主張します。日本の世論に立ち向かい、そのような主張を勇敢に繰り広げている研究者を私は尊敬します。私も同じ立場です。1951年米国務省が明らかにしたように独島(竹島)はひとつの大きな岩の塊です。国際法が規定する島ではありません。土地があり水があり人が暮らせば島になるのです。そうなれば、海を区分する指標として、国際社会がその有効性を認定できる島になるのです。しかし独島は島ではありません。只、海にわき立っている大きな岩の塊です。アメリカの国務省が指摘した通りです。それを民族の象徴として、 各種呪術で国民の常識を麻痺させる、種族主義的扇動、それをもうやめなければなりません。いったん、みんなが発言を自制しなければなりません。そして冷徹な理性で持って紛争の前後事情をよく探ってみなければなりません。そして紛争が隣の国日本との友好協力を害さないよう、低い水準で管理されなければなりません。それが21世紀に先進社会へ育てていく韓国、我々すべてに付与された歴史的課題です。独島を凝視すると韓国史の中身が見えてきます。独島に関する省察は、私たちにそんな歴史的課題を反面教師として提示しています。今日は少し長くなりました。このへんで終わりたいと思います。ありがとうございました。(日本語翻訳:鈴木喜久子)


李承晩TV「食料を収奪したって?」
ー 東國大学校 経済学科教授 ー

(日本語翻訳: 鈴木喜久子)

「危機韓国の根源・反日種族主義」の時間です。今日の講義は日本植民地時代の食料収奪説に関する話です。日帝の植民地支配に対しての批判の中で一番多く耳にする話の一つが、日帝が朝鮮を食糧供給基地にし朝鮮の米を収奪していったということです。高校の韓国史の教科書でも、教科書によって差がありますが、日本に米を「収奪」していったと表現したり、ただ「持って行った」または「搬出」したと表現しています。「持って行った」や「搬出」したという表現は「収奪」に比べると強制性を排除したようにみえますが、その代価を支払ったのかどうかを意図的に隠している点で大きな差がないと考えます。そして米を大量に「収奪」または「搬出」した結果、朝鮮人の米消費量は大きく減少し、雑穀で延命しなければならなかったと言います。
そうなると、朝鮮人は米を増産してもその恵沢を受けれず、生活水準は当然下落するしかなかったということになります。このような教科書の叙述、またその影響を受け形成された韓国人の通念は果たして事実に立脚したものでしょうか?朝鮮の米を日帝が「収奪」したのでしょうか。でなければ、朝鮮が日本に米を「輸出」したのでしょうか?

もし「輸出」したのなら、それによって朝鮮人の暮らしが悪くなったという論理は成立しません。それでは解放前の朝鮮の小作農民たちの貧しい生活はどのように説明できるでしょうか?ここでは以上の点を一つ一つ検討していこうと思います。

コメを「収奪」したのと「輸出」したのとでは天と地ほどの差があります。「収奪」は強制的に奪っていったのであり、「輸出」は代価を払って購入していったということです。当時の表現では日本に「移出」したことになりますが、それは「輸出」と同じ意味です。当時朝鮮と日本の間の取引は外国との取引である「輸出入」と区別して、「移出入」と呼んだだけのこと、全て朝鮮との貿易に含まれます。総督府は『朝鮮貿易年表』という統計書を毎年発行しましたが、そこで見ると朝鮮の米を始めとした各品目がどの港を通してどの国にどれほど輸出あるいは輸入されたのか、その数量とともに金額統計が出ます。どの国にどれ程輸出あるいは輸入されたのか、共に金額統計が出ます。この時いう金額とは取引がなされた金額を意味します。この統計は年間単位で集計した実績を見せていますが、米の輸出動向やコメの作況などは発表がされる度ごとに新聞で扱っています。特に米価の動向は農民は勿論のこと、穀物商や米を消費する都市民の主な関心事だったため、全国各地(日本までも)の米の相場が、株相場とともにほとんど毎日報道されていました。

当時の資料や新聞を少しでも読んだことがある人ならば、米は通常の取引を通して日本に輸出されたことがすぐに理解できます。教科書の叙述が想定しているように、もし誰かが、汗水を流して生産した米を強制的に奪っていったとするなら、バカでない限り黙って我慢する農民もいないだろうし、それはすぐさま新聞に報道されるニュースの種になったと思います。

当時の米の生産量と輸出量の推移を図1を見ながら説明します。米の生産量は当初1000万石程度の水準から、起伏がありますが2000万石を超える水準に2倍に上がりました。産米増殖計画を推進し水利施設を整備し肥料の投入を増やした結果です。ところで、米の輸出量は当初微々たる水準から出発し、1000万石近く拡大され、多いときは生産量の半分が輸出されたいます。この時期、朝鮮の米は一番重要な輸出品であり、朝鮮の農業は輸出産業になったと言えるでしょう。生産量から輸出量を引いて輸入量を足して求めた国内消費量は停滞していましたが、その間人口が増えたため、一人当たり米消費量が減少しているのがわかります。朝鮮の米がたくさん輸出されると2つの地域の米市場は一つに結ばれます。自然に朝鮮と日本の米の値段は近接し、また緊密に連動するしかありません。当初朝鮮米は例えば、石がたくさん混じっているなど品質の問題のため、日本米より安く取引されました。しかし、米の乾燥状態や加工方式が改善され、日本の米価にほとんど近づきます。朝鮮の農民の立場からしてみると、日本という大規模な米輸出市場ができたため、有利な立場にあったと言えるでしょう。その反面日本の農民の立場からすると、朝鮮米が大量流入され、日本内の米価が下落圧力を受けたため、不満を持つようになります。朝鮮に産米増殖計画を推進したのは、日本の米不足を解消するためでしたが、米不足が続いたとしたら問題はありませんでしたが、そうでない状況になると朝鮮と日本の利害関係が衝突を起こす場合が生じます。例えば1931には2つの地域の米農作がともに豊作であり、米価が急落しました。このような状況でどのような葛藤が生じたか、当時の東亜日報の記事がよく示しています。

当時の雰囲気を生き生きと伝達するため、少し長めですが、これを引用してみます。
「朝鮮の立場としてはその方法の如何を問わず、移入をを制限し雀の涙ほどでも、朝鮮米の日本流出を妨害するならば、これは絶対に受け入れることはできない。今日において日本の米価を圧迫した最大の原因が朝鮮米の日本流入にあるという事情は朝鮮の農民も知らないわけではない。しかしそれは朝鮮が自進してしたことではない。日本が日本の食料問題を解決するため朝鮮内に必要以上に膨大な産米増殖計画を実施したためである。従って今になって挑戦米の移入を止め、産米増殖計画の結果として出ている損害を、みな朝鮮農民にだけ転嫁する理由がないという事を日本の農民も知らなければならない。とにかく、朝鮮農民の立場としては法律の制定による移入制限は勿論のこと、朝鮮米流入の自由を束縛する如何なる措置にも絶対反対するしかない」(東亜日報 1931年6月16日、『朝鮮米移入制限に絶対反対』文章を現代語に手直しする)以上が引用文です。
この記事から読み取れることは、朝鮮米の日本流入が日本の米価を圧迫してきたという点、そして日本の農民が朝鮮米の日本流入を制限しようとする動きを見せ、それに対し東亜日報は朝鮮農民の立場で断固として反対しているという点です。

もし朝鮮米の日本輸出が制限されると、販売処を失った朝鮮米の価格は大きく下がり、朝鮮の農民が莫大な損害を受けることははっきりしていたからです。これを反対に見ると、日本という米の大規模な輸出市場がすぐ横にあったため、朝鮮の米の生産が大きく増えても米価格は不利を見ず、それが朝鮮の農民の所得増加に大きく寄与したことがわかります。このことは当時を生きた朝鮮の農民や言論人にはあまりにもよく知られていた常識です。

これに対し、日帝が朝鮮の米を日本に「収奪」したとか「持って行った」と批判する教科書の論理で行くと、朝鮮米の日本移入を制限しようとする措置を、朝鮮人であるなら大歓迎するのが理にかなっています。米をこれ以上持っていかないのですから。しかしこれとは正反対だったのです。このような矛盾に陥ったのは、当時の資料を一度でも目を通していたならすぐにわかるはずの、米を「輸出」したのではなく「収奪」したのだと強弁していたためです。

朝鮮人の米消費がどうして減ったのかは他の論理で説明する必要があります。最近は所得が増えても一人当たりの米消費が減っていますが、当時は毎食米のご飯を食べることが富の象徴でした。普通の農民は大部分を粟をはじめ雑穀で満たしていました。農民達が米を生産しても米を満足に食べることが難しかったのは、米を大量に輸出したため、米が足りなくなり価格が上がったためです。特に小作農家の場合は生産した米から、小作料とそれ以外の必要経費を支出しまかなうと食べる食料が不足します。そうして、高い米を売って安い雑穀を消費するしかなかったのです。そうだからと言って、コメを輸出したことが生活水準の下落をもたらしたわけではありません。例を一つ挙げてみます。この頃松茸は少なく高価なのでふつうの人々は食べることがなかなか難しいです。その理由の一つが日本への大量輸出です。日本の人々の松茸好きは特別で、日本でも価格がかなりのものです。韓国の松茸採取農家が生産量を増やしたからといっても、さらに多くを輸出すれば、松茸の韓国内の消費は減ります。そうだからといって韓国の生活水準が落ちたとは言いません。松茸を売った代金で他のものを買ったり貯蓄を増やしたりできるからです。松茸を売った代金で他のものを買ったり貯蓄を増やしたりできるからです。松茸が米に比べてはるかに貴重で高いが、話の論理上で何の差もありません。

もしも米が「収奪」でなく「輸出」したのであり、それが農民の所得の増加にむsびろ寄与したと言うなら、この時期の農民、特に小作農家はなぜそんなに貧しかったのでしょうか?
まず、当時の農業生産性の水準自体が低かったためです。土地面積当たり米の生産量を比較してみると、当時朝鮮は日本の1/2程度にすぎません。現在の水準と比較すれば更に低いです。当時は人口の半分が農業に従事しコメを生産しましたが、そのようにして収穫した米の量が、現在はその1/10に過ぎない従事者で収穫した量に達することができませんでした。農業の生産性が低いということは結局一人当たりの所得がそれだけ低いということを意味します。
二つ目は、土地の所有があまりにも集中しており、小作農の地位が特に劣悪でした。図2を見ると、田んぼの小作率が65〜68%と高いです。すなわち2/3が小作に任せられ耕作されていました。畑の場合それより比率が低いですが、この時期耕地の大部分を小作農が耕作していたことがわかります。自身の土地が皆無である純小作農が1930年代には半分以上でした。そして、これらの小作農家は地主に生産量の半分以上を小作料として納付しなければなりませんでした。この時期農村の人口は増え続けていたため、耕地をめぐる小作人どうしの競争がはなはだ酷いもので、しかも地主制が強固に維持されました。ところでこのような状況は日帝時期にさらに悪化することはしましたが、基本的に朝鮮後期から持続してきたものであることがわかります。全体農家のうち地主の比重は3.6%にすぎません。ところが彼らは小作料の収入を通し全体の米生産量の37%を取得していました。自家消費を除き商品化した米を基準にすると地主の持ち前は50%以上に増えます。先に米が輸出商品になり朝鮮の農民たちが有利になったことを言及しましたが、その恵沢は米販売量が多い地主や自作農に集中し、小作農家に返ったものは微々たるものに過ぎませんでした。

話をまとめてみたいと思います。当時朝鮮の農民、特に小作農が貧しさを脱皮できなかったのは、結局農業生産性が低く、土地に比べ人口があふれ、小作農に不利な地主制が強固に存続していたという、伝統社会以来の落とし穴から抜け出ることができなかったためです。産米増殖計画が米の増産をある程度叶うようにしてくれたけれど、このような従来の殻を破るほどの影響を与え得ませんでした。地主制は解放後になされた農地改革を通し解消されました。そして農村の低い生産性と過剰人口問題は、高度成長を経ながら移農が急速に進行し、農村の人手不足で機械化などがなされながらやっと解決されました。それなのに韓国史教科書の叙述は、日帝時期朝鮮農民の窮乏の理由を日帝が
米を収奪したためだと強弁しています。その影響で形成された一般人の通念もこれと大きく違っていません。米を「収奪」したのではなく、輸出したののにもかかわらずです。生産と輸出が大幅に増し、価格も不利にならないのなら、所得が上がるのは経済の常識ですが、無理を言い張っているのです。教科書が「収奪」とか「搬出」という表現を放棄できないのは、「輸出」という表現に変えたとたん、自身の日帝批判の論理が混乱に陥ることをよく分かっているからだと思います。彼らは嘘でもつくり出して日帝を批判することが、正しい歴史教育だと錯覚しているのです。こんなデタラメな論理でなされている教科書の日帝批判に対し、果たして世界人の共感を得ることができるでしょうか?今日の講義はここまでにします。

李承晩TV「片手にピストルを、もう一方の手には測量器を」
ー 李栄薫 李承晩学堂の校長 ー

日本語翻訳: 鈴木喜久子

李承晩TV視聴者の皆さまこんにちは。危機の韓国の根源、反日種族主義。今日の主題は1910年代に日帝が実施した土地調査事業に関することです。題目は片手にはピストルをもう一方の手には測量器を、このようにつけてみました。
1910年大韓帝国を併合した日帝の朝鮮総督府は、すぐに全国の土地を調査し始めました。朝鮮土地調査事業でした。1918年まで8年間実施されたその調査事業のため韓半島全域の土地状態が調査されました。
お見せしているこの背景の写真は調査事業当時、土地調査班が測量をしている場面です。土地調査の結果全国土が約2300万ヘクタールであると明らかにされました。そのうち約486万町歩が人間の生活空間として、田んぼ、畑、大地、河川、堤防、道路、鉄道用地、貯水池、墓地などであり、残り1800万ヘクタールが山地でした。

1960年代以来、中高校の国史教科書は日帝が行なった土地調査事業の目的が、朝鮮の農民の土地を収奪するためのものだ。そのような目的で実施されたと生徒たちに教えてきました。1960年に歴史教育学会が作った教科書は、全体農地の半分が総督府の国有地として収奪されたと教えました。1967年ある教科書は、全国の土地の40%が総督府の所有地に収奪されたと書きました。当時までは検認定教科書でした。従って書く人によって、教科書によってみな内容が少しずつ違っていました。
1974年から国定教科書に変わりました。以後36年間、2010年まで韓国史教科書は土地調査事業に対して全国の土地40%が総督府の所有地に収奪されたと教えました。

ところで、どの研究者もこの40%という数値を証明したことがありません。検認定であれ、国定であれ、教科書を書いた歴史学者たちが勝手気ままにつくりだした数値にすぎません。収奪を強調する必要はあり、どの程度の収奪なのか具体的に話さなければならず、勝手に作り上げた数値にすぎません。ところでそれが歳月が流れるにつれ、不動の真実になってしまいました。視聴者の皆様はおかしいと考えることでしょう。誰も証明したことのない学説と数値をどうやって、1960年から数えれば50年もの間、教科書に事実であるかのように書き、生徒たちを教えることができるのかということです。
内容をもう少し紹介すると、その教育を受けた大多数の国民は記憶していることと思いますが、総督府は土地を申告するよう農民たちに申告書を配りました。1910年代農民たちは所有権が何であるか意識も薄弱で、申告が何であるかも知らない蒙昧な状態でした。文字も分かりませんでした。それで申告の期限を平気で破りました。そうするとまるで総督府が待っていたとばかりに、その土地を総督府の所有地(国有地)に没収し、それを東洋拓殖株式会社や日本から来た日本の移民に払い下げしたというのです。歴史の授業でこの部分がでると、教える教師も教わる生徒も、ともに涙を流したと言います。あまりに悔しく恨めしかったからです。大学の私の講義室で、ある学生が実際高校生の時、そのようなことがあったと、経験を私に話してくれました。そんなにも世代にわたり、涙で恨みで共有され伝承されてきたことが、この講座を通し、私が批判しようとする反日種族主義の歴史意識です。

しかし、以上の内容は真っ赤な嘘です。1910年代我々の先祖が申告が何だったのか知らなかったとは。朝鮮王朝500年間我々の先祖たちは、3年に一度ずつ戸籍を申告してきました。今お見せしているこの背景の画面は、そうやって3年に一度ずつ申告されたある家門の戸籍端子です。中国明の国では10年に一度ずつ戸籍を申告しました。その次の清の国になってからは戸籍を申告することがなくなりました。それに比べると我々韓国人は500年間、3年に一度ずつ戸籍を申告しました。世界で一番申告に訓練された人々です。申告が何であったかしらなかったといいますか。話にならない荒唐無稽な説です。にもかかわらず、そのような説を教科書に平然と書いたということは、その教科書を執筆した歴史学者が無意識の中で、20世紀の韓国人を野蛮の上段に置かれた種族として感覚したためです。人口の多数が文字を知らなかったのは事実です。調査によれば19世紀末、人口の約85%は文盲でした。しかし、村には文字の分かる人がいるものです。村には秩序があります。私が発掘したものですが、土地調査事業当時の申告書を見ると、あとの画面がそれです。この申告書の筆跡を見ると村単位で同一です。つまり村を代表する人が村の人々の申告書を代筆してあげたのです。それで我々の歴史教科書は、我々の伝統の村々には隣人もおらず、相互扶助の秩序もない野蛮な状態、野蛮の村と描写したことになります。それもまた、反日種族主義の感覚だったと私は考えます。土地の40%が総督府の国有地に収奪されたというデタラメな学説がこんなにも長い間、50年間、教科書に堂々と記述できたのでしょうか?少し深く考えてみれば誰もが分かる嘘です。

我々の先祖たちは土地を命綱だと考えていました。土地人之命脈也と言いました。土地が人の命脈です。どこの誰が自分の命綱が切れるのに黙って放っておくでしょうか?妻子が飢えてしまうと言うのに家族が乞食になってしまうのに、黙って見ている人がどこにいますか?誰もが決死抗戦をします。侵略者の力がもとよりあまりにも強暴で、仕方がなかったとしましょう。それでも奪われた恨みだけは忘れずにいつか土地を、財産を取り戻そうと機会を伺い待つものです。ついに1945年解放になりました。土地調査事業が終わって僅か27年後です。土地を奪われた大部分の人々は殆ど生きていました。土地を奪われた人々は倭族が退却したのだから、土地を返してもらおうと叫んで当然でした。
しかし、誰もそのように叫んだ人がいませんでした。土地台帳を保管している全国の郡庁と裁判所のどこにもそのような騒ぎが請願として起こりませんでした。全国の農地の40%も奪われたのにどうしたんでしょうか。それは初めからそのような事がなかったからです。
それでも韓国の国史の教科書には平然とそんな話を作り上げ、なんと50年以上も国民をそうやって教えました。他でもない反日種族主義の非科学であり、迷信でした。

また土地調査事業当時、一部の土地から所有権を巡って紛争がありました。全国436万町歩の田畑の大地のうち12万町歩に過ぎない約2.5%程度の国有地でそのような紛争が発生しました。これと関連しては慎ヨン厦教授が書いた『朝鮮土地調査事業研究』という本を挙げることができます。背景の画面に見える写真が慎ヨン厦教授であり、その本が『朝鮮土地調査事業研究』という本です。この本の中で慎教授は国有地紛争に関して「片手にピストルを、もう一方の手には測量器を」という言葉を作りました。今日の講義の題目でもあります。この言葉の意味は総督府を相手に、ある民間人がその土地が民有だ、私の所有だと主張し、抵抗すると、総督府の土地調査班員はピストルでそれを制圧したと言います。そのように慎教授は土地調査事業がピストルの発射を伴う暴力的な過程だったと文学的に叙述しました。当時土地調査班員は軍服のような制服を着て腰に拳銃を付けていました。常時そういうわけではありません。必要な時そうしましたが、山奥に入ると山の獣の攻撃を受ける危険性がありました。実際当時の報告書を見るとそのような事故があり、人命の損傷が発生したりもしました。山奥には匪賊が活動したりもしました。それで護身用に拳銃をつける必要もあったわけです。その拳銃が朝鮮の農民に向かって発射されたことはありません。当時農民たちはむしろ調査班を歓迎しました。調査班が来ると土地の所有者は自分の土地に、自分の名前を書いた立て札を持って待機しました。里長と隣人たちが一緒に立ち会って、この人がこの土地の所有者で当事者であることを確認してくれたのです。土地調査局は調査を終えると土地台帳の原本を公開しました。そうしてから異議申請を受けました。人々は自分の土地と名前が公簿に記されているのを見て喜びました。調査班員に対する農民達の反応は、初めは大変警戒的な眼差しでしたが、彼らのしている活動内容を理解してからは概して友好的でした。それなのにどうして慎ヨン厦教授は「片手にはピストルを、もう一方の手には測量器を」というデタラメな小説を書いたのでしょうか。彼は土地調査事業に関して研究しながら、一線の郡庁や裁判所に所蔵されている土地台帳を見たことがありません。当時土地台帳を提出した申告書や測量関係の資料を発掘し整理したこともありません。全国各地で国有地紛争が発生した時、紛争の内容と判決がどうだったのか関連資料を捲ってもみませんでした。彼は総督府が編纂した土地調査事業の報告書を捲って読む方式で、自分が幼い頃持っていた先入観を学術書として包装しただけです。それに対し韓国の学会と知性界は歓声をあげました。日帝の土地収奪が具体的に証明されたということです。そうして慎教授に栄光の学術賞を授与しました。

私は先の講義で小説家趙延来を虐殺の狂気に捕らわれた憎悪の小説家だと批判しました。彼の大河小説アリランは土地調査事業当時、一介の駐在所の警察が土地調査事業に抵抗する朝鮮農民を即決処刑する場面を劇的に演出しました。全国的に4000余名の朝鮮人がそのように処刑されたと言いました。実は趙延来がそういうふうにデタラメな歴史を小説にしたのは、彼の責任だけではなかったのです。実はその数年前に、少し前に紹介したように慎ヨン厦という韓国社会学会を代表する学者が、「片手にはピストルを、もう一方の手には測量器を」そんな内容のデタラメな学術書を編纂していたのです。日帝の朝鮮併合は何かけらかの土地を収奪するためのものではありませんでした。この韓半島を、2300万ヘクタールに及ぶ、この韓半島全体をその付属領土として支配する目的で来たのです。12万ヘクタールに及ぶ国有地を収奪するために来たのではないのです。この地に暮らす朝鮮人全体を永久に日本人として同化させる目的で来たのです。それで彼らの法と制度と機構をこの地に移植したのです。その一環として、以前の朝鮮王朝は知り得ていない全国の土地がどのくらいなのか、その面積がどれほどなのか、その形質がどうなのかを。そしてその所有者が誰なのかを調査したのでした。
それが土地調査事業でした。そして当時作られた土地台帳と地籍図は今もこの国が大韓民国が行うあらゆる土地行政の基礎資料に重宝に活用されています。教科書を執筆した歴史家や慎ヨン厦教授は日帝の朝鮮支配の目的、そのメカニズム、その結果や歴史的意義を知らずにいました。そんな中で彼らは朝鮮は勿論のこと日本を奪われ、奪うという野蛮な種族として感覚しました。実はそのような歴史の認識がいつから出発したのかを、私は調査してみたことがありますが、1910年代当時からだったといえます。皆様はこのシリーズ講義の三番目で金容三先生の鉄杭騒動に関する講義を覚えていらっしゃることでしょう。土地調査事業当時、総督府が全国各地に大小の三角点を設置しました。お見せする背景画面が全国、釜山から咸鏡北道まで、済州島までを連結する大三角点の網です。すると多くの人々が三角点の表示を日帝が朝鮮の急所を突き、民族精気を遮断するため打ち付けたのだと誤解し、それを破壊しました。金容三先生の講義にその話が出てくるので確認してくださるようお願いします。そのように当時の朝鮮人たちは日帝の土地調査事業を気脈の遮断、または風水侵略として感覚し、誤解しました。

日帝が行なったその他の全ての行政がそのように認識されたケースがたくさんあります。当時多くの朝鮮人は日帝が敷設する鉄道と道路に対してそのような感情を持ちました。道路の敷設過程で村の守護神である堂山の木が切られたりもしました。私が読んだある両班の日記はその道路と鉄道に対し、「そんなのもが一体我々の生活と何の関係があるというのだ」と嘆息しました。そのように日帝が行なった各種近代化施設や行政は、伝統文化、伝統風水、伝統タブーに対する破壊として感覚され、憤りの対象となったのです。そうしてできたのが土地調査事業の収奪説です。その韓国人たちが、朝鮮人たちが抱えている近代化に対する集団的被害感覚、その収奪感覚、その意識を1960年代の歴史学者達は全国の農地の40%が収奪されたと包装し教科書に載せたのです。鉄杭騒動が起こった時、この背景の画面は鉄杭を撤去するため祭官の服装をした人たちが祭礼を行なっている場面ですが、今日私の批判の対象となった慎ヨン厦教授は次のような論文を書きました。「日帝は当時韓国人たちの多数が風水地理を信頼し、山川の精気を重視するという事実に着目し、名山の血脈にこれを遮断し息の根を止めようと鉄杭を打った。勿論日帝自身は風水地理説を信仰していなかったが、韓国人がこれを信じたため韓国人の挫折感を植え付けるため、このような政策を取ったのだ」。皆様これが話になるでしょうか?しかし、このような話にならない話を、韓国を代表する、社会学界を代表する慎ヨン厦教授がしているのです。皆様は何故、私が慎教授が代表している、日帝の土地収奪説を反日種族主義の象徴として批判しているのかお分かりのことと思います。全国の土地の40%を収奪したという教科書の叙述は、全国所々の軍部隊、または村が自身が必要なため打った鉄杭を、日帝が朝鮮の精気を抹殺するために、打ったものだといって1990年代の政府にまで出て行って撤去騒動を起こしたその野蛮の精神世界を忠実に複製反映しているためです。視聴者の皆様、あまり寂しく考えないでください。わずか50年前、20年前の出来事です。このような歴史騒動や歴史叙述は、20世紀末まで韓国の精神文化が、依然として野蛮の上段に置かれていることを間違いなく証明しています。今日の講義はこれで終わります。ありがとうございました。

李承晩TV「鉄杭神話の真実」ー 金容三 李承晩学堂教師 Pennmike大記者ー

今まで我々社会において日帝が朝鮮の地から優秀な人材が生まれるのを妨げるために、全国の名山にわざと鉄の杭を打ち込んで風水侵略をしたと、伝説のように伝えられてきた。これは事実ではありません。嘘です。

日帝が打ち込んだという鉄の杭がみな偽物だという事実を明らかにしたのは、私が月刊朝鮮1995年10月号「大韓民国の国教は風水か?」という記事を通してでした。この記事が報道されると独立記念館は展示していた鉄の杭を片付けましたが、この内容が産経新聞の黒田記者に取材され社会面のトップ記事に報道されました。我々社会にとって鉄の杭シンドロームを興す契機は、金泳三政府が光復50周年に当たる1995年2月、「光復50周年記念力点推進事業」として鉄の杭除去を推進してからです。それまで民間次元で「我々を考える会」という団体と、西京大学経済学科の徐吉秀(ソキルス)教授が、鉄の杭除去事業を推進してきたが、政府が乗り出し、一種の国策事業として格上げされました。民間人たちが「日帝の杭」といって除去した実績は北漢山で17個、俗離山で8個、馬山舞鶴山鶴峰で1個が除去されたのが全部です。民間人が除去したという鉄杭も日本人が風水侵略の意図で打ち込んだという証拠はありません。1984年北漢山白雲台の山行に出かけた民間団体が登山客から「日本人がソウルの精気を抹殺するために打ち込んだ鉄柱」という説明を聞いて除去しました。この鉄柱が独立記念館の「日帝侵略館」に展示され、我々社会に「鉄の杭シンドローム」を拡散させました。しかしこの鉄の杭を除去するのに参与した風水師や除吉秀教授、鉄杭除去団体「我々を考える会」の具ユンソ会長など、その誰も日本が打ち込んだ鉄杭という事実を合理的かつ客観的、科学的に立証できるだけの根拠を提示できませんでした。噂と口伝が確かだから「日帝の素業」に違いないというレベルでした。

独立記念館も白雲台鉄杭を科学的に調査、研究、分析せずに、寄贈者の言葉だけを信じて展示しました。このようにほとんど迷信水準で広まった証言をもとに、金泳三政府が光復50年を迎え、突然始めたのが鉄杭除去事業でした。意気揚々と事業に手をつけ始めると深刻な問題が発生しました。青瓦台の指示を受けた内務省が全国の各市郡面に公文を送り、地方行政の官庁には自分の村で発見された鉄杭が風水侵略のため、日本が打ち込んだものだという事実を立証できる専門家がいませんでした。結局、地方行政機関は各地域で風水をかじったことのある地官とか占術家を鉄杭鑑定専門家として動員しました。1995年2月15日から8月14日まで、6ヶ月間全国から申告件数は全部で439件あり、そのいち日帝が打ち込んだと確認され除去されたものは18個でした。
筆者が月間朝鮮記者時代、全国18カ所の鉄杭除去現場を訪ね周囲の人々、公務員、専門家たちに確認した結果、日帝が打ち込んだという鉄杭と確認されたものは一つもありませんでした。

事例を幾つか紹介してみます。
金烏山(クモサン)で除去された鉄杭を鑑定した専門家は大邱の占術家閔氏でした。彼は鉄杭が打ち込まれている場所が風水的に見て明堂だと言いました。竜が天に勢いよく登っていくが如くに横たわる仏像の頭の部分に鉄杭が打たれていたと説明しました。それならこの鉄杭を日帝が打ち込んだという科学的かつ客観的証拠が何なのかを訊くと、「証拠はないが金烏山は風水的観点から非常に重要なところであるため日程の素行であると推定した」と言いました。製作時期も表面の腐食の程度で推定しただけで、他の検証は行なっていないと告白しました。
慶北金川市鳳山面広川里ヌリ山で発見された鉄杭も、金烏山の事例と同一の大邱の占術家閔氏が金烏山と似た理由で日帝鉄杭であると鑑定していました。
忠北永同郡秋風嶺馬岩山雲水峰からも鉄杭が除去されましたが、永同郡庁の担当公務員は、日本が打ち込んだという根拠がないため半信半疑しながら抜いたと告白しました。
疑惑だらけの鉄杭は1995年6月5日午後盛大な山神祭とともに除去されましたが、山神祭と鉄杭除去行事は日本のNHK、TBS東京放送が来韓して取材しました。
忠北丹陽郡永春面上1里南漢江北壁入り口で3つの鉄杭が発見されました。通報者たちは1894年頃永春面で義兵と日本軍との間で大きな戦闘が繰り広げられたが、抗日運動が二度と起きないように日帝が打ち込んだと主張しました。
ところが前永春面長であり現地住民でもある禹ゲホン氏は、それらが日帝が打ち込んだものではなく、終戦後住民たちが北壁の下に船をロープで止めるために打ち込んだものだと証言しました。禹氏は「郡庁の人たちにこの内容を説明したけれど、いくら話しても日帝が打ち込んだ鉄杭になってしまった」と話しました。
江原道寧越郡南面トキョウ4里でも鉄杭が除去されました。この鉄杭は1995年6月13日に発見されましたが、光復50周年記念イベント行事のムードを盛り上げるため、2ヶ月延ばして終戦記念日前日の8月14日に劇的に除去されました。
現場に行って確認すると除去された鉄杭の長さはボールペンより少し大きめでした。明堂の急所を絶つために打ち込んだと見るにはあまりにも小さかった。通報者たちは文禄の役の時期の将軍李如松が打ち込んだという説と、日帝が韓日併合以後打ち込んだという説があるが、日帝が打ち込んだと言う人たちが最も多いので除去したと言いました。住民の多数決で日帝が打ち込んだと決めたわけです。
江原道揚口郡では全部で3つの鉄杭が除去されました。この地域のものは一番長いものが2m58cm、直径2.5cmにも及ぶ大型というのが特徴でした。しかし除去された鉄杭の状態を見ると、錆びもなく綺麗であり、最近のものであることがはっきりしていました。周囲では専門家の考証を受けてからにした方がいいと助言もしてみたけれど無視されました。3.1節行事に合わせて雰囲気を盛り上げるのに汲々としていたためです。その結果2月28日マスコミの大々的な注目を浴びて除去されました。この鉄杭が日帝の風水侵略だという証拠は、噂と伝説と変わらない住民の証言だけでした。
揚口で除去された鉄杭はソウルの国立民族博物館で開かれた光復50周年記念「近代百年民族風物展」に展示されました。日帝が打ち込んだ鉄杭という証拠が皆無なこの鉄杭の横には次のような説明文がついていました。
「民族抹殺政策の一環として日本人は我々民族の精気と脈を抹殺するために全国の名山に鉄杭を打ち込んだり、鉄を溶かして流し込んだり、炭や瓶(カメ)を埋めた。風水地理的に有名な名山に鉄杭を打ち込んで地の気を抑さえ人材輩出と精気を妨げるためである」。
鉄杭除去専門家として知られる「我々を考える会」の具ユンソ会長や徐吉秀教授も全国で発見された鉄杭が日帝の風水侵略用のものだという根拠がないという事実を率直に認めました。具会長や徐教授は地方自治体の「鉄杭」鑑定の要請を受け、いくつかの地域で調査作業に参加した結果、軍部隊が打ち込んだもの、木材の電柱を支えるためのもの、鉱山や山での荷物の運搬用だと判明されました。

にもかかわらず、公務員たちは「日帝の鉄杭にしてくれ」と哀願する場合が大部分だったと言います。
今こそ真実を明かす時が来ました。鉄杭が打ち込まれていると通報された地域を調査した結果、測量をするための基点として活用された大三角点、小三角点とほぼ一致するという事実が判明しました。

このことを立証してくれた人が江原道華川郡の李ボンドク氏です。彼は21才の時である1938年頃、山林保護局臨時職員として朝鮮総督府からきた測量技師賀ジュウケン(当時30才)と張吉福(当時25才)という人たちの華川、揚口一帯を測量する業務を手伝いました。彼は「日帝時代我々の国の人々は測量のため打ち付けた大三角点と小三角点を日帝が国土の急所を切るために打った鉄杭だと誤解した」と言いました。大三角点とは測量基準点ですが、頭の部分の十字の真ん中に測量器の軸を合わせて測量する起点です。日本が朝鮮を併合した後、土地調査のために測量をしながら測量基準点標識を全国の高い山に設置しました。朝鮮の人々は全国の山々の頂上に立っているおかしな形をした棒を見て、「日本人が朝鮮に人材が出ないように国土の急所を切ってまわっている」という噂が広がっていきました。測量技師が山に登って設置すると住民たちが夜中に全部掘り出し金槌で叩いて壊し、バラバラにしたといいました。測量器を山のてっぺんまで運搬することを村の大人たちに依頼したが、彼らは山に登りながら「この山は日本人が急所を切った山」と話していたそうです。しかし、彼らが頂上に登って、技師たちが大三角点に測量器を立てるのを見て「村老たちはあれを見て急所を切ったと言ったのか」とうなだれて山を降りる姿を数えきれないほど目撃したというのです。鉄杭除去団体の具会長も「鉄杭が打ち込まれたと通報のあった地域に行ってみると、測量用三角点が打ち込まれてある所が多かった」と認めています。

これが私たちがこれまで伝説のように信じてきた鉄杭神話の真実です。インチキ鉄杭神話は韓国人の閉鎖的世界観、非科学性、迷信生の3つが結合して現れた惨劇です。このような非科学性と迷信性に「反日感情」「種族的民族主義」が結合された怪物のような鉄杭神話が誕生し、21世紀を生きていく我々は未だそのような嘘の扇動に騙されている姿を見ると痛嘆する。みなさん、二度と偽造扇動に騙されないでください。ありがとうございます。

李承晩TV「白頭山神話の内幕」
ー 李栄薫 李承晩学堂校長 ー

事実と自由の李承晩TV視聴者の皆様こんにちは。「危機韓国の根源、反日種族主義」今日の題目は「白頭山神話の内幕」です。
反日種族主義の大きな象徴がいくつかありますが、その中でも白頭山は比重の大きい重要な象徴として位置を占めています。白頭山は今日韓国人すべてにとって民族の山です。霊山とも言います。私は幼い時から白頭山を霊山と教わってきました。白頭山のてっぺんを霊峰だと言いました。1991年私は白頭山天池に登ったことがあります。その時その真っ青なサファイアの藍色をした天池の水を見てとても感動しました。水の色が非常に美しかったのです。しかしそれは色だけのせいではありません。幼い時から私にとって白頭山は神霊に溢れた峰、民族の発祥地、聖なる聖所だったため、そのような感動を受けたのでした。
ところでその時以来、私はおかしいな、と考え始めるようになりました。白頭山を下山するその途中「長白山」入り口に(中国では長白山といいます)その案内の看板をよく読んでいくと、15〜16世紀までも火山活動をしていたと書いてありました。言うならば白頭山は15〜16世紀まで、その噴火口で溶岩が沸いている状態だったということです。溶岩が真っ赤に沸き上がるその噴火口に、天から檀君が降りてきた、普通そのように思っていたではないでしょうか。おかしいな・・・そんな考えが頭をよぎりました。その時から私は、何かの資料を読んで白頭山の内容が出てくるとメモを取り始めました。

そのメモが積もり、ある段階にくると、私はああ白頭山が韓国の霊山、民族の聖山となったのは遠い昔のことではなく、20世紀のことなんだな。とその事実を知るようになりました。今日はそのお話をしていこうと思います。
1776年のことです。吏曹判書と大堤学を経た当代最高の官僚であり学者である、徐命応という人が白頭山に登りました。画面に出ているこの人です。白頭山の頂上に登り、白頭山の大きな池、我々が天池と知っているその池をしばらくの間見渡し、次のように話しました。いまだこの天が下に大きな池の名前がないのだなあ。名前がないのは我々をして名前をつけよということではないか。私が名前をつけてあげなければ、どこの誰が名をつけてあげるのだろう。こう言って太一澤と名前をつけました。今日我々が天池と呼んでいるその池の名前を太一澤と言いました。太は太極をいい、一は森羅万象が太極で一つになるという意味です。そのように徐命応はその大きく空いたカルデラに満ちた水を見て太極を連想しました。彼は当代の性理学者らしく、性理学の原理をもって白頭山頂上の大きな池の名前をつけました。

それより2年前の1760年代に朴ジョンという咸鏡道の学者がいました。この方も白頭山に登りました。そうして言いました。中国に崑崙山があります。天下一の崑崙山の下に、たとえたくさんの中国の山があっても白頭山には及ばない。よって白頭山が崑崙山の嫡子になり、中国の五岳というのも崑崙山の庶子や支者に過ぎないと言いました。このように朴ジュンという学者にとって、白頭山は天下に際立った崑崙山の嫡子でした。つまり彼の白頭山の認識は、当時我々朝鮮は中華文明の嫡統を継ぐ小中華であるという歴史意識のもう一つの発露だったということができます。それは我々朝鮮の文明は中国から渡ってきた、箕子という聖人が約3000年前に来て真っ暗な東方に文明をもたらしたという、箕子導通説と密接な関連を結んでいます。それで朴ジョンが引き継いで「白頭山が崑崙山の嫡子なのだから、この地はすでに中国の正統を継承したのだ、天が箕子のような聖人を送られ、我が国の文明を開いてくださったことが、どうして偶然と言えるでしょうか」と言いました。

この2つの事例は、徐命応、朴ジョンという二人の性理学者の話は、朝鮮時代の人々の白頭山の認識を代表しています。白頭山はともあれ神秘的で重要な山に違いありません。徐命応も朴ジョンも高く険しい山を危険も顧みずに、一大決心をして登ったのでしょう。大切で神秘的な山なのでそうしたのです。お見せしているこの写真は19世紀に描かれた朝鮮全土です。上の方を見ると白頭山の部分がありますが、その部分が他と違って特別強調されて大きく描かれているのがわかります。その部分を拡大してみると次の絵になります。大きな池に象徴される白頭山は韓半島のてっぺんをなしている山です。この地図で見られるように、白頭山は何か神秘的で重要な山として特別に認識されていました。しかしその神秘的で重要だという内容が何かと言うと、他でもない、森羅万象の根源をなす太極のようだ。崑崙山の嫡子である。という性理学的歴史観の象徴として神秘的であり、重要であったのです。今日の韓国民族がその山に対して抱く、民族の霊山、民族の聖所、民族の発祥地、更には民族の父と母というような、白頭山のイメージはまだ形成されていないなか、性理学的自然観、性理学的世界観、性理学的朝鮮歴史観を反映しているのが白頭山でした。

白頭山が今日我々が思う民族の霊山、民族の発祥地、さらには民族の母、父に変わっていくのは20世紀の出来事でした。我々朝鮮人が亡国奴となり、国を失った奴隷状態になり、日帝の抑圧と差別を受けるようになった歴史が、まさにそのような変化を生み出す舞台でした。日帝の抑圧と差別を受けながら我々朝鮮人は民族というものを知るようになりました。我々はもう箕子朝鮮が檀君朝鮮に変わったのです。我々皆が檀君の子孫として5000年間、言葉も同じくし、文化も同じ、外敵の侵入を受けながら、生死苦楽を共にした一つの血縁の運命共同体だというそのような意識です。そのような共同体意識がまさに民族です。朝鮮時代にはそのような共同体、血縁を基とした共同体意識はありませんでした。このような新しい共同体意識が生まれ、民族意識が生まれ、それに相当する象徴が要求されるようになりました。そうしてあがってきたいくつかのものの中で重要な一つが白頭山であったと言えます。

何人かの人々がその神話の形成に寄与しましたが、私が見るとき一番重要な人物を挙げるとすれば崔南善先生です。1927年、崔南善先生が白頭山に登りました。この画面でお見せしている崔南善先生、その横には白頭山観参記という本です。白頭山を参拝させていただいたという旅行記です。その本によると、白頭山天池に登り泣きながら叫びました。「白頭山は我が民族の、種姓の、民族性の根本である。我が文化の淵源だ。我が国土の礎石だ。我が歴史の胞胎、母の胎のようである。三界をさまよう幼い風来坊が、山を越え川を渡って慈悲深い母の、優しい母の顔を一度でもお見かけしたく、訪ねてきました。おじいさん、おばあさん、私です。三界をさまよう風来坊がここにきました。何もない私です」と、言いながら泣いて叫びました。そして祈祷しました。「我が民族は再び息を吹き返すのだ。信じます。信じます。白頭天王 天地大神よ」。白頭山は崔南善に至って民族の発祥地に、父の広い胸になり懐になり、母の慈悲深い胞胎として肉化(incarnation)したのです。そのような精神形状は崔南善だけではありませんでした。何人かの人たちが同じ心情で登り歌いました。自然発生的に我が民族が共有する精神作用でした。

そのようになるには様々な契機がありましたが、私は我々民族が共有している精神史の枠、パターン、基底、そこを流れる長期的な持続の流れが重要だと考えます。皆様はこのシリーズ講義の中で、金容三先生の「鉄杭騒動」や「中央庁解体の真実」の講義をもう一度思い出してみてください。そこによく指摘されているように、我々民族はかなり前から地には善または悪の、吉または凶の気脈が流れていると考えてきました。隣の国、日本はそういうことはありません。中国もそうではないようです。我々民族固有の自然観、山川観です。ところで資料を調べてみると、15〜19世紀の朝鮮にかけてこのような自然観がだんだん強化されてきました。お見せしているこの資料を注意深く見られればお分かりだと思いますが、朝鮮全土が実は山脈の地図として描かれています。15〜16世紀、17世紀を経ながら朝鮮全土を見ると、山の地図に変わっている傾向にあることがわかります。全国土のどのような気運が、山脈を従って流れているという感覚を表現したのでしょう。そのような感覚は、前にも紹介したように15世紀までは性理学的原理で表出されていましたね。性理学的原理で外に現れていました。ところが性理学の世界が追いやられ日帝の抑圧と差別の下で、20世紀はより強烈な、より原色的なある身体感覚、有機体感覚に昇化していきます。それでとなりの絵に見るように、朝鮮半島は中国に向かって牙をむく虎のようだ、というように描かれるわけです。またこの絵は広く、たまに歴史の本にも載せられますが、そのような有機体感覚、身体感覚での頂上が他でもない白頭山でした。
それで崔南善先生は白頭山に登り、白頭山を我が民族の種城淵源よ、我が国土の礎石よ、我が民族の父、我が民族の母の胞胎だ、と叫び祈祷したのです。このような国土理解の感覚で白頭山を昇化させたのです。

解放後白頭山の霊山としてのイメージは、韓国と北朝鮮で公に韓国民族主義の象徴として受け入れられてきました。はじめにお話ししたように、私は幼い頃から白頭山を霊山として学びました。白頭山の霊峰に太極旗をなびかせよう!そうでした。ところで、1970年まではそれなりに理性の時代でした。国家理性によってこのような感性的な神話が統制されてきましたが、白頭山神話が本格的に操作され、生成され、政治的に動員されたのは1987年以降ではないかと思われます。まず北朝鮮から紹介しましょう。1987年11月のことです。北朝鮮は白頭山一帯で金日成が起こした抗日武装闘争を刻んだ口号木が発見されたと、北朝鮮歴史科学研究所が発表しました。お見せしている画面が口号木です。木の皮を剥いでナイフで文字を刻むのですが、歳月が経ち苔に覆われ気づかれずいたものが、1987年にこの木に刻まれた文字が発掘されたというのです。書かれた内容を見ると、金日成を賛美する内容です。金日成だけではありません。その息子である金正日が生まれたその日の晩、白頭山天池の上に光明星が昇った、その驚きと喜びを刻んだ口号木もあります。とにかくこのような口号木が白頭山一帯を超え、遠く黄海道まで発掘され合わせて8万5千本も発見されたと北朝鮮当局は公式的に発表しました。この口号木は、実は人を動員して木の皮を剥ぎ、そこに化学薬品で刻んだものでした。その仕事に従事した人たちが脱北し、そのように証言した人もいます。更に金日成は白頭山山頂の下の適当な場所に丸太小屋を建て、「ここが息子金正日が生まれた場所である。私がここでゲリラ活動をしている時、妻金正淑」から息子が生まれた、まさにこの家である」。そのように全国民を動員し白頭山密営を参拝するようにしました。お見せしている画面は白頭山密営に北朝鮮の住民が集まって参拝し、教育を受けている場面です。ご存知のように実際金正日が生まれたところは1942年ソ連領ハバロフスクと知られています。更に金日成は密営の裏の峰に正日峰という文字を刻みました。これら全てがふてぶてしい操作でした。誰もが知っている操作でした。しかし皆、恐れてそれが操作であると言えずにいるのです。そのような中、純真な子供たちはその操作を事実だと思い込んでいます。操作が神話に変化し、巨大な精神的暴力と監視機構に変わっていく過程だと言えるでしょう。今日北朝鮮の首領体制は、そのような魔性的、暴力的神話体制で維持されている、そう言えるのではないでしょうか。

視聴者の皆様、このような神話の操作と支配は、北朝鮮だけの反知性的で反科学的で時代錯誤的現象だと思われますか?

そうだとしたら大きな誤算です。私が見るとき我々韓国の民衆民族主義、いわゆる民主化勢力の精神世界もそれと変わったところがありません。その世界を代表する人物が詩人高銀です。この高銀詩人が北朝鮮で発表されたという1987年11月より一月早い、1987年10月に白頭山という長編の叙事詩を発表しました。お見せしているこの画面がそれです。この叙事詩は忠清道のある両班、金家の美しい娘と、その家の◯トルマンの結ばれない恋物語として青春男女が手を取り合って夜逃げをするところから始まります。身分を越えて愛を分かち合う青春男女は、鐡嶺のある洞窟で金バウを出産します。追撃隊がこの青春男女を追うので彼らは金バウを抱いて白頭山密林に入って行きました。ある日父のトルマンは白頭山の嶺に登り、息子バウを天池に3回つけます。そして天に掲げ「誰もバウを害することはない。今こそ、金バウの国が開かれるだろう」と叫びます。その後金バウが倭敵と繰り広げる独立と革命の闘争、そのドラマが長編叙事詩“白頭山”です。その金バウが誰であるか視聴者の皆様はもう察しの事でしょう。私の見るところでは、金バウは金日成を指しています。勿論詩人はそのように言っていません。詩人自身は意識していないかもしれません。
しかし、我々の20世紀韓国史はそのように考えざるを得ない前後脈絡の過程でした。それが金日成の単純な操作だけでなく、我々民族が共有する精神世界の底に流れる流れだとすると、南韓にも同一の流れがあり高銀という詩人の叙事詩として意図的であれ、無意識的であれ、そのように表出されたのですね。つまり金バウをつくりだした高銀の精神世界は、1987年金日成が口号木神話を操作し、白頭山密営神話を操作したことと、その深い内面において違いがありません。むしろ深い底辺で共に共鳴しています。

ご存知のように詩人高銀は金大中大統領とともに平壌に行き、南北頂上会談に参加しました。お見せしているこの画面は、韓国側の要人たちと北朝鮮の金正日が席を共にしている楽しい場面であり、金正日の話を聞いて歓んだ顔をしている場面です。赤い円の中の顔が高銀です。この写真に登場する韓国の大統領金大中、韓国の詩人高銀、韓国の代表的歴史学者姜万吉(カンマンギル)が横にいます。そして一人飛ばして北朝鮮の軍事委員長金正日、この人々の精神世界が一つの枠の中にある、そのように考えます。もし万が一、彼らが合意したように南北韓に連邦制が実施されるなら、断言はできないかもしれませんが、その連邦制下で国民たちは白頭山密営に参拝する義務を強要されるようになるかもしれません。それほどに白頭山神話は韓国人ならば逆らいきれない強烈な支配力で、韓国人全てを魅了し押さえつけているのです。その金正日、金大中二人の頂上の連邦制合意を、実践しようと夢見ている人が文在寅大統領ではないですか?案の定、文在寅は北朝鮮金氏王朝の三代世襲者である金正恩と会談をし、白頭山に登りました。そして画面に見られるようにつないだ手を挙げながら笑っています。共に白頭山から漢ラ(ハンラ)まで、漢ラから白頭まで、全国土を全国民を一つの神話で統合しようとする、そのようなメッセージではないでしょうか?それで私は戦慄しています。視聴者の皆様、白頭に根を下ろしている檀木(パクダル)民族の皆様、その不吉な神話から1日も早く脱出するよう願います。今日はここまでにします。ありがとうどざいました。

「事実」と「自由」の二つの価値を追求する李承晩TVの視聴者の皆様、こんにちは。李承晩TVでは、現在、「危機韓国の根源、反日種族主義」というタイトルのシリーズ講義が続いておりますが、今からは「日本軍慰安婦問題の真実」というタイトルで、もう一つのシリーズ講義を始めようと思います。元々本講義は、現在進行中の反日種族主義シリーズの一部として計画されたものであります。私が、反日種族主義という用語と概念を着目したのも、実は日本軍慰安婦問題からでした。そこで、この日本軍慰安婦問題の15回の講義だけは、別のタイトルの下で、別の企画でシリーズの講義として、これから出発させようと思います。そういう前後の事情から本企画講義は、「日本軍慰安婦問題の真実」も実は、「危機韓国の根源、反日種族主義」の一部として反日種族主義を告発し、批判するのが趣旨であることを前提にして、ご覧いただければありがたく思います。それから28年の歳月が過ぎました。その間、日本軍慰安婦問題の実態と真実は、殆どが明らかになったと思います。ご存知のように、去る1991年日本軍慰安婦問題が、日本と韓国の両国間の先鋭な葛藤の理由として提起されました。その土台の上で両国の政府は、それなりにこの問題について対応してきました。韓国政府は、問題の真相を調査し、元慰安婦に補償するための法律を制定・施行しました。日本政府もそれなりの誠意を持って対応してきました。去る朴槿恵政権は、日本の安倍政権とこの問題を最終的かつ完全に清算するという協約を締結しました。にもかかわらず、この問題は無くなることなく、なお両国間の深い葛藤の理由として存在しています。私が書きました「大韓民国物語」という本の中で、日本軍慰安婦問題に対する私の立場を表明したことがあります。慰安婦動員を日本軍の戦争犯罪と言いました。慰安婦は日本軍の「性奴隷」だったとも言いました。そう言いながらも歴史の葛藤を正しく解消する道は、加害者から謝罪を受け取り、被害者に補償するだけでは十分でなく、言い換えれば、国家権力や男性による女性の性に対する支配と略取の問題は、今日の現実にも存在することから、その歴史性が持っている、「矛盾性」、「複合性」、そして「同時代性」、単純な過去史ではなく、現在にも続くその「同時代性」を省察する中で、そう言いながらも歴史の葛藤を正しく解消する道は、加害者から謝罪を受け取り、にもかかわらず、去る12年間、私が本を書いて以来、歴史を振り返ってみると、歴史はそのように流れていきませんでした。
その間、慰安婦問題についての私の理解は、新しい資料の発掘とともに、より広くなり、より精密になりました。特に、朝鮮時代の慰安婦、即ち「妓生(ギセン)」に対する理解を新しくすることができました。さらに私は、この問題に従事してきた韓国の運動団体、いわゆる「挺対協」というのがあるでしょう。それから関連学会、それから一部の政治勢力の精神世界について注目するようになりました。最近、文在寅政権は、朴槿恵政権が日本の安倍政権と締結した協約を事実上破棄しました。それに対して日本政府は強く反発をしている実情であります。さらに明らかにできる真相はなく、もっと補償することもなさそうです。大多数の我が国民も、もうおしまいにする時期ではなかろうかという気分から、何か苛立ち感を感じているのが現実です。にもかかわらず、この問題が解消できていないのは、問題の解決そのものを拒否する、ひいては「争いの持続」そのものを目的とする、何か「長期持続の傾向」が、我が韓国人の精神文化に内在しているからではないでしょうか?私の考えは、その点にまで至るようになりました。その結果、私が考え出したものが、他ならぬ「反日種族主義」であります。我が韓国人の精神世界の、その深い底辺に「長期持続的」に流れている「無言の流れ」がそれであります。この種族主義は絶対的で、無条件的な敵対感情であります。その深い根は、シャーマニズムとトーテミズムの世界に当たっています。その精神世界は、非科学的かつ閉鎖的であります。自国の歴史に対する客観的な理解を欠如しています。隣の国日本の文化と歴史について全く無知な中で、あらゆる偏見と誤解にとらわれています。ひいては世界史を進歩させてきた近代文明の原理が何かについては、全く考えたこともない無知蒙昧な状態であります。
このような問題意識から、私は3年前の2016年に「ジョンギュジエTV」に出演して、「幻想の国」というタイトルの12回の講義をしたことがあります。その中での一つのタイトルが「慰安所の女人達」とする、日本軍慰安婦に関するものでありました。その講義の中で私は、朝鮮戦争当時の韓国軍と米軍にも、さらには15〜19世紀の朝鮮時代にも一種の軍慰安婦達がいたと言いました。1917年、朝鮮総督府が実施した公娼制の下で、さらには1947年に廃止になった後も、民間のための民間慰安婦がいたと、それが今日の現時点にも存在していると、この全ての慰安婦の発生、存在形態、性格は、本質的に同一であるという趣旨のものでした。それとともに、日本軍慰安婦として従事した朝鮮人の女性の総数が3万〜4万人であるやら、さらには20万という従来の通説を否定して、さらには日本軍慰安婦が「sex slave」、「性奴隷」という、従来の通説も再考する必要があると主張しました。2007年以降の10年間、私なりにあれこれの資料を見て考えた結果、新しい、この問題に関する、新しい考えをその講義の中で繰り広げてみたのであります。その講義を、3年前のその講義を今からおおよそ15回にわたって、より広く、細密に、分析的に繰り返していく予定であります。
まずは、今日のタイトルは朝鮮戦争当時の存続した韓国軍慰安婦の問題です。これに関してはキム・キオクという教授の先駆的な論文もあり、またマスコミも何回か扱ったことがあるので、私が新しく特に追加する内容はありません。ただ、軍慰安婦問題の本質に関して、他のどんな事例よりも明らかな示唆点を、否定できない明らかな示唆点を私達韓国人に与えてくれるために、この問題から言及していかざるを得ません。1951年のある時期です。正確な時期はわかりませんが、当時朝鮮戦争中の韓国軍は兵士たちに性的慰安を提供する特殊慰安隊を設立しました。1956年陸軍本部が編纂した「6.25事変後方戦史(人事編)」という本によりますと、特殊慰安隊は、「兵士の士気を高揚し、性的欲求を長期間解消できないことによる不作用を予防することを目的として設立された」としています。ソウルには、3つの小隊があり、江陵、春川、原州、束草に一つずつ中隊がありました。最前線のすぐ後方地域と言えます。これら特殊慰安婦隊は、一つの地域にとどまって、行き来する兵士を受け入れたこともありますが、指示により或いは部隊の要請により各部隊に出動して慰安を提供することもありました。京畿と忠清から南の後方に配置された慰安部隊はなかったようであります。江陵の場合、陸軍戦史によりますと、一つの中隊は8つの小隊に構成されたそうです。そして各小隊に配属された慰安婦は、平均20人でした。そこでいろいろなことを総合的に考慮しますと、この特殊慰安隊に所属した慰安婦の総数はおおよそ700人程度だったと推定することができます。慰安婦たちは性病予防のため、週に2回、厳格な検診を受けました。私が700人だったと言いましたのは特定な時点で把握された絶対数が700人だったということであって、ここに短く或いは長くの間に通り過ぎた女人の数はそれよりも何倍も或いは何十倍にもなりうるという意味です。お見せします表は、この後方戦史編に出る1952年の一年間の特殊慰安隊があげた慰安の実績を表しているものであります。ソウルの第1、2、3小隊と江陵の第1小隊のみの実績であります。全慰安部隊全ての実績ではありません。4つの小隊のみの89人の慰安婦がおり、そして彼女たちが1952年の一年間、また彼女たちというのも89人が随時に交代できるということを前提にしています。その点をご留意し、聞いてください。1952年の一年間に慰安された総兵士達の数は、20万4560人です。月平均1万7047人、日平均560人、そして慰安婦一人当たりの日平均の被慰安兵士は6.3人です。慰安婦1人が担当した1日の性交労働の強度は平均6回ということが言えます。この平均6回という数字を覚えて、この講義をずっと聞きますと、何か一貫したことが掴めると思います。
この朝鮮戦争中の韓国軍慰安婦については、いろんな人々の回想録から、より具体的な情報を得ることができます。チャ・ギュヒョン(車圭憲)という、後で予備役大将として退役した方です。その方の回顧録によりますと、師団から送られた慰安婦が到着すると、24人用の野戦天幕に収容し、簡易天幕を張ってから、兵士たちを受け入れたと解雇しています。兵士たちは天幕の前で列を作って順番を待ち、軍が配給したチケットを渡して慰安を受けました。キム・ヒホという将校は、連隊から隷下中隊に、昼間の8時間ずつ、6人の慰安婦を第5種補給品として送った、これは連隊の幹部たちが士気高揚のため多額を払ってソウルから連れてきたのだと解雇しています。このことから当時の韓国軍の幹部たちが慰安婦を戦争遂行のための、補給品として認識し、扱ったことがわかります。このことは後で紹介しますが、日本軍が慰安婦を軍需補給品として管理していたことから影響を受けたということができます。つまり、韓国軍慰安婦制度の直接的起源は、日本軍慰安婦制度にあるということができます。また、このキム・ヒホ様の回顧録から、陸軍本部が正式に編成した後方戦史編で紹介されたその特殊慰安隊以外にも部隊長の裁量によってソウルなどの売春街などから慰安婦を募集して臨時的に運営した。そのような慰安部隊もあったとのことを推察できます。
私は専攻の関係上、いろんな地域のいろんな方々とインタビューをする機会がありましたが、朝鮮戦争の当時、曹長をしていた人で、この慰安婦隊をトラックで運んだ、そのような経験をした方に会ったことがあります。その方の話によりますと、憲兵達から見つからないように、だから合法的なことではないでしょう。憲兵達から見つからないように、ドラム缶に女性たちを入れて戦場に行ったが、天幕を張ると、韓国軍達だけではなく、米軍も訪れてきたと言いました。
韓国軍慰安婦に関してもっとも詳しい回顧を残している方は、チェ・ミョンシン(蔡命新)です。黄海道が故郷で、信心深いキリスト教信者で、解放後、共産主義体制から南に逃げた後、陸軍士官学校に入学して、朝鮮戦争当時には敵の地域に浸透したケローという部隊ですが、敵の地域に浸透したゲリラ部隊を率いた勇ましい将軍です。後で朴正煕大統領時代にはベトナムに派遣された韓国軍の司令官でもあります。その方が「死線を越えて」という回顧録を執筆しましたが、慰安婦に関する回顧は、チェ・ミョンシン将軍が第五連隊の連隊長の時代の話です。当該部分をそのまま朗読いたします。第五連隊が戦線から後方の予備隊に出た。兵士たちは、予備隊に出る前からもっぱら慰安婦の話で盛り上がっていた。私は武功を挙げて勲章をもらった兵士たちに優先的にチケットを配分した。パク・ハンドという軍曹がいた。年がまだ19歳にすぎない、まだ産毛の残っている少年だったが、ドルバイ高地を占領するのに輝かしい武功を挙げて花朗武功勲章を貰っていた。チケットを受け取ったパク・ハンド軍曹は童貞だった。慰安部隊の天幕に入るのを頑なに拒絶したが、分隊員達が無理やり天幕に入れた。それから分隊員の皆がどうするのだろうと天幕の中をのぞいてみた。女がズボンを下ろそうとしたら、パク・ハンドは逃げたが、狭い天幕の中ですぐに捕まえた。彼が童貞であることに気づいた女が、悪戯で彼の物を触り、からかったら顔が赤くなって天幕の外に逃げてきた。分隊員たちは自分たちの分隊長を徹底に教育して、次の日、彼はとうとう成功した。我が部隊がまた戦線に送られた時、パク・ハンドは惜しくも戦死してしまった。私はそんなに心が痛いことはなかった。私はパク・ハンド軍曹を1階級特進させて忠武勲章を追叙した。以上です。この滑稽で悲しい事件をもって部隊長のチェ・ミョンシンを責めないでほしいです。彼は信心深いキリスト教信者でしたが、旗下の兵士たちに慰安婦を提供することに何の罪悪感も感じていませんでした。それは戦争の文化でした。その戦場では皆が犠牲者でした。天幕の慰安婦も悲しい人生でしたが、19歳で戦死したパク・ハンド軍曹の人生も悲しいのは同じです。パク・ハンド軍曹が乱暴な軍人で、かよわい女性の性を略取したと言えますでしょうか?
わたしは言えないと思います。誰も彼らを断罪する資格はないと思います。連隊長も分隊長も慰安婦も皆、彼らが置かれた環境の中で生き残るために、身悶えを打ったのです。だからと言って、私がこの軍慰安婦制度を正当化すると非難しないでください。私は人間歴史の複雑性と矛盾性、現在にも存在するその同時代性を指摘したいのです。歴史は決して道徳的な批判や断罪するものではありません。歴史家はあったことを、できるだけ公正かつ客観的に叙述して伝えるだけです。人間は道徳的に不完全な存在であり、生存本能が猛烈に支配する戦場では特にそうでした。
1950年代の韓国人たちもその点を鋭意認識していました。韓国軍は特殊慰安隊を設立しながら、表面的な理由だけで売春を禁止した国家施策に逆行する矛盾した活動だと断罪すれば別問題ですが、戦争遂行のために不可避なことだったと弁明しました。だから戦争が終わって、設置目的が解消するに至って、公娼廃止の潮流に応じて1954年3月に特殊慰安隊を一斉に閉鎖しました。戦争が終わって、8ヶ月も過ぎてからのことになります。だからと言って、以降、軍部隊の周辺で性売買が消滅したことは決してありませんでした。軍部隊をめぐっての民間の性売買がなお存続し、繁栄し、それに従事した女性たちも慰安婦であることは同じだからです。1955年、政府は保健社会統計を作成するにあたって、民間の性売買する女性のことを慰安婦、prostitute
と規定し、称しました。なので、朝鮮戦争当時の特殊慰安隊は、民間の慰安婦が部隊にしばらくの間に営業の場所を移したものに過ぎません。韓国軍の慰安婦の存在について、最初に論文を書いたキム・キオク教授は、特殊慰安隊の供給源と関連して捕虜として捕まえられた北朝鮮の人民軍の女性兵士か、共産主義者とされた不純勢力の残余だと主張していますが、私はその意見に賛成することはできません。捕虜として捕まえられた女性兵士に性的暴行が加えられたという主張に対しては同調できますが、しかし、彼女たちを特殊慰安隊のような部隊として編成し、充当したとみる証拠はありません。1952年3月ごろだと戦線は現在の休戦線付近に固着され、以降捕虜が大量に発生する余地は殆どありませんでした。特殊慰安隊が設立されたのは、正確ではありませんが、おそらく1951年の戦争がある程度、姑息な状態に入ってから以降、おそらく中・下半期以降ではないかと思われます。特殊慰安隊が共産主義者の女性たちから充当されたというのは、あまりにも政治的であります。その点は、キム・キオク教授の先駆的論文が持つ学術的な価値を落とすだけでなく、彼の研究意図までも疑われるところです。当時、韓国軍は特殊慰安隊を編成するにあたって、なんの苦労もありませんでした。様々な側面から軍慰安婦と同じ約6万人の民間慰安婦が広い範囲で存在していたからです。キム・ヒホ様の回顧の通り、韓国軍の慰安婦は、軍が多額のお金を使って民間から募集した女性たちでした。彼女たちのまた他の慰安婦、即ち民間慰安婦については次の講義で、より具体的に説明いたします。今日はここまでにいたします。ありがとうございました。(日本語翻訳:林寿泉)

朝鮮の妓生(ギセン)、別範疇の慰安婦ー李栄薫ソウル大学名誉教授、李承晩TVー
(朝鮮王朝の時代の妓生制)

「事実」と「自由」を追求する李承晩TVです。視聴者の皆様、こんにちは。「日本軍慰安婦問題の真実」シリーズの講義が続いています。今日のタイトルは「朝鮮の妓生(ギセン)、別範疇の慰安婦」です。こんにち我が韓国人は、およそ19世紀までの朝鮮時代を性道徳が厳格な、性的に清潔な社会だったと思っています。実際、両班(ヤンバン、朝鮮時代の貴族)家の女性たちは、そうでした。夫が死んだら、一生再婚することはできませんでした。夫がいる婦人達にも貞操の律が厳格に強要されました。婦女子が親族でない男と会うことは、法的に禁止されたこともありました。女性の人権をひどく制約した悪法としての性格も有していました。とにかく、昨今の我々韓国人たちは、朝鮮時代を性的に清潔な社会とみなす中、20世紀に入って成立した、こんにちもなお盛んな売春産業は、日本人が持ち込んだ悪い風習だと思っています。ところで、はたして朝鮮時代は、性的に清潔な社会だったのでしょうか?私は違うと思います。私は世界史において、また今日においても、この地球で性的に清潔な社会はなく、今でもないと思います。勿論、それと相異なる法、文化、宗教を背景に、地域ごと、民族ごとに性モラルの差異はあるでしょう。

朝鮮時代の女性たちに強要された貞操律は、あくまでも高級の両班身分の家柄の女性たちがその対象でした。常民(サンミン)や賎民(チョンミン)の身分の女性たちに、貞操律が厳格に強要されてはいませんでした。勿論、その境界は多少曖昧ですが。返って両班身分の男性による、賎民身分の女性に対する性的暴力が広範囲で行われた時代でもありました。まさに、今日お話しします妓生が、そのような性的支配と暴力の対象となった賎民身分の女性たちでした。
朝鮮王朝の地方行政や軍事機構である監営(ガムヨン)、兵営(ビョンヨン)、郡県(グンヒョン)、津(ジン)には、官婢(グアンビ)、すなわち官に属した女婢がいました。官婢は、二部類からなっています。まず、水を汲み、料理をする女婢(ゲジップジョン)ですが、汲水婢(グッスビ)と言いました。茶山(ダサン)丁若(ジョン・ヤギョン)先生は、彼の「牧民心書」の中で、「天下で可哀想なのが、この汲水婢達だが、顔が醜く、髪型は◯◯がなく、昼夜に休む暇もなく働くのが、あまりにも疲れるものだから、守令(スリョン、朝鮮時代の地方官吏)たる者が、時々、服や食料も渡し、夫の安否なども聞くなどして恵みを与えるべきだ」と言いました。
他の部類の官婢は妓生でありますが、他の言葉では、酒湯(ジュタン)とも言いました。妓生は、官衛(ガアナ、朝鮮時代の地方官庁)で行われる酒宴で歌って踊る役を担っていた女婢でした。また、守令や官衛を訪れてきた賓客の寝室で宿直をしなければなりませんでした。そういうことを指して房直(バンジック)または、守廳(スチョン)と言いました。しかし、文字通りの宿直でなく、普通、守令や賓客と共寝をして性的慰安を提供しました。そこで、妓生と言えば、舞、歌、性的慰安の3つの任務が与えられた、官に縛られている女婢と定義することができます。必ず官だけを相手にしたのではなく、両班たちが私的に行う酒宴などでも踊り、歌いました。ご覧になっているこの絵画は、實(ヒエオン)申潤 福(シン・ユンボック、朝鮮時代の画家)が描いた蓮花鑑賞会の宴で妓生と遊ぶ、有名な絵です。ここで一つ指摘したいことは、女婢が性的慰安を提供することは、妓生のような官に縛られた官婢だけではなく、民間私家の女婢の場合も同じだったということです。民間でも、大切な客が訪れてきて泊まることになれば、女婢に守廳をさせたのです。私はそのような客への接待の慣行は、三国時代にまで遡るのではないかと思っています。それが後代に伝わって奴婢(ノビ)身分制がはったつするにつれ、女婢の役と変わったのです。そのような民間の長い慣行が存在していたから、官婢にも同じ役割が当たり前に強要され、そのため、朝鮮時代の500年間、是非を問われることもなく、その妓生制度は続いたのであります。つまり、朝鮮時代に入り、そのような性的サービスの役は女婢に担当させるとともに、両班家の婦女達には、非常に過酷かつ非人間的な貞操律が強要されたのです。そのことにより、朝鮮時代は、性的に清潔な社会とのイメージが生まれましたが、その全体像は私が説明しましたように、下層賎民には、かえって慣行的に性的暴力が露骨に加えられる社会に変わったともいうことができます。両班官僚が妓生をどのように支配し、搾取したかに関連して、一つの具体的で実証的な記録をご紹介します。
慶尚道の蔚山府に朴就文(パク・チムン)という両班官僚がいました。1617年生まれの人です。祖父や父が武科(武将になる国家試験)に合格した武班の家柄の出身でした。彼も1644年に28歳で武科に合格しました。その後、1644年の12月から1646年の4月まで、1年5ヶ月間、威鏡道の会寧(フェリョン)と鏡城(ギョンソン)に行って軍官として勤めました。その後は、多くの郡県の守令を歴任した両班官僚としての人生を送りました。彼は威鏡道で軍官として勤めた1年5ヶ月間の毎日のことを日記に残しました。彼は、その期間中に自分と共寝をした、妓生を含め、女性たちの身上情報などをその日記に書きました。日記の題目は、ご覧になっているのか画面ですが、「赴北日記」です。この日記は、もともと彼の父親である朴継叔(パク・ケスク)が威鏡道で軍官として生活していた時に書き始めたものです。朴就文は、息子として、父親の「赴北日記」に自分の軍官としての1年5ヶ月の生活も書き加えたのです。父親の朴継叔も自分の軍官としての生活の中で接した女性たちに関する情報を日記に書きました。しかも、息子の朴就文は、彼と同行した他の軍官達がどの妓生と共寝をしたかまでも日記に記録しました。このことから、接した妓生の身上情報などを日記に記録したことは、17世紀前半の両班官軍たちの生活風俗とまで言うことができるかもしれません。ご覧になっている表は、1年5ヶ月の間、朴就文と共寝した、彼に性的サービスを提供した女性たちの一覧です。朴就文は、蔚山を出発して、東海岸に沿って、北のほうに行きました。彼が宿泊した各所で彼は民間の私婢や官衛の妓生と共寝しました。1644年12月11日、家を出てから二日目のことです。朴就文は、ある座首(ジャス、地元の中央官吏補佐役)宅に宿泊しましたが、その家の女婢、通真兒(トンジンア)と共寝しました。兒(ア)という字が最後に付くということは、16歳前後 の少女という意味です。妓生が髪を上げる(初体験する)のが大体16歳前後であるので、そのように推測することができます。軍官身分の若者が家に宿泊するから、座首の家主が女婢に性的慰安を提供するよう、命じたのです。民間で、そのような慣行があったことは、先ほど指摘した通りです。表にある全てのことを詳しくはご説明しません。続いて、12月16日には、義城県(イソンヒョン)では、酒湯、すなわち妓生の春日兒(チュンイルア)と共寝をしました。その日の日記には、叔莓(スクエ)は、酒湯の梅花亞(メファア)と共寝したと記されています。叔莓(スクエ)という人は、朴就文とともに威鏡道まで同行する彦陽(オンヤン)出身の軍官でした。このように 朴就文一行は、東海岸に沿って北上しながら、各村の妓生から性的慰安を受けました。12月30日には、江陵(カンヌン)府に着き、妓生の蓮香兒(ヨンヒャンア)と共寝しました。ところで、二日後の1645年に年が変わり、1月2日には、江陵の有名な名妓の件里介(ゴンリゲ)と共寝します。その時に同行していた軍官の李先達(イ・ソンダル)は、妓生の代香(デヒャン)と、士推(サチュ)は、妓生の莫介(マッケ)と共寝をしたと朴就文は記しました。名妓の件里介と共寝した時の滑稽なエピソードをご紹介します。男女の性的交渉が終わった後、件里介が朴就文に、二日前に蓮香と共寝したのかどうか聞きました。朴就文が共寝したことを明かすと、件里介は号泣しました。そうすると、件里介の母と弟が来て、どうしたのかと聞きました。件里介は、この人は二日前に蓮香と共寝をしたというが、蓮香は性病持ちだから、自分にもうつるといったのです。そうしたら、彼女の母も号泣するようになりました。朴就文は、 日記に主も客も共に心配になり、あまり眠ることができなかったと記しました。朴就文は朝になって、出発するときに薬代として布を2疋(ピル、布の単位)を与えましたが、お米の2石(ソック、米の単位)に相当するものでした。かなり高い花代(揚げ代)を支払ったことになります。後で、日記に朴就文が性病を患い、苦労したとの話がないのを見ると、妓生の件里介は、彼女の母とともに演技をしたのかも知れません。下層賎民の女性が生き残るためにやったことかも知れません。
このようにしながら、朴就文一行は、江陵を経て咸興(ハムフン)吉州(ギルジュ)、明川(ミョンチョン)、鏡城(ギョンソン)、富寧(ブリョン)、会寧(ホエリョン)などにいきました。途中、鏡城では別監(ビョルガム、地元の中央官吏補佐役)のジョン・ジンソンの家で宿泊しましたが、女婢のユルドックと共寝し、その女色が最も美しかったと記しました。富寧に着くと、サリムという人の家で泊まりましたが、その家の娘の香春(ヒャンチュン)と共寝しました。その日、同行する軍官の公望(ゴンマン)は玉仙(オクソン)を、ヨンホエは花仙(ホアソン)を、ドウクヨンは老妓の香介(ヒャンゲ)を抱いたと書き残しています。とうとう赴任地の会寧に着くと、妓生の月梅(ウオルメ)に会います。ここに妓生の月梅がありますが、この妓生の月梅は、朴就文の父、朴継叔を守廳したべジョンという妓生の娘です。朴継叔が書いた「赴北日記」に、べジョンに関する記事が出ます。そのため、朴就文はべジョンを知っていました。ところで、月梅にあって話を聞いたら、べジョンはすでに死んでおり、月梅は、彼女の娘だったのです。そして悲感の涙を流したと日記に記しました。それからは「共に同宿した」と日記に記しました。他の場合と表現が若干違って確かではありませんが、どうも性的交渉をしたという意味として解釈されます。ある両班軍官の父子が辺境の妓生母娘と代を続いて関係を持ったのであります。赴任地の会寧で、朴就文には、義香(イヒャン)という若い妓生が房直妓として配属されました。近くの田舎の村には、義香の実家と彼女の母がおり、随時に訪ねては、お餅を作ってくれたり、薪を供給してくれたり、洗濯をしてくれたりしました。朴就文が会寧にいる間、その母娘は誠意を持って朴就文の面倒を見ました。
それが妓生身分の母娘に与えられた役でした。国家から与えられた役でした。朴就文は、房直妓の義香だけに満足せず、雪梅(ソルメ)という他の妓生とも5〜6回楽しみますが、雪梅は、先ほど紹介しました月梅の姪です。その地域の妓生達は、一つの親族集団をなしていたのです。なぜなら、妓生という身分は、世襲されなければならなかったからです。1645年7月、朴就文は、会寧から鏡城府に任地が変わりますが、そこでは香春という別の房直妓が配属されます。その時にあった悲しい一話をご紹介します。朴就文には房直妓が配属されましたが、他のある軍官には房直妓を配属させることができませんでした。妓生が足りなかったのです。そのため、鏡城の府使(朝鮮時代の地方官吏)がテヒャンという民間の私婢を呼んでは、房直妓の役を担うよう命じました。てヒャンを呼んでは「君は、夫が死んでから数年間にわたり貞操を守ってきたと聞くが、それは立派なことである。しかし、房直妓が足りない。某軍官に使えなさい」と命じました。しかし、テヒャンは断りました。すると、鏡城府使は、テヒャンの母と兄を捕まえて笞刑(テヒョン、棍棒で殴る刑)に処しました。そのため、テヒャンは仕方なく、某軍官に使えたという話が日記にでます。このように両班官僚たちは、低い身分の女性が死んだ夫のため貞操を守ることを立派だと評価はするものの、民間の私婢なので、彼女にとっては義務でもない、守廳を強要しました。言うことを聞かないからと母と兄を捕まえては、棍棒で殴ったのです。つまり、官に縛られた妓生や私家の女婢など身分の低い女性の性は、彼女のものでも、夫のものでもなく、朝鮮王朝とその支配階級の両班官僚所有のものでしかありませんでした。
続いて、1645年8月から10月までの2ヶ月間、朴就文は、鏡城府使に付いて北方を巡視します。ご覧の地図は、朴就文が勤務していた地域を示すものですが、はるか遠くの穏城郡(オンソン)、朝鮮半島の最北端の穏城まで巡視の範囲になっています。その険しい巡行旅程中、朴就文と守令は現地の妓生から性的慰安を受けました。明川(ミョンチョン)に着くと、妓生のギョツヒャンと共寝し、守令は妓生の玉梅香(オクメヒャン)と共寝したそうです。ところで、玉梅香は、以前、朴就文がその地域を一度通過するときに関係を持った妓生でした。最北端の穏城についてからは、民間の女婢のエセンと共寝をしましたが、17歳で美人でした。その話を守令が聞き、翌夜、彼女を呼んで共寝をしました。このようにして、両班官僚達は、国防のためなのか、楽しみなのか、北方を警備していました。2ヶ月後の10月25日、朴就文は、自分の赴任地である慶源(ギョンウオン)府に帰ってきました。その夜、日記は、妓生のヒャンセンとチョンシの二人と共寝をした、としています。まさに精力が満ち溢れる28歳の青年だったのです。以降、朴就文は、蔚山にある実家への帰途につきます。
以上のような朴就文の女性遍歴を見て私は、「あー、ここに、今から遠くない我が国の歴史に、また別の範疇の軍慰安婦がいたのか」と、思えるようになりました。朴就文の日記を読んだ人であれば、歴史研究者であれば、誰でもその点を否認することは難しいと思います。私は、そこで一体妓生というのは、どのようにして生まれた存在なのかを調べました。この本です。その妓生の歴史を、去年4月に発刊した「世宗(セジョン、第四大朝鮮国王)は、はたして聖君であろうか」という本で紹介しました。ご覧の画面が、その本です。興味のある方は、ご一読ください。妓生の歴史については、通史としては初めての本ではないか、大衆書の形式ではありますが、私は学術的に書いたと自負しています。妓生の歴史は、新羅や高麗時代にまで遡ります。しかし、世襲的な賤しい身分としての官婢ではありませんでした。高麗時代の妓生の息子は、官僚に、高い地位まで出世したこともあります。妓生は賤しい身分の官婢であり、妓生の娘は母の身分を世襲して妓生の役を担わなければならないという法ができたのは、朝鮮王朝の世宗の時のことです。そのような歴史を、この本で詳しく述べました。さらに、妓生を軍慰安婦として規定し、その設置を制度化したのも世宗でした。こんにち、韓国人が歴史上最も偉大なる聖君として、偉人として崇めるその王様です。この画面の写真を知らない韓国人は、おそらくいないでしょう。世宗路に立てられている世宗大王の坐像です。韓国史を代表する最高の偉人ですが、しかし、果たしてそうなのでしょうか?私の本をご一読ください。1435年のことです。世宗は、朴就文が軍官生活をした、まさにその地域、即ち、会寧と鏡城などを挙げ、「北方の辺境で勤務する軍士たちが、家から遠く離れ、寒さと暑さで苦労が多い。また日用の雑多な仕事をいちいち解決することも難しい。そこで、妓生をおいて将校と兵士、士卒を接待させるのが理に敵うことだ」としながら、軍士を接待する妓生を設置するよう命じました。以降、北方の辺境の地域は勿論、全国の各村に妓生が設置されました。大きい監営や軍営には妓生が100人を超えることもあり、規模が小さい郡県でも20〜30人の妓生達を置くことが普通でした。朴就文の「赴北日記」によると、1645年の当時、鏡城府の妓生の人数が100人でした。全国的に全てを合わせるとほぼ1万人に達するのではないかと私は推測します。このようにして生まれたのが軍士慰安制が、ほかならぬ朝鮮の妓生です。もともと世宗は、辺境の軍士を慰安するために設置するよう命じましたが、いつの間にか、南方の各村にまで守令と賓客を慰安する制度として広く拡散されました。そうなった背景は、先ほど言いましたように、南北を問わず、民間で女婢を客の寝室に入れ、性接待をさせるのが風俗と慣行として定着・成立していたからであります。そのようにして生まれた妓生制は、18世紀以降、奴婢制が衰退することにつれ、一緒に衰退していきました。それでも、記録によると、平安道の寧辺府では、19世紀前半まで30人の妓生がおり、それは、主要監営と兵営でも一緒でした。結局、朝鮮王朝末まで、妓生制度は最後まで撤廃できることはなかったのです。
この画面の4人の妓生は、1904年当時のソウルで最も有名な4人の妓生ですが、スウエーデンの記者であるアーソン・グレブストという人が撮った写真です。1894年の甲牛更張(甲牛改革)により、奴婢制の廃止、またしれに従って妓生制も廃止にならなければならなかったのですが、実効力がない中、王政末期まで妓生制は存続しました。奴婢制を廃止しようとの主張が朝鮮王朝の500年間にわたって提起されたことはありません。同じように、「妓生制度は撤廃すべきだ」、「非人間的な、反女性的な悪い制度だ、社会の道徳にも深刻な損傷を与えている」という主張は、朝鮮王朝の500年間、誰一人も提起しませんでした。なぜ、妓生制は最後まで廃止できなかったのでしょうか?その朝鮮の奴婢制と妓生制を正当化する政治神学は、どのような名分と論理であったのでしょうか?私はいつもその点に疑問を抱いていますが、まだそれについて答えてくれる研究者を知りません。とにかく、私は、朝鮮時代は性的に清潔な社会だったとの主張に対して、首を横に振るしかありません。身分的強制とともに賎民女性に対する性的暴力が正当化された社会でした。まさにそれによって賎民身分の場合、単婚夫婦に適合した貞操律が確立されにくかったです。女婢の貞操観念が薄弱であるという、我々大衆の先入観はこのようにして生まれてきたものであります。19世紀末から20世紀初めの新小説を見ると、女婢に対してそのように描写していますが、それは、その朝鮮社会の身分律が、支配体制がそのような状態を造成したからです。このような身分社会が20世紀に入り、市場社会へと変わります。性に対する、身分的暴力が商業的な売春市場に変わるのです。20世紀の公娼制の歴史は、このような以前の時代との関係を前提してからこそ、正しく理解することができると思います。「日帝が悪い風俗を持ち込んだ」との話も、一面、真実であるでしょうが、それだけでなく、以前の歴史との関係の中で理解されるべき、分析されるべき、一つの歴史的事件なのであります。今日はここまでにいたします。朝鮮時代にも我々が軍慰安婦と呼ぶ範疇の賤しい身分の女性たちが長期間存続した。これが今日の講義の要旨であります。次の時間には20世紀に入り、公娼制が成立され、どのように展開されていったのかについてご説明します。ありがとうございました。

李承晩TV「日本軍慰安婦問題の真実」(李栄薫ソウル大学名誉教授)
ー公娼制の施行、身分的支配から商業的売春へー

(日本語翻訳:林寿泉)
視聴者の皆さん、こんにちは。「日本軍慰安婦問題の真実」という企画講義の6回目の時間です。「危機韓国の根源、反日種族主義」との講義として元々計画されたものですが、別途の「日本軍慰安婦問題の真実」という講義が現在続いています。今日の講義のタイトルは「公娼制の施行」、副題としては「身分的性支配から商業的売春へ」です。日本軍慰安婦問題の真実に接近するため、私は、段階的に関連主題を一つずつご紹介しています。1916年、朝鮮総督府は、公娼制を施行しました。同年3月ですが、総督府は、「貸座敷娼妓取締規則」という、純日本式表現ですが、そのような法令を発布しました。ここで娼妓(チャンギ)とは性売買を専業とする売春女を指す言葉ですが、以前の講義で言いましたように、解放後の1950ー60年代、韓国政府は、そのような女性たちを慰安婦と言いました。英語では、prostituteと訳しましたが、娼妓というのは、その前に使われた日帝時代の公式用語であります。貸座敷という言葉は、日本語ですが、簡単に言えば、遊郭です。貸座敷営業者は抱え主(ポジュ、楼主)と言って、娼妓たちに営業場所、寝食、その他の便宜を供与する者でありました。娼妓として営業をするためには、貸座敷で娼妓として営業をするためには、まず、本籍、住所、姓名、生年月日などを書いた営業許可申請書を管轄の警察署長、憲兵隊または憲兵分遣所に提出し、許可を得る必要がありました。その申請書とは別途に、娼妓に夫がいれば夫、未成年の場合は父か母、そして父か母がいなければ戸主または後見人などがその就業を承諾した就業承諾書を作成し、印鑑を押さなければならず、また、印鑑証明書の添付されなければなりませんでした。そして、娼妓と貸座敷営業者間の前借金、貸座敷営業者(抱え主)が娼妓を受け入れる(抱える)ときには、前借金を渡しますが、その前借金を渡した内容などが記載された契約書、そして娼妓出願者が保健所に行って、性病に感染したかどうかなどの検査を受けた健康診断書、娼妓業を始める理由書が添付されなければなりませんでした。その後、警察署長がこれらの書類を審査し、娼妓業を許可すれば、娼妓は、その許可証を自分の部屋に掲示しなければなりませんでした。また、娼妓は、警察署または管轄行政部署が指定した遊郭の地域を離れることができませんでした。住居が制限されただけでなく、任意的外出も禁止されていました。外出するためには許可が必要でした。そして、貸し座敷営業者は遊客の身上情報を記録した名簿を作成しなければなりませんでした。また、毎月、娼妓の営業所得がいくらだったのか、抱え主と娼妓間の前借金の償還実績等を警察署長に定期的に報告しなければなりませんでした。娼妓は、毎月2回、定期的に性病検診を受ける義務がありました。娼妓業を辞める時は、許可証を警察署長に返納し、閉業許可を得なければなりませんでした。以上が1916年に総督府が施行した公娼制の主要内容であります。
公娼制は、近代の西欧諸国において先に始まったものであります。前近代では、多様な形態の売春が行われていたのが、近代国家になるにつれ、公娼制の形態に、国家が直接管理しはじめました。近代公娼制の3つの基本要件は、まず、娼婦達を必ず登録させること、2番目は性病検診を義務化すること、3番目は営業区域を1ヶ所に集中させることです。諸国の公娼制は、大体このような要件を備えていました。
娼婦を登録させたのは、娼婦と抱え主との関係に国家が介入・統制をすることにより、不当な人身売買が行われないよう、それを禁止するための、また、娼婦に不利な、抱え主に一方的に有利な契約条件を防止するための、そういう趣旨からでありました。
2番目は、国民の健康を守るために、売春業において蔓延しがちの性病を統制する目的で、性病検診を義務化しました。さらに、近代国家は、常備軍を保有しますが、兵士たちの性病感染は、軍の戦闘力と士気に大きい支障をきたすものであります。実は、近代国家がこの公娼制を施行した直接的なきっかけは、健康な戦闘力を確保するため、兵士たちが性病に感染するのを防ぐため、という目的からであるということができます。
3番目の、公娼業を1ヶ所に集中させたことは、売春業による風紀の乱れを統制するため、民間に分散されている売春業を、散娼と言いますが、民間に分散されている散娼の売春業を一か所に集中させ、集娼として管理する必要があったからであります。集娼にさせることで、行政的な統制と、性病検診がより有利かつ便利になる側面がありました。以上が、公娼制の歴史的な意義であるということができます。
明治維新以降、日本は1870年代にフランスとドイツから公娼制を習い、導入しました。以前の江戸時代、17世紀〜19世紀の近世日本では、遊女屋と言って、商業的売春業が存在していました。ご覧の画面は、遊女屋の様子ですが、格子越しに遊女たちが座って、客を誘っています。遊女屋の業主は、貧しい家の娘を人身売買の形態で購入し、売春に従事させていました。ところで、開港以降、外国人たちから、人身売買への非難が殺到したので、日本は、国家の体面のために、この遊女の人身売買を禁止し、遊女屋を貸し座敷に名称変更し、また遊女を娼妓に名称変更し、貸し座敷を一定の地域に集めました。それが日本の近代公娼制であったということができます。貸し座敷(デジャブ)というのは、遊女たちに客と接する場所を貸与する、日本語では貸し座敷と言いますが、遊女屋が貸し座敷と変わったのが日本の近代公娼制の始まりであるということができます。
先ほど、1916年に朝鮮総督府が施行した公娼制の内容を詳しくご紹介しましたが、若干の差異はあるものの、概ね日本の近代公娼制をそのまま導入、移植したものということができます。19世紀までの朝鮮時代に、日本の江戸時代の、近世日本の遊女屋のような商業的売春業が成立していたか、成立していたならば、どのようなものかは確かではないものの、多くの研究者たちの意見もそうですし、私もそう思いますが、日本の遊女屋のような、先ほどの画面のように、格子越しに、女性たちを「客引き」させるために座らせるような商業的な売春が朝鮮では成立しなかったと見るのが正しいと思います。法的に禁止されていたと思います。商業的売春が無かった基本的な理由は3つあると思います。まず、商業経済の発展水準がそんなに高くありませんでした。性売買そのものを目的とする売春市場が成立するためには、かなり高い水準の商業経済が発展しなければなりませんが、そのような条件が、成立していなかった、商業経済が相対的に低い水準にあったということであります。
2番目は、娘を人身売買できるほどの家父長権が確立されていませんでした。商業的売春が成立するためには、売春の需要があるならば、供給も必要です。供給のためには、歳が10代後半の、17歳か18歳以降、または、20歳前後の女性たちがそこに行かなければなりませんが、当然、自ら進んで行くことはありませんし、いろいろな強制力が作用しなければなりません。それが日本では、娘を売ることのできる父親の権利が確立されていたから、可能でありました。貧しい家の父母が子供達を人身売買業者に売ったのです。しかし、朝鮮では、朝鮮の家族制度では、日本のような家父長権が確立されていませんでした。朝鮮でも人身売買はありましたが、それは、奴婢(ノビ)という下層身分の売買でした。一般平民が、父親が娘を売ることのできる、そういう形態の家父長権が確立している家族制度ではありませんでした。19世紀になれば、一般の平民達が自ら自分の身を奴婢として売る現象が少し現れますが、そういう場合でも一家全員が奴婢として売られるのがほとんどでした。父親が娘を奴婢として売るケースはまだ確認されておらず、私はあり得ないことだと思います。
3番目の原因は、朝鮮王朝は、厳格な儒教倫理の社会で、そういう儒教倫理の社会である限り、商業的に性を公開的に売買することは、国家の道徳基準によって厳格に規制、禁止されていたということです。これらの理由から、朝鮮時代は、商業的売春は発達することが難しかった、あったとしても非常に低い水準であったと言うことができます。性文化が清潔だったと言っては困るという点を、今もう一度思い出していただきたいです。朝鮮時代は、商業的売春ではなく、身分的な性支配が発達した社会でした。官に行けば、妓生という身分が賤しい下層の女性たちがおり、性接待の役を与えられていました。そのような性接待の役は、妓生としての身分とともに世襲されました。一般民間の私家の奴婢たちも主人の命令に従い、賓客の寝室に入り、性接待をしたち言いました。女婢の性は、主人の所有物のようなものです。主人は、女婢の性を恣意的に蹂躙しました。「女婢を食うのは、座っている牛に乗るようなもの」という諺もありますが、そのくらい、家中の女婢の性は、主人によって恣意的に蹂躙される、そのような時代が朝鮮時代でした。両班支配身分の、そのような暴力的な支配のため、下層民の男性や女性に、単婚夫婦に合う貞操律が成熟することができませんでした。下層民が、賤しい身分の人々が性的に乱れているという大衆的な先入観と偏見は、そのことからでありますが、実際にこういう点は、以降20世紀に入り、商業的売春が成立するにあたって、重要な役割をするようになります。そのことについては、次の時間にもっと詳しくご説明します。
ところで、漢城(ハンソン)、地方の監営、兵営など、主要都会では、また主要交通の要地では、酒店、酒幕(ジュマク、居酒屋)の形態で、専業というよりは、兼業の形態で商業的売春が、ある程度成立していたように見えます。19世紀末、漢城の南大門から西大門の間の地域を対象に、闇金融業をしていた人が残した帳簿がありますが、その帳簿によると、酒幕のような酒店が42軒もありました。漢城内外まで範囲を広げると、相当数の酒店があったと思いますが、その酒店に従事する女性たちが客と接して、性を売買したようにも見えます。多くの小説や民話で、『青邱野話(チョングヤファ)』や『慵斎業話(ヨンジェチョンワ)』のような民話集では、地方から漢城に上がった豪傑男児が色酒家(セクジュガ、酌婦も酒もあるところ)の女性に惚れて財産を全部なくすなどの話がよく紹介されています。しかし、商業的・専業的な売春業の発展水準は、低く、それに代わって、性に対する身分的、暴力的支配が甚だしかったのが、朝鮮社会だったということができます。そのため先ほど、言いましたように、1916年の公娼制施行は「身分的性支配から商業的売春への移行」と、その歴史的意義を規定しても良いと思います。今日の講義のタイトルを「公娼制の施行」、副題を「身分的性支配から商業的売春へ」としたのはその理由からです。
しかし、そのような移行は、一挙に行われたのではなく、段階的かつ漸進的過程を踏みました。つまり、初期には、日本人の遊客と娼妓が中心の移植売春業であったのが、その後の1930年代以降、韓国人の遊客と韓国人の娼妓が増えるにつれ、徐々に韓国人が主体となる、韓国人が多衆として参加する商業的売春業に変わっていったということができます。その点について、今日、詳しくご説明します。当時、全国で約25箇所に貸し座敷営業区域が設定されました。ご覧の画面は、京城(キョンソン)、すなわち、ソウルのことですが、京城府の中区にある、その遊郭街の様子ですが、二階建の大きい日本式建物が並んでいます。次の画面は、全国で2番目に大きい緑町、どこにあるかといえば、釜山ですが、釜山の遊郭地区、桜が咲いている日本式の屋敷が左右に並んでいる写真です。ご覧の画面の表は、後で、画面を停止して詳しくご覧いただきたいのですが、1929年当時の全国的に有名な遊郭地区の25ヶ所の一覧であります。総督府が公式に許可した遊郭地域の内に日本人娼妓と朝鮮人娼妓がどのくらいいたかを調べたものですが、主要都市としては、京城、釜山、大田、全州、郡山、大邱、馬山、鎮海、光州、平壌、咸興(ハムフン)、元山、会寧、羅南、清津のようなところです。ご覧の表は、1929年度の資料を総合的に調査し、その結論のみを要約したものです。貸し座敷の概況、状況を見ますと、1929年現在、25ヶ所の有名遊郭地域に多くの貸し座敷業者がおり、平均1人の貸し座敷業者が娼妓を約10人ずつ抱えていました。娼妓の数は全国的に日本人の娼妓が1900人、朝鮮人の娼妓が1385人で、合わせて3285人です。この娼妓達と接した遊客は年間56万余名でしたが、その中で45万人が日本人でした。あくまでも、日本人のための、日本風の、相応しくない表現かもしれませんが、相対的に格調の高い商業的売春であったからだと思います。
以上を日政期における公娼制の一つの特質とするならば、つまり、日本人のための、日本人による、特権的高品位売春であったとすれば、また別の、当時の公娼制の重要な特質を言いますと、遊郭は、貸し座敷営業区域は、日本軍部隊と密接な関連性の中で設置、指定されていたということであります。ソウル(漢城)で最初に建設された新町遊郭は、奨忠洞(チャンチュンドン)にある朝鮮駐屯軍本部と至近距離にありました。その朝鮮駐屯軍本部が後で龍山(ヨンサン)に移転されますが、その龍山に日本人遊郭が建設されるときの話です。当時、日本人遊郭の業主が遊郭を建設するとき、朝鮮人の墓地区域を侵犯しました。そのことで、訴訟が起こり、漢城府(ソウル)、当時はまだ大韓帝国であったため、漢城府尹(ハンソンブユン、ソウル市長)が遊郭を移転するよう、遊郭業主に伝えましたが、遊郭業主は、「この遊郭地は、京城に駐屯している日本の軍卒の衛生に必要なため、他の地域に移転することができない」と主張しました。この主張は非常に重要な意味を有します。龍山に民間人による遊郭が建設されるとき、最初から兵士を慰安することを目的としていたと、兵士の性病を統制することを目的としていたということを立証しているからであります。まだ慰安所という言葉はなかったのですが、その言葉は1930年代に生まれますが、要するに、遊郭、貸し座敷業の成立は、事実上、軍のための施設として設立することを目的としていた、ということができます。その遊郭で働いた、主に日本から来た女性たちは、公式的には娼妓ですが、以降の1930年代には慰安婦と呼ばれる女性たちと変わらない、そのような関係にあるということができます。ご覧の画面は、大田市の春日町という街の日本式遊客での写真ですが、和服を着ている、或る娼妓が玄関前で日本軍人とともに撮った写真であります。恋人の仲か、いつ撮った写真かも分かりませんが、とにかく、慰安所が本格的に設定される1937年以前のものであることは確かです。
当時、全国的にできた遊郭は、繁盛していた遊郭であればあるほど、近くに軍部隊があったと、そういう位置にあったと、つまり、日本軍を慰安するために、相手するために開設された遊郭であったと、そのようにいうことができます。ご覧の画面は、1916年、朝鮮総督府が元山にある寿町地域に遊郭地域を設定した、行政命令に出る地図です。点線内のところが遊郭地域でありますが、図の中で外側は海で、元山港です。港の近いところに遊郭がありますが、遊郭の直ぐ下が陸軍の輸送部です。陸軍の輸送部の門のすぐ前に遊郭を設定したのであります。
1916年、朝鮮総督府が全国的に公娼制を施行した、丁度その年に朝鮮軍が創設されます。その前は朝鮮駐屯軍と言いましたが、1916年になると、京城に本部を置く20師団、また、咸鏡北道の羅南に本部を置く19師団が創設されます。そして隷下の連隊と師団が朝鮮の全体をどうに警備するかという区域が設定されますが、この朝鮮軍制度が創設されるその年に、時期を合わせて、朝鮮の公娼制が施行されたのであります。朝鮮の公娼制は、最初から日本軍と密接な関連性を持って作られたと、つまり、兵士たちの性病統制のためという公娼制本来の目的が、植民地朝鮮では朝鮮軍の創設とともに、その目的が明らかになる中で施行されたと、いうことができます。
去年の2018年、日本でそのことと関連して重要な本が発刊されたため、ご紹介します。ご覧になっている「植民地遊郭」という本ですが、金富子、金栄という、おそらく在日同胞と思われますが、二人の研究者が書いた本です。この本では、全国主要都市に設置された遊郭、貸し座敷営業区域が設立当初から軍部隊と密接な関連があったこと、その歴史を詳しく追跡しています。共著者の一人金栄氏は、今日の北朝鮮まで入って、関連地域を踏査しました。羅南(ナナム)、咸興(ハムフン)、会寧(ホエリョン)、鏡城(キョンソン)地域を金栄氏が踏査をし、その踏査の成果を本の中で紹介しています。
1908年に、羅南に遊郭が設置されますが、羅南は周知のように、朝鮮軍の前身である朝鮮駐屯軍の重要駐屯地であり、以降の1916年には、先ほどご説明しましたように、朝鮮軍第19師団の司令本部が設置される軍事都市であります。その羅南で、日露戦争以降の1908年に、既に遊郭が設置されますが、当時の記録は、「ここに遊郭が早く設置されたのは、ここが軍営地で、軍人が多く徘徊するゆえに、万が一風紀を乱すことが起きれば良くないためである。そこで、1908年、今の三笠公園一帯を『三輪の里』と改称し、遊郭を密集させて遊郭地域を建設した」と、羅南の歴史の記録があります。この記録からもわかるように、軍事都市では、遊郭は兵士たちのための慰安施設として成立していたということができます。会寧(ホエリョン)に関する金栄氏の踏査の成果を一つご紹介します。ご覧の画面は、会寧で1912年に開業した徳川楼という遊郭と関連する写真であります。1945年まで営業をした遊郭ですが、所属の娼妓は、皆、朝鮮人の17〜24歳までの女性たちで、人数は10人でした。ご覧の写真は1929年頃の遊郭の女将と思われる女性と、二人の子供、そして3人の朝鮮人の娼妓が一緒に撮った記念写真です。写真中の一人の女の子が今でも日本で生存しており、当時1歳でしたが、1945まで自分が見た事を金栄氏に詳しく証言してくれたそうです。金栄氏は、生存している、遊郭の所有主の娘とインタビューをした成果を本の中で紹介しています。私は、この写真を見て驚きました。私は、前回の講義で、朝鮮の妓生に関する講義で、1945年、まさにこの会寧で軍官として勤めていた朴就文という人と妓生達との関係を紹介しました。会寧には、妓生の月梅、雪梅、義香がおり、義香の母までもが、軍官の朴就文に仕えたと言いました。そういう関係について、私は、朝鮮の妓生は、朝鮮王朝が身分論理をもって運営した軍慰安婦制度であったと規定、説明をしました。その妓生制が朝鮮王朝の歴史とともに19世紀末まで存続したのであります。写真中の朝鮮の娼妓達、妓生とも呼ばれましたが、その女性たちは、出生地は分かりませんが、歴史的系譜としては、朝鮮の妓生を引き継ぐ女性たちであります。しかも、会寧という同一地域がその歴史的系統性、系譜を直接説明しています。その妓生制が日政期に、朝鮮総督府により、公娼制に変わったのであります。妓生が娼妓と呼び方が変わったのです。とはいえ、軍慰安婦という当初の属性に根本的変化があったわけではありませんでした。なぜなら、会寧に設けられた全ての遊郭は最初から軍慰安所の性格を有していたからであります。それが1937年の日中戦争が勃発するとともに、公式的に日本軍慰安所制度が施行されますが、その時、この会寧にあった遊郭は、民間人の出入りが禁止される軍慰安所として変わります。
このことは、次の時間でもっと詳しくご説明します。とにかく、妓生制と公娼制、そして後で成立する軍慰安所制度は、本質的属性が変わらないまま、制度的形式のみが変わる中、ずっと歴史的に続いて行きました。この写真がその歴史的系譜を私に確認させてくれました。私は、その写真の中の3人の女性たち、当時の子供の回顧録によると、「チマチョゴリ」と呼んでいたそうです。和服を着ている女性は遊郭の女将です。他の3人は、遊郭で働いていた妓生達ですが、民族衣装の「チマチョゴリ」を着ています。この子供は、彼女たちを「チマチョゴリ」と呼んだと記憶しています。私は、「チマチョゴリ」たちの顔を見ていたら、17世紀の妓生の月梅、雪梅、義香の顔が浮かびました。よく見ると、非常に美人たちです。私は、こみ上げてくる悲しみや何かへの憤りで、胸がつまり、瞼も少し熱くなりました。日本人の女将と、まるで家族のように団らんしていた、この悲しい女性たちの歴史については、今度、詳しくご紹介します。
日政期の公娼制に関して、最後にもう一つ指摘したいことは、時間が経つにつれて朝鮮人もその公娼制の運営と利用に積極的に参加し始めたということです。おおよそ1930年代の半ばからです。つまり、少数の日本人のための特権的売春業が多衆の朝鮮人が参加する大衆的な売春業へと発達していったのです。そのことに関しては、仁川(インチョン)にあった敷島遊郭をご紹介したいと思います。ご覧の写真は、仁川の有名な敷島遊郭の、よく整備されている街を映しているものです。敷島遊郭ができたら、近くの猫島(ミョド)、花開洞(ホアゲドン)の一帯にも、非公認遊郭というか、類似遊郭が形成されました。その歴史は、開港期にまで遡りますが、ここに所属した娼妓達も性病検診の対象になっていました。資料によっては、類似遊郭地域まで合わせて敷島遊郭と言われました。この類似遊郭、非公認遊郭は、勿論、朝鮮人の業主と娼妓が主流をなしていました。ご覧の画面は、1924年と1937年の『東亜日報』の報道記事を資料にしたものですが、非公認遊郭まで含めた敷島遊郭の営業状況です。1924年の遊郭は、朝鮮人楼と日本人楼と分けられています。つまり、朝鮮人の業者と娼妓が多い朝鮮人楼、それから日本人の業者と娼妓が多い日本人楼と区別されていますが、1924年は、娼妓数と遊客数ともに日本人楼がより繁盛していました。娼妓一人当たりの遊客数もより多く、花代も朝鮮人より2倍でした。画面の表をご覧いただきますと、1924年、朝鮮人の遊郭楼に行った遊客数は、約1万人程度ですが、日本人楼に行った遊客数は2万2千人を超え、ほぼ2万2千人を超え、ほぼ2万3千人です。そのように、初期は日本人が中心の風俗産業で、売春業であったのが、1937年になると、朝鮮人の遊客数が2万4900人に増え、娼妓の数も増えます。その反面、日本人楼は、娼妓の数が115人から83人に減り、遊客数は似たようなものですが、とにかく日本人楼は、相対的に停滞する中で、朝鮮人楼は、より繁盛していることを見ることができます。こうなった理由について、『東亜日報』の報道によれば、1934年には、花町の海岸の6万坪余りを埋め立てる大規模な工事が、5ヶ年計画の工事として着工し、また1936年には、ソウルと仁川を結ぶ京仁産業道路の建設が始まりました。そのため、多くの労働者が仁川に集まってきました。土木業者と労働者が集まったのです。その理由から、敷島地域と近くの花開地域の朝鮮人の遊郭が繁盛したのです。要するに、植民地的開発とともに、所得水準が高くなった朝鮮人男性も徐々に日本人専用の商業的買春に参加し始めたのです。そこで大衆的な売春社会が始まりました。こういう大衆的な売春社会が発達を続け、こんにちの韓国において、大規模で大衆的な売春産業として繁盛するようになるのであります。こういう時代的流れは、日本でも同様であります。日本の研究成果を見ても、日本の一般大衆が売春業に参加するのは1920-30年代のことです。1937年の日中戦争の開戦とともに、日本軍が駐屯する全ての地域には、軍慰安所が設置されました。そのことが本企画講義の核心的な主題でありますが、軍慰安所は、ある日突然できたのではなく、こういう歴史的な流れ、つまり、身分的性支配から商業的売春へ、また、商業的性売春と言っても、最初は少数日本人だけのための、特権的な商業的売春であったのが、以降、朝鮮人も参加する大衆的売春へと、大きな流れの中で作られていったのです。その点を強調したく、今日「公娼制の施行」という主題の講義をいたしました。その流れの具体的内容、つまり、娼妓はどのようにして募集されたのか、ひいては朝鮮人の娼妓業が朝鮮内だけでなく、国境を越えて、満州、日本、台湾にも伸びて行く過程については、次回に詳しくご説明します。今日の講義は、この辺で終わりにします。ありがとうございました。

李承晩TV「日本軍慰安婦問題の真実」ー人身売買、公娼への道ー
李栄薫ソウル大学名誉教授

「事実」と「自由」を追求する、李承晩TV視聴者の皆様、こんにちは。「日本軍慰安婦問題の真実」という企画講義の7回目の時間です。今日のタイトルは、「人身売買、公娼への道」であります。前回、日政期において、売春業が公娼制の形態で成立していたと言いました。その公娼業に従事した女性たちは、娼妓、芸妓、酌婦の3部類に分けられます。娼妓は、前回の時間でご説明しました、貸し座敷で性売買を専業とする女性であります。「貸座敷娼妓取締規則」という法律によりますと、娼妓は、貸し座敷で舞と歌の芸能を披露することはできませんでした。専ら性売買を専業とする女性たちが娼妓であります。芸妓は、娼妓とは違い、舞と歌の芸能を売る女性であります。「貸座敷娼妓取締規則」には、妓生もこの芸妓に属するとしています。芸妓は、芸をする妓生という意味ですが、その言葉は日本語で、朝鮮の伝統では妓生という言葉がありました。従って、朝鮮の妓生も芸妓に含まれると、規則は決めています。1910年、大韓帝国の敗亡とともに伝統的な妓生の身分制は解体されました。以降、妓生は、1、2、3牌(ぺ)に分化されました。旧来の宮中や官庁で舞と歌を披露した第1級の妓生たちがいました。彼女たちを1牌と言い、性売買とは距離のある第1級の妓生として品格を守ったそうです。次に、第2牌がありましたが、第1牌より芸能の水準が低く、性売買も兼業する、そのような2級の妓生であります。最後に、3牌は、元々は妓生でなかったのに、自分のことを妓生と言い、妓生を自ら要望した民間の売春婦たち、そのようなケースであります。
芸妓は、日本から渡ってきた日本式の芸妓に加え、その形態が多様に分化された朝鮮の伝来妓生達が含まれるということができます。芸妓は、自宅から出退勤するか、もしくは芸妓置屋という、芸妓を置く屋という意味のところで居住していました。芸妓になるためにも、娼妓と同じように、管轄警察署長か憲兵隊の許可を得る必要がありました。芸妓は、芸妓置屋か料理店で芸能を提供しました。売春をすることは、性売買をすることは、許可されていませんでしたが、実際には、客の要求により、売春をするのが普通でした。また、酌婦は、料理屋か飲食店の客席に座り、客を接待する女性達のことを言います。料理屋というのは、部屋の中で客を接待する、いわゆる「料亭(ヨジョン)」のことで、飲食店は、客席間の仕切りのない、価格表が掲示されている開放的空間で飲食を販売する食堂や酒店のことを言います。この酌婦が客席に座り、舞と歌を披露することは、芸妓のように芸能を提供することは、許可されていませんでした。酌婦は、料理屋で宿食をすることはできますが、飲食店では宿食をすることはできませんでした。酌婦も原則上、性売買をしてはいけませんが、客の要求により、性売買をすることが普通でした。
ご覧の画面は、1937年の芸妓、酌婦、娼妓の性病検診の述べ人員、一人当たりの年間検診回数、性病感染率等を表したものであります。娼妓、芸妓、酌婦別に年間の検診総延べ人員が表れ、日本人と朝鮮人別の区分があります。そして一人当たりの年間受診回数をみると、娼妓の場合、日本人が53回、芸妓は23回、酌婦は49回であります。芸妓は性商売と多少距離があり、一ヶ月に2回程度の性病検診を受けましたが、娼妓や酌婦は、事実上、性売買業においては、殆ど同じであったということができます。日本人と朝鮮人の検診回数では、大差はなく、ただ、芸妓の場合、朝鮮人の芸妓の場合、こんなに検診回数が低かったのは、朝鮮人妓生の中には性売買と無関係の芸能のみを専門とする妓生達がいたからであります。次は、性病に感染した人数と、すべての娼妓や酌婦の中で性病に感染した人数はどの程度いたかを示す有病率・感染率を表しています。性病感染率をみりと、娼妓と酌婦は、5%前後で似ています。つまり、先ほど説明しましたように、酌婦は娼妓業ができないのが規則でありますが、現実では、娼妓も酌婦も区分なく売春に従事したことが確認できます。娼妓の営業地域を遊郭と言い、それを集娼とすれば、酌婦の営業所は、料理屋や飲食店ですが、これを民間に散在している散娼ということができます。ここで、一つ指摘したいことは、これら売春業または風俗業に従事する女性たちの性病感染率が5%前後というのは、性病感染率が25%、ひいては30%まで、1950年代の後半ですが、あったのと良い比較例ということであります。公娼制度が制度的に廃止になったこともありますが、新生韓国政府の衛生・保健行政がどんなに疎かったかがわかります。言い換えれば、日政期の娼妓、芸妓、酌婦は、かなり厳しく管理・統制された衛生環境下で客と接していたと、性売買業に従事していたということができます。このことを、後で、日本軍慰安所制度を説明するときに、また言及しますので、覚えておいていただければと思います。この娼妓、芸妓、酌婦の総人数を見ると、次の図の通りであります。図によりますと、民族別娼妓の人数を表しています。青い線が日本人娼妓を表し、オレンジ色が朝鮮人娼妓を表します。元々は日本人娼妓の方が多かったのですが、朝鮮人娼妓も1930年代に増加し始めて、日本人娼妓を超え始めるのは1939年頃であります。全体的に、娼妓、貸し座敷、遊郭で客と接するのは、大体、日本人娼妓が多い中、その人数は減少する傾向にあったと言えます。次の表をご覧いただきますと、民族別芸妓の人数です。ここで興味深い現象ですが、芸妓の人数は朝鮮人も日本人も増加しますが、1929年を過ぎると、朝鮮人芸妓の人数がさらに急増加することがわかります。その後、1939年にはピークを迎えて、6122人にも達しました。それから急速に減るのは、戦時期になり、料理屋に対する戦時統制が強化された為であります。1930年代、朝鮮人芸妓が急増加すること、つまり朝鮮人妓生が急速に増加することを念頭に置いて全体的状況を把握していただきたいです。次の資料をご覧いただきますと、民族別酌婦の人数であります。客席に座り、客を接待する酌婦は、最初は日本人の酌婦が多かったのですが、徐々に減り、朝鮮人酌婦が続けて増加する傾向でありました。この3つの図を総合すると、次のようになります。売春業、風俗業というか接客業というか、この産業に従事する3部類の女性たちを総合すると、青い線の日本人従事者は、大きく見て停滞の状況でありますが、オレンジ色の朝鮮人従事者の人数は、1930年代に急増します。これは先ほどご説明しましたように、1930年代に入り、朝鮮人の芸妓が急増加したからであります。つまり、朝鮮の伝統的妓生業が新しい環境下で、2、3牌の形態で、その人数を急速に増加させたということができます。その時代背景については、私が前回の講義でご紹介したことがあります。そのことを思い出していただきたいのですが、植民地開発により、1930年代になり、朝鮮人の所得水準が高くなるにつれ、遊郭を訪問する朝鮮人の遊客数が増えました。
仁川にある敷島遊郭の事例をあげて、その点を指摘しましたが、前回の講義を要約しますと、朝鮮時代は、身分的性支配の時代でありました。その時代が終わり、商業的売春の時代が20世紀に入り、始まりました。しかし、商業的売春の時代と言っても、初期は、少数の特権的売春、韓国に渡ってきた日本人を中心とする少数の特権的売春でありましたが、1930年代に入ると、朝鮮人も多数参加する、大衆的売春社会が始まったのです。つまり、朝鮮伝統の妓生業が、芸妓置屋か飲食店で働く、芸妓や酌婦として形態を変えて、広く、性売買産業に従事する女性たちとして広く拡散していったのです。要するに、大衆的売春社会が始まると、伝統売春業が、芸妓と酌婦の形態として対応していったのであります。そのことが、1930年代に入り、売春業に従事する朝鮮人の女性数が日本人の女性数を大きく上回るような急増加をして、先ほどの図で示されていると、一つの歴史的意義であると、いうことができます。このような時代的背景を前提にしてこそ、後の1937年に公式化する日本軍慰安所制度の歴史的意義が理解できると思います。
それでは、今日の主題に入りますが、この売春産業に従事した女性たちは、どのような経路から貸し座敷遊郭、芸妓置屋、料理屋、飲食店に行き着いたのでしょうか?その問題をみていきます。今日のタイトルの「人身売買」が、正にその答えであります。朝鮮に渡ってきた日本人男性から、特に日本軍から、ひては所得水準が高くなった朝鮮人男性から性売買の需要が発生すると、性売買の供給も行われました。性売買の市場が形成されたのですが、この供給は、多様な経路から行われました。伝統妓生が身分的暴力による世襲であったとすれば、そのような時代は終わり、商業的契約の時代が始まりました。公娼制が施行されたということは、大きくみて身分的暴力から商業的契約へと、売春産業が移行したことを意味します。貸し座敷に所属する娼妓、料理屋の芸妓、飲食店の酌婦は、皆、形式的には、主人との商業的契約によって雇用された人々でありました。娼妓、芸妓、酌婦に関する色々の規則を見ると、彼女たちの主人との関係における法的地位は、雇人即ち被雇用人と規定されています。今ご覧の資料が、それでありますが、1916年公娼制の施行とともに発表された「貸座敷娼妓取締規則」であります。第6条をみますと、「貸座敷営業者またはその同居戸主または家族は、雇人周旋業をしてはならない」、この雇人というのは、貸座敷で働く被雇用人を指す言葉で、娼妓のことであります。「娼妓周旋業をしてはならない」というのは、つまり、娼妓を供給する、雇人を周旋する周旋業者が別途存在していたということであります。性売買の市場が形成されると、性を供給する市場機構として、一種の職業紹介所のような業者が生まれ、女性たちを募集し、貸座敷業者に引き渡し、紹介料を受けたのであります。この点は、詳しい説明はしませんが、芸妓や酌婦も同一であります。
それから7条をみますと、貸座敷営業者は娼妓との関係において、「娼妓の意思に反して契約の変更または抱え主である貸座敷営業者の変換を強要してはならない。むやみに娼妓の契約、廃業、通信、面接を妨害または他人に妨害させてはならない」、となっています。このことは、両者が法的形式では、内容は別でありますが、法的形式では、平等な地位にあり、両者の関係が基本的には商業的契約関係にあることを物語っています。これが近代公娼制の特質であることは、私が前回の講義で指摘したことがあります。国家が前近代的な人身売買を禁止し、娼妓の人権を保護し、その上、性病を統制しようとしたのが、公娼制の基本趣旨でありました。
それでは、雇人周旋業をする業者たちは、どのようにして娼妓を募集したのでしょうか。どのようにして芸妓と酌婦を募集したのでしょうか。これに関連して、ご覧の画面を以ってまた詳しくご説明します。先ほどの資料と同じく、1916年に発表された「貸座敷娼妓取締規則」でありますが、それによりますと、娼妓が営業をするためには、警察署長に申請し、許可を得る必要がありました。そのとき、営業申請書とともにいくつかの書類が添付される必要がありました。父の就業承諾書がそれであります。父がいなければ、母が就業承諾書を作成します。ところが、母もいなければ戸主が、普通は父が戸主の場合が多いのですが、祖父もしくは父母の死亡により兄が、戸主になるなどのケースもあると思います。父母、祖父や兄などの戸主が承諾書を作成し、印鑑を押す必要があり、そのことを証明するために印鑑証明書と、娼妓と承諾した人たちとの血縁関係を証明するための戸籍謄本も提出されなければなりませんでした。つまり、娼妓、芸妓、酌婦になるためには、父母や戸主の承諾が必要でしたが、このことにより、父母や戸主が娘を売ることのできる時代が始まったのであります。このことは非常に重要なことであります。朝鮮時代は人を売買するときに、対象は奴婢に限りました。奴婢は世襲身分であり、世襲的奴婢を奴婢主が売買をしたのであります。ところで、19世紀になると、経済状況の変化と悪化により、奴婢でない常民男子が、自分と家族全員を奴婢として売る現象が現れます。そのようにして作成された文書を「自売文書」と言いますが、自ら進んで、凶作の年に食べ物がなくて、家族全員を、7人だったら7人、3人だったら3人の皆を◯○主人に永久に奴婢として自ら売る、というような現象はありましたが、父または戸主が家族の一部を、例えば、娘だけを別途に売るようなことは、そのときまでありませんでした。なぜかと言うと、前回の講義で指摘しましたように、商業経済の水準が低かったのが一因で、また別の原因は、家族を売ることのできる「家父長権」が朝鮮時代には存在していなかったからであります。前回の講義でご紹介しましたが、日本では、人身売買された女性たちが遊女屋で従事することができたのは、日本の場合は、家族制において、戸主または家長に娘を売ることのできる権限がありました。そのような家父長権が朝鮮時代には存在していませんでした。ところが、日本の支配が始まってから、家族制に大きい変化が生じます。「家族」という言葉自体が日本語で、日本から入ってきた言葉であります。朝鮮時代には家族という言葉がありませんでした。家率(カソル)、食口(シク)、眷属(クオンソク)などの言葉がありました。日帝の支配とともに、順次、民籍法が施行され、戸籍法が施行され、民法が施行されるなど、日本式の戸主制の家族が成立しました。戸主は、家族成員を養育・保護する権利を国家から与えられた、家の支配者であります。まるで、軍隊が師団、連隊、大隊、中隊、小隊、分隊などのような位階で組織されるように、近代国家は、家族を最末端部隊とする軍隊組織のようなものであります。戸主は国家から、自分が属する分隊員、即ち家族を保護・養育する義務と権利を有するものであります。それが近代の家族であります。分隊長が、末端の分隊長が所属の兵卒の7〜8人を支配するように、今日においては、そのような家族体制は解体され、現在家族は、男女間の性の単位、子女出産と養育の単位となっており、そして男女平等の時代となりましたが、近代と言えども、家族が家父長として、家族員を支配する、そのような時代でありました。従って、家族の出生、死亡、結婚、離婚、養子縁組、離縁、相続、分家など、その家族構成員の地位変動は、戸主の承認と申告をもってなされるものであります。これが戸主制の家族であります。このような新しい形態の家族制度が成立すると、逆説的にも非常に貧国した下層民たちに、戸主に娘を売る権利を与えたようなこととなりました。父が娘を売ろうとするとき、娘が抵抗することは難しいです。娘は悲しく泣きながら、紹介業者により、貸し座敷、芸妓置屋、料理屋などに連れて行かされたものであります。このような新しい制度的変化が性売買産業を、公娼制を成立させるのに非常に重要な役割を果たしました。このような状況が造成されたのは、単純に、家族法規や家族制度の変化だけでなく、我々の伝統的な環境・条件として下層身分の、下層階層の家族倫理が非常に脆弱であったという文化的条件も一翼を担いました。
今ご覧の資料は、1921年、「開闢(ケビョック)」という雑誌に掲載された記事でありますが、「常人の堕落」という記事であります。「従来の常人は、極めて堕落し、信道の自由も就学の自由もなく、まさに人間の屑として生きてきた。両班は彼らの人格を認めず、常人も自らを軽んじていた。(賤しい常民の身分、いわゆる『サンノム』ですが、この人たちは、両班に支配される中、両班が彼らの人格を認めなかっただけでなく、彼らも自らを軽んじていて)臆面がなく、道徳など彼らの知ったことでなかったのである。彼らの生活難は、一層、彼らの良心を麻痺させた。朝鮮の娼妓と言えば、誰もが慶尚道の女性が最も多いと思うのであろう。そこに行って聞いてみたら、娼妓は皆、微賎な常人が生活難により、自分の娘を売り放したと言うのである」。慶尚道で最も酷かったという話をよく聞きます。慶尚道が身分差別と抑圧が最も甚だしかったところです。その中で、両班村に属するか、隣接した常民村の場合は、両班たちの長い支配から極めて家庭倫理が脆弱して、少しでも生活に困難が生じたら、簡単に娘を売るような風土が成立していたという話であります。長い間、「サンノム(下層身分を指す蔑視語)」「ジョンノム(男子奴婢を指す蔑視語)」として支配され、搾取される間に、常民の家庭倫理が極めて不健全な様相を呈していたのが実情でありました。戸主は家族構成員を養育・保護する義務よりも、抑圧・搾取するような、利権だけに充実した、そのような実情でもありました。それは、慶尚道で最も身分支配と抑圧が甚だしかったことと深い関係があったからだということができます。この「開闢」の中の記事は、慶尚道で最もその弊害風が深刻であったと言いましたが、後でご紹介しますが、生存している軍慰安婦のほぼ半数は慶尚道出身であります。その点もこの記事の主張を裏付けています。
ご覧の画面は、1934年に春園(チュンウオン)李光洙(イ・クアンス)先生が書いた「売られていく娘たち」という、これも慶尚道での話です。「大邱(テグ)で39歳の父親が15歳の娘を160ウオンで売ってしまったのを、娘の同窓生たちが贖いのため、身代金を集めているそうである。娘を売ることくらいは、東洋天地においてはそんなに珍しいことでもない。或いは、人の娘や婦人を騙し売りするか、或いは、自分の女房を売ることもある。売るものもいれば、買う者もいる。いわゆる芸妓、娼妓、酌婦、妾のようなものである。」
最後にもう一つの資料をご紹介します。1937年、ソウル、当時は京城府と言いましたが、そこでのことです。毎日新報という新聞に出た記事であります。新聞のタイトルは、「金に目が眩んだ父母、死ぬより嫌と抵抗する娘を売ろうとし、娘は警察を訪ね泣訴」ですが、私がその記事を読み上げますと、「京城府内の司諫町の14番地に住む金草香(キム・チョヒャン、22歳)という女性は、27日に鐘路署に出頭し、『いっそ妓生になろうとも遊郭の娼妓にはなりたくありません』、と涙を流しながら訴えたのである。父母が貧困生活に耐えられず12日前に、満州国の圓們で遊郭を経営するシン・ヒャンボムに1300ウオンで草香を娼妓として売る契約をし、遊郭主人が毎日のように来ては遊郭に連れて行こうとしたが、金草香は、歌と作り笑いを売るような妓生にはなろうとも、肉まで売る娼妓にはなりたくないと鐘路警察署に飛び入り、何とかして欲しいと訴えた」という内容であります。このような話は、1920年代から30年代にかけて、諸新聞に絶えず報道されていたのであります。例外的な現象ではなく、ほぼ日常的に行われていたことでありました。さらに、1930年代になると、大衆的売春時代が始まったと言いましたが、市場の一方で需要が増加すると、供給も増加します。しかし、どの女性が自ら進んで、その市場に入るのでしょうか? 貧しい家の父母が娘たちを売ったのであります。貧困に苦しみ、近代家族倫理がまだ成熟していない下層貧困階層の父母や戸主が娘を紹介業者に一定金額の前賃金を受けとって、要するに、日政期の公娼制は、新しい戸主制家族の導入により、戸主に家族構成員の人身処分権限が与えられるようになるにつれ、先ほどの新聞記事では1300ウオンを受け取ったとなっていましたが、それを売ることを娼妓供給の基本経路とした、性売買市場であったということができます。日政期の公娼制は、人身売買を通じて性を供給する、そのような性売買市場であったと、いうことが今日の講義の結論であります。悲しく泣きながら、父親が娘を売るとき、娘は悲しく泣きながら、反抗すれば殴られ、家族のために紹介業者に連れて行かされたのが、貧困階層の娘たちの娼妓になった基本経路であります。この点は、朝鮮だけでなく、日本でも同様でありました。日本は、その点においては手本を見せたともいうことができます。つまり、前近代的かつ暴力的人身売買を禁止しようと、近代国家が公娼制を施行しましたが、家族制の特質により、女性の人権が低発達した時代的限界に規定され、商業的契約の新しい形態の人身売買を公認したのが、近代的公娼制ということができます。このような基本路線から派生して、多様な形態・方式の詐欺と略取が盛行したのであります。貧困と家庭暴力で家出をした少女たちが多かったのです。その場合は、父母や戸主の承諾を得ることも難しかったのですが、そのときは、紹介業者の戸籍に養女として入籍させるなど、多様な手法をもって書類操作が行われました。1930年代になると、100人あるいは200人もの少女たちを中国や満州に売り放った、そのような民間業者も新聞にその存在が報道され、物議を醸したこともありました。次の時間では、このように朝鮮国内で成立した売春産業が1930年代になり、日本へ、満州へ、台湾へと進出していった歴史をご説明します。その歴史の一方の流れが、他ならぬ日本軍慰安所制度であります。その売春業の国際化の現象を次の時間にご説明することにし、今日は、ここで講義を終わりにします。お聞きいただき、ありがとうございました。(日本語訳:林寿泉)

李承晩TV「日本軍慰安婦問題の真実(4)」、売春業の域外進出
ー李栄薫 、 ソウル大学名誉教授ー

「自由」と「真実」を追求する李承晩TVです。視聴者の皆様、こんにちは。「日本軍慰安婦問題の真実」というシリーズ講義の8回目の時間です。今日のタイトルは、「売春業の域外進出」であります。普通、海外と言いますが、ここでは、近い満州と中国、そこが陸続きであるため、「域外」という言葉を使わせていただきたいと思います。1916年、総督府は、公娼制を施行しました。新しい形態の売春市場が始まるとともに、その市場に女性たちを供給したのは、前回の時間で申し上げましたような、人身売買でありました。貧しい家庭の非情な父親が人身売買業者から前貸金をもらい、娘の公娼就業を承諾したのであります。その活発な人身売買は、朝鮮売春業の域外進出過程でもありました。朝鮮売春業は、早くから満州、中国関内、台湾、ひいては日本にまで進出しました。満州、台湾、中国関内(山海関以内、北京以南)の中国本土、日本人の占領地、その地域では若干の差異はあるものの、日本と同様な公娼制が施行されました。そのような制度的土台の上で、女性を連れていく人身売買の行列が、豆満江(トウマンカン)を越えて満州や中国へ、または海を越えて台湾と日本にまで進出したのであります。今日は、そのことについてご説明します。
まず、満州から見ていきます。ご覧の図は、1911年から1945年まで、毎年、どの位の朝鮮人が満州に流出したのかを示しています。1910年代の初、中盤には平均1万程が満州に渡りましたが、1917年から1919年に急増加しました。それに対して日帝は旅券発給を厳しく制限・統制し始めたのですが、おそらく、満州で活性化し始めた朝鮮人の独立運動を抑圧するためではないかと思われます。以降、満州に渡ったその人口は、年間5千人程度の低い水準で推移していきました。ところが、1931年の満州事変をきっかけに総督府は、満州への団体移民を奨励しました。そのようにして、満州へ行く人口が増加し始まりますが、そのため、1931年から37年まで、合わせて30万人の朝鮮人が満州に移住しました。しかし、満州国や関東軍は治安を理由に、朝鮮人の移民をあまり歓迎しませんでした。その中、1937年の日中戦争が勃発した後、1938年から満州国が朝鮮人の移民を積極的に誘致し始めました。そのようにして1938年から1940年には、毎年12万人以上、合わせて36万人以上が満州に渡って行きました。そのことによって人口が急増加する様子を見ることができます。1940年以降の統計はありません。1911年から1940年まで、満州に純流出し、定着した人口は、102万人程度と推算されています。1931年以降、満州事変とともに、朝鮮人の社会が本格的に形成され始めたということができます。このように、満州で100万人以上の朝鮮人社会が形成されるにつれ、朝鮮人の売春業も、その社会内部から発生してきました。既に1920年代末になると、関東州、即ち旅順や大連、それから南満州一帯で、南満州と言えば、満州鉄道の内側の地域を指しますが、その地域で日本人と中国人を顧客とする朝鮮人売春業がすでに登場していました。満州鉄道の内側の地域を指しますが、その地域で日本人と中国人を顧客とする朝鮮人売春業が既に登場していました。1920年代初め、北満州と沿海州を経てサハリンまで、朝鮮の接客業者、売春業者達が女性たちを連れて、その方向に行ったそうです。しかし、先程、言いましたように、満州で朝鮮の売春業が活発に成長するのは、やはり1931年の満州事変以降と言えます。例えば、満州で最も大きい都市である奉天市での朝鮮人の酌婦は、1931年に、すでに132人もいました。満州の公娼制では、性売買を専業とする、娼妓はいませんでした。娼妓を一定区域に集めた貸し座敷遊郭は、中国の伝統と合わず、ありませんでした。その代わりに、料理店に酌婦たちが、中国語では妓楼と言いましたが、その妓楼の酌婦たちが事実上の娼妓の役割をしていました。そのため奉天で活動をした朝鮮人酌婦は、1931年にすでに132人いましたが、それが1932年に164人、1934年に273人、ひいては1941年に461人にまで増加しました。
もう一つの例としてハルビン市でのことを紹介したいと思います。1933年ハルビン市では、売春業に従事する料理店や中国語表現の「妓楼」が全部で45軒ありました。その中で朝鮮人が経営するところが12軒あったと知られています。この12軒の朝鮮人の料理店に所属した酌婦は120人でありました。大体、料理店ごとに10人の酌婦が配置され、客と接し、性売買産業の売春をしたということができます。1933年のハルビン市に住む朝鮮人の女性の人数は、子供から年寄りまで合わせて2700人でありましたが、その中で120人が売春業に従事する酌婦でありました。ご覧の画面は、満州国全体の中で民族別売春業の現況を示すものであります。1940年現在、満州国には売春業の接客所が合わせて6千716軒ありました。その中で最も多かったのは、やはり4千569軒の中国人の店でした。中国は、伝統的に集娼が存在せず、散娼であったため、規模が小さいのは把握不可だそうです。一定規模以上の中国人の妓楼が4569軒で多数である中、日本人の店が1522、朝鮮人の店が599であります。その後は、カフェが1940年代に11軒ほど発生していたということができます。
次の票をご覧いただきますと、1940年の同じ年に、満州で売春業に従事する民族別女性たちの分布であります。中国人の女性がやはり2万55人で、全体の半分を超えます。先ほど言いましたように、把握できなかった中国の売春女も多かったといえます。日本人が1万3649人で35%、朝鮮人が4476人で11.6%でありました。朝鮮人の4476人の中で圧倒的多数はやはり酌婦でありました。高級の料理店、料亭で、舞と芸能を披露する芸妓の人数は、朝鮮人はあまりおらず、芸妓は圧倒的に日本人芸妓が多かったということができます。朝鮮人は、主に客席に座って客の世話をしながら、もし客からの要求があれば、性売買もする酌婦が圧倒的に多数を占めていたということができます。地域的分布をみまあうと、これは満州国の地図でありますが、少し前に言いましたように、ここが関東州であります。関東州から南満州鉄道に沿ってハルビンまで上っては、下るこの地域を南満州と言いますが、旅順と大連から奉天、新京、吉林、圓們へと下る、もっと上に行きますと、ハルビンへ、牧丹江省に上る、このように下る南満州地域が主に朝鮮人たちの居住地域でありましたが、この地域で朝鮮人売春業が最も盛んなところは奉天省でありました。その次が牧丹江省、吉林省、間島省、濱江省(濱江省というのはハルビン市があるところです)。牧丹江市には、朝鮮人が4万人も居住していましたが、そこで見えたのは、専ら飲み屋だけだったという記録もあります。牧丹江市には、満州では唯一の朝鮮の券番(クオンボン、妓生の活動を仲介し手数料をもらう商業組織)がありましたが、この券番に所属した妓生の人数は40人でありました。このように満州に進出した朝鮮の売春業は主に、旅順と大連の関東州からハルビンに上る南満州一帯であり、その以北にソ連との接境地域である北満州一帯には、朝鮮人はそんなに進出しませんでした。満州の朝鮮人たちが営んだ事業は、農業以外に、米穀及び穀物の貿易商か、その他の一般商業、飲食店、料理店、旅館、質屋など、いろいろありましたが、その中で最も繁盛し、朝鮮人社会の経済を支配したのは、酌婦を置く料理店でありました。料理店が朝鮮人の経営する諸営業の中で最も繁盛したのは、ほとんど他の営業が朝鮮人社会をその市場にしたのに比べて、朝鮮人の料理店は、即ち売春業は、営業戦略が超民族的であったからだと、下層の日本人をターゲットとしていたと、その理由により繁盛したと指摘されています。朝鮮人売春婦、酌婦は、日本人の芸妓や酌婦に比べて花代(揚げ代)が安く、朝鮮人の女性たちは日本語が可能であったので、下層の日本人たちを顧客にできたということができます。その具体的な実際を見るには、1933年に満州を訪れた李光洙(イ・クアンス)先生の発言を注目できます。1933年に大連の博覧会に参加し、満州の主要都市を歴訪した後、満州にいる同胞たちの問題に関する座談会で発言をしていました。前回の時間でも、私が李光洙先生の朝鮮内で盛んであった人身売買に対して、父親が娘を売る世相に対し、李光洙先生が指摘したことを紹介しましたが、李光洙先生は、そういう世相を悲しんでいたようであります。内容をご覧になれば「満州の都会地にいる人々の生業は、ほとんどが人肉市場と密輸業者であった。私は、今回の出歩きで朝鮮人の人肉市場に驚いた。奉天、吉林、ハルビン、新京など朝鮮の料理業者がいないところがありません。料理店を開業したら、成功するのであります。それは、中国人女性は汚くて、ということで朝鮮人女性を好むそうですが、そのため、ある女性は、1日に35人もの男と接したそうです。お金になるわけです。奉天では、人肉商売をして20万ウオンのお金を築いて金持ちになった人もおり、他のところでも数十万ウオンを稼いだ成功者達がいるそうですね。」
これが満州に進出した朝鮮人売春業の実態でありました。満州に進出した朝鮮人売春業は、満州売春市場全体において第2級の市場でありました。最上級の市場は、上層の特権的な日本人社会を舞台にする、日本から渡ってきた売春業であり、その次が朝鮮人と下層の日本人を顧客とする朝鮮人売春業、料理店と酌婦たち、その次の、最も下が中国人売春業でありました。このように、域外に進出した朝鮮の売春業は、次にご紹介する台湾でも同様でありました。
今からは、台湾でのことについてご説明します。台湾総督府の国勢調査によれば、台湾に滞留した朝鮮人の女性は、1920年には1人しかいませんでした。それが1930年まで458人にまで増加しましたが、その女性たちの90%以上は売春業に従事していたそうです。台湾に進出した朝鮮人売春業者は、台湾では、一般的に朝鮮楼と呼ばれていました。早くも1921年には、台湾の主要金鉱地帯が活発に開発されますが、その台湾の主要金鉱地に朝鮮楼が出現しました。それから1930年代になると、台湾の各地で朝鮮楼が雨後の筍のように生まれて、台湾売春市場で決して珍しくない存在になったそうです。1935年になると、娼妓と酌婦がそれぞれ200人、以外にカフェに従事する女給が400人で、合わせて800人の売春女達が台湾で活動をしていましたが、1940年が絶頂期であって、娼婦、酌婦、カフェで働く女給を合わせると940人に達したそうです。1941年に、台湾には娼妓がいましたが、満州にはいなかったのですが、この台湾娼妓の総人数の中で朝鮮人娼妓が占める比重は4分の1程度だったそうです。ご覧の画面は、朝鮮人娼妓と酌婦を連れて営業した朝鮮楼、即ち朝鮮人貸し座敷業者の一覧であります。1941年には、朝鮮楼が4軒しかありませんでしたが、後で21軒に増加します。ご覧の表は、1930年代に台湾所在の有名な朝鮮楼の21軒中、全てをお見せすることは難しく、9軒だけを選んでお見せしています。商号のところに朝鮮楼と示されており、住所などもあります。また、所有主名が載っていますが、単独の所有主の可能性もあれば、複数人が共同で所有する、そのような営業もあります。店別娼妓と酌婦の人数は、大体20人でありました。先ほど、満州では、大体10人だと言いましたが、この地域では2倍ほどが標準的な規模でありました。台湾では、朝鮮人社会が存在していませんでした。1930年代まで台湾に滞在していた朝鮮人男子は300〜400人にすぎませんでした。それに比べて、900人程の朝鮮人の女性がこの地域に進出していたということは、娼妓と酌婦として、台湾人と、この地域にいる日本人たちを相手にしていたからであります。朝鮮楼業者たちは、最初は台湾人と日本人を相手に「アリラン」を歌わせるなどをし、異国情緒で訴えるマーケティング戦略を駆使しましたが、徐々に日本風に変わっていったそうです。酌婦たちは和服を着て、日本語を喋り、日本の歌を歌いました。日本人が主な顧客だったからであります。1927年の場合、朝鮮楼を訪れた顧客の7分の6は、日本人でありました。文化的差異により、台湾人たちは朝鮮楼に対してあまり魅力を感じなかったそうです。また中国人たちは、日本式公娼制、一種の集娼、貸し座敷のような形態の風俗産業には人気がなく、従って、日本式公娼制は、台湾では結局定着することができなかったそうです。その中で、日本人たちもまた中国の妓楼を好みませんでした。中国の服を着て、中国語を喋り、ひいては○足までした中国人女性たちがいる中国の妓楼を日本人たちは行かず、言葉も通じて、和服を着て、日本の歌を歌う朝鮮楼をより好んだそうです。その中で、1930年代になると、日本で公娼制の廃止運動が起こりました。国際連盟は、アジアで大量の商業的売春社会が成立した日本、そこで広く行われていた人身売買を批判し始め、そのような批判に直面し、日本政府も娼妓が海外に進出することに対して積極的に制約をかけました。そのため、台湾に渡る日本人娼妓の流れが抑止され、その隙間市場が発生し、その隙間を埋めたのが朝鮮の娼妓たちでありました。朝鮮では、公娼制廃止運動はあったものの、その勢力が大きくなく、国際的批判の対象でもありませんでした。公娼制廃止運動の国際的死角地帯ということができます。台湾の売春市場において隙間市場が発生すると、その隙間を埋め、1930年代に朝鮮の売春業が活発に台湾に進出し、台湾にある日本人社会の性売買の要求を満たしたと、いうことができます。
日本を中心とする東アジア圏の中で、朝鮮は、第2級の位置にあったと、普通言われますが、それは経済的側面からもそうでありました。また、案の定、売春市場においても満州と台湾での朝鮮人の売春業は、日本帝国全体の中で、第2級の位相を持つということがここでも確認できます。
次は、朝鮮の売春業が中国関内、山海関を超えて、北京、天津、南京、上海へと、より南の広東へ進出するその過程を見てみます。中国関内で朝鮮の売春女が姿を見せたのは1920年代からそうです。ところで、やはりそれは繁盛するのは、1931年からでありますが、1931年に関東軍は、満州を占領し、満州国を作っただけでなく、日本海軍は、上海を占領します。上海を占領したら、すでに青島と大連、山東半島で活動していた朝鮮人女性たちが上海へ行って密売の売春業に従事し始めたとの報告書があります。既に1931年に、日本軍の後を付いて上海に入った朝鮮人が139人であり、その中の相当人数が売春業に従事する女性たちであったと、この女性たちの人数は、1936年まで913人と、193人から913人に増加しましたが、男性の人数は、1931年には717人でした。独立運動の関係者であるか、事業の関係で男性の人数が女性よりずっと多かったのです。1936年には男性の人数が883人であり、男性の人数には大きい変化がないのに対し、女性の人数は同じ期間中に139人から913人に増えました。それはいうまでもなく、彼女たちの90%以上が売春業に従事する女性たちであったからであります。上海で売春業が繁盛したのはいうまでもなく、日本軍の上海占領以降、日本軍部隊の周辺で軍人を主要顧客とする売春市場が開かれたからであります。勿論、日本人売春業者が最も早く事業を始めました。1931年、上海では既に日本人の料理店、また芸妓置屋、貸し座敷が約30軒ありましたが、その中に属する日本人の娼妓と酌婦は約200人を超えました。それ以外に、国際都市であるため、西洋風のカフェに属する女給や料理屋や、貸し座敷に所属していない、一般の蜜娼達、私娼まで含めて売春業に従事する女性たちの総人数が1200人を超えたそうです。このように、上海で新しい売春市場が開かれると、日本人が最初に基盤を作り、その次に朝鮮人がすぐ後で上海の売春市場に侵入していったのであります。ご覧の画面は、1937年現在の上海に開設された朝鮮人売春業者達の一覧であります。全てがカフェとなっています。国際都市だけあって、西洋風のカフェを称していましたが、その中で上から3番目のリストにあるパク・イルソックという人は、平安道の義州出身の人ですが、当時38歳でした。資本金2千ウオンでこの「カフェ亜細亜」を開業しましたが、2年後の1939年に彼は慰安所業者のリストの中でその名前が発見できます。言い換えれば、「カフェ亜細亜」が慰安所として指定されたのであります。その後、彼は、次回の時間で説明しますが、2千ウオンで始めた店の資本金が、7万ウオンにまで増加します。大金を築いたので有馬会う。このことについては、次の時間にもっと説明します。とにかく、軍部隊の後をついていって、軍の周辺にカフェを開設した人が後で慰安所業に変わるということは、次の時間で説明する「慰安所の性格」と関連して非常に重要な問題と言えます。とうとう、1937年に日本帝国主義は、中国大陸を本格的に侵略し始めました。山海関を越えて北京を占領し、南中国の沿岸の主要都市の殆どを占領し、中国内陸の深くまで、武漢を越えてまで日本軍が進撃していきました。その広い市場で新しい売春市場が作られると、多くの朝鮮人たちが新しい仕事を探し、新しい機会を求めて、中国関内、日本人の占領地域に進出しました。そのことに関しては、1941年度の朝鮮総督府北京出張所の次のような報告書があります。朝鮮総督府北京出張所の在北支、「北支」というのは北中国、華北地域のことであります。朝鮮人の概況と言って「朝鮮人の職業は、官公吏、会社銀行員、店員など棒給生活者が最も多く、その次は、蘆台模範農村の農民が次であり(蘆台の模範農村というのは、日本軍が北京に入る前に北京には朝鮮人のアヘン業者が多かったのですが、朝鮮人の生業はアヘン商売といっても良いほどだったそうですが、このアヘン商売をする朝鮮人たちを集めて農村に行かせて農場を、土地を与えて農場をつくりそこで生活させたのが蘆台模範農村であります)。その次の軍慰安所、旅館、写真館、洋服店、雑貨商、穀物販売業、土木建築業などが主な産業である。日本人に比べて、ずっと少ない資本を以って相当な業績を上げ、特に得意の語学と強靭な生活力で軍の進撃とともに、軍の後をついて行き、或いは軍よりも早く進出して、軍が必要とする雑貨を運搬し、あるいは、特殊婦女子の一団を連れて行って軍の慰安所を開業し、あるいは時計店、写真店などで軍の需要を満たすなど、治安が不安定な地方で巨大な利益を求めて前線に進出する」。非常に英敏で活発に日本軍の後をついて中国に進出する朝鮮人の様子がよく描写されています。軍が進出すれば、その後をついて行って、または軍よりも早く行って、慰安所も、時計店も、写真店も(軍の周辺は写真店が発達したようです)、飲食店も開設し、等ですが、朝鮮人の様子、その中で印象的なのは、軍慰安所が言及されています。軍慰安所は、既に、この段階になると、日本が日本軍慰安所の設置を公式化した段階でありますが、大きく見れば、先程説明しましたが、満州、台湾へと1930年から進出した朝鮮人の域外進出の一つの延長線上にある現象であると、いうことができます。
このように華北に進出した朝鮮人の一部は、特殊婦女子、即ち慰安婦を連れて軍慰安所を開設しました。具体的な統計を見ますと、1937年9月から1938年6月まで、10ヶ月間、料理屋業者464人、そして、貸し座敷を開設すると、遊郭を開設するという業者が48人、この人たちが旅券を発給してもらい、華北に行きました。そしてこの料理屋と貸し座敷業者の500人の後をついて行った朝鮮人の芸妓と娼妓は合わせて744人も、そういう身分として旅券を発給されたのであります。ご覧の画面は、1941年現在、中国の華北地域の一帯に定着した朝鮮人の総人数と職業に関する現況であります。朝鮮人の総人数は、合わせて5万2千人ちかくあり、戸数は1万6千戸近くあります。その中で2万1千人程が無職であります。この上のところが無職です。彼らが不名誉にもアヘン商売に従事するか、または国際ごろつきとして活動している、そういう人たちが全体の40%もありました。その次が農業、食料品雑貨商、銀行員、社員、店員の順ですが、そして多いのが料理屋ですが、料理屋の中では、乙種料理屋は、これが事実上、貸し座敷、娼妓を置いて営業するのと同様なものであります。この料理屋を経営していた人たちが224人もおり、また、軍慰安所を直接経営したのが11人もいます。そしてカフェを経営する人々が9人です。この3つの風俗産業、性売買産業に従事する女性たちの戸数があり、娼妓、酌婦、芸妓の戸数があり、それに属する女性たちの人数があります。戸数というのは住所のことであります。同じ家で何人も住むことが可能であるため、数字がこのように表れます。そのようにして、朝鮮人が経営する軍慰安所が11ヶ所あり、おそらく娼妓219人は、この慰安所に所属した女性たちと思われます。料理屋に所属する女性たちは芸妓か酌婦ですが、彼女たちはそれぞれ373人と513人でありました。
以上にように、満州と台湾、中国関内に朝鮮の売春業が活発に進出しましたが、日本に渡った朝鮮の売春業も活発でありました。日本は、早くからもっと多くの朝鮮人たちが渡って既に、1930年代になると、主要都市の周辺では、都市下層民として朝鮮人社会を形成し、1925年には、日本で普通選挙が始まるまで、その朝鮮人の地域では朝鮮人議員たち、地方議員たちが出馬し選出されたりしました。そのような挑戦社会を土台にして、朝鮮人の売春業が成長しますが、既に1935年、日本に居住した朝鮮人の娼妓、芸妓、女給などの、性売買産業に従事する女性たちの人数は1735人もあります。しかし、1937年の日中戦争以降、日本の朝鮮人社会が大きく膨張します。先ほど説明しました満州に入った人数の2倍以上の朝鮮人社会が日本で膨張し、そして多くの朝鮮人男性たちが1940年以降、各種の会社の募集や官斡旋、そして徴用の形態に日本の主要工業都市や炭鉱にいきます。その地域で、また朝鮮の売春業がまた繁盛しました。しかし、今日は時間が足りませんので、そのことについての具体的な紹介は省略します。次の時間に説明する日本軍慰安所と慰安婦制度は、このような植民地朝鮮の公娼制とそれの域外進出を前提してこそ、その実態や意義が正しく理解できます。このような前後関係、前史を前提にしなければ、日本軍慰安所および日本軍慰安婦制度を正しく理解することができないと、そのようにいうことができます。今日はこのまでにいたします。ありがとうございました。(日本語翻訳:林寿泉)

李承晩TV「日本軍慰安婦問題の真実」ー日本軍慰安婦ー
李栄薫(い・ヨンフン)李承晩学堂の校長、ソウル大名誉教授

「事実」と「自由」を追求する李承晩TVの視聴者の皆様、こんにちは。今日のタイトルは「日本軍慰安婦」であります。「日本軍慰安婦問題の真実」という、このシリーズ講義の核心主題と言えます。前回までの8回の講義は、実はこの講義のための予備課題であったということができます。日中戦争が勃発した1937年に、日本軍の首脳部は、全日本軍に兵士150人当たり慰安婦1人を充当する慰安所を設置するよう、指示を出しました。軍の士気のため、将兵の性的欲求を解消し、性病を統制し、また軍事機密が漏れることを防止するためでありました。以降、日本軍慰安所は、280万人に近い日本軍の全ての駐屯地で、北はソ満国境の黒龍江地域から、南は南太平洋諸島まで、西はインド前線のビルマ前線にまで、日本軍が駐屯するすべての地域に、慰安所は設置されました。慰安所が最も多かったのは、やはり華中地域の中国内陸地域ではないかと思われます。ご覧の写真は、上海にあった日本軍慰安所でありますが、慰安所を監督する憲兵と慰安所の従業員達、日本語では「仲居」と言いましたが、慰安婦ではありませんが、その人たちが一緒に写った写真であります。玄関には、「聖戦大勝の勇士達を大歓迎する」というスローガンが付いていますが、このような慰安所に所属して、日本軍に性的慰安を提供する女性たちが、即ち慰安婦でありました。慰安所は、1937年の以前にも部隊によっては、一線指揮官の裁量で設置されることもありましたが、そこに所属する女性たちを慰安婦とは呼びませんでした。慰安婦という言葉は、1937年に日本軍の付属施設として慰安所が公式的に創設されて初めて生まれた言葉であります。そのようにして生まれた慰安婦という言葉が解放後の韓国でも1960年代まで、そのまま使われたことは、私が以前の講義で指摘した通りであります。韓国政府は、民間の私娼街で働く、売春業に従事する女性たちを指して慰安婦と公式的に呼びましたが、その言葉の起源は、1937年に設立された日本軍慰安婦制度にあったということができます。周知の通り、この日本軍慰安婦制度が韓国人の大きい憤怒を掘り起こし、外交的紛争として浮かび上がったのは、去る1991年に金学順(キム・ハクスン)という慰安婦出身の女性が自分の元職業を公開してからでありました。 今までの28年間、かなり長い歳月が過ぎたにもかかわらず、この問題がなかなか解決できないのは、いろいろな原因があるからだと思います。日本側にも原因があり、韓国側にも原因がありますが、韓国側の原因を指摘すると、最初から今までの28年間、慰安婦制度に対して少なくない誤解があったからだと思います。
代表的な誤解の中の一つを挙げますと、慰安婦と女子勤労挺身隊を混同したということであります。女子勤労挺身隊は、戦時期に女性たちが軍需工場に動員されて、一定期間労働をすることであります。日本と違って、朝鮮では女性を動員することが簡単ではなかったため、日本でのように、大量に動員されてはいませんでした。ご覧の写真は、日本名古屋にある航空機製作所に到着した朝鮮女子勤労挺身隊の行列であります。主に、「高女生」など、日本語を話すことも、読むこともできる女性たちが、普通、隊伍を組んで日本に行って、2ヶ月ほど働いてから帰ってきたのが、戦時期の女子動員形態としてあった、女子勤労挺身隊であります。しかし、韓国人達の女子勤労挺身隊への記憶があまり良くない中で、慰安婦問題が発生すると、韓国人の人々は、慰安婦と挺身隊を混同し、憤怒しました。日帝が女性を動員して戦争に送り、慰安婦にしたというのであります。しかし、今まで、そのような事例は、たった一件も報告されたことがありません。ご覧の写真のように、軍需工場に行った高女生たちの中で、慰安婦として充当されたということは、今まで発見されていません。それは事実ではありません。しかし、少し前までも、挺身隊は、慰安婦と混同されていました。例えば、2007年にネット上のnever百科事典で、挺身隊を検索語として入れると、「植民地女性を強制的に徴用し、日本軍の性的欲求を解消するために作った、性的奴隷集団である従軍慰安婦のことを言う」のように、挺身隊は慰安婦であると書いてありました。最近、また調べてみたら、内容が正しく訂正されていました。今はそういう誤解は、ある程度、払拭された状態ではありますが、なお、いろんなところでその誤解が横行していることを見ることができます。
慰安婦問題の解決を難しくする、また他の原因は、慰安婦の人数がとんでもなく誇張されているということであります。一時期は、朝鮮人慰安婦が20万人もいたという荒唐な説が中・高校の教科書にまで載っていました。今も教科書によっては、少しずつ違ったりしますが、3万人ということも、数万人ということもあります。少なくとも、3万人はあっただろうというのが普通であります。日本軍慰安婦の総人数がどれほどで、その中で朝鮮人慰安婦の総人数がどれほどであったのかは、合理的に推定できる、いくつかの根拠があります。先ほど、指摘しましたように、1937年、日帝が慰安所を公式的に設置するとき、兵士150人当たり1人の慰安婦を置くという方針でありました。そのことに基づくと、全日本軍280万人を相手とする慰安婦の総人数は、約1万8千人程度と考えられます。1942年に、日本軍が将兵たちに支給したコンドームの総数は、その年の一年間、3210万個です。これから1日のコンドーム使用量を求め、また一人の慰安婦が1日に相手した将兵たちの人数を5人程度にしてみると、やはり同様の1万7千人ほどの慰安婦の総人数が推算できます。この慰安婦の民族別構成は、日本人を40%、現地人を30%、朝鮮人を20%、その他を10%と見るのが一般的であります。日本で大衆的な売春社会が成立し、それから日本軍の戦線が拡張するにつれ、日本の売春業者たちの大勢がその後をついて進出したのが、この慰安婦たちの基本的流れであります。日本人女性が最も多く、その次に、中国では中国人、ビルマではビルマ人、インドネシアではインドネシア人のような現地人が30%で、その次に朝鮮人が20%、その他は多様に構成されますが、このことから推算される朝鮮人の慰安婦は、大体3500人程度です。この数値が合理的数値であるということができます。私が前回の講義で、中国の華北地域で軍慰安所を運営した朝鮮人の売春業者が11人で、11軒の慰安所があったと言いましたが、1カ所の慰安所当たり、多くて15人が働いたとすると、華北地域の慰安所に所属する女性たちの人数は165人程度になります。他の中国人や日本人が経営する慰安所にも朝鮮人の女性たちがいるとして、その人数を2倍、3倍にしても3〜400人程度になり、華北地域に存在した朝鮮人慰安婦の全人数であります。このように、地域別にいろいろな情報を集めて推算することも可能です。いずれにしても、大体、私は3500人程度が合理的であると思います。しかし、この程度の数値を、いくら多く考えても5千人を超えないはずの人数を、今まで3万人、あるいは20万人と主張してきたのは、あまりにも甚だしい誇張であったと思います。しかも、そういう数値は、教科書でも使われていました。今は20万人という説は、教科書からは消えたものの、なお、そのような数値が未だに主張されています。私は、これは非常に大きい問題だと思います。
私は、1960年代以後の50余年間、「総督府が全国の土地40%を国有地として収奪した」と、韓国の国史教科書の中に記述されてきたことに対し、そのことが如何に荒唐な話であるかを前の講義で指摘しました。私は、1992年からそのことを主張し、ひどく罵倒を浴びてきました。しかし、誰も私の主張に対し、反論はしませんでした。結局、その数値は教科書から消えました。今の慰安婦の実人数と関連しても、似たような現象が起きています。3万人、或いは数万人であるという、教科書の記述はなかなか直りません。何の根拠もないのに、教科書を作る人は何か数値が必要なため、そのような、でたらめな数値を作り、使用していて、また多くの人々がそれを信じています。私はある時、韓国女性運動指導者の一人と個人的に討論をしたことがありますが、その人が慰安婦20万人説を言ったので、私は「悪いけど、そのような話は根拠がないから、しない方が良いと思います」と、丁寧に説明をしました。しかし、その人は、聞こうともしないし、結局は、怒り出して席を蹴って出て行ってしまいました。その、どうしようもない頑固な先入観が今まで、日本軍慰安婦問題の解決を難しくしてきたと思います。
慰安婦問題の解決を難しくした、また他の原因は、「奴隷狩り説」、または「強制連行説」であります。日本軍の憲兵が道端で女学生を連れて行った、畑で働いていた女性を連れて行った、鉄道駅前で通りすがりの女性を逮捕した、ある村にトラックで行き小川で洗濯をしていた女性たちをトラックに詰め込んで連れて行った、などのような話が多いです。実際に、この画面でご覧になられる吉田清治と言う人がそのような話を作った有名な人たちの中の一人であります。この吉田清治氏は、自分がそのようなことを1940年代に済州島でやったという話を本にし、この「私の戦争犯罪」という本を書き、一時期ベストセラーにもなりました。彼によりますと、済州島で、主に、今日の大静面(テジョンミョン)ですが、そこで、なんと200人の女性たちを拉致したと主張しました。日本の朝日新聞が、日本で3大日刊紙である朝日新聞が、その人とインタビューし、報道しました。しかし、歳月が20年ほど過ぎて明らかになりますが、吉田氏は、虚名とお金を追求して、そのような話を捏造したのであります。結局、朝日新聞もその報道が誤報だったということを認めました。そのため、朝日新聞の信用度が墜落し、読者がなんと200万人も減ったという話を聞いたことがあります。それでも、なお、多くの韓国の人たちは、その話を事実として信じています。韓国の有名日刊紙である朝鮮日報さえも、わずか2〜3年前、「済州島の洗濯場で日本人達が女性たちを拉致した」という記事を」、既に虚偽と判明されたその話を、公然と新聞の社説に書きました。
吉田氏とは別途で、韓国では、この慰安婦問題が浮かび上がって以来、似たような話を素材にし、数多くの小説や映画が作られました。少し前に、皆様もご存知だと思いますが、この慰安婦に関する「帰郷」という映画が作られました。この可愛い少女たちが、このように日本軍に連れて行かれる場面を映画で演出し、その場面を見た多くの人々が涙を流したそうです。チョ・ジョンネの大河小説「アリラン」でも、類似した場面があります。ある面長が自分の面に割り当てられた慰安婦の人数を充当するために、ある農民を呼んでは「仕方がない、君の娘を慰安婦として徴発するよ」と通達する場面があります。私は以前の講義でも説明しましたが、「荒唐無稽アリラン」という講義の中で、作家のチョ・ジョンネの堕落した精神を無限に軽蔑します。汚い種族主義の標本であります。相手を乱暴な野蛮な種族と感覚し、それと同時に自らを、自分の娘を徴発するにもかかわらず、何の抵抗もしない、無限に卑怯で無気力な種族と卑下する、そのような賤しい精神文化が、他ならぬチョ・ジョンネの文学精神であるのです。問題は、チョ・ジョンネではありません。そのような映画や小説に憤怒し涙を流す、今日の韓国人が共有する種族主義的精神文化、それが問題の本質であると、私は思います。
そのような「奴隷拉致説」や「強制連行説」を裏付けるという、別の根拠として、生存している元慰安婦たちの証言があります。歴史と関連して、個人の証言を史料として採択するときは、非常に慎重でなければなりません。例えば、20世紀に入り、アメリカの歴史学者たちは、南北戦争以前の元奴隷たちを対象に、彼らの奴隷時代に関する記憶を採集しました。いわゆる口述史学がその時から始まったと言われますが、その時に歴史学者たちは、元奴隷達とインタビューをする度に、個人の記憶が変わり、一貫性を維持できないことに気づきました。昔のことであるため、記憶が薄いこともあり、前後が錯乱を起こすこともあり、またその間に、新たな記憶が作られることもあります。何より、インタビューというのは、多くの場合、当事者と聞き手との対話であります。しかし、対話の過程では、その記憶が政治化することがあります。相手が聞きたがる話が何かを口述者は気づいて、その聞き手に合わせて、自分の記憶を再生産するのであります。元慰安婦たちの証言もそのようなことが多いです。ある女性は、鉄道駅前で日本軍に連行され中国にいったが、その汽車の中には、自分以外にも多くの女性たちと軍人達が乗っていたと言いました。ところで、この女性が1999年に話した、最初の証言は、その話と違います。継父が自分を売ったと、自分は日本軍よりも継父をもっと恨んでいると言いました。継父が自分を売ったというのが元の記憶でありまし。しかし、インタビューをしたら、聞き手が何か他の内容を聞きたがることに気づき、そのような話をすると歓迎されるし、国民の同情も受けられ、さらには、政府の補助金まで受けられることがわかったので、また証言を間違えると、その補助金が取り消される可能性もあることが、分かるから証言を変えるのであります。それで、鉄道駅前で日本軍に拉致されたという話をするのであります。このような事例は、他にもいくつかありますが、ここではそのことに対しては、これ以上時間を使わないことにします。
それでは、その可哀想な女性達はどのようにして慰安所に行き着いたのでしょうか?それに対する私の理解は、主張は、実は今までの3回の講義で既に十分ご説明をしてきたと思います。視聴者の皆様は、私がどうして、日政期に施行された公娼制に関しての話をそんなに長くしてきたのか、今、ご理解いただけると思います。慰安婦制度は、日本軍首脳部が1937年のある日突然作り出したものではありません。それは以前から公娼制の形態として存在してきたものであります。軍周辺で、民間業者が、軍の後をついてきて、女性たちを連れて各種の料理屋やカフェの形態としての慰安施設を作り、1937年に日本軍はそれを軍の慰安施設として公式化し、軍の慰安施設として引き込み、軍がその時から監督・統制を始めたのであります。それがまさに慰安所制度であり、慰安婦制度でありました。
そのような変化に対し、関連研究者たちは「公娼制から慰安婦制」という命題として、その変化を説明しています。それは私の主張ではありません。私が読んだ慰安婦制に関する重要な研究が、昔から、慰安婦問題の発生時から主張してきたものであります。「公娼制から慰安婦制」の学説を最も早く説いたのは、日本の青山学院大学の宋連玉教授であります。もう一人の日本で重要な研究者を挙げると、藤永壮という日本人教授がいらっしゃいます。宋連玉教授は在日同胞のようです。在日同胞の研究者としては、また金富子氏や金栄氏のような重要な研究者達がいらっしゃいます。彼ら日本で活動している研究者たちは、慰安婦問題が提起されて以来、早くから日本軍慰安婦制度は、「公娼制という後方部隊を前提にして編成した前方部隊である」と、主張してきました。国内でも彼らと交流をしながら、同様の立場にいる研究者達がいらっしゃいます。尹明淑(ユン・ミョンスク)氏やパク・ジョンエ氏のような方々がそうだと思います。私の以前の講義の相当部分は、彼らの研究成果に頼っており、紹介するようなものでありました。
ここで、以前の講義の内容を思い出していただきたいです。近代国家が公娼制を施行したのは、前近代的で身分的な人身売買を禁止し、国民健康のため、性病を統制するためでありましたが、より直接的な動機は、軍隊組織の士気を高揚させるための慰安施設が必要であったからであります。1910年、朝鮮で施行された公娼制度も同様であります。その設立により開かれた貸座敷遊郭地域の相当部分は、日本軍駐屯地と近接した地域で、一種の軍事慰安施設として作られたものでありました。初期には、朝鮮に渡った日本軍人を始め、少数の日本人男性のための特殊的売春産業でありました。女性達も、主に日本から渡った日本人娼妓でありました。それが、植民地的開発とともに、朝鮮人の大衆が参加する大衆的売春産業として発達するようになります。朝鮮人の娼妓、酌婦、芸妓も増加し、彼女達のところを訪れる朝鮮人遊客人数も増加しました。貸座敷遊郭や料理屋などの飲食店に娼妓、酌婦、芸妓を引き込むのは、あるいは供給するのは、他ならぬ人身売買の経路からでありました。大衆的売春業は、さらに国境を越えて満州、台湾、中国関内、日本にまで拡散していきましたが、それとともに、前回ご説明しました通り、人身売買がもっとも盛んになり、貧しい家の娘達をその地域に押し出したのであります。また、以前の講義で言ったことでありますが、この市場では、早くから各種の店に女性たちを供給する斡旋業が、最近の言い方としては、一種の職業仲介所のようなものが発達していました。女性達は、日本軍に強制的に連れていかれたのではなく、彼ら斡旋業者によって連れて行かされたのであります。貧しい家の非情な父親達は、この斡旋業者たちから前貸金をもらい、娘達を売りに出したのであります。娘たちは、泣きながら、または殴られながら、斡旋業者達に連れて行かされたのであります。それが隠すことのない、その時代の実態であります。
先ほど紹介しました、ある女性が、ある元慰安婦が、継父が自分を売ったと言ったのが、その例であります。最初に慰安婦だったことを告白した金学順という女性も、継父から売られて遊郭に渡され、以降、転々と流される数奇な人生を送ったのであります。このような状況の中で、時代的状況の中で、1937年、日本軍が慰安婦制度を創設したのは、何もないところに建物を作り、女性達を拉致してきた、というようなものではありません。日本軍慰安所は、軍の後をついてきた民間の貸し座敷や料理屋を軍専用の施設に指定したものと相違ありません。軍が直接設置し、運営した慰安所もありましたが、そのようなものは少なく、殆どは舞台周辺の民間の店を慰安所として指定して、その運営を委託ないし監督するような形態でありました。
前回の講義でご紹介しましたが、1937年に日中戦争が勃発すると、平安道の義州出身の38歳のパク・イルソックという男性が上海で「カフェ亜細亜」を開業しました。ところで、彼の店は2年後に慰安所と指定されました。当初、2千ウオンで始めた彼の商売は、1940年には7万ウオンにまで大きく繁盛しました。カフェが慰安所と指定されると、どのような結果が発生するでしょうか?カフェの女給達は、慰安婦という身分に変わるのであります。正にそれが、慰安所に殆どの女性達が供給される基本的な経路であったと、言うことができます。似たような事例を以前にもご紹介したことがあります。国内の咸鏡北道会寧の徳川楼の場合であります。私が、この写真を見て、朝鮮時代の妓生歴史の伝統を継ぐ、会寧の妓生達を見て、感じた感情を以前の講義でお話ししたことがありますが、その時の徳川楼という日本人料理屋です。1912年に開業したこの料理屋は、1937年戦争が勃発して以降、民間の出入りが禁止された軍専用慰安所施設に変わります。そのような環境で成長したこの子供が後で回顧し、次のように述べます。「1938年以降、遊興業に規制がかかった。民間の利用は殆どなくなった。徳川楼は規模を縮小した。しかし、戦争以降、会寧には軍人の数が多くなり、日曜日や休日だと、以前よりもずっと混み合って景気が非常に良かった。母は非常に忙しくなった。我が家は接待時間を減らし、価格を下げる戦略で対応した」。民間が開業した部隊周辺の料理店が、料理屋が戦時期になり、軍慰安施設に転換したのであります。すると、写真での、この朝鮮の酌婦達が軍慰安婦として身分を変えたのであります。これが満州と中国そして朝鮮、日本にいた慰安婦が充当される基本経路であったと、つまり、公用売春市場が成立すると、人身売買という基本経路を通じ、貧しい家の娘たちが非情な父親によって、売り出されたのであると、それが、慰安婦が生まれる基本経路であったということであります。要するに、日本軍慰安婦制度の歴史的意義を要約すると、日本軍慰安婦制度は、既存の公娼制を軍事的に再編成したのであります。そのような変化は、公娼制そのものが元々そのような属性を持っていたので、つまり、軍事慰安施設としての公娼制であったので、その変化は断続的変化というよりは連続的変化でありました。そのため、満州、朝鮮、台湾、日本など、公娼制が早くから発達したところでは、単純な名称変更に過ぎないケースも多かったのであります。もう一回強調しますと、1930年代に大衆的売春産業が発展し、その売春産業が戦時期になるにつれ、軍事的に動員され、再編成されたのが、他ならぬ日本軍慰安所及び日本軍慰安婦制度であったということであります。中国で、慰安所という別の大衆的売春市場が開かれると、民間の人身売買は、もっと活発になりました。1939年から1941年、朝鮮には「毎日新聞」がありましたが、この「毎日新聞」に載った、人身売買に関する記事は、なんと120余件に達します。最も盛んに人身売買を行なった人としては、ハ・ユンミョンという人の夫婦が有名でしたが、なんと150人の少女を満州などに売り渡したそうです。40人あまりを売り渡した某業者もいました。彼らは、娘を良いところに就職させると騙して、父母の承諾書または白紙の委任状をもらったり、または、家庭問題、例えば貧困か暴力、その他は、友人の誘いなどの、いろいろな理由で家出をした少女たちを自分の子供として入籍したり、また様々な方法で少女を単独戸主にしたり、様々な方式で書類を操作しました。国境を越え、現地の警察の就業承諾書をもらうためには、しかるべき書類が必要でした。娼妓斡旋業、すなわち人身売買業は、女性を連れていくため、腕力を行使するだけでなく、この書類を具備、操作するのに相当なノウハウが必要な職種でもありました。慰安所の運営が具体的にどのようなものであったかは、事例は多くはありませんが、いくつかは具体的な事例を紹介することができます。
中国の、華中地域の、ここが上海ですが、内陸の方に行くと武漢があり、その中に当陽という、そのような地区があります。日本軍はそこまで進出し、もう少し行けば、大韓民国の臨時政府があった重慶ですが、この白い地域が当陽地域であります。そこに高森という名の部隊がありました。その部隊の慰安所に関する情報が残っています。ご覧の画面がそれに関するものですが、この画面は、同部隊が地方商人の営業区域を指定した図であります。ここが部隊本部兵舎のあるところです。また炊事場があります。そして炊事場の横に、このように区域を設定し、ここが部隊が管理する地方商人営業区域であり、この中に慰安所が、第1、2、3慰安所があり、その隣に飲食店があり、写真展があって、商店街があります。点線内の範囲内で、女性たちは散歩などをすることはできますが、出ていくときには部隊長の許可を得なければなりませんでした。これは民間の公娼制でも、遊郭地域でも同様なことであります。この慰安所を経営した人は、中国人でした。弘原榮という中国人で、おそらく女性たちは、殆ど現地の中国人の女性たちで充当されていたと思われます。ここで飲食店を経営した人は、名字が崔であります。崔金石という人ですが、名前から朝鮮人と思われます。日本軍の後をついて、中国内陸までも進出した一例となります。その隣に写真店や時計店がありますが、そこは日本人が経営しました。藤川という人です。この部隊の慰安所の運営規則があります。お時間のある方は、画面を停止して詳しく見てください。全てを説明するには時間が足りません。この慰安所を利用するためには、兵士であれ、将校であれ、連隊長が発行した許可証が必要で、連隊長発行の許可書とともに現金を支出し、花券(チケット)を買わなければなりませんでした。慰安所の帳場という会計窓口のところで、現金で買わなければならず、ツケ払いや営業者と賃借関係を作ることは禁じられるし、慰安所内で飲食することや歌を歌うことも禁じられるし、乱暴なことは憲兵の取り締まりの対象になり、兵士たちの利用時間、下士官達の利用時間、準士官以上の将校達の利用時間、そして時間当たり、30分当たり、1時間あたりの費用はいくら、兵士たちが30分利用するときは1ウオン、1時間利用するときは2ウオンのようになっており、その次にこの高森部隊の中隊別に、第1慰安所、第2慰安所、第3慰安所を利用できる日にちと、曜日が指定されていました。必ずサック、すなわちコンドームの着用が義務付けられていて、民間の利用は禁じられていました。そして営業者は、この慰安婦達の営業状況を詳細に記した、一定の様式に従って記した報告書を一ヶ月に一度、部隊長に提出しなければなりませんでした。このように、慰安所は、徹底的に営業が軍の統制下で行われていた公営でした。その意味では公娼業が軍隊に引き込まれ再編成されたものであるということができます。慰安婦達は定期的に検診を受けなければなりませんし、営業主達は毎月一回、慰安婦別に営業現況を報告しなければなりませんでした。このような運営規則がわかる慰安所は、そんなに多くはありませんが、いくつかの事例がまだありますが、ほとんど大同小異でありました。
私は、昔、この運営規則を読んだことがあり、それが、朝鮮総督府が全国の30余ヶ所の貸座敷の地域を設置するときに発表した貸座敷の取締規則とあまり変わらないものであると、考えたことがあります。そのうちに、先ほど言いましたように、諸研究者たちの研究を読んで、正に「公娼制から慰安所制」との研究成果があるのをみて、自信を持ってこの講義を、視聴者の皆様の中では、初めて耳にする話であるため、少し抵抗感を感じる方々もいらっしゃると思いますが、研究者の立場で自分なりの所信の下で話すことができたのであります。
最後に、もう一つの事例をご紹介します。中国の南方の広東、ここが深圳であり、もっと下だとベトナムとの国境であります。その辺りに広東自治区域に南寧という所があり、その下に欽州というところであります。この欽州の最南方にあった日本軍の慰安所の話であります。今ご覧の資料は非常に珍しいものですが、一ヶ月に一度、部隊長に報告しなければならなかったのですが、その書類中の一つであります。この欽州日本軍慰安所は、全部で、その地域内に10軒がありました。「朝日」などの所名が見えますが、全部で10軒の所名をみると、殆ど日本式であります。そのため、日本の業者が日本人女性を連れて行ったのであろうという推測ができます。勿論、遠くから頻繁にリクルートすることは難しく、時間が経つにつれ、現地の女性も増えていったと思います。一ヶ所あたりの慰安婦の人数は、大体5〜6人で、問題は、ここに転出と転入がありますが、1940年の一ヶ月の間に転出をした女性が16人、転入したのが5人です。この事実は、非常に重要であります。契約期間が満了するか、然るべき理由が発生すると、女性たちは慰安所の外へ転出し、故郷に帰るか、または他の慰安所に行ったのであります。この事実を、私は次の講義の時、より詳しくご説明しながら、既存の研究者たちが主張する「性奴隷説」を批判しようと思っております。その下を見ると、慰安所別の一ヶ月の総収入があり、その次に慰安婦一人当たりの一日の平均収入が示されています。1日の平均収入は、18ウオン程度であります。先ほど、階級別利用料金がありましたが、大体、計算してみると、女性たちは、兵士、下士官、将校を1日に5人ほどと接したと思われます。大衆的売春産業が軍事的に再編成されるとき、その労働の強度は非常に激しかったと言えます。前回にご紹介しました、満州で発達した韓国人の売春業でのある女性は、一晩で30人とも接したそうですが、それは例外的なケースであります。とにかく、軍事的に再編された大衆的売春産業の労働強度は非常に強烈なものであると言えますが、そのぶん、高所得でもありました。1日の平均18ウオンというのは、当時、小学校を卒業して工場に就業した女工たちの二ヶ月間の給料であります。1日に2ヶ月の給料を稼ぐのであります。勿論、ここから、食費、生活費等を引きます。また業主(抱え主)からの前借金は大体200ウオン程度でしたが、この程度の収益だと、前借金は女性たちを束縛するものにはなれないと思います。軍の保護下で営業は安定的でありました。この報告書を詳しく読むと、1940年6月の一ヶ月間、慰安所で乱暴な行動をした下士官と兵士1人が憲兵達に、どのように抑えられたのかまでも報告書には記されていました。はるか遠くの欽州まで朝鮮の女性たちは行ったとは思えません。殆どが日本人か、現地の人であったと、広東自治区の現地の人であったと思いますが、しかし、1942年になると、日本軍が東南アジアに進撃するようになると、話は変わってきます。このはるか遠くまで朝鮮の女性達の行列が続くようになります。そのことについては、次の時間にお話しします。今日はここまでといたします。ありがとうございました。

李承晩TV 「大韓民国 解体 反日種族主義の業報(応報)」
ー 李栄薫 李承晩学堂の校長 ー 日本語翻訳: 鈴木喜久子氏

視聴者の皆さまこんにちは。「危機 韓国の根源、反日種族主義」講義です。今日の題目は「大韓民国 解体、反日種族主義の業報」です。「反日種族主義」が韓国の社会と文化を支配し、韓国の政治を制約してから、すでに一世代です。種族主義はその世界観が閉鎖的であり、現実に対する理解が非科学的であり、隣人との関係において敵対的です。未来に向かう建設的な探求、討論と協同がそこにはありません。人間が正直で、勤労し、学問し、和合するならば、その社会は発展するようになっています。
偽りを当たり前のこととし、学問を退け、勤労をせず、紛れ当たりを期待し、隣人との紛争に好戦的な社会は衰退します。人類歴史がその教訓を与えています。それは幼い子供でも分かっている平凡な真理です。
大韓民国がその真理の道から離脱しました。そうなってからすでに一世代が経ちました。「反日種族主義」がその根本原因です。それでこの国はこのままで行ったら解体してしまう。それで今日の講義の題名を「大韓民国解体、反日種族主義の業報」としました。

韓国社会と政治において、嘘が飛び交っているということについては、この企画講義を始めるにあったって既に指摘してきました。最近あった国民的嘘を一つ紹介致します。去る10月31日最高裁が1943〜45年の戦時期に旧日本製鉄で強制労働をさせられたと、訴訟を起こした3名に新日本製鉄が補償するよう命じたその判決をあげることができます。最高裁の判決文は「基本的事実関係」に対する記述から始まっています。事実関係に基礎して裁判が成立したということです。しかし、その「基本的事実関係」が全て嘘なのです。嘘の上に基づいた裁判であり、嘘を基にした判決であり、国民全てと政府がそれを支持したので国民的嘘になったのです。

このことに関して今日はお話していこうと思います。すでに死亡した原告3名は1944年8月、総督府が徴用を公式的に実施する以前、日本の会社の募集に応じて日本に渡りました。つまり、自発的な労務契約でした。そのことについてはこのシリーズ講義、李宇行博士の講義を参考にしてくださるようお願いします。当時この募集、総督府の官斡旋以外に、別途で年間10万名以上の韓国人が戦争中であっても日本に渡って行っていました。より高い賃金所得のため、もっと良い生活環境を求めてのことです。日本の会社の労務者募集はそういう流れの一部でした。つまり、本質的にお互いが全く違った流れではなかったという、時代的状況を前提にしなければなりません。国家権力が強制し動員した徴用ではありませんでした。徴用だとしても労働の期限、報酬、傷害に対する補償、遺族に対する援護などが法的に整備されており、従ってそのこと自体は奴隷労働ではありませんでした。ともあれ原告の3名は徴用でない、当時の多くの人々がそうであったように、自発的労働契約の一環として日本に行ったのです。原告は日本製鉄から賃金を貰ってなかったと主張しました。判決文で長く引用している中の、その内一人の主張を紹介すると次のようです。若干の小遣い以外みな強制貯金させられ、寄宿舎の舎監が保管したといいます。後に原告はその舎監と一緒に帰国しました。舎監も韓国人であり、日本に行ったり帰ってくるとき、同行した人だということがわかります。青年たちが2〜30名ずつ団体で日本に行く時、それを斡旋したり引導した韓国人であり、そういう人たちが会社から用役を受け、宿舎と食事を提供する役割をしました。帰国後新しい工場で原告は舎監に貯金の返還を要求しましたが返してくれなかった、と言います。これが基本的事実関係の核心です。

ところでこのことがどうして旧日本製鉄が原告に賃金を支給しなかったため、新日本製鉄が原告に補償をしなければならない根拠になるのか、私としては理解ができません。判決文はかえって日本製鉄が原告に賃金を支給したことを明確にしています。もし原告の主張のように賃金をもらっていないというなら、略取が起こったとしたら、それは中間略取であり、原告と舎監の間での問題です。この点で最高裁の判決文はとてつもない矛盾を犯しました。ところで果たして原告の主張のように、舎監は原告の貯金を横取りしたのでしょうか。これについては知る由がありません。原告は当時未成年でした。法的に契約を結べる身分ではありませんでした。それで出発当時から保護者や後見人が必要であり、多分同行した舎監がその役をしたのだと思えます。戦争の時期なので未成年者が工場に行くことができたのです。このような状況で原告と同行した舎監、後見人、保護者がいたのだと思います。その舎監は月給を代理受領し、一部を小遣いとして支給し一部を貯蓄しました。彼はまた、その内の一部を原告の父兄に送金したとも言えます。私は当時日本に行ってきた50人の朝鮮労務者に会い、インタビューした経験があります。間も無く資料集として出刊する予定ですが、その中で上の例と似たような話がたくさん出てきます。私は判決文を読んだ瞬間、この事件があるタイプの事件だとすぐに理解できました。私はその韓国人舎監が原告のお金を横取りした詐欺師だとは思いません。その舎監は誠実に原告の本家に送金したかもしれないし、原告自身がそういう事実を知らなかったかもしれません。そういう時代でした。

ところが裁判所では以上のような原告の主張を調査し確認したでしょうか。その舎監を召喚し調査したことがあるでしょうか。勿論すでに死んでしまっているかもしれません。しかし、その人がお金を横領したと一方的に主張できるのか、その舎監の名前がなんであり、住所はどこであるか。さらに裁判所は日本製鉄会社に原告3名がいつからいつまで働き、彼らに支給された賃金はいくらだったのか、戦争の混乱期に未支給になった賃金があったとしたらそれがいくらなのか、彼らの勤務状況や態度はどうだったのか、どこの家で宿食を解決したのか、このような情報をその会社に調査依頼したことがありますか。さらにその問題に関して専門家を参考証人として呼び意見を聞いたことがあるでしょうか。その方面の専門家が私の周りにたくさんいますが、呼ばれたということを聞いたことがありません。判決文を見た限りでは、裁判所は関連の当事者を召喚したり、関連日本会社に調査したり、関連専門家の証言や意見を聴取したことはないようです。勿論下級審の裁判過程で被告の弁護士がどのような主張をしたのか分かりませんが、とにかく判決文自体を見る限りそのような痕跡を見つけることができません。つまり裁判所は事実確認もせずに、原告の一方的主張だけで、彼らが奴隷労働をさせられたと、時効を設定できない反人権的犯罪の被害を受けたと判断したのです。私は韓国の裁判官が裁判に臨むに当たって、基礎的事実関係をきちんと確認しなかったと断言します。

さらに、事実関係を忠実に検証しないことに加え、最高裁の判決文は必ずしも法の専門家でなく正常な知識人なら納得することのできない法の論理を展開しています。最高裁の判事は、原告3人が正常に賃金をもらったのかどうかが重要なのではない、という趣旨の判決文を書きました。最高裁判所は重要なのは日帝の植民地支配が不法的だったという事実、それに抵抗できなかった人々が強制的に動員され労働したという事実、これに対し原告達の損害賠償請求権は、日本企業の反人道的不法行為を前提にして強制動員被害者の、日本企業に対する慰謝料請求権という事実、私が働いたのにもかかわらず正当な代価を貰えなかったから返してくれという訴訟ではなく、働いたという事実自体に対する慰謝料を請求するのだと解釈しました。つまり、最高裁は強制動員慰謝料請求権という新しい用語を作り、彼らの請求行為自体を法理的正当化しました。未支給賃金や補償金ではなく、彼らを呼び働かせた反人道的行為に対する慰謝料だという法論理を展開しました。私はこのような判事たちの没歴史的、没法理的、没常識的主張に対しここで反論はしません。別途の機会があるといいと思います。この制限された時間を割愛するにはあまりにも、大きな論理的飛躍に対する厳しい批判の課題だからです。

判事たちは日本の朝鮮支配政策が朝鮮の美風良俗を害したと解釈しています。私は金ミョンス判事以下、高邁な判事たちに訊いてみたいです。皆様の法廷は歴史の法廷なのかと、現実の法学の教科書にその歴史の法廷、クリオの法廷が存在するのかと、誰があなた方に日帝の朝鮮支配は不法であり、日帝の朝鮮支配は美風良俗に反することだったと、断定する権利と権威を付与したのでしょうか、あなた方が裁判の根拠として活用する法は世界法ですか、あなた方が法服を着ているその裁判所は国際裁判所でしょうか。あなた方が裁判の根拠にしている法は国際協約を超越する、国際的常識を超越する世界法であり、世界知識でしょうか。私はそんなのもがあるなど聞いたこともありません。国際社会は基本的に無法社会です。最小限の国際間の良識が国際法として成立している社会です。帝国主義の植民地支配を不法だと規定した世界法はまだ未成立です。いえ、成立不可能です。過ぎた過去だからです。方の対象は現実であって歴史ではありません。裁判官は歴史家ではありません。もし、私が間違っているなら指摘して下さい。

再び元の論点に戻りましょう。一人の歴史家として私は、原告たちが強制労働を強いられ、奴隷として捕らわれ、酷使されたという主張に同意できません。その時代を生きた無数の人々の残した証言と史料に反しているからです。むしろ原告たちの未熟な嘘は彼らが賃金を貰ったことを語っています。逃げないように監視が厳しかったと言いますが、それは戦時期の軍需工場の一般的状況だっただけでなく、当時の日本に渡った韓国人が労務契約に違反し逃亡するのがあまりに頻繁だったため、全労働者の1/3がそうでした。どうであれ、そのような原告の主張をそのまま引用し、さらには彼らの補償要求を歴史の慰謝料とまで拡大解釈し、最高裁の判事たちは、自ら70年の歴史の実態に対し、何も知らない知性人であることを暴露すると同時に、彼らの主張を植民地支配による慰謝料とまで拡大解釈することによって、彼らが立脚しているほうりつの哲学と体系自体も超越する幻想性を露呈してしまいました。一国の最高の裁判官たちが決して犯してはいけない最悪の拙劣な判決でした。

しかし、とにかくそのような事が起きてしまいました。そして政府が、言論が、全国民がその判決を支持しています。当初3名の原告が軽薄にも叫んだ嘘がついに国民的、国家的嘘となってしまいました。さらに日本に向かって脅しをかける国際的嘘で叫ばれています。その嘘の基礎には下賎な金銭主義が横たわっています。植民地末期に発生した韓国人に対する、日本政府と会社の未払金に対しては、1975年朴正煕政府が申告を受け補償をしたことがあります。その未支払金の大部分は日本の国債、会社債、銀行の預金と郵便貯金、年金などでした。未支払い賃金は戦争末期の混乱の最中の2〜3カ月の月給の少額にすぎず、それを証明する証書もありませんでした。生きて帰れただけでも感謝する戦時期のことでした。しかし、いつからだったか、このシリーズ講義で李宇行先生が指摘したことですが、たいてい1965年から日本の朝鮮総連に属する共産主義系列の学者から、強制連行説と奴隷労働説が流布され始めました。その嘘と扇動が次第に歴史の真実として流布され、当事者たちは死んでいないのに、その子供たちが、70年も経ったこの時点においてさえ決して抛棄できない巨額の黄金に化けてしまいました。

1965年韓国政府と日本政府が国交正常化をなし、民間の請求権はこれで永久に清算したと約束した事件です。1975年朴正煕政府が清算した事件です。それが未だ十分ではなかったとして、2005年盧武鉉政府がもう一度清算しました。にもかかわらず3名の原告の後孫はもの足りなかったようです。貰ったのか貰えなかったのか、いくら貰ったのか私としては知る由もありません。貰えなかったとしたら多分、提出した書類がなかったのでしょう。率直に言って書類が問題でなく、立証する事件自体がなかったのです。しかし彼らは決して抛棄しませんでした。胸の中で育てた黄金の塊があまりにも大きかったからです。原告3名の当事者なのかどうなのかわかりませんが、新聞報道によれば何人かの人が日本にまで行って、日本の裁判所に訴訟を提起しました。韓国政府から補償を受けられないので、日本にまで行って補償を要求したのです。彼らには韓国人としての名誉とか自尊心がありませんでした。彼らが属する大韓民国政府が締結した国際条約など、初めから眼中にありませんでした。彼らは彼らの行動によって、日本人が韓国人に対しどれほど有害な先入観を持つかなど、一切考慮しませんでした。彼らを奴隷にしたのはお金でした。日本での訴訟に失敗すると、彼らは最後にすでに2度も補償を行なった自国政府を相手に訴訟を提起しました。ところでこちらのほうが、ずっと勝算のあるゲームでした。以前と違って嘘を歴史の真実として、歴史の正義として受け入れてくれる反日種族主義が充分に成熟していたからです。どの裁判官も、どの政治家も、どの官僚も、どの言論も、どの学者も、彼らの主張が事実であるかどうかを検証しませんでした。誰も彼らの嘘を諫めませんでした。むしろ支持し応援しました。実際には、彼らの主張が事実でないことを立証した学者達がいました。このシリーズ講義に出演した李宇行博士がその人です。李博士の論文が現れたにも関わらず、韓国の言論、韓国の政治、韓国の歴史学、韓国の裁判部はいかなる反応も見せませんでした。嘘が既にあまりにも強固な砦を成してしまっていたためです。嘘をつく政府、裁判所、政治、大学、言論、それに盲目的に追従する社会の国は衰退するしかなく、結局は消滅してしまいます。そのいい例を朝鮮王朝に求めることができます。朝鮮王朝はなぜ滅びましたか、いくつか原因があります。その中で重要なものが、嘘をつく政治、社会、文化のためでした。私はその事実を、我が建国大統領李承晩が若き頃漢城監獄で書いた『独立精神』を通して知るようになりました。それによると、青年李承晩が生きた時代は満天下に嘘が飛び交う世の中でした。王が臣下を騙し、臣下が王を騙し、甚だしくは親子の話の中にも嘘があると李承晩は嘆きました。この国がどうしてこんなに滅茶苦茶になってしまったのか。嘘をつく風俗のためだ。
高宗がロシアに密使を派遣し、ロシアと密約を結ぶことを推進しました。その事実がバレて、清が強く圧迫してくると、高宗は頼んでもいないことをしたと、自分が派遣した密使を処罰しました。流刑に処しました。するとロシアが自分たちが交渉した外交官をなぜ処罰したのかと抗議するので、高宗は黙ってしまいます。これが王と臣下間の出来事でした。仕事をさせておいて困ると臣下の背を打つような王であり、王がそうであることを知っていたので、臣下達はあらかじめ彼に対する保身策を講じました。嘘をつくことを何とも思わず平気でいれる人間が王であるとは、とユンチホが自分の日記に書きました。

私は李承晩が亡国の原因に指摘するほど、そんなに嘘が深刻だとは知りませんでした。李承晩によれば、嘘のため外交が成立しないと言いました。朝鮮に行くよう命を受けた外交官は額に皺をよせ、朝鮮赴任を嫌がったと言いますが、それはあまりにも嘘が横行し、外交ができないからだと言いました。私は今日再び、李承晩の絶望と絶叫を聞いています。この国がまた19世紀末の朝鮮王朝時代に戻ってしまいました。皆が共感しているように嘘は韓国政治のお馴染みの文化になりました。むしろ最も強力な政治手法となりました。

私は2年前にあった朴槿恵大統領弾劾事件も、嘘の政治と裁判が作り出した一大悲劇だと考えています。その事件を契機に韓国の自由民主主義はもはや破局の臨界点を通過したと言わなければならないかも知れません。韓国の最高裁はその禍を堪えかねない、とてつもない暴挙の判決を下しました。大統領を弾劾した憲法裁判所は勿論のこと、去る10月末にあった日本を相手にした歴史の挑戦である韓国最高裁の判決を意味します。原告たちはやったとばかりに、韓国駐在日本製鉄の資産の差し押さえを申請しました。この愚かな韓国政府が新日本製鉄の資産を差し押さえれば、日本政府は韓国の製品に対する関税を引き上げたり、輸出禁止の製品を指定したり、韓国人のビザ発給を制約する処置を施行するだろうという報道が聞こえてきます。韓国の言論はじっと黙っています。偽善の沈黙です。そのようなことがないことを願いますが、もしそのようなことが起きたら韓国の経済は破局を迎えます。今日の韓国経済が韓国人だけの成就だと思った大きな誤算です。どうかそのような錯覚から1日も早く脱け出すよう願います。20年前の外換危機ですでに充分に経験したではないでしょうか。アメリカ、日本を含んだ世界自由市場の一部として存在するのが韓国経済の再生産過程です。韓国経済の対外依存度は輸出入貿易が国民経済との比較で、70〜80%に達する、世界的に高度の開放経済です。この高度の開放経済は、韓国がそれだけ有利な地経学的環境にあったため可能でした。最高の技術力の工業国家日本が横にあったこと、アメリカの巨大な市場が大きく開いていて、韓国の製品を受け入れてくれたこと、続いて東南アジアを始め新興市場が開かれた事実、このような環境、世界経済の構造物の中で韓国経済が存在するのです。この世界経済構造を意図的に破壊してみなさい。どんな結果を招くでしょうか。私は韓国の反日種族主義がそのような災いを招いていると考えます。意図しているのかも知れません。大混乱の時代が到来しています。韓国の裁判所の没知覚的判決と韓国政府の愚かな選択が日本政府と社会の報復を呼び、それが再び韓国民衆の反日種族主義感情に火をつけるとしたら、この国は民衆革命の道に入っていくことでしょう。破局の道です。この点を目覚めていただくため、危機韓国の根源、反日種族主義というシリーズ講義を今まで進行してきました。しかしながら、この講義が自由を愛する市民の皆様が共有し、伝播する声となって息長く残ることを望みます。今日のこの講義がシリーズ講義の事実上最後になります。今日の講義はここで終わります。ありがとうございます。

李承晩TV「韓日関係が破綻するまで」ー 朱益鐘氏(李承晩学堂 教師)

(日本語翻訳: 林寿泉)

「日本軍慰安婦の真実」の15回目の時間です。先日の2回の放送に渡って、日本軍慰安婦問題の「発生」と「展開」について見てみました。今日は整理するという意味で、慰安婦問題を「解決難望」の域まで、大きくしてきた「挺対協(現在その名前を変えて『正義記憶連帯(チョンイヨン)』」の主張は果たしてどれ程の根拠があるかを見ていきたいと思います。「挺対協」は慰安婦を「国家公権力が暴力をもって強制した性奴隷」と定義しています。2つの側面がありますが、まず、動員方式です。婦女子を強制連行したというのがそれであります。次は、慰安所での生活ですが、慰安所に監禁されて、慰安婦の生活、即ち性的慰安を提供しなければならない、慰安婦生活を強いられたというのが他の側面です。これら2つの側面で、慰安婦を性奴隷と見ているのです。
以前の講義でご覧になった写真ですが、「帰郷」という映画の一場面です。日本軍の兵士たちが一人の若い少女を強制的に連れていく、そのような様子です。今ご覧の絵は、今度「反日種族主義」という本を出版しますが、私たちがある方に頼んで描いてもらった絵です。村にある井戸に水を汲むために行ったのが、そこで日本憲兵に捕らえられて、慰安婦として連れていかれたという話がありますが、それをイメージ化したものです。今の二枚の写真と絵が、我々韓国人達が思う、日本軍慰安婦になる一般的な経路と言えます。
しかし、実際は、日本政府や日本軍が徴兵または徴用のように強制的に連れて行ったのではありませんでした。
日本軍と日本政府は、確かに、その動員過程に関与しましたが、それは日本軍が慰安所業者を選定し、その業者から委任を受けた募集業者が、朝鮮の婦女子を連れて日本軍駐屯地まで、例えば中国や東南アジアの駐屯地まで旅行する過程において、日本の官憲が例えば旅行証明書の発行などの便宜を提供するような、あくまでもその程度であって、日本の公権力が強制的に特定の婦女子を慰安婦として強制連行したのではありません。慰安婦の証言録を検討すると、極貧家庭の娘が良い仕事があるという言葉に唆されて、募集業者について行ったり、同様の理由で親が前借金を受け取って、娘を募集業者に渡したり、あるいは、極貧家庭の娘が親戚の家や他人の家に送られ、預婦や女中として生活した後、そこから、募集業者に渡されたり、などの場合が殆どです。
今ご覧の画面は、挺対協の研究チームが元慰安婦をインタビューして発刊した本です。「強制連行された朝鮮人軍慰安婦達」シリーズです。全部で5巻ありますが、私がその中で1〜4巻を読んで整理してみました。左から1、2、3、4巻です。このシリーズは1993年から2001年に渡って発刊されました。1巻から4巻までには、総54人のインタビュー内容が載っていますが、その中で、就業勧誘や家族など、身内の人身売買によって慰安婦になったと答えた人が54人中36人です。2/3です。それに対し、誘拐、拉致などの暴力により、慰安婦になったと答えたのは18人で、1/3です。つまり、就業勧誘や人身売買によって慰安婦になったと陳述したのがほとんどです。
さらに、画面の表でわかるように、1990年代の後半のインタビューであればあるほど、この表だと、下になればなるほど、誘拐、略取、拉致のために慰安婦になったという答えの比率が高くなります。これは何を意味するのでしょうか?1990年代になればなるほど慰安婦運動が激しさを増しますが、このように、慰安婦運動が展開されればされるほど、応答者である元慰安婦が質問者の挺対協側の研究者が期待する方向、質問者が希望する方向に、すなわち「強制連行された」と答えた比率が高くなったということです。このような結果を見ると、実際に、誘拐、略取、拉致で慰安婦になった女性たちの比重は、この集計上の1/3の数値よりも低かったと推測できます。
植民地時代を研究する人達は、大体知っていることですが、解放前の朝鮮では、女性に対する人身売買が横行しました。貧しさのため、自分の娘を売り出したり、夫が妻を売り出したりしました。しかし、それは犯罪ではありませんでした。また、そのように売り出されたら、ついていくのが当時の実情でした。勿論、慰安婦の募集過程で拉致、暴力があまりなかったとは言え、該当の婦女子が自ら進んで慰安婦になったと言うのではありません。世の中で慰安婦になりたいと思う人はいないでしょう。
極貧家庭の娘が前借金を受け取った親や身内などの決定に従って仕方なく、宿命と思って募集業者についていくか、または、家庭からも離れさせられた、一人ぽっちになった、婦女子たちが行くところがなくて募集業者について行ったケースが殆どです。彼女たちは、慰安所に到着して、慰安婦生活をしなければならないことが分かりますが、その時は、もう取り返しがつかず、抵抗もできませんでした。そのため、業者があえて暴力を使わなくても慰安婦を募集できたのです。

このように、今ご説明しましたように、慰安婦募集過程の実情が明らかになりました。明らかになると、もう、挺対協の関係者達も強制連行云々を言えなくなりました。彼らは、もう、動員の強制性を主張しない代わりに、「どのように動員されようが、結局、慰安婦が日本軍慰安所制度の被害者である事実は変わらない」と言っています。つまり、慰安婦が慰安所に監禁されたまま、軍人たちに性的慰安を強いられたため、性奴隷である、と見るのです。しかし、果たして慰安婦が慰安所に監禁されて監禁されて軍人たちに性的慰安を強いられたからと言って、これを性奴隷と見るべきでしょうか。先ほど見てみました、「強制連行された朝鮮人軍慰安婦達」によると、彼女達は、外出の自由もなく監禁され、報酬を貰ったこともなく、業主や軍人達から酷い暴行を受けていたという話が出続きます。そして、多くの元慰安婦が1945年の8月の日本の降伏により、やっと慰安婦生活を清算して帰ることができたとも証言しました。1996年、国連人権委員会の特別報告官は、このような証言を集めて日本軍慰安婦を性奴隷という報告書を出し、この性奴隷説が広められました。

この報告書で「奴隷」とは、米国の綿花農場の黒人奴隷のように、ある所有権に基づいて一人の人間を全面的に支配するという、伝統的な意味の奴隷ではありません。ここで、軍隊の性奴隷という用語は、戦時、日本軍慰安婦が「売春を強要され、性的に隷属され、虐待された」という意味です。性奴隷制をそのように定義すれば、日本軍慰安婦は、それに該当すると見ることもできます。なぜなら、彼女たちが、ある期間中は、慰安所に縛られて、解放できず、そこで性的慰安を与えなければならなかったからです。しかし、少し前に、ご説明しましたような、当事者の証言だけで慰安所の実情を断定するのは、まだ早いです。人間の記憶は、不正確で歪曲されやすく、またインタビューの時に質問者の意図するところに気付き、その意図に合わせて答えたりするからです。証言の事実如何は、他の資料をもって検証しなければなりません。

この「慰安婦問題の真実」のシリーズの以前の講義中、李栄薫先生のお話で紹介されたことがありますが、シンガポールで、慰安所の管理人を務めた朴治根という人物の日記があります。契約が終わって、慰安婦が帰国したことが書き残されていました。ご覧の画面に、日記の内容中の二ヶ所をお見せしています。上のところは、1944年3月14日付けの日記ですが、慰安所に勤務する人の西原君が、「慰安婦の松本鐘玉(チョンオク)と郭◯順という2人を連れて特別市庁旅行証明係に行って、帰国旅行証明手続きをした」、となっています。松本鐘玉(チョンオク)というのは、韓国式名前なので、2人とも朝鮮の女性たちということがわかります。そして、4月11日付の日記を見ますと、「特別市支部に行って金川光玉(クアンオク)と島田漢玉(ハンオク)の2人に対する内地帰還旅行証明書を受け取ってきた」、となっています。やはり、姓は日本式ですが、光玉(クアンオク)、漢玉(ハンオク)のように2人とも朝鮮人の慰安婦であることが分かります。この2人に対する内地旅行証明書を受け取ってきた、となっているのです。このように、1944年の日記の中で、離れた慰安婦を調べると、慰安所にいた20人程度の慰安婦中15人が、1年の間に3/4が離れましたが、慰安所の経営悪化のためではありませんでした。慰安所は、このように、慰安婦が頻繁に離れ、また欠員ができたら新しく埋められるような、非常に流動性の高いところでした。つまり、契約期間が満了したり、慰安婦が目標にしていた金額を稼げたり、或いは前借金の債務を清算したら、朝鮮に帰るか、または他の慰安所に移るかのようなことが頻繁にありました。この日記は、毎日記録されたものなので、約半世紀後に行われた証言より、もっと正確な情報が含まれていると私は思います。

また、挺対協の研究者のインタビューに応じた、多くの元慰安婦達が報酬を貰っていないと答えましたが、シンガポール慰安所の管理人は、よく慰安婦達に頼まれて、日本の銀行を通じて慰安婦達のお金を本国に送金しました。ビルマに行った慰安婦の文玉珠氏も1943年8月から郵便貯金をはじめて、1945年9月29日まで、途中で自分のお母様に5000圓を送金しても26551圓を貯金しました。文玉珠氏は、ビルマのラングーンでの最初の7〜8ヶ月間は、軍人たちからたっぷりチップをもらい、1日に普通30〜40圓、日曜日には70〜80圓を稼いだと証言しました。勿論、慰安婦は、慰安所にいるとき、軍から厳しく統制されました。慰安所が軍専用施設の場合が多く、駐屯地の民間人は出入りが禁止され、慰安婦の外出も厳格に統制されました。特に、東南アジアなど日本の新占領地では、安全問題もあるので、さらにそうでした。また、慰安婦は軍や業主、管理人から暴言、暴行を受けることもありました。全般的に人権意識が低く、また慰安婦達が孤立無援の状態にいたからです。このような諸事実を総合してみると、慰安婦たちは、米国の綿花畑の黒人奴隷のような、慰安所に監禁されて、離れることができなかった奴隷ではありませんでした。

最初は債務に縛られていましたが、前借金を償還したら、朝鮮に帰るか、他のところに移ることができたという点で、慰安婦は「性奴隷」というよりは、「性労働者」とみるのが正しいです。それでも、債務に縛られていた間は、望まない性的義務を提供しなければならないから、日本軍慰安婦制を性奴隷制と言うなら、植民地朝鮮の公娼制も性奴隷制と言うべきですし、また、解放後の韓国軍慰安婦と米軍慰安婦、民間慰安婦も、皆、性奴隷と呼ばなければなりません。李栄薫先生もお話しされましたが、今からそんなに遠くない2003年、群山市の私娼街で売春婦達が、監禁されていましたが、火災により、12人が焼死した事件もありました。従って、日本軍慰安婦だけ切り離して、性奴隷と批判できる根拠がありません。

振り返ってみると、貧困が蔓延し、人権認識が薄弱したところでは、どこでもこのような「性奴隷」が蔓延していました。問題は、日本のような一国の政府が、その軍隊が、慰安婦を戦争遂行機構の一部として活用したところにあります。一国の軍が前線で慰安所を作って、軍人たちがそこの慰安婦を対象に性欲を解消するようにしたこと自体が、今の基準から見ると、あってはならないことです。今は、誰が見ても野蛮的な制度というでしょう。挺対協は、この弱い継ぎ目を攻撃して、それが国内外からの怒りを買ったのです。そのため、日本政府も謝罪をしなければなりませんでした。しかし、それは20世紀末の基準を20世紀前半に投射した結果なだけです。今は交戦中に一方の軍隊が占領地の女性を強姦することが犯罪です。しかし、第二次世界大戦でドイツが敗戦した時、ドイツに攻め入ったソ連軍だけによって、最少50万人から最大100万人のドイツ女性が強姦されました。ベルリンだけで、11万人の女性が強姦されたそうです。それでもこの集団強姦は、当時は、何の問題にもならず、その後でも冷戦などの複雑な理由のため、そのまま埋もれました。世界大戦を起こして、ユダヤ人を虐殺した国がドイツだから、仕方ないと言ってはいけません。ドイツが戦争を起こしたとしても、ドイツ女性が強姦されて良い理由などないのです。ドイツ降伏の直後、ドイツ女性に対する連合軍側の集団強姦が当時に問題にならなかったように、日本軍慰安所も当時は問題でなかったのです。また、解放後でも問題ではありませんでした。それがm20世紀末から新しく問題になったのです。それは20世紀末の基準を20世紀前半に投射した結果から生じた問題ということです。事情がこうでも、日本政府が土下座するまで諦めないというような、挺対協のような姿勢は、実に問題が多く、危険な感じまでします。日本政府は、何回も謝罪をし、また慰労金を支給して問題を解決しようと努力しました。その謝罪は一々列挙する必要もない程です。また、過去「女性のためのアジア平和国民基金」の場合、計画上は、民間で募金したお金で慰労金を支給するとしましたが、実際には、政府資金で支給したものでした。さらに、2015年の韓日慰安婦合意のときは、明らかに日本政府の予算で慰労金を支給しました。日本政府自ら、自身の責任を認めたのです。それでも挺対協は、日本政府の謝罪は本当の謝罪ではないと言い、日本に「戦争犯罪を認め、公式謝罪をし、法的賠償をし、戦犯者を処罰し、日本の歴史教科書に記録して、追悼碑と資料館を建てろ」と言っています。日本側が到底受け入れられない要求です。日本軍が慰安所を設置し、その運営及び慰安婦動員に関与したことに対して、日本政府に責任はありますが、それは挺対協が主張するような責任ではありません。しかも韓国は、1965年に韓日国交正常化をするとき、「今後、韓日両国とその国民は、どの請求権主張もすることはできない」と日本と合意して、条約に明文化したこともあります。この条項は、将来に個人請求権が提起されることを予想して作成したものということができます。勿論、この条項にも関わらず、個人請求権は消滅しないという主張も法学会ではあります。しかし、例え、国家間条約によってこのような個人請求権が消滅されないにしても、両国政府が請求権条約を締結し、それを両国の国会が批准して数十年間に渡って守ってきたなら、その個人請求権は、自国政府を相手に行われるのが妥当です。韓国政府は、日本政府から請求権資金をもらい、国内個人に対する補償、支給は自らするという立場を堅持してきたからです。戦争で勝敗を決めない限り、外交問題において相手に100%完勝しようとしたり、相手を土下座させることはできません。THAAD(高高度迎撃ミサイル)の配置問題で、中国が我々に報復したときがその態度でした。しかし、国際社会では、そういうのが標準ではありません。しかし、挺対協は、事実上日本が受け入れられない要求で日本を土下座させようとしてきました。2015年の朴槿恵ー安倍合意は、過去より進一歩したものだったのに、また、それも蹴ってしまいました。文在寅政権は、彼らと同様の立場です。真面目に慰安婦問題を解決しようとするより、この問題を利用して韓日関係を破綻させるのが、彼らの本当の意図というのが明らかになってきました。この問題を利用して韓日関係を破綻させるのが、彼らの本当の意図というのが明らかになってきました。慰安婦問題がこのように漂流しているにも関わらず、2015年の朴槿恵ー安倍合意を、曖昧に事実上破棄しておいて、その解決のため何の措置もとっていないのが、現在の韓国政府です。このように、韓日関係を破綻させることで、韓米日の三角協力体制を崩したいというのが彼らの本当の意図と思われます。我々の、多くの過去外交問題の中で、これほど噛みつき続けた問題はありましたか?朝鮮戦争を起こした北朝鮮に対して、戦争責任を追求したことがありますか?中国のTHAAD報復に対して一言でも言えましたか?完全にバランスが崩れています。本当に元慰安婦達が経験した苦痛と悲しみに共感して、彼女達を慰めたいなら、日本を攻撃するより、まず、1990年までの我々の45年間を、その以降までも含めた解放70余年を反省すべきです。娘を売り出したのも、貧しい家の少女を騙して慰安婦に売り渡したのも、またその少女達かが帰られないようにしたのも、帰ってきたとしても社会的賤視の中で、息を殺して生きていくしかないようにしたのも、我々韓国人ではありませんか?50年近く、あまりにも無関心だったのではないでしょうか?50年過ぎて新たな記憶を作り出しては、日本を攻撃し続けて、結局韓日関係を破綻直前にまで持って行ったこと、まさにこれが1990年以降の挺対協の慰安婦運動史です。もう、これいじょう、そのようなことを続けてはいけません。もう、韓国人自ら慰安婦問題の終結を宣言しなければなりません。本講義は、ここまでにします。ありがとうございます。

【共同通信 令和2年7月2日】
《日本支配に肯定的な執筆陣告訴へ 韓国、徴用工や慰安婦遺族》
韓国人グループが執筆し日本の植民地支配を肯定的に取り上げた書籍「反日種族主義」は歴史を歪曲しており、苦痛を受けたとして、韓国の元徴用工や元慰安婦の遺族らが2日、名誉毀損などの容疑で、執筆陣を近く韓国検察に刑事告訴すると表明した。
韓国で昨年7月に出版された書籍は李承晩初代大統領を讃える保守派の有識者グループ「李承晩学堂」を率いる李栄薫・ソウル大元教授らが執筆。「『強制徴用』は虚構」「慰安婦を『性奴隷』とは考えない」などと記述した。韓国社会の関心を集め、今年5月には続編を出版。日本でも昨年11月に邦訳されている。

挺対協、元慰安婦の告発で浮かび上がるその目的と実態







「日本領・竹島」日露戦時の露も、竹島を日本領と記した、帝政ロシアの「大百科事典」収録の日本地図の一部、日大・笠原助教が確認
ー産経新聞2021年5月23日ー



竹島は日本領ーー動かぬ証拠、島根大学准教授舩杉力修 WILL2021年1月号

竹島を取り戻す唯一の方法は、平和的手段、すなわち竹島についての歴史的事実を内外に広報することしかありません。世界に対し積極的に発信する広報戦しかないのです。

韓国の主張@ 竹島は鬱陵島の属島であるから、竹島は韓国領であるという主張。

反論@今回発見した航空図※には、「LIANCOURT ROCK(リアンクール岩礁 竹島の西洋名)」と「ULLUNG DO(鬱陵島)」の間に国境を記す点線が引かれ、竹島側に「JAPAN」、鬱陵島側に「KOREA」と明確に記されている。このことから、鬱陵島と竹島は別の島であることが明らかである。
※上の写真。1954年に米政府が作成した航空図。竹島と鬱陵島の間に国境線が引かれている(日本国際問題研究所提供。アメリカ国立公文書館所蔵)


韓国の主張A 「サンフランシスコ平和条約」内の「朝鮮放棄条項」には、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定してある。韓国側は、条文には代表的な三島を書いているに過ぎず、竹島を含む三千もの島は書かれずとも韓国領であると主張。

反論A 航空図には明確に国境線が入っているので、属島である、とか、三千ある島を例示したに過ぎない、という主張は通らない。そもそも、朝鮮王朝時代、大韓帝国時代に竹島を占有していた証拠すらないのに、属島であることはあり得ない。


韓国の主張B 韓国の防空識別圏(ADIZ)に竹島が入っているから韓国領であると主張

反論B 発見した航空図には、防空識別圏が記されているにもかかわらず、竹島と鬱陵島の間に国境線が引かれている。そもそも国際法上、防空識別圏と国境線は別の概念で、防空識別圏は国の主権(領土・領海・領空)とは全く関係がないのが常識である。


韓国が不法占拠を続ける竹島(島根県壱岐の島町)をめぐり、同町が島内に建設を進めてきた調査研究施設が、近くオープンする。その施設に、ある写真が重要な資料として展示されることになった。
それは、産経新聞社が昭和28年12月に竹島を上空から撮影し、翌29年元旦付朝刊にスクープとして記事とともに掲載したものだ。現在、竹島には韓国が多くの施設を建設しているが、この写真にはそうした構造物が全く写っていない。
つまり、韓国による「国家主権侵害」が本格化する以前、かつて壱岐の漁民が目にした竹島の「原風景」が写っており、「戦後、守備隊が日本の侵略から島を守った」とする韓国の嘘を暴く資料としても注目されそうだ。

《不当な李ラインに憤り、空から竹島取材》
写真が撮影された28年当時はどんな時期だったのか。日本が第二次世界大戦に敗れたあと占領下でサンフランシスコ平和条約に調印したのが26年9月。翌27年1月、韓国が日本の公海上に「李承晩ライン」を一方的に引き、竹島を自国内に取り込んだ。日本は同年4月に主権を回復し、平和条約の発効で竹島が自国領と確定したが、韓国は竹島に近づく日本の巡視船を銃撃した。そんな頃だった。
写真は29年1月1日の本紙紙面(10面)を飾った。「波高き李ラインを飛ぶ」との主見出し。記事は「巡視船への銃撃、漁船の拿捕、船員の抑留・・・暗い話題を生んだ李ライン水域には、水産日本の深刻な課題が横たわっている、外交交渉による解決への期待をかけられた日韓会談もその後再開を見ぬまま、“暗い現実”を今年に持ち越して終わった」という書き出しで始まる。

《韓国軍にバリバリッと撃たれるかも!?》
記者の機上リポートである記事は続く
「今まざまざと日本の非力を感じ機上で歯ぎしりをした。そのとき『竹島が見える』と操縦席から声が飛んだ」「『あった』一握りほどの海岸の砂浜は巡視艇へくらが去る10月四度目に立てた『島根県穏地郡五箇村竹島』の標柱が、日本領土の標柱だ、三度韓国側に引き抜かれたが四度目の標柱はいま岩影に厳然と立っている、しかしこれもいつ引き抜かれるかわからない」
さらに、その後発行された週刊サンケイ、30年7月3日号では、「空翔けるニュース合戦・近代報道戦の舞台裏」とのタイトルで、記者の座談会を掲載。その中で、竹島取材を「他社を引き離したスクープだった」とした上で、「竹島飛行は一応航空機を持った新聞社は狙っていたんだ。しかし、アメリカ軍が許可しないだろうと推測したのと、また許可されてもバリバリっと撃たれやしないかとためらっていたんだ。韓国軍にね・・」と振り返っていた。

《かって久見の人たちが見ていた風景》
この写真と報道について、竹島関する調査研究や資料収集などを手掛ける壱岐の島町竹島対策室の忌部正英主幹は「まだ韓国の施設が建設されていない頃の、竹島の航空写真は壱岐に残っていない。かつて竹島周辺で漁業に携わっていた久見地区の人たちが、当時見ていたであろう島の風景だ」と評価する。
同町は、竹島問題をテーマにした調査研究施設を久見地区」に建設。条例上の名称は「竹島資料収集施設」だが、愛称は「久見竹島歴史観と言い、近くオープンする。

《韓国の偽の神話を暴く証拠に》
「この写真は、『独島義勇守備隊が日本の侵略から独島(竹島)を守った』とする韓国の”神話”を覆す証拠の一つになる」。島根県竹島問題研究顧問の藤井賢二氏はこう指摘する。
独島義勇守備隊は、傷痍軍人ら33人の民間人で構成され、1953(昭和28年)年4月に上陸して常駐。56年12月に警察に引き継いで解散するまで、日本の巡視船の接近を阻止するなど独島守護のため活動した。韓国では広く伝わる、このような”神話”がある。
だが、「この写真を見る限り、島は無人で、誰かが常駐しているという形跡もない。昭和52年に日本のマスコミの飛行機が竹島上空を飛んで取材した際は韓国政府は抗議したが、この写真の時は抗議などなかった」と藤井氏。
韓国には、日本からの独立戦争に勝って建国したわけではないというもどかしさ、悔しさがある。その埋め合わせとなるものの一つが、「独島義勇守備隊が日本の侵略を打ち破って独島を守った」という”神話”。しかし、「それが偽りであることを、この写真が示している」と指摘する。

《昭和27年、日本は本当に独立したのか》
実際、昭和28年段階では日本側も、島根県と海上保安庁が共同で竹島に上陸し、不法入国していた韓国人を事情聴取したり、本紙記事でも触れていたように「島根県穏地郡五箇村竹島」の標柱を立てたりしており、韓国側の支配は確固としたものではなかったようだ。
また同年6月には、時化で母船が来ず食料がなくなり困っていた韓国人の不法入国者らに対して、隠岐高校の水産練習船の乗員が米を与えていた記録もある。
それにもかかわらず、韓国国会は政府に対し、独島に日本官憲が不法侵入した事実について日本に厳重抗議するよう求める建議文を採択。同年7月には、韓国官憲が日本の巡視船に竹島から発砲した。
一方の日本は、竹島に不法入国した韓国人に対し、退去勧告に止めるなど実力での排除を避ける姿勢を続けた。
藤井氏は「当時、やりようによっては、日本が竹島の実効支配を維持できていたかもしれない。竹島問題は、米国の庇護のもとで対外摩擦を避けてきた戦後日本の象徴だ」と問題提起する。サンフランシスコ平和条約が発効した昭和27年、日本は本当に独立したのかと。この写真はそんな疑問をも投げかけている。



米「竹島は日本領」1950年の豪文書、政府確認
ー産経新聞 令和元年9月11日ー

内閣官房は10日、終戦から5年後の1950年に、米国政府が島根県・竹島を日本領と認識しているとの見解をオーストラリア政府に伝えた内容が記載されたオーストラリア側の文書が見つかったと発表した。同じやりとりに関する米側の文書は既に公開されている。米豪双方から米国の認識が確認されたことで、日本の立場がより補強された形だ。
宮腰光寛領土問題担当相は10日の記者会見で「従来のわが国の主張を改めて裏付けるものだ」と強調した。
資料は、米政府がサンフランシスコ講和条約の起草段階で、日本の領域に関するオーストラリア政府の質問に答えた文書。竹島について「古くから日本と認識されており、日本によって保持されると考えられる」との見解を示した。
今回見つかった文書を含め、竹島と沖縄県・尖閣諸島が日本の領土である根拠として資料計14点を紹介する報告書を作成し、内閣官房領土・主権対策企画調整室のホームページで公開した。

【令和2年1月23日の産経新聞】より。
韓国による不法占拠が続く竹島が日本領として記載された19世紀のドイツ製日本地図を、島根大学の舩杉力修・准教授が確認した。同様の地図はイギリスで確認されているが、ドイツ製のものは初めて。1905年(明治38年)に島根県の編入される前から竹島が国際的に日本領と認識されていたことを改めて示す貴重な資料という。地図は独政府から委託を受けて調査のために1873〜75年に来日した地理学者、J・ライン博士(1835〜1918年)が日本の産業についてまとめた記録本(1881年発行)の付録資料として収録。1880年製作と表記された「日本地図」で、竹島は「ホーネット島」(竹島の英語名)として日本海上に日本領として描かれていた。
舩杉准教授が東京都内の古書店で発見。調査の結果、日本の国会図書館にもこの地図の1903年の改訂版が保存されていることも分かった。改訂版では、竹島の地形がより正確に描かれていた。
日本では古くから竹島の存在を認識しており、江戸時代には幕府公認で漁業を営むなどの経済活動も実施。1905年1月の閣議決定で、竹島を島根県に編入した。舩杉准教授によると、韓国側は自国に不利な地図は意図的に排除しているといい、「竹島が国際的にどう認識されていたかを示す重要な資料だ」と話している。


産経新聞主張「竹島侵略したのは韓国だ」ー 2019.8.30 ー

韓国の文在寅大統領が、同国が不法占拠している竹島(島根県隠岐の島町)について、「日本の帝国主義による侵略によって最初に犠牲になった」と述べ、日本が「自身の領土だと根拠のない主張」をしていると批判した。
さすが、日韓関係を最悪の状態に追い込んだ張本人だけはある。とんでもない妄言だ。発言をそっくりそのまま文氏にお返ししたい。竹島を侵略して「自身の領土だと根拠のない主張」をしているのは、韓国の方である。
真実を知らないようだからお教えしよう。
竹島は歴史的に一貫して日本のもので、韓国の主張に根拠はない。遅くとも17世紀初頭から、日本人は漁業の中継地などに利用してきた。証拠となる過去の文書や地図は多い。明治38年に竹島を島根県の行政区画に編入した当時、どの国からも抗議はなかった。国際社会も日本領と認めていた。
先の大戦後、日本が連合国に占領されていた時期に、韓国が竹島の領有権を主張したが、米政府は昭和26年8月、ラスク国務次官補の書簡で竹島は日本領との認識を韓国に伝えている。同年9月調印のサンフランシスコ平和条約も竹島放棄など認めていない。
ところが韓国の李承晩政権は27年1月、沿岸水域の主張を唱えようと日本海に「李承晩ライン」を一方的に設定し、竹島をその中に含め日本の漁船を拿捕するようになった。同条約発効(27年4月)により日本が主権を回復する直前の仕業である。
島根県や海上保安庁が28年6月に上陸して領土標識を建て、たむろしていた韓国漁民を退去させた。だが、翌月には竹島に上陸してきた韓国側の官憲が海保の巡視船を銃撃する事件が起きた。29年8月には、巡視船が約200発もの銃弾を浴びた。
北方領土の占拠はスターリンによる国家犯罪だが、竹島占拠は李承晩によるそれである。韓国は、軍が訓練した武装警察部隊を置き、軍事演習も重ねている。
25、26日の韓国軍の竹島演習について、米国務省が「生産的ではない」と不快感をあらわにしたのはもっともだ。
文大統領は被害者意識が強いばかりに自国が加害者である点がわからないようだ。史実に学び、竹島を日本に返還すべきである。

【令和2年5月14日 日本経済新聞】
《韓国 元慰安婦団体に疑惑 寄付金を不明朗処理か 》
韓国で元従軍慰安婦を支援する市民団体の疑惑が波紋を広げている。元慰安婦の女性が組織の内情を批判したのを受け、保守系メディアが団体の不明朗な会計問題を相次ぎ報じた。
ソウルの日本大使館前では13日、慰安婦を象徴する少女像の横で集会が開かれ、参加者が「日本政府は謝罪、賠償せよ」と声をあげた。市民団体の日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連隊が主催するデモ集会で、1992年から毎週水曜日に開かれている。
元慰安婦の李容洙さんが7日、この団体を批判。会見で「集会は学生に憎悪と傷だけを教えている。韓日の若者は行き来し仲良くしなくては」と話し、今後は集会に出ないと宣言した。
日本政府への抗議活動をしてきた李さんが団体批判に転じたのは、先の総選挙で与党から当選した尹美香前代表との確執があるようだ。尹氏は娘を米国の大学に留学させており、韓国メディアは団体が寄付金を不明朗に処理した問題との関係を報じている。
慰安婦問題が聖域として扱われる韓国で、活動家や市民団体が政治に与える影響力は大きい。


【令和2年5月12日 (火) 産経新聞】
《「反日種族主義」続編発刊し会見 著者「批判に反論」》

日韓で昨年、ベストセラーとなった「反日種族主義」に続く新著「反日種族主義との闘争」が今月、韓国で発刊され、著者で李承晩学堂校長の李栄薫元ソウル大教授や共同著者の学者らが11日、ソウル市内で記者会見した。
前作では韓国での反日の歴史認識を問題視し、「事実に基づかない反日敵対意識と感情が韓国の危機をもたらした」などと分析。この主張への同調は多いが、韓国では逆に激怒し批判する者も多い。李氏らはその批判に「誠実にこたえることが研究者としての道理で、責務だ」と考え、続編発行に至った背景を説明した。
新著では「慰安婦」「戦時動員」「独島(竹島の韓国での呼称)」「とち林野収奪」「植民地近代化」の5章に分け、李氏らへの批判に対し、研究に基づき反論する形をとっている。




【令和2年5月11日(月) 産経新聞夕刊】
《竹島の絵本 世界へ発信 アシカ猟題材 英語版》
島根県の竹島で行われていたアシカ猟の様子を描いた絵本『メチのいた島』の英語版を出版する動きが進んでいる。作者の杉原由美子さん(77)=同県隠岐の島町=がインターネット上で資金を集めるクラウドファウンデイングを開始したところ、2週間で目標額(250万円)を突破した。杉原さんは「反響の大きさに驚いている。英語版を各国の大使館などに届け、海外の人にも竹島について知ってもらいたい」と意気込む。


【令和2年5月9日(土)産経新聞】
元慰安婦「反日集会は憎悪を教える」 支援団体を強く批判

韓国の元慰安婦の女性が、ソウルの日本大使館前で毎週開かれている日本政府への抗議集会と、集会を主催する慰安婦支援団体、「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)を強く批判し、波紋を広げている。
正義連を批判したのは李容洙さん(91)。韓国メディアによると李さんは7日、南東部の大邱で記者会見し、日本大使館前での集会について「学生たちが尊いお金と時間を使っているのに、集会は憎悪を教えている」「学生たちに良い影響を与えず、集会はなくすべきだ」と語った。さらに、「集会への参加学生からの募金はどこに使われるか分からない」と批判し、今後、集会に参加しない意思も示した。
また、李さんは、正義連の前理事長で4月の総選挙で初当選した尹美香氏(55)が「李さんから支持されている」と韓国メディアに語ったことを「全部デタラメだ」と否定。「尹氏が国会議員になってはならない」「募金・基金は慰安婦被害者のために使うべきだが、そのように使ったことがない」などと非難した。
李さんは米国でも慰安婦問題をめぐり日本批判を繰り返したことや、2017年11月にトランプ米大統領が訪韓した際に、韓国大統領府での晩餐会でトランプ氏に抱きついたことなどで知られる。
李さんは15年にも韓国誌とのインタビューで、正義連の全身である「韓国挺身隊問題対策協議会」について「当事者(元慰安婦)の意見も聞かず、日本との協議を拒否している」「抗議を毎週やれば性格も態度も悪くなる。挺身隊問題対策協議会の人たちは闘争家の側にいるようだ」と批判したことがある。また、当時語った「挺対協は本人に確認もせず、事実と異なる証言集を出した」との批判を今回も繰り返し強調した。
李さんから批判された尹氏はネットで「李さんの記憶が以前とは変わった」などと主張している。慰安婦問題で反日活動を続けてきた尹氏に対し、保守派を中心に「元慰安婦を利用してきた」との批判は根強い。元慰安婦からの直々の批判により、尹氏の疑惑はくすぶり続けそうだ。


日韓弁護士による共同声明【1965年日韓請求権協定の尊重を求める日韓法律家共同声明】(2019・12・23)
ーー月刊誌『正論』2020年3月号、西岡力氏の投稿よりーー

我々は、1965年日韓請求権協定の尊重を通じた国際的友好関係の再構築を求める。1965年日韓請求権協定は、日韓両国はもちろん、両国国民が、政治・安全保障・経済・文化の各側面で相互協力と友好関係を確かにすることができた基礎となってきた。
しかるに韓国大法院は、2018年10月30日の大法廷判決において、第二次世界大戦中における旧日本製鉄の韓国人労働者が新日本製鉄住金(現・日本製鉄株式会社)を被告として提起した訴訟で一人当たり1億ウオンの慰謝料の支払いを認める判決を宣告し、この判決に基づき新日本製鉄住金の韓国内資産に対する韓国裁判所の強制執行が開始された。これによって1965年日韓請求権協定が土台となって維持されてきた友好協力関係の基礎を揺るがす結果を招いた。この大法院判決は日韓関係に大きな亀裂を生じさせ、戦後最悪と評される日韓関係の悪化をもたらす重大な要因となった。
この現状に対し、法的 ・政治的に適切な対処を怠るならば日韓関係は決定的な破局に至る懼れがある。それは日韓両国の国民にとって深刻で重大な不幸をもたらすだろう。今や両国国民はかかる破局を回避することができるよう知恵を尽くさなければならない。
日韓両国の法律家である我々は、両国関係を真剣に憂慮し、法律家の立場から両国の政府および司法関係者が賢明な対応と措置をとることを求めて以下の通り声明する。

第1 第二次世界大戦中に韓国人 労働者らが受けたと主張する損害などに関する請求権は、1965年日韓請求権協定で国際問題としては完全かつ最終的に解決されたものであって、韓国大法院判決が容認した慰謝料請求権もこれと異なるものではない。この立場は、日本国最高裁判所平成19(2007)年4月27日判決、並びに、韓国大法院判決における権純一、趙載淵両大法官の反対意見と基本的に同じものである。我々はこの立場を国際法的に正当なものと考える。

第2 韓国大法院判決は、原告らが大日本帝国による「不法で反人道的な植民地支配」の被害者であるとし、かかる被害によって原告らが受けた苦痛に対する慰謝料請求剣は日韓請求権協定により処理された請求権には含まれないと判示した。しかし、かような歴史解釈は、アヘン戦争から第二次世界大戦まで一世紀に及ぶ期間の世界的な国際関係を含む大きな枠組みの下で、十分な客観的資料基づき、冷静で自由な批判が可能な歴史研究によって解明されるべき問題である。歴史的真実は、自由な批判が保障される中で冷静な分析によって歴史家たちが糾明しなければならない。現に、日本ではもちろん韓国の歴史学者からも、このような歴史解釈に対して有力な異論が提起されている。そして、司法府が特定の歴史解釈を下すことは、法解釈の側面においても学問研究の側面においても、決して望ましいものではない。

第3 1965年日韓請求権協定は、その締結に至るまで13年間にわたり日韓両国が多大な努力を傾けた交渉の過程を通じて締結された歴史を持つ。この国際協定は、両国及び両国国民の請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」ことを明示的に確認している。同協定は、その後における両国の友好関係と発展の基礎となった。国際条約はそれぞれの立場や期待を踏まえつつ、双方当事国が互いに譲歩する努力によって成立するものであり、同協定もそうした例に漏れるものではない。我々は、同協定の趣旨を尊重することが、将来にわたって、両国の友好関係と発展を保証する唯一の道であると確信する。

第4 日韓両国は、それぞれの国民の国内外の私有財産権を保護する国家的責務があり、このような各国の立場を互いに尊重しなければならない。韓国政府は、1965年日韓請求権協定を根底から覆す大法院判決に基づく日本企業に対する強制執行に対し、同協定を尊重する立場からこの問題の処理に直接あたらなければならない。新日本製鉄住金に対し訴訟を提起した原告らが主張する請求権は韓国の国内問題であって、韓国政府の責任の下に処理されなければならない問題である。韓国政府及び司法当局は、大局的な見地に立って本判決に基づく強制執行を停止し、1965年日韓請求権協定の精神に立ち戻った解決の道を探るべきである。日本政府は、韓国政府がかかる解決の道を見出すことができるよう、可能な限り支援を行うべきである。

我々は、日韓両国の政府及び司法関係者が、両国関係の破局を回避して真の友好関係を再構築することができるよう最大限の努力を尽くすことを求めて、日韓両国の法律家として互いに連帯し、以上の通り声明する。
令和元(2019)年12月23日

《日本側賛同者》高池勝彦、荒木田修、尾崎幸廣(元釧路地検検事正)、樫八重真、勝俣幸洋、田中禎人、田辺善彦、土居建造、中島繁樹(元福岡弁護士会副会長)、原洋司、増田次郎、松本藤一、ミツ角直正、森統一、吉川陽行、岡島実(世話人、元日弁連人権委副委員長)以上16人弁護士、西岡力(賛同知識人)

《韓国側賛同者》高永宙(賛同人代表、元ソウル南部地検検事長)、朴仁煥(元対日抗争期強制動員被害調査及国外強制動員犠牲者等支援委員会委員長)、金泰勲(韓半島人権と統一のための弁護士の会常任代表)、石東R(元釜山地検検事長)、高栄一、張栽源、鄭善美、金基洙(世話人、慰安婦像と戦時労働者像設置に反対する会共同代表)、以上弁護士8人、李宇行(賛同知識人、落星台経済研究所研究員)

ー朴仁煥弁護士の記者会見での発言について紹介がありましたので紹介します。ー

「請求権問題から慰安婦問題に拡大すればロシアのサハリン韓国人問題、長崎・広島原爆投下による朝鮮人被害など実際、多くの問題があります。それにもかかわらず2005年度に盧武鉉政府の時、1965年韓日請求権協定交渉の外交文書の公開がなされ、当時、官民合同委員会が作られ、現在の李海瓚(へチャン)民主党代表が当時、国務総理として委員長になり、文在寅大統領が青瓦台民情首席秘書官として官民合同委員会の委員を務めました。そして調査結果報告書を国民に発表しました。その内容の中に、強制動員問題が1965年請求権協定に含まれているということを、当時の盧武鉉政府の立場としてはっきり明らかにしました。もう一度申し上げると、請求権資金3億ドルの中に強制動員被害賠償問題が含まれているとしたのです。
それで、盧武鉉政府の時、大韓民国政府として強制動員被害調査及び支援委員会を作って、約10年間調査をして約6千億ウオン程度の経済的支援をしました。わが国国民たちはよく知りません。政府予算処理するとき、兆単位ではないので6千億を使ったという事実についてだれも衝撃さえ受けていないのです。とにかく、6千億ウオンという政府予算、国民の税金で死亡者に2千万ウオン、負傷者、行方不明者、慰安婦まで支援しました。
次に慰安婦問題ですが、朴槿恵政府末期に慰安婦財団を日本政府の資金で作り、慰安婦一人当たり2千万ウオン支給しました。そのとき生きていらっしゃった慰安婦の大部分が受け取りました。
今になって、当時の李海瓚国務総理が与党代表になり、当時青瓦台に勤務していた文在寅氏が政権を握って大統領になり、政府の責任者になっているのかにもかかわらず、あたかもそのようなことがなかったかのように、根本的に韓日関係を再びひっくり返そうとしていることに問題があると思います。
韓日関係の将来を見通し、再び過去に戻ることはあまりにも望ましくなく、これからの将来を見ることに重点を置いて、このように韓日弁護士声明を出したのです」。


【日本経済新聞 令和2年2月7日 夕刊】
札幌高裁富田裁判長は6日、訴えを退けた一審判決を支持し、植村氏の控訴を棄却した。

タス通信平壌特派員8年間の記録「私が見た金王朝」アレクサンドル・ジェービン(1992年8月)より。ー第三章「地上の楽園」の真実、人民班という名の隣組ー

「人民班」という名の隣組

平壌の中心部から大同江を越えて東平壌に通じる橋がかかっている。この橋のたもとの四つ角がもっとも往来の激しいところだが、そこになんの変哲もない六階建の住宅が建っている。平壌にはこれに似た建物は少なくないが、夕方になると25ワットか40ワットの薄暗い電灯に照らされ、ブラインドが降りたことのない曇った窓ガラス越しに、この建物の外壁にそって長い廊下が見える。廊下に面して10を越える扉があり、上方はガラス張りになっているが、このガラスにもカーテンは下りていない。廊下を歩きながらこのガラス窓から中をのぞけば、室内の様子が一目でわかるだろう。各階には「人民班」と呼ばれる隣組のような人民グループに編入された20家族ぐらいが住んでいる。

外交部を通じて著者が長い間申請を繰り返し、やっとのことで実現した取材の中で、平壌市人民委員会行政機関局の金ハソク部長が話してくれたことだが、この隣組が組織されるようになったのは1945年に朝鮮が解放された直後のことで、いまや外国人を除いて、この国の住民はひとり残らずこの人民班の組織に組み込まれている。「平壌新聞」によれば、北朝鮮では「社会の成員はすべて、例外なく、『権力機関の最小単位である』人民班に統合されている」。

「人民班」とその成員の権利義務は特別の文書に明文化されており、各班は都市では20ないし30世帯からなり、40ないし60班で地域(日本の町にあたる洞か)をなし、地域事務所がこれを指導している。地域事務所は地方の権力機関である人民委員会(都市では区域委員会、農村では里の委員会)の属している。

北朝鮮の新聞雑誌が始終指摘していることだが、金日成と金正日は、つねにこの人民班の活動に注目している。これによると、金日成は1945年から1983年までに「人民班の活動全般についてーー人民班長の役目から仕事の方法までーー詳細な指示」を320以上与え、自ら人民班を視察し、「指導」している。

北朝鮮の新聞雑誌がしばしば「栄光ある党中央」と呼ぶ金正日は、「人民班の正確な方向と活動の一層の改善の道を示し、模範的な人民班と地域の建設を賢明に指導された」のである。金正日はまた、「主体思想を基礎として社会を全般的に改造する課題に従い、人民班長の責任を高める具体的措置を講じた」。

平壌では人民班専従職員の全市集会が少なくとも年に一度開かれる。集会には市党委員会、人民委員会の長や市の各機関の指導者、ならびに組織の問題やプロパガンダを管掌する党中央委員会の高級職員、社会安全部の代表らが出席する。

新聞雑誌の資料によれば、人民班の活動は80年代に著しく活発化し、その課題が拡大されている。「平壌新聞」によれば、これには「平壌を主体思想が支配する確固たる革命の首都たらしめ、社会主義建設を促進する上で重要な意味がある」とされ、平壌を「典型的な社会主義の首都」に変えるために、80年代後半には市民の精神的政治的啓蒙活動にとくに力が入れられ、1989年夏の第十三回世界青年学生祭典の準備に市民が大々的に動員された。

外交部報道局に人民班の取材申請をしてからかれこれ3ヶ月も待たされ、ようやく1986年12月の朝、私は平壌の中心部、玉流橋にある高層建築の内庭に入った。そこで金ハソク氏と中区域の凱旋地域にある第36人民班の班長と名乗る小肥りの中年の婦人、尹オクチュン女史の出迎えを受けた。

二人の後をついて階段を上がり、この国の習慣に従って入り口で靴を脱ぎ、部屋に入った。主婦のすすめに応じて黄色味がかった暖かいリノリウムの床にあぐらをかいて座った。あまり広くはないが明るく快適な、10平方メートルもあるまいと思われる室内に、本棚と国産のラジオ、布巾をかぶせた小卓が数脚、窓がまちに花を活けた壷、さっぱりしたものだ。隣室には箪笥と洋式ベットの代用品みたいな低いカン(中国式オンドルの形を指すものか)が見えた。床に座っていると体がほかほかと暖かいーーほかの住宅でもみなそうだが、床下に温風のパイプを通した「温突オンドル」と呼ばれるこの国の伝統的な暖房システムが用いられているのだ。

ところで、尹女史に率いられる人民班とは如何なるグループだろうか?女史自身は長年通信部(省)に勤務し、今は年金生活の身でほとんど家にいるが、まだまだ精力的で活発な身のこなしである。金ハソク氏の説明によれば、すべてこういったことは人民班の集会で彼女が班長候補に推挙されたときに考慮済みだった。推挙はあらかじめ住民の意見を徴して地域事務所の名で行われるのが普通だそうである。一般的には人民班のメンバーで働いていない者、多くは年金生活者で一日中家にいられる者が班長に選ばれ、同時に副班長も選出される。

女史の話では、彼女の班には1階から6階まで、みんなで24世帯、約120人が編入されている。このうち15世帯が事務職員、6世帯が労働者、3世帯が年金生活者の家庭。社会的階層は世帯主の職業によって定まり、世帯主は常に男性である。班長はだれがどんな職業についているか、どの家庭がいちばん配慮を必要としているかなど、班員のすべてに通じている。たとえば保育園に通っている子供が16人、幼稚園には6人、学校には15、中等職業専門学校には1人、大学には10人。年金生活者の数もほぼ同じくらいだと教えてくれた。また班に働いていない党員が何人かいる場合は(3人以上)、党細胞が作られ、書記がこれを統率するが、隣のいくつかの班の党員を含めることもある。班員の集会が月に一度、必要に応じて何度もひらかれる。集会用の部屋というものがないのが普通で、だいたい班員の中で一番大きな住宅が選ばれる。この場合、家長が公の資格で出席し、発言することになる。
人民班は地域事務所に所属し、事務所の職員は地方 権力機関ー地区あるいは郡の人民委員会ーの正職員として給料の支払いを受けている。地域の党組織の書記も「解放された」党職員、つまり党地方委員会の専従職員である。地域事務所には職員のほかに正式の印刷物配布係がいて、班員が受・発信するすべての郵便物を受け取って班長にまわす役割を受け持っている。

当局は人民班にどんな課題を与え、人民班はこの課題をいかに遂行しているかの質問に、年長の班長として金ハソク氏が説明の労をとった。彼の言葉によると、人民班のいちばんの義務は「偉大なる首領様、金日成同志と親愛なる指導者・金正日同志の周囲に全ての班員を結束させる」ことにある。「まずなによりも、あらゆる手段・方法を用いて、敬愛すべき首領様と我が党(つまり金正日)の偉大さを宣伝し、思想的教育活動を精力的に進めねばならない。主体思想と革命的伝統に基づく教育をはじめ、階級的教育を行い、これによって班員を主体型の共産主義革命家に、偉大なる首領様と栄光ある党中央に無限に忠誠なる人間を養育する」ことにあると、人民班職員の市全体会議で指摘されたという。

人民班ではまた、金日成と金正日の著作を系統的に研究し、現段階における党の指示や政策を説明する仕事が行われている。金ハソク氏によれば、この政策は「これらの指示を具体化したもの」である。さらに人民班では、党の指示や決定を実施するために住民を動員する仕事も行われる。たとへば金日成と、前に述べたアラン・ガルシアとの談話と、金日成の講演「朝鮮労働党建設の歴史的経験」が、北朝鮮の新聞雑誌に発表された直後、人民班では、ソ連と北朝鮮両国関係の局面に関するものなど、半ば隠されたあるいは公然たる反露・反ソ攻撃に満ちた、これら文書の綿密な研究・説明が開始された。

党の政策を説明する仕事は主に学校や職場で行われているが、年金生活者に対しては住んでいるところ、つまり人民班で行われる。このために集会やせいじじょうほう、首領とその後継者の活動にゆかりのある「歴史・革命的栄光」の聖地参拝などが利用される。社会秩序維持に関する当局の指示、民間防衛訓練への参加、内外政策上の最重要な指針など、住民に対する情報は、外国人には享受できない有線ラジオ放送網を通じて、人民班のメンバーに伝達されるが、このスピーカーは個々の地域に義務的に設置されている。

人民班はまた、いわゆる「家庭の革命化」を推進するうえで重要な役割を果たしている。こういった課題はまさしく人民班の枠内で主に解決されている。金日成が指摘しているように、「われわれはまず家庭の革命化から着手し、ついで、人民班、班、職場、里(村)を革命化し、模範的単位を創造し、その経験を普及することによって、徐々に社会全体の革命化を実現し、その全成員を模範的な労働者階級に改造しなければならない」のである。公式プロパガンダが要求しているように、北朝鮮人民は、「最大の価値」は個人の「物理的」生活ではなく、「首領様と党と大衆が不可分一体」であるところの「社会・政治的有機体」 の一員として送る社会・政治的生活であることを認識しなければならない。

1987年に党のイデオロギーによってもちだされたこのような考え方は、「北朝鮮人民の運命とこの国の現指導部、正確には金日成一族の運命は不可分一体であることを人民に納得させるために積極的に利用されている」。公式プロパガンダは「母親はいなくても生きられるが、親愛なる指導者の抱擁なくしては寸時も生きられない」といった考えを毎日吹き込んでいる。公式プロパガンダが強調するところによれば、両親から与えられた肉体的な存在に比べて、もっとも価値あるのは党と首領によって与えられた「社会的・政治的存在」である。北朝鮮においては、人間の存在自体に価値があるのは、人間がこの「社会・政治的有機体」の一部である限りにおいてのみ、ということになっている。

このような公式プロパガンダの主張の本質は、人びとを、まずなによりも若者を、この国で最も重要な全人類的価値であった、年長者に対する尊敬の念や、親孝行といった伝統的価値観から「解放」し、首領とその後継者のいかなる指示をも遂行させ、親を「踏み越え」る覚悟を肝に銘じさせることにあるのだ。金日成一族の「手を離れ」たり、彼らの独裁に抗議したりすることは、全人民の生活にとって価値はないとされている。家庭の革命化の具体的な形として、月に一度、家族集会が開かれる。雑誌「今日の朝鮮」によれば、この集会では家族の一人一人が「経験を交換し、自己の成果を報告し、欠点を批判し合う」。

金ハソク氏は、人民班の2番目に重要な課題に若者の教育をあげている。若者の教育が特に重要視されるのは、「未来の革命家の養成にかかる」からである。彼によれば、「幼稚園や学校以外でも、子供は偉大なる首領様と親愛なる指導者を深く尊敬し、身を挺して護る」ために、家庭でも教育されねばならない。人民班は家庭教育と学校や社会における教育と正しく調和し補完することができるという。人民班の班長は学校とたえず接触を保ち、生徒と両親の学習の結果に関心をだかねばならない。居住地ごとに、人民班の全生徒は部隊に編入され、これを専従の先生がいればこの先生が、あるいは生徒が放課後帰宅するとすぐに子供たちのために時間をさくことのできる年金生活者が、指導することになっている。

この教育活動の主な内容は、「首領様とその後継者の偉大さ」と「重要な共産主義的道徳心」と、彼らの「人民に対する配慮」を詠った詩や歌を暗唱させることである。また女生徒のあいだでは、1949年に亡くなった金正日の母親で金日成の最初の妻だった金正淑を、婦女子の鑑とする教育が積極的に行われている。ここでは彼女の「金日成将軍に対する無限の忠誠」、金日成の生命と健康に対する彼女の心づかいを宣伝することに力が入れられている。園児や生徒のためにこの「三聖人」の革命的活動の跡をとどめた聖地をめぐる苦しい行進や、映画・テレビの鑑賞会が実施されている。要するに子供たちは学校から帰宅しても自由な時間はない。教育のほかにもさまざまな「積善運動」に動員されるからだ。当局の指示で青年団体や少年団体のこうした積善キャンペーンが全国規模で繰り広げられる。この運動では子供たちは兎の養殖やくず鉄回収、植栽の手入れといった作業にかり出される。青年新聞「労働青年」は、少年団(13歳未満のすべての子供がメンバーとされている)の「かわいいもメンバー」が食肉用の兎を何匹、皮を何枚国家納めたかを定期的に報道している。

人民班の三番目の課題は、居住地の衛生・清掃作業である。人民班は住宅などの建物の小修理や、住宅の入り口、階段室、内庭、住宅前の歩道や車道の割り当て区域、指定された市域の清掃・秩序維持を独力で行わねばならない。ある日、私が 市の役所に勤める知人にいつから仕事を始めたかとたづねてみると、朝の6時からだと答えた。私が怪訝な顔を見せるとこの役人は、その日は自分が住んでいる住宅前の道路を清掃する家族の当番日に当たっていたのだと説明してくれた。平壌の中心部が掃き清められていることに多くの外国人はしきりに感激するが、全ての市民が家族ぐるみ街の清掃作業に動員されているからなのだ。塀の修理や幼稚園の遊戯施設の整備、内庭の掃除、植栽作業なども人民班の手で行われる。金ハソク氏の話によれば、こういった作業には平壌の党幹部、市党委員会の書記など、幹部職員も含め、人民班の全員が参加している。

人民班の班長はまた、平壌へ出て行く市民のみんなが、「社会主義の生活様式にふさわしい」服装ー簡素で「朝鮮人らしい」ーであるように気を配っている。平壌市民がいっせいにジャンパーやオーバーを着用し始めたと思うとまた、春になるといっせいに脱いでしまうことを考えると、こういった不足品の上着を着用する期間が、人民班を通じて指定されているのかもしれない。これは生産不足のため着用期間にしか物が販売されないことにもよるのだ。

人民班はさらに老人や身体障害者の面倒も見なければならない。これによって「もっともすぐれた社会主義体制」を「恥ずかしい」仕事から解放しているわけだが、面倒をみると言っても身体の不自由な班員に代わって食料品を届けるとか、住宅のお掃除をする程度のものである。

「節約、節約、また節約!」の党スローガンは当然、人民班の仕事にも含まれる。石炭も電力も燃料も、経済のみならず市民の需要をまかなえない現在、人民班は今でも首都の住宅のほとんどの暖房に欠かせない練炭や電力、さらには水まで節約を心がけねばならないのである。そこで人民班の班長は、どこそこの家庭はなぜ遅くまで電灯をつけているのか、なぜ水道の使用がこうも多いのかと気にせざるを得ないのである。

人民班は主婦、とりわけ若い主婦が節約を心がけるように積極的に働きかけている。これはほとんどの食料品や工業製品が割り当て供給されるこの国の現状では重要なことなのだ。このためにやりくり上手な主婦の経験を宣伝するなど、いろいろな形で若い主婦に助言が与えられている。

市全体のために労力を提供するのも人民班に課せられた義務のひとつである。人民班は春の種まきや秋の収穫時には農村に人を派遣しなければならない(農村動員)。公式の統計資料では、田植えや稲刈りも百パーセント近く機械化が進んでいることになっているが、五月の下旬と九月から十月にかけてほとんどの住民が農村に出かけるのが実情なのだ。

80年代に首都の景観を大きく改善することになった公共建築物は、建設業者の労働の成果でもあるが、ガイドが強調してやまない記録的な工期の短縮は、仕事を終えた後、夜遅くまで建設現場で働いた 何万人もの市民の連日連夜の労働無くしては考えられまい。この光景は私も目撃している。実際、この国を訪れる事実上全ての外国の代表団が必ず見学することになる、東大院区域のかの有名な平壌産院(特権階級専用)など、「朝鮮労働党の時代を記念する建物群」のすべてはこうしてできあがったのである。市民が建設工事や環境美化作業に参加することは 金日成が打ち出した、 首都を「典型的な社会主義の都」、「政治、経済、文化のあらゆる面において全ての国の模範」たらしめる 、という課題からして、重要な意義をおびている。

この「特別な秩序」を乱したり、不幸にして障害沙汰を起こして、「社会主義的楽園」、「模範秩序」の体面を汚した者は、当局によって「地方へ追放」されることになっているが 、それも裁判所の決定によるのではなく行政措置によって行われる。

また都市の住民は空ビンやビニール袋など、再生原料の回収、都市郊外、とりわけ郡部の住民は養豚、養鶏を義務付けられている。しかも飼料は自前である。さらに国営農場や協同農場にこれらの家畜の「糞」まで提出しなければならないのだ。1981年に打ち出された「大衆運動」としての畜産振興方針によって、余暇を農作業に捧げることが義務付けられるようになった。「労働新聞」によれば、都市では近郊住民がこの作業に従事し、農村部では幹部職員も含めて、すべての住民が義務付けられ、世帯につき年に豚二頭、鶏5羽を育てねばならない。農村部であれば豚や鶏を飼っておく場所を見つけるのもさほど困難ではあるまいが、都市の近郊では鶏が逃げないようにバルコニーで飼ったり、練炭やキムチの樽など、がらくたをしまっておく小さな納屋の中に鶏の肢を紐でくくりつけておかねばならないのだ。
都市の地区や郡部では、上級機関から養豚、養鶏計画なるものがくだされるが、私が聞いたところでは、義務付けられた計画ではないらしい。地域事務所が人民班長と各班の能力を考慮し、国家に雛の私有を申請することになっている。

当局の説明だが、家庭で養育した豚や鶏の一部、あるいは全部を国家に売ったり、家族の食料に供することは許されているが、食肉の配給制度が現存していることから、鶏は別として豚は市場で売ってはならないことになっている。国家に買い上げてもらうらしいが、この場合、肉の一部はわずかながらも分けてもらえるようだ。このことから分かるように、個人の豚は国の施設でしか殺してはならないのだ。

北青郡に旅行した際に聞いた話だが、この運動の経験がとりわけ広く宣伝されたのは80年代前半である。たとえば当時の新聞が伝えているが、隣人の成功に励まされた金
チェムという男は、妻と母親、子供そのほかの家族とともに「新たな決意をもって養豚に取り組み」、1982年に年間七頭の豚を平壌の凱旋門の建設者に送った。このとき援助は一切受けずに独立で豚小屋を建てる材料を入手し、家の周りの耕作に不敵な土地に飼料のカボチャを植え、1日も休まずに働いたという。
「道具がないので素手で養豚に着手し大量の豚肉を生産した。このことは、この運動を展開した党の方針が正しかったことを物語っている」と「労働新聞」は書いていた。大規模建設工事現場でも養豚運動が進められている。水力発電所の建設現場を取材した時、小さな一区画に木柵をめぐらし汚物を除去する設備など全くない、建設現場の窪地を囲っただけの粗末な豚小屋を見たことがある。

人民班はまた民生品の生産を増やすために、働いていない家庭の一員からなる在宅勤務班を編成する仕事にも取り組んでいる。このような班は1978年に金日成が出した指令に基づいてつくられるようになったもので、平壌の軽工業総局の洪デホン副局長から直接聞いたところによると、「偉大なる首領様は、平壌には働いていない母親が多すぎると見ている」。金日成が自著のなかで書いているが、このような現象は当局にとって危険なのだ。というのは、「子供は母親の影響下にあるのはもとより、夫もなにほどかは妻の影響を受けざるを得ない以上、家庭の主婦として女性が家族全員に及ぼすイデオロギー的影響には極めて大きなものがあるから」である。「頭の古い女が家庭でぶらぶらしていれば、食料が足りないの、衣服が粗末だのと不平を鳴らし、欲しいものをねだって夫を困らすようになる。夫は当然、妻のわがままをなんとかしてかなえようと頭を悩まし始め、しだいに物欲が高じるようになる。革命化されていない、古いイデオロギーから脱しきれない女は、自分自身に対してのみならず、夫や子供にとっても有害だからである」。そこで金日成は、女性を「革命化」するためには、「1日8時間とは言わぬまでもせめて6時間は家庭で仕事をさせる」ことに決めたのだ。なによりも首領の銅像や「朝鮮労働党時代の記念物」の建設には精を出しても、大衆必需品の生産にまでは手のまわらない「主体型の」経済ではなおさらのことである。もっとも洪副局長によれば、このような班に参加するかどうかは本人の気持ちしだいだそうだが、首領の「遠大な計画」の遂行につとめるすべての女性は、この呼びかけに熱烈に応じているということだ。国家は家庭にミシンのある在宅勤務者の班に布地を提供し、ミシンのない班は造花やブラシづくり、編み物など、こまごました日用品の製作に従事している。製品の質は国営企業所の製品よりも優れているものが多い。

人民班はさらに、班の全成員に「革命的規律と秩序」を守らせることを要求されている。この課題は洪副局長によれば人民班の最後の課題だそうだが 、他の証言によれば、人民班の活動の中で決してどん尻に位置するものではない。洪副局長によれば、この仕事には子供が内庭や往来で事故を起こさないように気をつけたり、「おとなも子供も」服装や行動が「社会主義的生活」にふさわしいものであるように監督する仕事が含まれている。

金ハソク氏が強調していることだが、「国土の分裂とアメリカ及び南朝鮮の傀儡政権の陰謀」から必要が生じた一定の保安措置も、人民班の仕事に含まれている。たとえば、班員が私用で長期にわたり都市へ出かけたり、ほかの集落へ出かける場合はなおさらだが、人民班の班長あるいは副班長にその旨を通知することになっている。金ハソク氏はこの点について文書化された指示は存在しないと強調しているが、ほかの都市から肉親が訪ねてきたり、来客があった場合も同様である。公式の祝賀行事、とりわけ外国人が出席する行事には人民班が総出で参加する。5月1日のメーデーには毎年、市民の行楽が催されるが、著者も 幾度か綾羅島や大城山 を訪ね、若草にじかに腰をおろして質素な弁当を開いている行楽の一団をのぞいてみたが、どの団体も人民班のグループだった。

さて人民班の犯罪防止活動だが、金ハソク氏によれば、軽微な犯罪、過失程度のものは人民班の集会で裁かれ、れっきとした犯罪の場合はただちに地域事務所に報告する。犯罪の中で最も多いのは窃盗だそうである。
人民班の班長はこのほか商品を分配する役目を担っている。四半期に一度、地域事務所から支給される米の配給切符を班員に分配したり、肉や植物油の切符も配る。

最後に尹班長女史に役職手当について尋ねてみると、彼女は「人民班の班長として、月に30ウオンの手当てをもらうことになっている」と答えたが、そこで上司に当たる金ハソクを一瞥して、「でも、国家のためにうけとらないのが普通です。夫の給料と私の年金だけで十分ですから」と付け加えるのだった。「どんな仕事が一番大変か?またどんな仕事が一番楽しいか?」との質問に、女史はしばらく考えてから、子供がいちばん大変だが、喜びも一番大きいと答えた。
これを最後に、私たちは甘いレモン水を飲み干し、階段から下へ降りた。この住宅は他の住宅に比べて現代風にできており、階段室のホールに面してドアが四つ、ドアも上方がガラス張りなんてことはなく、中の様子が覗けたりはしない。このような住宅は首都にもまだ少ないが、新しい団地などで徐々に増えてはいる。最も新しい団地も事実上、一番上の階には水が上がらないとか、エレベーターがちっとも動かないなど、それなりの問題を抱えている。実際、平壌にはまだバラックがたくさん残っており、ここに住む市民にとっては、すでに紹介した住宅などは夢のまた夢かもしれない。どのバラックにも一室に三ないし四家族が住んでいる。入り口は直接道路に面しており、水道も便所もない。したがって冬になると、下半身裸の少年が道に飛び出してきて、近くの溝で用を足している。

ちなみに市当局は、平壌市民一人当たりの居住面積はサービスエリアも含めて18平方メートルと公表しているが、何人かの役人から私的な話として聞いたところでは、一人当たり3平方メートル。こちらの数字の方がはるかに現実に近いようだ。金ハソク、尹オクチュン両氏と別れた私は、当局が、子供から年金生活者まで市民の行動を監視するために、市民の頭に金日成主義の官製イデオロギーをたたきこむために、市民をさまざまな労働や「政治的行事」に動員するために、この国の人民が互いに助け合っていこうとする気持ちをいかに巧みに利用しているかを思った。

主幹工場と協同農場の実情

この国の人たちは毎朝、人民班から農場へ出かけていく。仕事が終わると2時間の政治学習にかならず出席しなければならない。想像力や人間としての価値を認められねばならない工場や協同農場、機関の職で、この国の市民は何を期待されているのだろう?

咸興市にある龍城重機械総合工場で部(省)の主幹工場を取材した私は、渉外課長の金ドンイ氏に迎えられた。金課長に案内されて、頻繁に訪れる代表団や見学者用に、あるいは『偉大なる首領様』や『親愛なる指導者』の来訪時に特設された大きな建物に入った。高価な大理石におおわれたホールにも入り口正面の壁にも、白馬と黒馬に颯爽とまたがりくつわをならべた金日成と、金正日の大きな肖像画がかかっている。この国の公式宣伝が『朝鮮革命の聖山』と呼ぶ、白頭山の頂上にある旧火口の端に立つ金日成父子の馬上の勇姿である。

渉外課長によれば、金日成は工場の作業を現場で22回指導し、約1500の指示を与え、金正日は6回の現場指導と100の指示を与えたという。1989年8月、金日成は工場を視察し、工場の規模とその国民経済における製品の重要性にかんがみ、この工場を部(省)に昇格させたというが、従業員8000人、シップ数30、生産に従事する班が400。工場は1938年の日本占領時代に建設されたもので、当時は設備の修理工場だったそうである。現在この工場はさまざまな大型設備を生産している。工場の活動を評価する主な指標は、生産計画の遂行が第一、ついで科学技術の新機軸、電力の節約と材料の歩どまり、労働時間の効率的利用、品質および賃金管理など。

金課長の話では、省の枠内で工場とシップ、作業班のあいだにさまざまな独立採算制度がとられている。だが、ほかの工場との関係では独立採算性はまだ導入されていないという。部の今後の主な課題は、(1989年12月の時点で)順川のビナロン(フス)工場や沙里院市のカリ肥料連合所、近代化が進行中の徳川自動車工場、茂山鉱山など、建設中の最大の工場に設備を供給することである。
この部の主幹工場へは炭塵に黒ずんだ道を車で向かったが、この国の多くの工場地帯は歩道も車道も厚い炭塵に覆われている。龍城の住宅もこの国の多くの「大工業団地」同様、工場に直接隣接しており、低い塀に隔てられているだけで、グリーンベルトなど皆無である。

われわれはショップをいくつか見学した。西独、オーストリアなど、西側諸国の近代設備もところどころに見られたが、照明は悪く、暖房も効いていない。労働者は着古した軍服みたいな服装で、疲れているように見えた。素人の眼にも設備が常時稼働していないことが一目で分かった。外国のジャーナリストが見学に来ている当日の、これが重機械製作の主幹工場企業の状況なのだ。この場合には、「社会主義国の模範国」の体面を損なわぬために、あらかじめ周到に準備されていたことは周知の事実であるにもかかわらず、というべきか。この工場の新入従業員の賃金は月額60ないし70ウオン。高等中学校の卒業生は工場の学校で2年間、実習生として専門教育を受ける。

報奨や処罰の制度について言えば、金課長の説明では、ノルマが超過達成されると労働者には報奨金が支払われ、班やショップ間で行われる社会主義的競争の勝者には民生品の商品が出る。労働規律に違反しても解雇されることはなく、職業同盟(労働組合)、婦人団体、青年団体など、社会団体の協力を得て、「教育」される。党員の処罰について言えば、党集会での票決権が奪われる。換言すれば、いわゆる「社会・政治活動」の可能性が奪われることになるわけだ。また、報奨金が支払われないなど、物的制裁が加えられるが、こういった措置だけで十分だそうである。工場から商店まで、この国の事実上すべての職場に、規律を維持する上で効果を上げているのは、いかなる職場も、労働の管理・規律ならびにその違反に対する責任をともなう「戦場」であると規定されているからであろう。部の職員は、労働者から技術者まで、1日の労働が終わった後に行われる学習や行事を通じて、自己の職能を高めねばならないことになっている。

部の工場企業所では、年間平均約20件の大きな災害や人身事故が発生しており、その結果として集団労災が記録されている。このような事故は部レベルで検討されることになるが、より小さな事故はショップや班で処理されている。病気や生産現場での傷害事故で一時的に就労が不能になった場合は、賃金の60パーセントが支払われる。

渉外課長は労働者の生活について、住宅問題がいちばん深刻だと述べている。北朝鮮では国家が独占する住宅に、入居の順番を待っている労働者の家族が、この工場だけで二百世帯ある。入居の優先順位はまず熟練労働者、つぎが模範的生産労働者、最後が住宅困窮家族となっている。主幹工場に働く八千人の従業員のために建てられた病院のベット数が四百床。仕事が終わって休息ができる予防診療所は百二十床。このほか百五十人分のサナトリウム、百人収容の休養施設もある。有給休暇は14日だが、重労働の場合は28日。

中央政府はこの工場を重視しているとみえ、主要部門の労働者を事実上、この国のいたるところで行われている田植えやトウモロコシの刈り入れに協力させることはやっっていない。また工場では、従業員の食料を「正常に」確保するために、百五十町歩の土地が与えられているが、そのうち百二十町歩は野菜畑に、三十町歩が果樹園になっていて、この農園でざっと二百人が働いている。さらに漁船も四隻あり、獲った魚は1日1人当たり二百グラムとされる魚肉の供給をまかなっている。これによって工場従業員の生活はいくらか楽になっているかもしれないが、とりわけ大きな工場がこういった副業に従事しなければならないこと自体、この国の農業の不振を、住民に十分なカロリーを供給し得ない現状を物語っている。

そもそも北朝鮮の庶民は一生の間に主な専門を身につけるほかに、いろんな職業に従事することを余儀なくされている。副業に野菜を栽培するほかにも、農繁期には野良仕事に駆り出されたり、短い時間にしろ建設現場で働いたりしなければならないのだ。というのも専門の建設業者は大型の工場や建設しか扱わないからである。新しい工場の建屋、例えば縫製工場を建設する場合はじつに容易である。女性の従業員を一時仕事から解放し、建屋の建設に振り向ければいい。さらに新しい建屋は従来の工場の空き地に建設することができるし、煉瓦も原始的な形成機を使って空き地でつくることができるからだ。ところで、この国のイデオログーたちは、市民を専門以外の仕事に動員するこういったやり方を、「共産主義社会」の長所である多面的に発達した人間を教育する一つの方法だとみなしている。
もっとも過酷な労働条件にあるのは重工業というのが常識だが、北朝鮮では主に女性が働く企業も含め、すべての産業分野の労働条件についても言えることだ。たとえば縫製工場の労働時間は10時間から12時間が普通で、しかもその後に政治教育を中腰の姿勢で聞かされるのである。咸興市のある咸鏡南道では、慢性的な電力不足のために、多くの企業は電力が「あたえられる」ときに仕事をしなければならない。その結果、女性の労働者は往々にして電力が供給されるまで昼の間に仮眠をとり、夜になって残業を余儀なくされるのである。液体燃料、とりわけ自動車のガソリンが不足しているため、地方ではいまだに薪を燃料としたスチーム・エンジンが使われている。この蒸気機関車を想起させるしろものに私は何度も路上で出会っている。つまり、この国の蒸気機関車はなぜか鉄路ではなくコンクリートの線路の上を走っているのだ。

この国には未就学児童の義務教育を定めた法律があるにもかかわらず、平壌でも地方でも幼稚園は明らかに不足しており、その結果、多くの母親が子供を職場に連れていかざるをえないのである。とりわけ女性の多い企業では、例えば平壌の紡績工場や咸鏡北道の鏡城陶磁器工場などでは、工場の建屋のすぐ横の工場の敷地内に幼稚園が建設されていた。このように、北朝鮮のプロパガンダが「子供は国の王様」と持ち上げるその子供たちが、文字通り乳児の時から工場が排出する「花束」の「洗礼」を受けねばならないのだ。「共産主義の楽園」平壌についていえば、雪の多い冬になると、若い母親が乳飲み子を背中にくくりつけて雪かきで道路の雪を取り除いたり、歩道や車道に凍りついた氷を割っている姿がいたるところで見られるのである。人民班にさえ子供を預ける人がいないと見える。
農村では化学肥料を手で田に散布するなど、もっとも苦しい手作業はすべて女性の仕事だ。水田に膝まで浸かって、風に舞う白い肥料の粉に包まれながら作業に従事する女性の姿を車窓から眺めるたびに、私の心は憐れみとおのれの無力に思わず締め付けられるのだった。この国の女性たちは肉体的にも精神的にもたいへんな負担を強いられている。軍隊が第二次大戦中無理やり朝鮮の婦人たちを慰安婦として徴用したとすれば、「愛情に満ちた父なる首領様」とその後継者は、主に男性が働く地域や、炭鉱や製鉄所の集中する女性の「愛国集団」を送り込んでいる。こういった職場に男性が多いのは、多くの場合、軍隊がまるまる派遣されてくるからだが、当局は彼らが送り込まれてくる女性たちと結婚し、往々にして生活が困難な地方に居ついてくれることを期待しているらしい。このようにして、当局は地方の男女の比率を政策的に調整しようとしている。しかも送り込まれてくる娘さんたちは、商業や日常サービス部門など、女性に適した職場ばかりでなく、製鉄工場や炭鉱の現場でも働かされているのだ。

【常軌を逸した対日外交】
経済状態や生活水準は、世界のどの国でも政治家や学者、マスコミが取り上げる重要なテーマである。住民一人一人に関わる問題だからである。したがって激論がたたかわされて当然なのだが、この国ではこれがそうはいかない。こういった問題が論争になるとしても、一般大衆の耳目には触れない。新聞雑誌は驚くべき一致団結ぶりで、公式見解に反する意見はもとより、こういった問題についての論争を避けている。金日成と金正日の「配慮」と「英知ある指導」のおかげで皆んなが等しく満足しており、「衣食住の心配は全く知らない」と連日繰り返される紋切り型の公式宣伝に終始しているのだ。

しかしながら、数十年続く厳重な切符制度が、食料においても工業製品においても、住民の需要を満たす解決にならないことは事実が物語っている。むしろ切符制度を長年続けてきたことが、生産性の高い労働や経済的イニシアチブに対する国民の意欲を奪う大きな原因になっている。このような制度のもとでは、正直に働いて得たわずかな賃金では、少量の配給食糧と二年に一着の背広しか買う余裕はない。

ドルとウオンの公定交換レートと実勢レートの天文学的相違は、質のいい商品やサービスがいかに不足しているかを、もっとも雄弁に物語っている。当局は切符制の力を借りて圧倒的大多数の住民に平等を押し付ける一方で、少数の特権階級には外貨店のドアを開くことによって不平等を生み、同時に一般大衆から金を稼いで生活を改善する可能性を奪っている。これまで隠されていた社会と富の階層分化が徐々に表面に浮かび上がりつつある。美しく着飾った若い一組の男女ーー党か国家の高級幹部、あるいは合営企業のオーナーの子弟だろうーーが、高麗ホテルの外貨バーで一夜に40〜60ドルもの大金を惜しげもなく払う。その一方では同年代の若者がこの現実の「楽園」をホテルの窓越しに覗き見ることしか許されない。北朝鮮の知人が、近年、若者が「金日成主義者」の仮面をかぶって外貨の虜になり、留学あるいは仕事を求めて出国につとめたり、そのために結婚の相手を求めたりする傾向が強いと、偽善的な若者が増えていることを憂慮していた。
平壌の一流ホテル、高麗ホテルがあり、外貨店や外貨バーがいちばん多い典型的な共産主義通り「蒼光通り」に行けば、外貨の持ち主に北朝鮮人の売春婦を、特注により生娘でも、五ないし十「青いウオン」で紹介するポン引きが見つかるが、外人の場合はこれよりはるかに高いし、かかわりをもちたがらない。仲間内に密告者がいるかもしれないし、外国人と接触すれば死刑も含む厳罰が待っているからだ。外人用の「妓生」は日本の芸者みたいなものだが、利があると見れば国家がみずから提供している。外交官、とりわけアラブ諸国の外交官や、在日朝鮮人のビジネスマンがいいお客らしい。
恒例の金日成の誕生日前後だったが、大同江にのぞむ快適なこじんまりしたバーを訪れたことがある。カウンターの前に二組のかなり騒々しい男女の客が腰を下ろしていた。隣に空席を見つけて著者も腰をおろした。すぐに話がはずんでわかったことだが、男の方は二人とも在日朝鮮総連商工人代表の一員で、一人はかなり大きな会社の経営者だった。この実業家は、「偉大なる首領様」への贈り物として、一千万円程度の照明器具の近代的な工場をプレゼントし、祝賀会の席で金日成からじきじきに最高の勲章が手渡されたと話していた。むろん金日成の名を冠した勲章だ。
一行の宿泊用として公邸が、足としてベンツが、また案内役として若い女性が提供されていた。このお嬢さん方は一本75ドルもするコニャックの瓶を空にすることにかけては賓客に勝るとも劣らなかったが、神輿をあげるころにはすっかり酔いしれ、あたりに響き渡る大声で嬌声をあげる始末だった。このようなことは、この国の一般の婦人にはまずあり得ぬことだが、しまいには日本の金持ち客を楽しませるように言われていると告白するにいたったのだった。
日本は北朝鮮とは国交を樹立していないにもかかわらず、旧ソ連と中国に次いで貿易高では非共産主義国の中で三番目の国である。もっとも貿易高自体はさほど大きくはないが、北朝鮮の経済にもつ意味は計り知れないものがある。さらに日本との、とりわけ在日商工人との経済交流がなければ、この国ーそれもまず平壌は全く趣を異にするだろう。
まさしく日本から供給される機械・設備によって、北朝鮮は電気工学や計器制作、建設、紡績、縫製、食品工業など、一連の工場を建設することができたのである。これらの工場はまた、現代の要求に主に合致しており、製品は輸出に回すことができるし、それによって国家は喉から手が出るほど欲しい外貨を獲得しているのだ。平壌のもっとも近代的な住宅団地の一つは、在日商工人の億万長者・安商宅の遺産で建てられたもので、その名前が冠されている。このほかにも、祖国に一連の工場を建設した在日商工人を記念する石碑がそれぞれの地に建立されている。
近年、平壌をはじめ妙香山や金剛山に豪華なホテルや公共の建物、外貨の店やレストランが続々と建ち始めているが、窓ガラスやエレベーターからバーのインテリア、冷蔵庫、これらの商店で売られている商品にいたるまで、日本製の「中身」がなかったら、生気を欠いた古色蒼然たる趣を呈することだろう。
1989年、第13回世界青年学生祭典が平壌で開催され、著者は学生の宿泊村やさまざまな催物の会場を訪れ、この目で直接確かめたが、在日朝鮮人の財政・物的援助や、接待要員として派遣された在日朝鮮人青年の大グループがこの祭典の開催に大きな力があったのである。北朝鮮には開催に必要な人的資源も、全世界から参加する青年たちを満足させられるだけの商品もなかった。
したがって、皮肉な話だが、この祭典をボイコットした日本が、現実に開催を保証する物的、技術的に、財政的、人的に重要な役割を担ったのである。
「在日本朝鮮人連合会(総連)」の指導層を北朝鮮の国会議員にしたり、在日朝鮮人を北朝鮮の在外公民だと声明したり、在日朝鮮人の教育財団に金日成を形式的に加えたり、こういったことはみな、「総連」との交流を維持し、統制を確保するだけでなく、彼らに対する金日成一族の「首領権」を誇示し、この問題を日本への圧力として利用する必要から生まれたものなのだ。「総連」の指導者と北朝鮮指導者との間で交わされる恒例の新年の祝電や、金日成と金正日の誕生日の長々しい祝電もまた、これに類いする宣伝行事のひとつである。これらの祝電にはふつう「偉大なる首領様」と「親愛なる指導者」によって示された方針に従う旨の誓いが述べられている。
全体として、北朝鮮と日本の関係は、貧者と富者の隣人関係に似ている。この際、貧しい隣人は過去において富める隣人のために苦しめられたが、その後、この国の公式宣伝によれば、富める隣人を「壊滅させ」自己を解放したことによって精神的に優位に立っている。だが、不幸なことに、壊滅させられた隣人は、平壌の主体型「社会主義」が虫の息だというのに、ますます裕福になっていく。手を差し伸べてほしいところだが、イデオロギー的に長者たることと、「強力な国民経済」を自認する手前、そうもいかない。
政治的、公式的レベルでの北朝鮮の対日関係が日常の現実の姿とまったく対照的なのは、いかにもこの国らしい。その核心を外交部渉外局に勤める知人が、この国独自の表現でずばり言い当てているので紹介したい。
商店で何度も見聞していることだが、多くの北朝鮮国民は、イデオロギーの対立にもかかわらず、なぜ日本製品にこうも執心するのか、日本製品を持っていることを誇りとするのかと、尋ねてみると、「対日関係の一番の問題は、日本が技術的に極めて強力であると同時に、イデオロギー的に極めて有害なことにある」と答えた。
8年余に及んだ平壌在勤中に、私は、地元の新聞に日本に関する肯定的な記事が掲載されたのを見たことがない。批判と厳重な警告の文字一辺倒である。ごくまれに金日成と日本のジャーナリストのインタビュー記事が載ると、わが国は日本人民との友好関係を望んでいると言いながら、正常でない二国間関係の責任のすべて日本側にあると主張している。
80年代のはじめと半ば、平壌政権は米日韓三国軍事同盟計画の批判を強化し、ついで日本の「不沈空母化」発言に猛烈に反対した。現在は、日本の「自衛隊」を国連の平和維持活動に利用する計画や、日本の核大国化にもっぱら反対している。だが、こういった強硬な反対論にはどちらかと言えば宣伝臭さが強く、南北対立に日本をして北朝鮮に有利な立場を取らしめることを狙った、この国独特の外交的駆け引きと見られる。
北朝鮮は日本に働きかける有効な手段を欠くことから、手当たり次第に、たとえば「第18富士山丸」事件なども利用している。船を没収したうえに船長と機関長を4年近くも帰国を許さず、あげくの果てに15年の刑を宣告したのも、実利的に有利な時期を見て釈放するのが狙いなのだ。ちなみに、著者のたっての要請にもかかわらず、北朝鮮当局は新聞紙上で告知されたこの事件の裁判にソ連ジャーナリストの傍聴を結局許さなかった。
平壌の「 この世の共産主義の楽園」の建設者が用いる対日圧力の手口には、明らかに文明社会の 基準を逸脱したものがある。中でも、朝鮮人に嫁ぎ夫とともに北朝鮮に帰化した日本人女性の問題がまずあげられる。これらの女性が祖国を訪れることも、肉親との接触を保つことも許されない平壌政権は、事実上、彼女たちの運命を両国間の外交関係樹立交渉の数少ないカードとして利用してきたのだった。
日本との関係で韓国はこの国にとって垂涎の的である。戦時補償を工業の近代化に利用するなど、合理的に活用し、いちはやく新興工業国の仲間入りを果たした韓国の羨むべき姿がつねに眼前にチラつくのだ。
このような援助が、たとえ補償のかたちで行われるにしろ、この国にとって死活的に必要だからこそ、平壌政権は国際原子力機関の要求を入れて、核の安全を保障する協定に調印せざるを得なかったのである。

すでに述べたように、AP通信の報道が、平壌で私が知り合った偶然の機会を思い出させたのである。
北朝鮮の首都の中心部、大同江にのぞむこじんまりした快適なバーのインテリア、客の服装、マナー、注文する飲み物、要するに何もかもが、東京や香港あるいは世界のほかの都市の光景と何ら異なるところはなかったが、来客は朝鮮人だけ、それも三百ドルはする背広の襟に必ず金日成バッジが輝いていた。彼らはドルか円で支払わねばならないがーーこの店では国際通貨しか通用しないーー値段などさして木にする様子もなく、注文していた。
もっとも来客の中に地元の住民を探しても無駄であったろう。どの客も「案内人」を自称する人間を除いて、70万人の朝韓両国在外居留民が住む日本の「同胞」だったからである。彼らは、朝鮮が日本の植民地だった時代に、さまざまな労働やそのほかの目的のために、日本人の手で「本国」に強制的に連れ去られた人たちの子孫である。現在、この在日本居留地には、北朝鮮系と韓国系に分かれる二つの大きな団体ーー総連と民団ーーがある。
私が知り合った相手は朝鮮総連青年活動家代表団のメンバーだと知った。岩手県盛岡市の総連本部の指導者、金ホイル氏は同僚の姜サンフ、金ペイル、金チュチョンの三氏を紹介してくれた。
「私たちは『社会主義の祖国』で40日間の講習を受けました」と三人は話していた。講習は週6回、主に金日成と金正日の「革命偉功」に関する講義に力が入れられる。
これと並行して、「祖国統一作業」と呼ばれる総合科目の勉強にも、多くの時間が割かれている。こういった講習の内容や性格をを外部に漏らすことは禁じられていることを承知しながらも、この「留学生」たちはこの講習で得た知識を披露してくれた。
講習の基本的課題は、韓国国民、とりわけ若者の間に金日成父子の「偉大さと英知ある指導」、「我が国社会主義体制」の優位、つまり韓国の秩序と比べて北朝鮮型の社会主義が優れていることを宣伝することである。韓国の国民が一日も早く「北朝鮮の正しい政治のもとで幸せに暮らせる」ように、韓国の「反人民体制」に対する戦いに、「大衆」を動員する方法を教える授業にも多くの時間が割かれている。
受講生は日本に帰ると、この二つの課題について宣伝資料を大量に韓国に送りこむ仕事に加わることが要求される。「これらの資料」は説明によれば、「政治家や社会活動家、党や大きな団体に送る必要はない。これは朝鮮共和国当局の公式代表たちの仕事で、私たちは一般市民に働きかけ、大衆を動員しなければならないのです」。
こういった郵便物を送付する宛先は、日本を訪れる韓国国民や南に肉親・近親が住んでいる人たちから手に入れるように、また「留学生」が韓国を訪れた時に、自分で探してくるように、奨励されている。
在日朝鮮人の多くは日本で生まれ、先祖の地を踏んだことがない人も含め、南北いずれかに肉親・近親が残っており、これによって両国への訪問が容易にできるのである。
なにしろ南北が分裂、ついで朝鮮戦争が起こって、ざっと一千万人の離散家族が生まれたのだ。70年代末からソウルは、北朝鮮志向の朝鮮総連と接触のある人も含め、韓国出身の在日朝鮮人の祖国訪問を奨励しはじめた。だが、総連傘下の在日朝鮮人にとっては、比較的自由に韓国を訪問できたのは第1回目のときだけで、その後は監視の目が強まった。彼らの多くが先祖の墓に詣でることだけ、訪問の機会を利用したわけではなかったからだ。
こういった訪問の機会に平壌では、彼らに対して肉親や近親、友人そのほか、とりわけ同年輩の団員が好意を寄せる若者など、近づきやすい韓国国民に「積極的に働きかける」よう教育していた。また北朝鮮に対して「共感を抱かせ」、平壌の祖国統一方針が正しいことを確信させ、ソウルには「この目標を達成する熱意が欠けている」と思わせることに、全力を傾注することが必要なのだと語っていた。この場合、祖国統一の「最大の障害」である「傀儡政権」の転覆に「大衆を動員する」ことが主眼だという。このような「啓蒙活動」は、在日朝鮮人を訪問する韓国国民に対しても行うよう要求されている。
三氏によれば、三人ともそれまでに、少なくとも一度は北朝鮮を訪れたことがあるとのことで、一行が北朝鮮に向けて出発するにあたって、日本の当局から、訪問の目的は肉親に会うことだと念を押されたという。だが一行のうち肉親に会えた人はごくわずかで、それも平壌に住んでいる場合に限られ、しかも私が知り合った時点で、40日の滞在時間のうち30日はもう過ぎていたが、そのあいだ会えたのは一度きり。ほかの人たちは会うこともできず、平壌から遠く離れた地方に住んでいる近親者に会える確信はない、と語っていた。

また、日本から来た「真の金日成主義者」の候補者と目される「留学生」たちと話し合うことができ、韓国の過激派学生の発言に見られるスローガンが、ソウルの政策を糾弾する北朝鮮の新聞の見出しと驚くほど似通っている理由を、理解することができた。
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『北朝鮮人民の生活』ー脱北者の手記から読み解く実相ーより引用
(著者: 伊藤亜人 2017年5月初版発行)

【脱北者の手記】@
私は平家の家屋を得て引っ越した後、家内班の班長と同時に人民班長の仕事を任された。私に人民班長を任せて毎日保衛部に出入りするようにして、私を統制圏において見守るつもりのようだった。私のような人生も北朝鮮で珍しかった。夫側の親戚が中国にいたため保衛部が追跡しなければならない監視対象であった。私は人民班長をしながら北朝鮮社会の統制体系を詳細に知ることになった。人民班長は最も下部の末端にある細胞組織であり強力な統制手段でもあった。
咸興市は他の地域に比べて住民たちの反政府性向が強く、保衛部と保安署の統制が非常に激しかった。咸興市雲興洞は咸興市の中心市街地に位置する道党の近くの洞で、咸興市や咸鏡南道の幹部たちが1、2班に集まっており、その周辺に水道局と教員大学もあった。私が住んだ人民班は25世帯からなり、住民は約80人程度であった。
人民班長の任務は、25世帯の住民の一挙手一投足と正体不明な人々の往来と投宿を監視・把握し、保衛部と保安署に随時報告することだった。
一方、党の指示内容を迅速かつ正確に住民たちに知らせることも人民班長の重要な役割で、北朝鮮の住民は党と行政組織と人民班によって三重に統制を受けている。人民班に課される課題遂行のため、班員を取り締まり教養(指導)することが人民班長の任務だ。人民班長が賢ければ班員たちも気持ちが落ち着き、逆の場合は何かあるごとに騒々しくて大変だった。
私は人民班長をしながらも、時には不法居住者を宿泊させたりするなど寛大に対処したのが、後に息子に幸運をもたらした。人民班の人々とよく気を合わせながら寛大な心ある班長として仕事をしてきた。私たちの人民班に属する25世帯は、私をお母さんのように慕って、偽りなく真剣に対してくれた。私たちの班には、「越南者家族」(北朝鮮の体制を嫌って南の韓国に逃れたものを越南者といい、その家族をさす)の一世帯が追放されてきて、帰国同胞の女性と一緒に住んでいた。彼らを日本から親戚が訪ねて来た後、その家の長男が外貨稼ぎを始めた。
人民班長たちは、所属する洞事務所から一カ月に30ウオンの報酬をもらって仕事をした。人民班長たちは毎朝9時までに洞事務所に集まり、金日成と金正日の教示と指示を受け、その執行と貫徹のため人民班の世帯に課される課題について議論したりした。課題とは、「班にごろつきがいないか」、「収買計画は遂行したか」、農村支援の「人糞課題は遂行したか」、「人民軍支援物資はみな遂行したか」、「外貨稼ぎ課題はすべてしたのか」などである。
人民班長は人民班の使い走りであると同時に、行政的には洞事務所に所属して洞党の指示を受け、住民統制機関である安全部と保衛部の監視哨所長の役も果たす。また、社労青から脱退して職場に籍を置いていない女性は女盟員として女性同盟委員長の指示も受けなければならず、党員ならば職場の党秘書の指示も受けなければならない。人民班には、保衛部指導員がこっそり手なずけた人民班長を監視するものが必ずいた。とても平凡で目に触れることもなく核心分子でもない人で、それが誰なのかわからないように人民班長のことを保衛部に随時報告するのである。
人民班の会議は10日に1度、総和は1ヶ月に1度開かれた。人民班に課せられる課題には、「社会労働」と呼ばれる無償の労働動員と、廃品などの「収買課題」、軍への支援物資の献納、農村への肥料提供などがある。労働動員としては、田植や刈り入れなどの農村動員、道路などの建設、鉄道の復旧作業、河川の堤防工事、溝さらい、植樹や清掃作業などである。植樹の時は、洞事務所ごとに二千株から三千株ずつ植樹が課せられ、人民班別に100ないし200株ずつ課題が降りてくる。一平方メートル余りの土地を耕して苗木を植えた後、水やりして木が育つ段階まで責任を負わされた。
都市環境課題まで次々と課題が続いて考える余裕もなかった。仮に洞が150メートル程度の道路舗装を請け負ったとすれば、各世帯が分割して処理しなければならない。砂や砂利を入手して敷き、溝を掘るなどして一世帯当たり何メートルかずつ分担するのである。どんな方法であれ砂を手に入れ、砂利を城川江から採取して、引き受けた工事を終えなければならなかった。住民たちの生活は時計の目盛りのように休む暇なく刻まれていた。
どの家庭も食糧事情が悪くて暮らすのが大変で、苦しい家族の身代わりをすることもあった。家族全員が逃げたり死んでしまったりする家庭があると、残った世帯がその分を引き受けなければならず、それも人民班長の責任とされた。朝の早期清掃も真夜中に一人で出ていってあらかじめ片ずけをしたりした。「収買課題」というのは、各世帯にくず鉄、ビニール、古紙、歯ブラシ、ボールペン、割れた瓶、空瓶、薬瓶、古布、布切れ、ドングリ、蚕の繭などの物資を収買所に供出する義務を課すもので、その達成量をあらかじめ定めて、毎月その成果を検討する「総和事業」(総括)を行う。収買課題としてウサギの皮や犬の皮も年の上半期、下半期に各一枚ずつ出さなければならなかった。
「糞土課題」は、都市住民が農村を支援するという名目で、都市の人々が農村に動員された分だけ人糞を乾燥させて堆肥に作って農村に供給するもので、世帯当たり年間1トン以上を農村に供給しなければならなかった。作った糞土(堆肥)は、まともな交通手段一つないため人力で峠を越えて農村の分組長に捧げ、領収書を受けなければならなかった。そして世帯ごとに鉄くずなどの収買計画、糞土計画、組織生活等をグラフに記録する。毎週火曜日には洞の金日成革命思想研究室での学習、水曜日には水曜講演会、金曜日には金曜労働(農村動員)、土曜には土曜学習、日曜日には生活総括など、その度に人民班長には仕事が多かった。これ以外に私は女盟に加入していたので女盟の学習会もあった。
誰もが所属する組織ごとに組織生活の中でそれぞれの課題が提起され、その成果を評価する生活総和から逃れることはできなかった。職場に勤務しない「無所属」でも、人民班の集りや生活総括から抜けることは許されない。生活総和では、自己批判だけでなく相互批判をしなければ生活総和への参加資格を認めなかった。生活総和では、党員たちは「十大原則」に言及し、職場同盟と女盟員たちは、金日成の教示に言及して、例えば「利己主義を無くすことについて」あるいは「組織生活を強化することについて」という類の主題を掲げて、問いを投げかけてから自己批判と相互批判を始めなければならない。こうした組織生活に追われるため、北朝鮮の住民たちは自身のために暮らす時間がない。私の場合は社会的な課題として女盟課題、党的課題、人民班課題があり、これ以外にも世帯の負担で建設される道路工事などがあった。
咸興市は行政上六、七個の区域に分かれ、それぞれの区域に人民委員会、労働部、社会動員部、労働赤衛隊などが置かれている。これらが各々課題を指示すれば、それが区域内の行政単位である洞事務所を経て人民班長たちに下達される。人民班長は毎朝洞事務所でその日の課題を指示され、班員たちの家を歩き回って動員に駆り立てなければならない。班員たちは、人民班長がまた何を受け取りに来たのか、何を伝達しに来たのかと思って、家を訪問するのを嫌った。例えば、軍隊に送る援護物資、速度戦突撃隊に使う援護物資、肩・背もたれを一つずつ作って納めるなどといった指示だ。
ゴミ回収も各洞内で人民班が一週間ずつ順番に引き受ける。当番の人民班の班員はゴミ運搬車が来れば出ていかなければならない。手押し車がないので◯にゴミを入れて頭上に載せて運んで運搬車に注ぐのだが、外側に捨てたりこぼれたりしないように班長は監督しなければならない。人々の性格も様々で、一瞬目をそらしている間に外に捨てていったりすれば、人民班長が掻き集めなければならない。いちいち班員たちを動員させたくないので私が代わって捨てたりもした。顔もゴミで黒くなったまま、臭いのする姿で家に帰ったりした。こうした環境でも、私は人民班長として班員たちに苦渋を与えずに、私たちの人民班を「赤旗人民班」に仕立てて、気がおかしくなるほど走り回らなければならなかった。
(中略)
苦難の行軍時期には、誰もが市場で商いをしなければ暮らすことができなかった。市場に出て商いをしようとすれば、宿泊者があっても昼間は分駐所(派出所)に出ていけない。このため、代わりに人民班長が手元にある宿泊登録簿に宿泊人の名を記入し、公民証を分駐所に持って行って登録して承認の印を貰って来なければならなかった。本来はこうして水一滴も漏らさない監視システムが構築されていたが、その頃の北朝鮮では、生きる道を求めて外地に行き来する者が多かったため、統制もできない状況だった。人民班長の私も上に報告せずに通行証を出すこともあった。
分駐所や洞事務所で酒を密造する家を調査することもあったが、その場合には酒を作る人に前もって耳打ちしてやった。仕事をせず家で遊んでいるごろつきがいても上に報告もせず、調査があるときは予めその家に行って、災いを避けるように、通報されないように、上手く処身するように知らせてあげた。党から見れば悪い人民班長だったが、その頃は生存が懸かった時期だったので、人としてそうするより外なかった。
咸興は東海と咸州沃野に恵まれ、大きな工場が密集して以前は暮らしやすいところだった。工場地域なので、大部分の住民が配給に依存していた。遅れた配給でもなんとか受け取ろうと待ち焦がれる住民たちも騒然となっていた。1995年からは配給が完全に途絶えた。遅れても配給だけは受け取れるだろうと思っていた住民たちの期待は絶望に変わった。人民班長だった私は、食糧難のため多くの人々がどのように死んでいったのか知ることになった。
私たちの人民班25世帯の中で、とうもろこしご飯でも食べられたのは5世帯に過ぎず、草根木皮でも三食ずっと食べれた家が10世帯、二食やっと粥を食べる家が5世帯、残りは死ぬ日を待つだけだった。私たちの人民班はそれでも何とか暮らせるトンネーだったため犠牲が少ない方だったが、当時の沙浦区域と龍城区域のように一般労働者が密接する地域では多くの人々が飢え死んだ。城川江区域の三日市場、會上区域の坪数市場、沙浦区域の沙浦市場、東興山区域の咸州市場など、咸興市内の市場はどこも人の波であふれかえった。市場に行けば何とか食べ物も得ることができた。 (イ・ヨンスク2013・10・22)

【脱北者の手記】A
人民班長が何をする人なのか北朝鮮の人しか分からない。北朝鮮では人民班長を冷遇しては無難に生活することができないほど、人民班長は人々の生活に密接な存在だ。韓国では人民班長という役職ばかりかそれに似た役職もない。人民班長は政治・経済・文化の産物であって、北朝鮮の体制の下にのみ存在しうる特異な形態の末端権力執行者だ。
北朝鮮の行政体系では人民班は形式上洞事務所の下単位となっており、人民班長はすなわち人民班員の責任を負う文字通りの班長だ。人民班は概略20〜30世帯に定めて管理運営されるもので、人民班長は自分が担当する世帯構成員を掌握して統制し、上部機関と連結する言わば橋渡し役であり組織者だ。人民班長は洞事務所の指示を受け、洞事務所は区域党と区域人民委員会の指示を受け、洞、市・郡、道、中央というしきに順次上からの指示を受けて仕事する。その中で人民班長はもっとも末端にありながら大変重要な位置だ。しかし、国家が月給を与えたり公式の管理職として登用したりしたものではない。ただし、平壌ではあまりにも行事が多く、人民班の役割が多いため給与をいくらか与えることもある。とにかく家庭主婦の中でリーダーとなりうる幹部夫人や成分が良い女性や説得力がある女性から人民班長を選んで政策執行の下手人の役割をさせている。人民班ではまた世帯主班長と衛生班長を別に出して人民班長を物心両面で助ける。結局、人民班はいろいろな社会団体と同じように、住民を無償で動員するための手段であり、住民の掌握と統制の手段として利用されるものだ。韓国の洞事務所のように住民の便利と生活を世話するために組織された公務機関ではなく、党の指示を無条件貫徹させるために作られた単位が人民班であり人民班長である。
人民班長の役割は非常に多様だ。まず、洞事務所と密接な連携のもとで随時提起される党の方針を人民班会議を通じて人民班員に伝達して「総和」する。その方針の具体的な実践方法を模索して班員たちを責め立てる。人民班を通じて実に多くのことが実現されるのを見れば、その威力のすごさが分かる。人民班長は、数十世帯を手のひらにのせて生活一部始終を把握して思いのままにし、上の機関や保衛部や保安署(警察署)の指示を受けて、班構成員の一挙一動を統制し通知して申告することもある恐ろしい存在だ。しかしその反面、指示通りにできなければ、いや事実どおりに実直にしなかったり、知らない間に事件が起きたりした場合、上で知って逆に追及が入ってくると大変な非難を受ける。
生活を苦しめられる班員たちの抗議と反抗も無視できないため、人民班長も頭が痛いに違いない。それで、人民班長をしようとしない人々が増えるや、近頃は人民班長を選ぶのが大変だという。自分も暮らしが苦しいのに、上部機関の使い走りとなって人々に嫌味を言うのを誰が好むだろうか。よっぽどでなければ「私たちの人民班長」などという映画まで作るはずがない。
人民班長は保衛部の指示を受けて、住民が何か不健全な言動をしないか時事刻々担当保衛部員に報告しなければならない。保安員に対しては、どんな人が頻繁に出入りするのか、どこに行くのか、流動人員の一挙一動を世帯ごとに随時把握して報告しなければならない末端秘密要員ともなるのだ。人々は人民班長を保衛部・保安署の「ひも」だとか「犬」だとか罵っている。
韓国では私生活は法的に保護されることになっているのに対して、北朝鮮では組織と集団の生活総和の場では、個人の私生活や思想、理念、感情さえもすべて打ち明けねばならず、すべて公開すべきものと要求する。また、収入に対する支出を問い詰め、誰がどんなところで不法に行動して公的な金や収入を持ってくるのか、非社会的な手段で物や収入を持ってくるのかを人民班長を通じて調べる。厳重な場合には洞党の傘下の組織された「非社会主義グルッパ」というものが来て集中的に検閲して処罰も加える。
病院は、人民班長を通じて人民班会議を開くように指示を下して、衛生宣伝と講義を通して村と道路を清潔に保つように指示する。人民班長は毎日当番別に住民を呼び出して、各家の廊下と階段周辺の空き地や通りまで掃いたり拭いたりして整理清掃し管理するよう班員たちに強制する。予防接種の際にも、担当診療所の医師や看護師が人民班にやってきて注射をしたりする。
これ以外にも人民班にはありとあらゆる課題が下されてくる。外貨稼ぎ課題のための収集品として屑鉄、屑銅、屑銀、屑紙、古紙、着なくなった服などをはじめ、毎月いくらかでも出せと督促し、また労働動員として道を均す仕事、山羊牧場の造成とか、田植えの季節ならば堆肥を生産するといって共同便所から人糞を汲み出す作業、田植えや草取りなど、更には鉄道の枕木資源の供出、史跡地建設支援、砂利生産とか、どんなことであれ地域に必要ならなんでも人民班員たちを思想動員して支持して解決しようとする。したがって、人民班長は家で遊んでいる人を最大限動員して、課せられた仕事を解決しなければ人民班長の義務を果たすことにならない。
それだけではない。食料配給として1990年までは穀物を一人分700グラムの配給を与えるようになっていたが、それも半月のうち二日分を無条件義務的に差し引くようになり、その上さらに人民班を通じて繰り返し食料節約を強圧的に迫ってきた。苦難の行軍と言われた1990年代半ばからは食料もまともに配給できなくなった。
このように国家には何の予算がなくても、首領がどこかの 都市や工場や建設現場に行って、一言でも「必ずしなければならない」という言葉が口からこぼれれば、下の人たちは教示とお言葉通り方針を立て、党機関や行政人員(イルクン)に伝達し、それをさらに下機関に指示すると、そのまま各工場や企業所や末端の人民班長に下達され、人民班会議を開いて人々にくどくどと強要することになる。やらなければ気が済まないほど思想がらみで揺すぶるので、人民班長たちはどうすることもできず、ない金を集めて買ってでも供出しなければならない。誰もが二重三重の血の通わない統制と監視の中で暮らさなければならない。
社会団体には誰もが網羅的に加入する。党員たちは党組織、勤労者は職業同盟、農民は農民勤労者同盟、青年たちは社労青同盟、学生は少年団、家庭主婦は女性同盟など、誰もが義務的に組織生活に服して、組織が 与える 課題と任務を忠実に果たさなければならない。そして一週間に一度は「生活総和」を組織の前でしなければならない。つまり、自身が勤務する工場、企業所の課題に加えて、仕事が終われば各自網羅的に加入している 団体で提起される課題を遂行しなければならず、家に帰ってくれば人民班長から提起された任務と課題と責任があって、二重三重に統制と監視の網に閉じ込められているわけだ。
人民班長に覚えが良くなければならない。そうでなければ多くの不利益を受けるため、人民班長に難点があっても何とか良い関係を維持しようと努力する。一挙一動やあることないことまで全て報告され制裁されるので、充分気を付けて人間関係を上手く保たなければならない。
近頃は暮らすのが難しいため、商売や不法に中国と売買することが多くなり、また脱北者 が 増えて韓国の知人や姻戚から金を貰って使う人が多くなっており、隠れて秘密のブローカー役をする人も多くなったため、人民班長でも手が足りず通報班長というものまであるという。
北朝鮮人民にとっては人民班長は醜い存在だが、考えてみれば最も苦労し、両側から 悪口を一番多く受けながら暮らすのが人民班長だ。
(イ・クムチュン 2013・7・2)

【脱北者の手記B】
北朝鮮の住民は食料の配給を受けることができず、配給表に記表した分だけで配給されるはずの穀物が2トンから3トン分にもなったが、それも家庭で記録として保管されるにすぎなかった。「苦難の行軍」と命名された1990年代中盤の食糧難のころ、党の指示でトウモロコシの根株と稲の根株で作った球荒食物や草根木皮を食べて、北朝鮮の住民がどれほど苦労したかわかりません。
1994年に金日成が死亡した後、北朝鮮では食糧難のため全国の山が白くなるほ木の皮をはがして食べたが、木の皮でも足りず草の根も足りなくなると、葛の根からデンプンを採って食料の助けにしようと葛根を掘り起こしたため、山々は爆弾が落ちたか、猪が鼻で掘り起こしたかのように穴だらけでした。
松の渋皮をはがして洋灰水に浸して苦労して加工して餅を作って、市場で一つ5ウオンで売ったり、そのお金で小麦粉やトウモロコシを買ってナムルにまぜて蒸して食べたりしたことも昨日のように思われます。トウモロコシの根元と稲の根元などを乾かしてから粉にし、他の粉をちょっと混ぜて「コジャン餅」を作れというのが党の指示でした。しかしこれは繊維質が多いため食べるたびに便秘がひどくて、多くの人が苦しみました。
こうした時に私は家庭で畜産をしてみようと計画を立て、まず豚を育てることにしてトウモロコシ飼料と豚草を用意しました。親豚を育てて子豚を産ませれば、トウモロコシと交換もできるし金にもなるので、母豚を育てることにしました。しかし畜産は決心だけでできるものではなく、忍耐心と勤労精神が弱ければやり遂げることができません。生計維持のためには家庭ぐるみで悪戦苦闘しなければなりません。
母豚を育てるには、洞に所属する畜産母豚班に申請して名簿に登録し、子豚を受け取って育て、月収入の20分の1を党に納めなければなりません。母豚の家内班の班長は洞内の母豚と子豚を掌握して、豚の飼料を配分し、また子豚を産めば、噂を頼りに豚を育てたい人を捜して子豚を配分して売ります。こうして私も子豚を買って母豚に育て、一度に10匹ずつ二度も子豚を産ませ、子豚を売ってキログラム相当分のトウモロコシを受け取りました。
例えば、母豚を120キロに育てれば、キロ当たり4ウオンずつ受け取るのですが、これほど大きく豚を育てるのは本当に容易ではありませんでした。母豚を育てようとして豆腐作りも併せてすることにしました。豆腐をつくって豆と交換し、豆腐カスは母豚の餌としてブタ草と混ぜて飼料にしました。一方で豆腐カンチ(オカラ)は食料不足の苦難の時期には穀類に劣らず助けになりました。台所に火を焚いて、釜に油を二匙まわして白菜や大根のシレギを油に炒めて、そこに水を注いで豆腐カンチを入れ味噌も入れてよく煮ると、上等な食べ物と言えないが、トンネーのおばさん達の喜ぶ顔を見ながら、互いに気を遣うその気持ちをいつもありがたく思い、分かち合って暮らしたその頃のことを思い起こします。あの難しい逆境の中でも道徳的な礼儀と配慮を忘れない「東方儀礼の国」を実感したものです。
その当時、隣の家クムヒの家は家族が5人でしたが、女性たちの活動が不足した家庭は食糧難のため多くの人が亡くなりました。三歳の子どもが一番はじめに栄養失調で死に、次に5歳の子どもが死んで、その次にはおばあさんが亡くなり、夫まで栄養失調で死亡することになりました。亡くなる一ヶ月前、その夫はとても腹を空かして私の家に遊びに来て、肉汁に白いご飯一杯だけでも思い切り食べられたら「恨」もみな解けるいいながら、鬱憤を口にしていました。皆誰もが同じで、どの家庭も食べ物がなく、少しあっても人に与えると自分も生きながらえることができなので、新しくご飯を炊いてあげることができませんでした。お客さんとしてキムチだけでも思いっきり召し上がるように食卓に出すと、見苦しいほどガツガツと美味しいと食べていたことが、昨日のように思われます。我が家は豆腐カンチを食べられるだけでも他の人びとから羨まれるほどでした。
トウモロコシ皮の飼料と豆腐カンチで母豚を育てれば、産んだ子豚でお金を得られるし、母豚の肉をキログラム相当のトウモロコシと交換で受け取れます。しかし、それは散々苦労した末にできたのであって、勤労精神と忍耐心がなければできません。そして何より家庭の一致協力が大切です。

「各家庭の箸とスプーンの数を把握しなければならない」恐るべき100万人監視網と汚れきった恐喝ビジネス ー元国家安全保衛部中佐 崔見準ー
(別冊宝島2516号脱北者が明かす北朝鮮 発行日2016年11月15日)

「北朝鮮の中に、保衛部の目の届かないところなどありません」
保衛部中佐の階級章を付けたまま脱北した崔見準氏は、ソウル市内のオフィスの一室でこう口を開いた。2008年に脱北した崔氏は、保衛部での勤務経験がある脱北者の中で二番目に高い階級であった人物だ(ほかに大佐の階級のまま脱北した人物が存在するが、メディアとの接触を絶っている)。
国家安全保衛部(以下、保衛部)ーー3代にわたる世襲独裁にとっては守護神、国民にとっては疫病神のようなこの組織については、多くの脱北者が断片的な証言をしてきたが、全体像は今なお整理し尽くされたとは言い難い。インタビューで明らかになったのは、金と欲望にまみれた組織の現実だった。知られざる保衛部の真の姿に迫る!

《保衛部は捜査から逮捕、処刑まで単独で行える》

ーー保衛部の仕事としてよく知られているのは、北朝鮮と中国の間の携帯通話を盗聴したり、海外ドラマや映画を取り締まったりすることです。悪名高い管理所(政治犯収容所)を運営していることでも知られている。組織としての本文はどこにあるのでしょうか。ーー

崔: 国家安全保衛部は、文字通り国家の安全を保衛することを目的としています。国家とは金日成、金正日、そして金正恩という最高指導者のこと。指導者の領導(教え・命令)が隅々まで行き届き実践されているか、反発する不純分子はいないかを監視し、必要とあればこれを除去する(反探)。こういった目的のもと、北朝鮮国内のあらゆるコミュニティに入り込み監視の目を光らせている。さらに外国から間諜(スパイ)が入り込むのを阻止する防諜活動も行っています。

ーー聞いた感じでは、韓国の国家情報院、日本の公安警察と公安調査庁を合わせたような組織のような感じですね。ーー

崔: 保衛部の特徴は、捜査から逮捕、起訴、裁判そして処刑に至るまで、すべてを行う権限が与えられ、執行する機関と人員を擁している点です。情報の収集分析が主業務である他国のそれとは大きく異なります。例えば、保衛部は独自の判断で、ある特定の囚人を管理所に送ることができます。

ーー北朝鮮の歴代指導者は自国の国民を潜在的な犯罪者とみなしてきたのでしょうか。ーー

崔: どの社会にも不平不満を言う人たちがいますが、北朝鮮の場合は特別なのです。自由が与えられないまま経済的に苦しい生活が長く続いているため、不満の質が他国のケースと異なるという点を、政権が十分に理解しているといえます。国民を野放しにするということは、不満を蓄積し結集させ、政権の崩壊につながると恐れている。国民の動静が最高権力者の最大の関心事にならざるを得ないんです。

ーー約2500万人もの人口をすべて監視することは不可能ではないですか?ーー

崔: 「情報員」、つまり保衛部に雇われるスパイの存在を知る必要があります。監視網はこの情報員抜きには語れません。保衛部員は自身の担当する地域にあるすべてのコミュニティに情報員を配置し、定期的に情報の提供を受けます。「家ごとの箸とスプーンの数を把握しなければならない」とは保衛部員の心得を表す表現としてよく使われますが、ただの比喩ではありません。保衛部員1人当たり20〜30人ほどの情報員を傘下に置いています。

ーーあまり知られていない事実ですね。情報員には誰でもなれるのですか。ーー

崔: 特定の地域や分野に強く、信頼できる人物を保衛部員が選抜します。きちんと秘密保持の誓約書まで書かされます。情報員になると、担当した内容についての報告を週に数度しなければなりません。地域の人民委員会(役場)に行くと保衛部員の部屋があるのですが、ドアに小さな切り込みがある。これは情報員が夜に情報を書いたメモ紙を投げ入れるためのものなんです。朝になるとちょっとした山になっており、保衛部員はこれに残らず目を通し、街で起きていることを知るのです。

ーーそもそも保衛部員にはどんな人がなるのですか。ーー

崔: 絶対的な条件として、思想が強固であると同時に、出身成分(土台)が良くなければなりません。このため、祖父も父も保衛部員であったという一種の世襲が多いのが特徴です。世襲の割合は7割を超えます。

《打倒ビラ事件で犯人逮捕に至った事例》
ーー保衛部員は全国にどれくらいいるのですかーー

崔: 私の経験から、正規の職員は5万人程度とみています。

ーーそれぞれに20人〜30人の情報員がいるとなると100万人を超えますね。人口の5%にもなる。情報員の役割が分かる実例がありますか。ーー

崔: 2001年に南浦市で「金正日打倒」というビラが電柱に貼られる事件がありました。捜査が難航する中、ある情報員が、軍を生活除隊(何かしら罪を犯した結果による不名誉除隊。社会復帰が難しい)になり、当局に恨みを抱いている友人が犯人の可能性があると目星をつけました。なんとか証言を得ようと情報員はその友人と酒を飲み、体制批判まで交えながら「ビラ事件知っているよね。やった奴は勇気がある。おれもやりたいぐらいだ」とカマをかけた。気を許していた友人は「自分がやった」と告白し、続く「ビラをどこでどう作ったのか」という質問にも酔いのためか正直に「車庫でガリ版刷りをやった」と答えたのです。友人が寝入ると情報員は地域の保衛部に駆け込み、すぐに車庫のガサ入れが行われ、逮捕されました。結局、絞首刑になりましたが、自分が信頼していた友人が情報員だったことに、最後まで気づかなかったはずです。

ーー誰が情報員なのか見分けることはできないのですかー

崔: 情報員を把握しているのは、雇用した保衛部員だけです。ほかは誰も知らない。北朝鮮では3人が集まる場合、1人は情報員、つまり保衛部のスパイであるというのが一般的な認識になっています。だから皆、体制への批判などはいくら近い人との間でも絶対にしない。情報員はどんな集まりにも紛れ込んでいます。たとへば将軍たちの集まりのもいるし、管理所(政治犯収容所)の中にも情報員がいます。管理所の同じ収容者として対象に近づき、数年かけて信頼関係を築くほど徹底しています。対象も初めは疑っていたのが2年、3年となると気を許し、収容所でみじめな生活をさせている権力者に対する不満を明かしてしまうんです。情報員はここぞとばかりに密告する。対象が処刑されると、情報員は晴れて釈放となります。

ーがんじがらめの恐ろしいシステムですね。いったい誰が作り上げたのでしょうかー

崔: 基本的には、国内の過酷な権力闘争に勝ち残った金日成の時代に出来上がり、金正日が1970年代から後継者として政治修行を積む中でより精緻になったと見れば間違い無いでしょう。金正恩はその「遺産」の上にあぐらをかいているだけです。

《「見逃す代わりに対価を 」恐喝ビジネスが横行》
ーー保衛部は今もきちんと機能しているようですね。我々も北朝鮮内部の協力者と協力して取材を行なっていますが、保衛部の力が弱まったという事実は聞きません。ー

崔: 表向きはそうです。先ほど説明したような監視システムが今も生きています。ですが中身はここ20年、ですから「苦難の行軍」以降で大きく変わったと見なければなりません。

ーー1990年代後半の「苦難の行軍」期に、保衛部も瓦解する一歩手前であったという話は別の保衛部出身者から聞いたことがあります。ーー

崔: 瓦解というよりも、「保衛部も『苦難の行軍』をした」と捉えるのが良いでしょう。90年代半ばには、保衛部も食糧配給が途絶えたからです。家族を養わなければならないのに、今すぐ 食べるものがない 。しかしよく見ると、当時徐々に活性化してきた市場経済の中でがっぽり稼いでいる住民がいる。保衛部の連中は当時、びっくりした訳です。ただの庶民がなぜ良いものばかりを食べているんだと。でも、ここに付け入る隙があった。北朝鮮という社会は個人が稼いで暮らすシステムになっていないので、お金儲けをしようとすると、必ず違法行為を犯すことになるんです。この点に目をつけて、保衛部の権力をちらつかせながら「 見逃す代わりに対価をよこせ」という新たな“ビジネス”が始まったのです。

ーー国家が食べさせてくれないから、自分でなんとかするしかないということですね。ー

崔: 脱北する以前、私の任務は南浦南浦港を拠点に、西海(黄海)を舞台に行われる諜報活動などの違法行為を取り締まることでした。南浦は中国などとの貿易の最前線でしたので、様々な船が行き来していました。そこで私たちはどう金儲けをするか考えるのです。例えば領海に入ってくる中国側の漁船を拿捕し、船を引き取る際に手数料を要求します。ほかにも毎年、北朝鮮と貿易を行うための許可証を発行する際に、「韓国とも取引関係にある中国の貿易会社に発行しない」という規則を逆手に取るんです。年初に中国・丹東市で中国側の総経理(社長)たちを集めて許可証について話し合う機会があるのですが、彼らにはあらかじめ我々が渋っていることを伝えておく。すると彼らは10万ドルを包んで持ってくる。こちら側としても、受け取らない手はない。「分かった、オーケー、許可証は出そう」となるんです。

ーーそうして受け取った10万ドルはどこに行くんですか?ーー

崔: 私の部署では年に200万ドルを党に納める外貨ノルマがありました。大部分はこれに充てます。さらに私が組織で地位や役職を維持するために上司(部長)への“付け届け”も必要です。これは地位にもよりますが、上司1人当たり年に1万ドル以上、合計で5万ドルはかかります。また、私も家族がいるので、生活費にもなります。

ーー麻薬、人身売買など、政府が厳罰で臨むと公表している罪状でも賄賂が効くのですか?ーー

崔: 体制を批判する以外の罪状は、お金があればすべて解決できます。

《情報員の違法行為を見逃して儲けさせる》
ーーいやはや。北朝鮮はお金で何でも解決できる社会になりつつあるとは言いますが、今やその波は保衛部まで押し寄せているのですね。地位もお金がなければ維持できないのですか。ーー

崔: 当然です。なぜなら先の許可証の例でもそうですが、私も違法行為を行っているのですから。上司の胸三寸でいつでも犯罪者になり得る。それを未然に防ぐ必要があるのです。そのためにはお金がどんどん必要になる。だから私は保衛部に勤務していた当時、頭の中の7〜8割は「この事件でどうお金を稼ぐか」という考えで占められていました。

ーーそんな状態で、本来の任務はおろそかにならないですか。ーー

崔: 反探、防諜などの本来の任務はこなすのです。その中で金儲けをする手段を見つけていくということです。韓国ドラマのDVDが流入しコピーが拡散するといった事件の場合は、事件は事件で取り締まり、一味を逮捕します。その中で主犯格を中心に裕福な親類縁者がいる人物を調べ上げ「お宅の親類がこのままでは死刑になる」と脅迫の電話をするんです。すると慌てて数万ドルの現金の付け届けが来る。こうして賄賂を納めた人物は無罪放免となる一方、他の人物は処罰を受け、事件は一件落着となるのです。

ーー違法行為を見逃すといっても、いろいろパターンがあるのですね。ーー

崔: 先にお話しした情報員についても同様です。情報員には国から給料が出るわけではありません。しかし実際に捜査を手伝うためには経費がかかりますし、動いた分だけの対価も必要です。そこで保衛部員は、配下の情報員の違法行為を見逃して、稼がせてあげるんです。どこかで砂糖の密輸が行われているとの情報を入手すると、それを情報員に教えてあげて「稼いでこい。でも密輸業者の名簿は提出しろ」となるんです。万一、密輸の過程で人民保安所(警察)に逮捕されても、情報員はお咎めなしです。保衛部員が派出所に出向いて「彼は我々の人物だ」とひとこと言えばそれで終わり。

ーーすごい現実ですね。まるで違法行為を奨励しているようでもあります。保衛部という地位と権限を最大限に生かして稼いでいるのですね。ーー

崔: 私だけがやっていたわけではありません。周囲のすべての保衛部員が同じことをしていました。

《保衛部員の存在が「統一」の鍵を握る》
ーーお金にまみれた現状は、金正恩政権にとってどんな影響をもたらすのでしょうか。保衛部にはもっと配給や福祉を充実させるべきなのではないでしょうか。ーー

崔: 配給は出ているんです。私もずっと一人当たり毎日700グラムの食料と、月給1万2000ウオンを受け取っていました。しかし人間はコメだけを食べて生きていくわけではありません。月給もタバコ数箱を買ったら終わりです。それよりも格段に稼げる方法を知っているし、すでに“お金の味”を十分すぎるほど知ってしまったので、今さら国家の配給うんぬんの話ではありません。

ーーそれでも保衛部は情報員によるネトワークを張り巡らし、処刑もいとわないなど、金正恩体制を社会のあらゆるところで支えているからこそ、権力が保障されていますよね。そしてその権力を利用してお金儲けをしている。こうなると、保衛部と金正恩体制は完全に一蓮托生といっても良いのではないでしょうか。

崔: そう言えないこともないですが、最高指導者は一つの部署に権力を集中させることはしません。現在、党の重要部署である組織指導部の秘書(書記)の席は空いていますし、保衛部長の席も金正日時代は空席のままでした。もちろん保衛部がきちんと役割を果たしている限り、これまでと同じように住民蜂起やクーデターが起こる可能性はゼロと言って差し支えないでしょう。ただ、見過ごしてはいけないのは、繰り返し述べてきたように、保衛部はお金の味を知ってしまったということ。ここに一つの可能性がある。

ーー保衛部が金正恩体制を揺るがす可能性があるということでしょうか。ーー

崔: まだ仮説に過ぎませんが、韓国の朴槿恵大統領が2016年8月15日の光復節に行った演説にそのヒントがあります。演説では、金正恩と、その下にいるあらゆる人間たちを明確に区分し、統一への協力を呼びかけました。(注@)。これには当然、保衛部も含まれます。もう一歩踏み込んで、保衛部に対しこう伝えるのです。「今、あなた方が享受している生活水準と同等もしくはそれ以上の生活を保障しますよ」と。

ーーつまり正恩から利権を奪い取り、世界とつながれということですね。果たして可能なのでしょうか。ーー

崔: 今すぐどうというわけにはいかないでしょう。しかし、こうした「インセンティブ」があるというメッセージを絶え間なく発信し、いずれは金正恩氏を裏切るように仕向けていく必要があると確信しています。

注@統一への協力を呼びかけ
演説の該当部分は以下。「北朝鮮当局の幹部たちとすべての住民のみなさん!統一はあなた方すべてがいかなる差別と不利益をこうむらず、平等に待遇され、個人の力量を心のまま発揮し、幸福を追求することのできる新たな機会を提供します。(中略)核と戦争の恐怖が去り、人間の尊厳が尊重される新しい朝鮮半島の統一時代を開くのに参加してくれるようお願いします」


《庶民の暮らし 極貧地域の実態と地方都市のインフラ・公共サービス破綻の現場》

【水道がなく4キロ先の小川へ水を汲みに行く】

立ち並ぶ高層ビル、朝夕の渋滞、明るくて小綺麗な人々のファッションーーー最近、北朝鮮を訪れた外国人から、過去には考えられなかったような豊かな北朝鮮像が語られる。しかし平壌から一歩外に出ると、色のない街並み、荒れ果てた山々が目に入る。富の集中する平壌とそれ以外の地方では、とてつもない格差が存在するのだ。
地方の中でも、中朝貿易で潤う新義州、恵山、羅先などの国境都市群は比較的豊かな町だ。一方で、極貧生活を強いられる地域も少なくない。その一例が、南西部・黄海北道の山間地域だ。この地域には、水道すらないというのだ。現地在住の李さん(仮名・男性)はその現場を次のように語る。
「遂安郡には一部しか水道がない。梅雨時には雨水が、冬から春にかけては雪解け水が使えるが、それ以外の季節には4キロも離れた小川や溜池まで水を汲みに行かなければならない。しかも、水は汚染されているので、人々は皮膚病にかかり、肌がガサガサでドス黒くなっているのです。
近辺には、タングステンや金が採れる鉱山があり、そこからの排水に汚染された水を飲んでいるもと思われる。しかし、住民たちはあきらめ顔だ。
「金正日時代から金正恩時代になっても何一つ変わらない。『お上は、経済発展五カ年計画で人民生活を改善するとか言っているが、水の問題一つ解決できないくせして、何が発展だ』と不満を口にする人もいる。しかし、ほとんどが『どうせ他の地域の暮らしむきも似たり寄ったりさ』と不満を飲みこんでいる」(李さん)
冒頭で述べた通り、平壌や国境都市はよほどマシな環境にあることを李さんは知る由もない。1000メートル級の山に囲まれたこの地域は、幹線道路、鉄道から離れており、人口も少ないため、外部からほとんど商人がやってこない。メディアが政府により完全に統制されて入り北朝鮮で、各地を行き来する商人は情報を伝える重要な役割を果たしている。彼らが来ないとなると、地域はたちまち情報から隔絶される。さらに、現金収入が少ないため、密売されているラジオを買って、韓国の放送を聞くこともできない。外の世界を知らないから、特に不満が生じないというのだ。

一方、北部山間地地域にある両江道の一部農村では、1990年代末の大飢饉「苦難の行軍」から今に至るまで一切電気が供給されていないと、隣接する咸鏡北道出身の脱北者・呉さん(仮名・男性)が話す。
「お上が90年代末、『稲作にはポンプや脱穀機など電気が必要だが、コメが栽培できず、トウモロコシを栽培しているこの地域には電気は不要だろう』という理屈で、農村地域への電気の供給を完全に止めてしまったのです」
くず鉄として換金できる金属が多く使われている送電設備はあらかた盗まれてしまった。地域の人が電気のある生活をするには、電線をはじめから引き直さなけれならない。ネオンがまばゆく光り、タワーマンションが立ち並ぶ平壌。その一方で、江戸時代のような暮らしをしている人々がいる。それが北朝鮮の地域格差の現状だ。

【医者も逃げ出した?!無償医療制度の崩壊】

花が咲き乱れる前庭で、楽しげに語らう医師と患者。北朝鮮のメディアにお約束のように登場するそんな画像は、北朝鮮の無償医療制度を宣伝するためのものだ。この無償医療とは1960年代に導入されたもので、『我が国の都市と農村はもちろん、山奥の村と人里離れた島に至るまで、人民が暮らす全ての場所に病院と診療所ができ、人民たちは無償治療制の恩恵を心ゆくまで享受できるようになった』(「労働新聞」)らしい。ところが、その中身はお粗末極まりないものだ。
曲がりなりにも達成されていた無償医療は、『苦難の行軍』で崩壊してしまった。基本的な治療から手術に至るまで、金がなければ一切の治療が受けられなくなってしまったと、脱北者は口をそろえる。
咸鏡北道出身の脱北者・金さん(仮名・女性)は、道の病院で急性虫垂炎の手術を受けた2011年の状況を振り返り、次のように語る。
「手術に入る前、家族が医者から呼びつけられた。手術費用について話し合うためだが、道具消毒用のアルコール、脱脂綿、手術室使用料、さらには医者や看護師にわたす心付けまで細かく打ち合わせをするのです。こうした費用について事前に話をつけなければ、そもそも手術が受けられません。結局、医者に5万ウオン、補助士に3万ウオン、看護師4人には1万5千ウオンずつ渡すことになりました」
当時のレートで換算すると、手術費用は計約5000円。北朝鮮では大金なのだ。
もちろん薬も有料だ。咸鏡北道の病院で運転手として働いていたという脱北者の崔さん(仮名・男性)は、形成外科で3度の皮膚移植手術を受けた時のことをこう語る。
「病院に行ったが、『薬はない』と言われて、処方箋を渡されただけだった。結局、薬屋で高値で買わざるを得なかった。製薬工場は、清津、咸興、順川など各地にあるのですが、原料不足でまともに稼働しておらず、生産量が少ない。さらにそこから軍事用、幹部用に優先的に回された上に、工場労働者の横流しもあり、患者の手元に届くのはわずか。その医薬品を、医長など病院幹部が患者に売りつけるのです」
そんな国営病院に見切りをつけて、無許可の民間病院を訪れる人が増えている。咸鏡南道のデイリーNKの情報筋は
「最近、国営病院には患者がほとんどいない」として、その実情を次のように語る。
「国営病院は、腕のいい医師はほとんどが辞めてしまい、勤めているのは医大を出たての新人ばかりだ。もといた医師たちは薄給に耐えかねて病院を辞め、個人で病院を開業している。大がかりな設備はないが、腕もよい上に調剤までしてもらえるので、薬を探して市場を彷徨い歩く必要もない。幹部やトンジェ(金主・新興富裕層)の家に往診に行くこともある。それに国営病院は、職員が様々な政治行事や思想学習を強制されており、医師が診察、治療に充てられる時間が短い。治療をしてもらうには医師や看護師への賄賂が必要になる。個人病院ではそんなものは必要ないので、結果的に安くつくのです」
当局のプロパガンダに登場する病院は、ごく一部の限られた人だけの特権なのだ。これが、共産主義を標榜していた北朝鮮の現実だ。

【賄賂で学校を欠席 公教育破綻で塾が流行】
医療と並び、北朝鮮が「無償」と宣伝するものはいろいろあるが、教育もその一つだ。しかし、カネがなくては学校にも通えないのが現実だ。やはり「苦難の行軍」のときに、制服もノートも教科書も有料化され、市場で買うよう求められるようになった。学校は運営費も生徒や親から集めざるを得ない。それに応えられず、学校を去る子どもたちが出ている。前出の咸鏡南道の情報筋は、そんな子どもたちの現状を次のように語る。
「冬になると学校から暖房費を出すように言われる。貧しい子どもたちは、冬休み返上で山に登り、薪集めをして“物納”するケースもあるが、提出が遅れると教師から『いつ持ってくるんだ』と叱責される。一方で金持ちの子どもたちにとっては大した額ではないため、現物の代わりに現金で支払い『優等生』扱いしてもらえる」

そんな現状をよそに、金正恩氏は『教育の現代化』なる方針をぶち上げた。『全人民科学技術人材化、科学技術強国化、人材強固化』を提唱し、各学校にパソコンなどの設備を導入せよとの指示を下したのだ。ところが、国家から予算が配分されないため、学校は親から半強制的に徴収している。
平安南道に住むデイリーNK内部情報筋は、次のように語る。

「高級中学校(高校)から、パソコン、グラウンドの芝生整備費用を請求され、計6万ウオン(約900円、コメ12キロ分)を学校に払わされた。経済的な負担が大きいため、子どもを学校に通わせるのをやめようかと考える親もいるが、批判が怖くて踏み切れない。こうした理不尽な党の指示に対し、ついに日本の植民地時代を引き合いに出して『あの頃は月謝を払えなければ学校をやめればそれで良かったが、今はそれすらできない』と嘆く声まで聞こえてきた」

一方で、塾や家庭教師などの私教育マーケットが拡大し、今ではトンジュや幹部のみならず、庶民層ですらなけなしのカネをはたいて、子どもたちを塾に通わせている現状もあると言う。

《貧しい家庭の子は冬山に登り、薪をとってきて物納する》

「親は、子どもに学校を休ませてまで塾に通わせる。それも数ヶ月から数年単位でみっちりと勉強させる本格的なカリキュラムだ。庶民にとっては、子どもに外国語などの実力をつけさせることが、貧困からの唯一の抜け道だからだ。だけど、無断の不登校は禁じられている。そこで賄賂を使う。まずは、学校を訪ねて担任教師や教務部の担当者に賄賂を渡し、『病気治療で長期入院』などの名目で欠席を認めてもらう。認められる期間は、賄賂の額次第。一般庶民なら3ヶ月から半年程度、トンジュなら1年〜2年は休ませることも可能だ」(前出の情報筋)

塾の講師は、元々は公立学校の教師で、薄給や遅配に嫌気が差して転身した人が多いという。北朝鮮の教育の柱は政治・思想教育だ。しかし「偉大なる首領様の幼年期」「朝鮮革命史」をいくら学んでも市場経済化が進む北朝鮮では、全く役に立たない。そうした中、生き残ることを考える教師たちと、公教育に不満を抱いている親たちの思惑が合致し、私教育ビジネスが隆盛を極めるようになったわけだ。授業料は講師の実力により異なる。普通の講師なら、中国人民元で月100元(約1600円)、「カリスマ講師」になると倍以上になり、マンツーマンの家庭教師になると月に10万円を超える場合もあるという。あまりにも国家が教育の責任を疎かにしていることから、北朝鮮の人々が学校に背を向けるのも無理もないことだろう。インフラ整備の遅れに、医療・教育制度の崩壊、首都の華やかさの陰で、多くの人民たちが犠牲になっている。

朝日新聞の罪深さと無責任は計り知れません。
不都合にはダンマリを決め込む悪質さ。
ー ケント・ギルバート著『世界は強い日本を望んでいる』より ー

私たちが朝日新聞に申し入れた「朝日新聞英語版の『慰安婦』印象操作中止を求める有志の会」への回答書は、一言で言えばゼロ解答でした。
私と山岡氏が中心となって呼びかけた署名は、最終的に1万5000人を超えました。これら多くの人々への回答が、「英語表現に関する申し入れに応じることはできません」の一文というのは、朝日の不適切な英語表記が「過失ではなく故意である自白」だと解釈できます。
朝日新聞の誤報とその後の不適切な対応は、海外在住の日本人を今も苦しめています。現に山岡氏は、オーストラリアのストラスフィールド市で、中韓反日団体による「慰安婦像設置」計画を知り、先に述べたAJCN(オーストラリア.ジャパン・コミュニティ・ネットワーク)を結成し、設置に反対しました。山岡氏の尽力で「慰安婦像設置」は阻止されましたが、慰安婦と何の関係もない南半球の街に突然、慰安婦像が建てられる。このような異常事態が起きるのは、朝日新聞による誤報訂正が、海外で明確に周知されていないからだと山岡氏は考えています。もちろん私も同感です。
情報の収集が仕事なのだから、朝日新聞の社内でも、史実と異なる慰安婦報道の悪影響により、アメリカに住んでいる駐在日本人と日系人の子供達がどのような目に遭っているかぐらい知っているでしょう。「お前たちの先祖は悪いことをした」「未来永劫謝罪しろ」などと、中国系・韓国系の子供達からいじめを受けているのです。
いつも「人権」について熱心に報じる朝日新聞の紙面で、現地の日本人が嫌がらせという人権侵害を受けている記事が掲載されたことはありません。それどころか、口をつぐみ、だんまりを決め込む始末。これが日本を代表すると思われてきた新聞社の正体です。
戦時中、慰安婦は存在しましたが、日本軍に直接雇われた「従軍慰安婦」は一人もいませんでした。ましてや、官憲に強制連行されて無理やり慰安婦にさせられた女性などいなかった。それは朝日新聞がでっち上げ、拡散させた作り話しです。
その作り話しを世界中の人々が信じ込み、日本と日本人は不利益を受け続けている。それでも朝日新聞は世界に向けて「あれは作り話しでした」と発信しないのです。その罪深さと無責任さは計り知れません。
さらに言えば、慰安婦の問題は昭和40年(1965)の日韓基本条約締結時に解決済みです。日本は韓国の国家予算の2年分に相当する8億ドル以上のお金を「経済協力金」として支払っています。その資金を使って、韓国政府が個人補償を行うと約束したのです。先頃、閣議決定された平成31年(2019)度の予算案が101兆円ですから国家予算の半分近く、どのくらい莫大な金額だったかがわかります。ちなみに韓国は「戦勝国」ではないので、日本が提供した資金は「賠償金」ではありません。
また韓国は、平成27年(2015)の日韓合意を無視するかのような態度を取り続けています。さらに今度は、徴用工の問題を蒸し返しています。韓国政府は李氏朝鮮時代の特権階級である両班がそうだったように「ユスリ・タカリ」を恥だと思っていません。
そして、このようなことになった大きな原因が、朝日新聞の慰安婦に関する「虚報」にあったといっても、まったく過言ではないでしょう。
朝日新聞が「報道機関」を名乗りたければ、いつまでも中国や韓国に迎合するような記事ばかり載せるのではなく、反省の意味を込めて、史実に基づいた記事を積極的に掲載すべきです。ですが、確信犯のプロパガンダ機関なので、その見込みはありません。

【ソウルからヨボセヨ】保守派の怒り爆発
ー 黒田勝弘 、産経外信コラム 2019.10.5 ー

韓国の建国記念日にあたる「開天節」の3日、ソウルの都心を埋めた大規模デモは、家族がらみのスキャンダルで国を揺るがせているチョ・グク法相と、彼を擁護する文在寅大統領に対する反政府・保守勢力の怒りが爆発したものだった。先週末の政権支持の対検察圧力デモは「自称200万人」だったが、今回のデモはそれを上回ったことから、保守・野党側は「300万人」を主張している。

数字は互いにかなりオーバーだが、保守系のデモがこれほど盛り上がったのは珍しい。印象的には過去最大か。朴槿恵前大統領を辞任に追いやった当時の反政府派による、あの「ロウソク・デモ」より多かったかもしれない。それにデモの参加者が実に多様で、上京組をはじめ、日頃デモとは無縁な感じの年配者や中年女性が目立った。政権支持の左派・革新系のデモとは異なる、どこか「普通の人たち」という雰囲気は、保守勢力の大きな部分をキリスト教徒が占めていて、いわば「善男善女」が教会ぐるみで参加しているせいでもあるが。

韓国政治は与野党、保革真っ二つで街頭対決の様相だ。カッコよく言えば双方が“直接民主主義”でぶつかり合う図式だが、デモという、いわば街頭政治で政権を取った文政権が今度はブーメランで非難・攻撃されている。

韓国で長引く日本製品不買運動、韓国企業への影響が徐々に明らかに
ー ニューズウイーク 9月27日 ー

【韓国で長引く日本製品不買運動、韓国企業への影響が徐々に明らかに】
ー 韓国企業と韓国従業員の影響が徐々に明らかになってきている ー

日本製品の不買運動が長引く韓国で、韓国の食品業や旅行業を中心に被害が拡大している。一方の日本の素材メーカーは、グループA(ホワイト国)除外で今後の輸入に不安を持つ韓国企業から在庫を積み増したいという“特需”が寄せられているなど、韓国側の被害が大きい実情が明らかになっている。

ー 日本製ビールの輸入販売企業は、週一回の無給休暇を導入ー

サッポロビールの輸入販売を行うエムズビバレッジは8月から65人の全従業員を対象に週一回の無給休暇を導入した。乳業大手の毎日乳業を傘下に持つ毎日ホールディングスが設立した輸入会社で、不買が長期化すれば事業を整理する可能性もあると業界は観測する。
ロッテアサヒ酒類は、例年、夏のシーズンに広報活動を展開してきたが、今年は7月4日以降中断している。アサヒビールの販売促進を請け負う広告代理店等は受注がなく、2次被害を受けている。キリンビールの輸入販売を行うハイト眞露とサントリーを扱うOB麦酒は、損失を日本以外のビールで補填するが、2009年以降一位を維持してきた日本ビールの8月の輸入は13位まで後退した。
日本の財務省が集計した8月の貿易統計によると日本の韓国向け食品輸出は前年同期比40.6%減だったが、輸入会社の在庫がかさんでいる。消費期限が切れた食品は処分する以外になく、日本食品を扱うある輸入会社は不買運動の影響で処分する食品が15億ウオンに達すると試算する。

ー LCCは従業員の無給休暇を計画、小売業の従業員も ー

旅行業界も深刻だ。旅行大手のハナツアーは、日本担当チームの半数以上を東南アジアや欧州を担当する部署に異動させたが、低価格航空会社LCCイースター航空は10月から従業員の無給休暇を計画する。ウオン安と燃料の高騰で累積赤字が膨らむ同社に「ボイコットジャパン」が追い打ちをかけたのだ。
訪日韓国人の激減で対馬にある韓国系観光業界も悲鳴を上げている。夏休みに1日3000人以上訪れていた韓国人観光客が200人台まで落ち込んだのだ。新たに開業した宿泊施設や食堂、土産物店は韓国資本が多く、対馬で観光に従事する200人あまりの韓国人従業員が被害を受けている。
撤退が噂される企業もある。2019年9月6日、フィナンシャルタイムズが、韓国日産が撤退を検討中と報じている。8月の日本車販売は、レクサスは前年をわずかに上回ったが、トヨタとホンダは半減、日産は販売数が58台にとどまった。撤退に際して従業員が関連企業等へ再就職できるよう支援するケースはあるが、ルノーサムスン自動車もリストラを進めている。生産の半数を占める日産からの委託契約が終了するのだ。もし撤退が決まれば70人近い韓国人従業員の多くが仕事を失うことになりかねない。
一方、真っ先に不買運動の槍玉に上がった韓国ユニクロは9月と10月に3店舗を閉店するが、入居するショッピグセンターの閉店などで不買とは関係がない。利用客は激減したが9月6日に安養店、20日には富川店をオープンさせており、従業員の有給休暇を検討するほか大きな変化はないようだ。

ー 日本企業への影響は一部を除き限定的 ー

日本製品の不買運動を受けて韓国企業と韓国従業員が被害を受ける一方、日本企業への影響は、九州などの一部の観光業を除くと限定的とも言えそうだ。8月の訪日韓国人が前年度比48%減少したが、訪日観光客全体で見ると2.2%減になる。日本の韓国向け輸出は主に材料や部品で、不買運動の対象になっている消費財は6%に過ぎないという事情もある。
日本の財務省が発表した8月の貿易統計では、8月の韓国向け輸出が前年度比9.4%減となった。韓国のマスコミは不買の影響を示唆するが、徐々に進行していた半導体不況もある。文政権の誕生以降、空洞化が加速し、半導体等の製造が落ち込んでいるのだ。すでに2019年上期の段階で、日本の対韓輸出は、自動車が増加したものの、半導体、半導体製造装置などが減少し、前年比13.3%減だった。
また、日本の素材メーカーにグループA除外で今後の輸入に不安を持つ韓国企業から在庫を積み増したいという“特需”が寄せられている。
日本製品の代替品開発を後押ししたい文政権だが、韓国企業は複数の企業から輸入した素材で部品をつくり、製品に使用する。一つの素材を代替しても組み合わせた時に期待通りの性能を発揮するか不安があり、韓国企業は日本からの輸入を継続したい考えもあるという。
私の周辺でも、日本人が経営する日本料理店は出前が好調と聞く。利用客の減少に店に出入りする姿を見られたくない背景があるが、注文品を外から窺えない出前は人目を気にせず楽しむことができるということもあるのだろう。
2019年9月20日、サムスンのトップ、李在鎔サムスン電子副会長が日本を訪問した。名目はラグビーW杯日本大会開会式への出席だが、日本とのパートナーシップを内外にアッピールする目的とみられている。硬直的な双方の政府の解決を待つ前に、民間で自ら対応しようということだろう。

「逆ギレ」で自ら危機を招く、日韓は経済戦争なのか?
ー 産経新聞 編集委員 田村秀男 令和元年9月22日ー

ネット版の百科事典「ウイキペディア」についに、「日韓経済戦争」という項目が登場、驚いた。日本側は冷静に国際ルール順守を求めているのに、韓国側が逆ギレして一方的に反日策をエスカレートさせている実相とは違う。日本製品ボイコット、日本との軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄、さらには輸出管理優遇措置を適用する「ホワイト国」から日本を除外するなどの行為のことだ。韓国は自らの手で金融危機を招き入れかねない。
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韓国経済の中核はサムスンなどハイテク企業であり、言わばサムスンとハイテクのモノ(単一)経済である。サムスン・グループを筆頭とする韓国の10大財閥の合計売上高は韓国GDPの7割を優に超える。株式市場もハイテク銘柄が中心で、サムスン株が引っ張る。ハイテクの要、半導体産業の動揺は韓国経済全体の危機なのだ。半導体、スマホなどハイテク需要は整理局面に入り、最大手のサムスン、ナンバー2のLG電子も海外向け売上高は大きく落ち込んでいる。
日本のハイテク関連の輸出管理の見直しは「禁輸」でもなんでもなく、正常化にすぎない。だが、フッ化水素など半導体生産に欠かせない材料が計画通り入手できなくなるとの懸念が韓国内で喧伝されている。韓国の反日政策が追加されるごとに、外国人投資家は一層、神経過敏になる。
アジア通貨危機のような金融不安再発の恐れについて、韓国当局は3900億ドル余りの外貨準備をタテに、真っ向から否定するが、果たしてどうか。外準はそもそも透明性に欠ける伏魔殿である。
外準減少幅は8月時点で前年比2・4億ドルに過ぎないが、6月末時点で前年比565億ドルも対外負債を増やした結果である。逃げ足が速いポートフォリオ投資は6月末時点で4700億ドル近い。短期の借り入れ700億ドル弱など対外短期債務が約1300億ドルに上る。
要は「ラストリゾート」(最後の頼みどころ)となるはずの通過スワップ協定の存在だ。韓国は中国と協定を結んでいるが、中国自身、外貨借り入れを増やして外準を3兆ドル台で辛うじて維持できるありようで、外貨融通のゆとりは皆無である。
危機感を抱く韓国経済界は水面下で日本にスワップ協定再開の秋波を送るが、日本の財務省幹部は「応じるようなら(国内世論に)殺されますよ」とにべもない。文在寅政権が自滅を避けるためには、まず日本との国際合意をきちんと履行すべきなのだ。

韓国破棄「自害行為だ」李相哲龍谷大学教授ー大阪「正論」懇話会
ー産経新聞 令和元年9月2日 ー

実録 韓国のかたち 番外編 こわれゆく国家(7) 李相哲龍谷大学教授
ー産経新聞 令和元年9月2日ー


【正論懇話会】ー令和元年9月2日 産経新聞ー
大阪正論懇話会の第56回講演会が2日、大阪市北区のホテル阪急インターナショナルで開かれ、龍谷大教授の李相哲氏が「岐路に立つ朝鮮半島ー日本はどう向き合うのか」と題して講演した。
李氏は、「文在寅大統領は2018年9月に平壌で行われた南北首脳会談で、過去に盧武鉉政権が合意した開城工業団地の拡充、南北の鉄道連結や高速道路建設などの経済協力の履行を約束したが、会談からほぼ1年たつのに何も進んでいないことに北は不満を持っている」と説明。韓国が北朝鮮にコメ5万トンの支援を表明したにもかかわらず北朝鮮が短距離弾道ミサイルを何度も発射していることについて「ミサイル発射は『約束を忘れたのか』と履行を迫るものだ」と指摘した。
また韓国が日本との軍事情報包括協定(GSOMIA)の破棄を決めたことについて、「破棄は自害行為だ」と指摘。GSOMIAは日韓の軍事的連携を重視する米国が主導したことを説明し、「米国が破棄を批判した直後、韓国は国内26ヶ所の米軍基地の早期返還を求めた。これは米への反発だ」と強調。「文政権は、腹がたつと冷静さを失う政権だ」と指摘した。
《講演要旨》
北朝鮮の対外宣伝サイト「わが民族同士」に8月28日、こんな映像論評が掲載された。「南朝鮮の人民は、進歩勢力は民主運動家でクリーンだと考えているようだが、まったくの間違いで米帝国より醜い存在だ」とし、韓国で法相に指名されだ国氏について「勉強のできない娘を大学に不正入学させた最低のやつだ」と非難した。
この論評が意味するのは、北朝鮮は文在寅政権を信用していない、見切っているということではないか。今後、内閣直属の朝鮮中央通信や朝鮮労働党中央委員会が運営する労働新聞に同じ論調が出てきたら、文政権と決裂するシグナルだろう。
なぜ、これほど北朝鮮が怒っているのか。
2018年4月、文大統領と金正恩朝鮮労働党委員長は軍事境界線にある板門店で首脳会談を行い「南北10.4宣言を誠実に履行する」と約束した。これは07年10月、盧武鉉政権時に南北が合意した経済協力のことで、開城工業団地の拡充や、南北の鉄道連結など多岐にわたるが、実現しなかった。文氏は18年9月には平壌での南北首脳会談で再び経済協力を約束したが、履行できていない。北朝鮮が今年5月からまたミサイルを撃ち始めたのは、文氏に約束の履行を迫っているのだと私は理解している。
文政権は、トランプ米大統領と金氏の合意によって制裁が緩和すれば、すぐに経済協力を実行できるよう準備していた。しかし、今年2月にハノイで行われた米朝会談は物別れとなった。
これは金氏に非核化の意思がないとわかったからだが、北朝鮮は一度もこの問題に関しては嘘を言っていない。金氏が言う「朝鮮半島の非核化」とは、北朝鮮だけでなく韓国も非核化しろということだ。韓国は米の核の傘の下にある。いつでも核を持ち込める在韓米軍を追い出せという意味なのは明らかだが、文氏はトランプ氏に「金氏は非核化に確固たる意志がある」と伝えていた。
韓国が日本との軍事情報包括保護協定を破棄したことで、文氏の基本的姿勢は反米だとはっきりした。GSOMIAは日韓の軍事連携を重視する米が主導して日韓が締結した。米国は国防総省、国務省ともに失望を強く表明し懸念を示し、韓国国内でも「自害行為」と批判されている。これに対し、韓国政府は駐韓米大使を呼び出す異例の行動に出て、米の反発を買った。本音では、米軍が韓国に嫌気を差して、出ていくことを望んでいるのではないか。
日本の安倍晋三首相は韓国以外とは良い外交関係を築いている。文氏は歴史問題で一回決着をつけただけではダメだというが、一回決着したものをもう一回議論しようとする人とは付き合えない。日韓は、慰安婦問題も徴用工問題もすでに決着をつけている。日本は徴用工問題で、韓国側に日韓請求権協定に基づく協議を働きかけてきた。それを無視しておいて、文氏は話し合おうという。
日本人は他人と争うのを避けてあいまいにするが、韓国とは事実に基づき間違いを指摘していかなければ、正常な関係は築けない。

【実録、韓国のかたち 番外編 こわれゆく国家】(7)ー産経新聞令和元年9月2日ー
=反日扇動 側近の資質に疑問=

娘の不正入学疑惑などで検察の捜査対象になっている前民情主席補佐官、゙国(チョグク)が法相内定を受けて秘書官を辞めたのは7月26日。同月4日から24日まで゙国はフェイスブックで50を超える日本批判をアップしていた。
「重要なのは進歩か保守か、左か右かではなく愛国か利敵かだ」「問題は日本の論理に部分的、または全面的に同調しながら、責任を韓国の最高裁と文在寅政権のせいにする韓国人がいるということだ」
この書き込みは、韓国国内でも激しい批判を受けた。民情主席秘書官たるものが国民を敵と味方に分けるのは、いかがなものかという批判だ。世論の批判をよそに゙国は書き込みをむしろ増やした。「文政権は国益守護のため徐煕・ソヒと(日本と戦った民族の英雄)李舜臣・イスンシンの役割を実行している」。徐煕とは高麗時代の有名な外交官。契丹が攻めてきたとき敵陣に乗り込み、敵将と直談判して6週間の時間を稼いだという伝説が残る。
一部の韓国メディアは、「゙国は民情主席の業務範囲を逸脱し『フェイスブック政治』を通して自分の存在感をアピールしている」と批判した。
゙国が異常なほど反日扇動に気勢をあげるのは「文在寅大統領の胸の内を一番よく知るから」(朝鮮日報)だという。
ソウル大教授など学者の立場から文を熱烈支持してきだ国は、これまでもフェイスブックで保守勢力を批判し続けてきた。2013年2月には前政権で外相を務めた尹炳世・ユンビョンセの聴問会で、尹の娘が適切でない方法で奨学金をもらったとの疑惑が取りざたされたことに「とんでもないことだ。教授の月給をもらっている私は私立大に通う娘に奨学金を申請しないよう言ったのに。この人間は財閥に比べたら豊かではないから奨学金を申請してもよいと思ったのだろうか」と批判した。
゙国の娘はこの翌年にソウルの大学院で奨学金を受給、不正入学が取りざたされている釜山大学医学専門大学院でも成績がふるわないのに奨学金をもらっていた。
保守系ネットテレビ代表の申海植・シンヘシクは「文政権にば国のように資質に疑問を抱かせる人物が多い」と話す。
゙国が青瓦台を去った後「日本批判」のバトンを受け継いだ国家安保室第2次長、金鉉宗・キムヒョンジョンがその一人だ。安保室第2次長は外交・統一政策のコントロールタワーに当たる。
8月2日、日本が韓国を輸出管理で優遇措置を取る「ホワイト国」リストから除外する政令改正を決定した時は、いち早く日韓軍事情報包括保護協定破棄検討を示唆、「われわれへの侮辱だ」と日本を糾弾した。
金はサムスン電子に海外法務担当社長として在籍していたが、当時の上司の評価は芳しくない。「彼は1年働いて3年分の給料をもらった。組織に溶け込むことができないタイプだったのでやめさせた」(コリア・ポスト)。韓国メディアによれば文が金を抜擢した理由は「闘鶏気質があるから」だという。「外相の康京和・カンギョンファも不合格人事だった」と申はいう。「康は韓国外交の表の顔であるが、文氏の言う通りにする以外何もできない」。元外交官の一人は、「GSOMIA破棄の決定を康は事前に知らされていなかったという報道があるが、それは事実だろう」と話す。
日本、米国と離反し北朝鮮に接近する文政権の姿勢は大韓民国の歩みを否定することでもある。東アジアの混迷は続く。

【実録、韓国のかたち、番外編、こわれゆく国家】ー産経新聞

対韓政策支持7割に、「日本の譲歩不要」67%
輸出管理強化 賛成9ポイント増
ー日本経済新聞 令和元年9月2日ー

日本経済新聞社の8月30日〜9月1日の世論調査によると、日本政府の韓国への対応を支持する人が7割にのぼった。韓国向けの半導体材料の輸出管理強化を強化したことは「支持」が67%で、「支持しない」が19%だった。前回7月の同様の質問より支持が9ポイント増えた。韓国との関係について「日本が譲歩するぐらいなら改善を急ぐ必要なない」と答えた人も67%に上った。

【日本政府が韓国向けの半導体材料の輸出管理を強化したこと】について
「支持する」67%
「支持しない」19%
「いえない・わからない」10%
「どちらともいえない」3%

【日本政府は韓国との関係について、どのような姿勢で臨むべきか】について
「譲歩するぐらいなら関係改善を急ぐ必要はない」67%
「関係改善のため譲歩することもやむを得ない」21%
「いえない・わからない」7%
「どちらともいえない」5%

【内閣支持率】
「支持する」58%、内閣支持率は6ポイント上昇
「支持しない」33%

男女別では2つの質問ともに男性の方が韓国に厳しい声が多かった。輸出管理の強化を支持したのは男性の78%に対し女性は53%だった。「関係改善を急ぐ必要はない」との回答も男性が74%、女性が58%だった。

韓国・8月15日、文在寅大統領の退陣要求集会には、
安倍政権批判集会以上が参加か ーNewsweekー

【文在寅大統領の退陣を要求する大規模な集会が行われた】
日本統治からの独立記念日である光復節2019年8月15日午後、ソウル光化門広場で文在寅大統領の退陣を要求する大規模な集会が行われた。韓国のキリスト教総連合会が主催した集会に、複数の保守系団体から合わせて主催者発表5万人、警察推計4万人が参加した。前日には日韓基本条約に基づいて韓国政府が日本から受け取った補償金の支払いを求める訴訟も提起されている。

【安倍政権を批判する集会も行われているが】
韓国では年間を通じてさまざまなデモや集会が行われている。大規模なデモや集会は光化門広場とソウル駅前で主に開催され、朴槿恵前大統領の罷免を要求する「ろうそく集会」もこの2カ所が主会場となっている。
日本を対象とする大規模なデモや集会は、それほど多くはない。日本人が巻き込まれる恐れがあるのは、毎週水曜日に日本大使館敷地前で行われている「水曜集会」と毎年3月1日の抗日運動記念日、8月15日の光復節前後に各地で発生するデモや集会である。
2019年の光復節は日本政府が韓国をホワイト国から除外する決定を行った直後で、折しもボイコットジャパン運動が広がっている。
光復節に大規模な集会が計画されているという発表を受けた在韓日本大使館は8月9日と8月13日、韓国に居住する日本人に向けて注意を呼びかけるメールを配信。外務省も海外安全情報で、韓国各地で日本関連のデモ・集会が予定されているという注意喚起を行なった。ソウル警察庁の発表は日時と場所、予定規模のみで主催者や目的は公表されない。時期的に反日集会と推定した。
日本大使館前で8月14日に開催された水曜集会には主催者発表で2万人が集まり、15日の夜にも安倍政権を批判する集会も行われた。

【文在寅大統領の退陣と米韓同盟の強化を訴える】
「8.15文在寅左派独裁政権退陣の日」と銘打った集会には野党の代表や議員、前青瓦台民政主席をはじめ、議員や弁護士、学生団体などが参加し、文在寅大統領の退陣と米韓同盟の強化を訴えた。
また、日本には韓国を統治した見返りに金銭を請求する一方、なぜ北朝鮮に朝鮮戦争の賠償を請求しないのかなど、文在寅政権の北朝鮮政策を批判する声も上がっている。
前日8月14日には、統治時代の徴兵被害者遺族83人が、憲法裁判所に1965年の日韓基本条約に基づいて日本から受け取った補償金を遺族に支給しないのは違憲だという申し立てを行なった。
韓国政府は徴兵の死者、行方不明者に2000万ウオン(約174万円)、負傷者には2000万ウオン以下の慰労金を支給したが、条約締結に際して韓国政府が日本に要求したリストに含まれていた被害者への補償金は国民に対して支給されていない。遺族らは、韓国政府が日本から受け取った無償有償5億ドルの中から補償金を払うことなく、経済協力資金として使ったのは横領に当たると主張する。

【日本製品の不買運動には不参加を表明】
文在寅大統領の退陣を要求する保守層は、朴槿恵前政権時代のいわゆる告げ口外交や李明博元大統領の竹島上陸を支持するなど、保守政権下では反日の旗を振ってきた層でもある。
個々の日本人に対しても謝罪を要求し、領土問題で議論を求めてきたが、現在、韓国で広がっている日本製品の不買運動には不参加を表明する。
日本人に文政権批判への同意を求めるなど、文在寅政権と対立する日本や日本人に歩み寄る姿勢を見せている。韓国の主要メディアは退陣要求デモを報道していない。

日本のみなさん、偽物の大統領・文在寅は韓国国民が引きずり降ろします
メデイア・ウオッチ代表顧問 邉煕宰
ー月刊誌『Hanada』2019年10月号よりー

日本の皆さん、私、邉煕宰(ピョン・ヒジェ)は1974年に韓国のソウルで生まれ、ソウル大学校の人文大学を卒業しました。去る20年間、ジャーナリストとしてインターネット新聞やマスコミを監視する『週刊メデイア・ウオッチ』を運営してきました。
2016年12月に起きた朴槿恵大統領に対する弾劾発議の前に、ある親文在寅媒体が、朴大統領の長年の知人である崔順実が青瓦台の機密情報を入手して国政を壟断したと主張し、その証拠として崔順実が使用したとするタブレットPCを提示しました。この報道が朴槿恵大統領弾劾の起爆剤となりました。私はその報道を綿密に検証した結果、問題のタブレットPCは崔順実のものではなく、青瓦台の共用タブレットとして使われたものであることが分かりました。これを報道した放送局はもちろん、検察も捏造に加担したのではとの疑惑を提起しました。
結果、私は2018年5月に文在寅が掌握している検察と裁判所によって電撃拘束され、1審で懲役2年を宣告されました。しかし、問題のタブレットが捏造された証拠が続々と提示されるや今年の5月、約1年ぶりに保釈されました。
私はソウル拘置所に収監中、文在寅や彼が任命した金明洙(キム・ミョンス)最高裁長官が、植民地時代の徴用工問題と関連して三菱電機など、日本企業に対する損害賠償請求を認める判決を下すのをみて本当に憂慮しました。これは1965年の韓日請求権協定による3億ドルに「徴用」など被害者たちの補償も含まれたことや、文在寅自身が青瓦台の首席補佐官だった2005年に行われた盧武鉉政権の「徴用問題」の調査発表を真っ向から否定した、韓日関係を破綻させる行為でした。実際に、朴正煕政権と盧武鉉政府は「徴用」などの被害者の個人たちに全部補償しています。
盧武鉉政権の要人だった文在寅がこの事実を知らないはずがないのに、無理にこれを押し通す理由は、彼こそ嘘と詐欺弾劾を通じて権力を奪取した、偽りの大統領であるからです。文在寅は朴槿恵大統領と安倍総理が決着をつけた慰安婦合意も破棄し、韓日関係を破綻させています。文は韓国内の反日扇動を通じて、朴大統領政府を倒して奪取した権力を維持しようとしているのです。
実際、文在寅は「徴用」補償裁判と関連して韓日関係を考慮して慎重を期してきた朴大統領や梁承泰(ヤン・スンテ)前最高裁判所長を「裁判取引」という濡れ衣を被せ、梁前最高裁判所長まで拘束しました。建国以来、初めて拘束された最高裁判所長官はソウル拘置所で私と一緒に収監されていました。
2018年5月18日、私は在韓日本大使館の前で、横田めぐみさんなど、韓・日両国の拉致被害者達を救うために、韓・日が共同で行おうと主張する集会を開きました。文在寅は平壌の金正恩の顔色をうかがって北側が恣行した拉致被害者問題は提起さえしませんでした。その集会の10日後、私は文在寅政権に逮捕されました。
文在寅は偽物の大統領です。大韓民国の真の愛国者達は、毎週、10万人以上が光化門広場などで太極旗を持って文在寅退陣を叫んでいます。そう遠くない将来、100万人、200万人が集まり、偽の大統領の文在寅を引きずる下ろすはずです。
ですから、日本国民の皆さんは、文在寅集団以外の大韓民国を憎まないでください。韓国と日本、そして台湾は、アジアで産業化と自由民主体制の両方を成功させた国同士として、しっかりと手を握らねばなりません。私だけでなく、偽物の大統領の文在寅に騙されている一部の韓国人を除いたすべての韓国民はそう思っています。
文在寅はもちろん、金正恩体制も倒し、韓・日両国の拉致被害者たち及び北韓住民たちも解放する、新しい自由韓半島を作るべく、日本の皆さんのご声援をお願いします。
2019年8月15日 メデイア・ウオッチ代表顧問 邉煕宰

日韓対立「文政権に責任」、対日政策を政治利用と批判
韓国研究の米権威 スコット・スナイダー氏 (産経新聞 令和元年8月10日)

ワシントンの大手研究機関「ヘリテージ財団」が7日開いた「日韓貿易戦争」と題する討論会で、最初の論者として登壇した「外交問題評議会」の上級研究員で「米韓政策研究部長」のスコット・スナイダー氏がこの見解を述べた。同氏は1990年代からスタンフォード大学やアジア財団で朝鮮半島情勢の研究を続けてきた著名な学者で、韓国や米韓関係の研究では全米有数の権威とされる。
スナイダー氏は今回の日韓の対立の原因について「文大統領が慰安婦問題での日韓外相合意に基づく財団を解散し、さらに元徴用工問題での韓国最高裁での判決を放置したことが対日政策を誤らせた」と述べ、日韓対立の原因はまず文政権にあるとの見解を示した。
さらに文大統領の措置について、「韓国の国内政治のために対外政策、対日政策を犠牲にする形で政治利用したが、大統領としては国内、国外の両政策の適切なバランスをとるべきであり、まず慰安婦問題を日韓関係の最前面に置くことで自分自身を箱詰めにしてしまった」とも批判した。
いわゆる元徴用工に関する判決については、「三権分立とはいえ、行政トップの大統領には1965年の日韓基本条約を含めて国際条約を守ることや、対外政策を含めての総合的な国益を守ることの特別な責任がある」と言及。文大統領はその責任を果たさず、外交への十分な配慮なしに対日関係を韓国内の民族主義的感情で押し流すことを許した、と指摘した。
スナイダー氏は韓国最高裁の判決に基づく日本企業への補償金支払い要求について「韓国の民間が寄付をしてその資金にあてるという案が一時出たが、私はそれに賛成する」と語った。また文大統領の政治的な計算について「元徴用工などの問題を使って日本側に過去の諸問題での反省を一気に強いることを狙ったようだが、この考えは明らかにミステークだ。日本側を強制的に追い詰め、謝罪などを強いても、誠意ある反応が得られないのは明白だからだ」とも論評した。

スクープ、文在寅に朝鮮労働党秘密党員疑惑、「金正恩将軍様への誓詞文」
ー月刊誌『Hanada』2019年10月号より引用ー

敬愛する金正恩将軍様に謹んで捧げます。
2014年6月15日は、朝鮮民主主義人民共和国の偉大な指導者でいらっしゃった故金正日国防委員長様におかせられては、南側の故金大中大統領様に親しく接見遊ばし歴史的な北南共同宣言を発表なさってから14年になる意義深い日です。米帝国主義とその走狗の奴らの反民族、反統一謀略策動のなかでも朝鮮の尊厳と主体の革命偉業である祖国統一のために、夜昼なくずっと心血をお注ぎになられている金正恩将軍様に、将軍様を限りなく欽慕し、従う南朝鮮革命戦士の我々は尽きることのない忠誠を心を込めて、金正恩将軍様の長寿永遠を謹んで祈願いたします。

栄光の朝鮮労働党に限りなく忠実な南の地の革命戦士である我々は、偉大な指導者金正恩将軍様に次のように固く盟誓いたします。

1、歴史的な6、15北南共同宣言発表14周年を迎えて、我々南朝鮮の革命戦士は、金日成主席様と金正日国防委員長様の祖国統一遺訓を高く奉り、共和国南半部で朴槿恵傀儡徒党の自由民主主義体制を叩き潰し、全朝鮮半島に主体思想化を実現するのに、一命を藁のように捧げます。
2、我々は、今回のセウオウル号沈没事件を朴槿恵傀儡徒党を審判するための絶好な機会として、最後まで闘争するでしょう。そのためにセウオウル号事件に興奮した国民情緒を汎国民的反米、反政府示威に発展させるでしょう。
3、我々は、国家保安法を撤廃するための持続的な闘争を通じて悪質国家情報院の機能を根源から無力化し、駐韓米軍を南半部から完全に追い払うために、決死抗戦する準備をいたします。
4、我々は6、25朝鮮戦争以後、党と首領のために、自己を犠牲にした南朝鮮の戦士たちを南朝鮮の監獄から釈放し、彼らに民主主義愛国烈士の名誉を抱かせるためにあらゆる法的努力を尽くします。
5、我々は、南側政府の警察、検察など司法部と行政部に浸透し、政府の行政機能を麻痺させ、金正恩将軍様の指導と領導に従うようにいたします。
6、我々は、南朝鮮の立法部である国会に進出し、14年前の今日、北南の首領が合意したように、全朝鮮半島の主体思想化のための南北連邦制統一法案を実現させ、将軍様の偉大な構想を実現するのに助けになる親北的法案を限りなく上程し、通過させるでしょう。
7、我々は、韓総連の後身である韓大連を通じて進歩的大学生青年に主体思想と将軍様の偉大性を広く宣伝し、反米反政府暴動と示威を組織、指導し、南朝鮮社会の混乱と葛藤を持続的に醸成していきます。
8、我々は、全教組を通じて、南朝鮮の青少年に対するマルクス・レーニンの共産主義思想と金日成主席が創始遊ばした主体思想教育を強化し、南挑戦の青年たちを未来に確実な将軍様の革命戦士として育てます。
9、我々は、いったん有事にはまず第一に軍および警察の武器庫を襲撃し、銃を奪って南朝鮮の国軍、警察、情報機関などを襲撃し、右翼反動勢力を射殺し、金正恩将軍の挙族的な南朝鮮革命と統一戦争に合勢します。
10、我々は、昔からそうであったように、栄光の朝鮮労働党と偉大な金正恩第一書記様の信ずるに値する革命戦士として、名誉と自負心を胸深く刻み、いつでも主体的な祖国統一の先鋒に立つことを固く盟誓いたします。

朝鮮民主主義人民共和国万歳!
栄光の朝鮮労働党万歳!
敬愛する最高司令官金正恩将軍様万歳!

〈40の個人、団体が連盟〉
以下、5万名の南朝鮮の革命戦士一同
国家保安法の弾圧によって南朝鮮革命戦士の名前を明らかにすることはできません。

韓国 反日デモ、親北団体主導
正恩氏礼賛、違法行為も ー産経新聞 令和元年8月1日ー

【ソウル=桜井紀雄】
韓国にある日本のテレビ局の支局や三菱重工業の系列会社が入った建物に7月末、不法に押し入り、デモを行った大学生らが、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長を礼賛する集会を主催する団体に所属していたことが31日、捜査関係者らへの取材で分かった。他の親北団体も反日デモを主導。違法行為も辞さない反日デモと親北団体の深い関連が浮き彫りになった。
団体は「韓国大学生進歩連合(大進連)」で、所属する大学生ら3人が7月25日、ソウルにある地元テレビ局の社屋に入居するフジテレビ・ソウル支局内に侵入。横断幕を広げて「支局を閉鎖しろ」などと叫び、同社のロゴを破ったり、外で旭日旗に火をつけたりするパフォーマンスを行なった。文在寅大統領を批判した同テレビ局関係者の主張に反発したもので、デモの様子を撮影した動画がインターネット上に拡散した。
フジテレビは「報道機関の正常な取材や報道活動を妨害する行為には強く反対する」とコメントした。
日本政府による輸出管理の厳格化で韓国内で対日批判が高まる中、三菱重工の賠償を命じる判決が確定したいわゆる徴用工訴訟に絡み、9日には、ソウルのビル内にある三菱重工の系列会社の事務所前で大進連のメンバーらが抗議し、約二時間半座り込みを続け、25人が建造物侵入や業務妨害容疑で警察に連行された。
大進連はもともと親北・反米色の強い団体で、別の親北団体と共同で昨年末来、金氏を礼賛し、ソウル訪問を歓迎する集会を開いてきた。今年6月にも、研究発表大会と称して「住民のための金委員長の献身は世界の指導者の中でも探し難い」「愛と信頼の政治を実現した」などと賞賛。保守層の強い反発を招いた。
捜査関係者は、米朝対話が始まり、反米運動が勢いを欠く中、「日本のような新たなターゲットが必要だった」との見方を示す。
7月22日には、南部、釜山の日本総領事館に大学生ら6人が訪問者を装って侵入。奇襲的にデモを行い、一時拘束される事件もあった。外国公館の保護を定めたウイーン条約に明らかに違反する。大学生らは大進連所属ではないが、警察は親北団体と関わりがあるとみて捜査している。
別の複数の親北団体も、日本統治からの解放を祝う8月15日前後の大規模な反日デモを計画している。
北朝鮮工作に詳しい民間の研究組織「自由民主研究院」の柳東烈院長は「米国と日本という二本の支えの片方を断てば、韓国は崩れ・・・・

韓国はなぜ左傾化するのか。
韓国の反日感情を煽って反韓史観に火をつけた日本人
ー西岡力氏、【史】平成16年11月号よりー

韓国版極左史観が生む反日と嫌韓の連鎖
反日パフォーマンスを支える従北自虐史観
ー西岡力氏、月刊【正論】2015年7月号よりー

【なぜ韓国はおかしくなったのか】
それでは、なぜ韓国が日本の左翼と連帯するようなことをやったのか。それは当時の韓国のおかれた政治情勢が関係している。実は79年に朴大統領が暗殺されて、そのあと全斗煥将軍が政権をとるが、経済が大変苦しかった。1980年はマイナス成長だった。それで日本に対して「60億ドルの経済協力をしてくれ」と求めた。当初は「ソ連、北朝鮮の脅威に対して韓国が日本の砦になっているのだから、韓国軍の十年間の軍隊の近代化の費用の三分の一ぐらいを持つべきだ」とそういう論理だった。
しかし、平和ボケの日本はそれを呑まなかった。それで韓国は困っていた。そのとき日本を見ていたら、教科書検定に対して中国政府が抗議し、日本マスコミがそれを大々的に取り上げている。全斗煥政権がここで、歴史問題で日本を責めて援助を引き出させるという戦術を採用した。これがその後の日韓関係を決定的に悪くさせる原因だった。歴史認識は国が異なれば絶対に一致できないものであり、特に嘘を根拠に他国の歴史認識を責めるという行為は、その国の国民感情を傷つけ、大きな反発を招く。まさに日韓関係がそうなってしまった。
次に、在日朝鮮人の指紋押捺反対だった。また韓国大統領が日本に来るたびに天皇陛下のお言葉問題があって、そして十年後、極めつきが「従軍慰安婦問題」だ。これもまた「日本の新聞の誤報」だった。・・・・

【反日・反韓史観は北朝鮮の政治工作の成果】
しかし、そうやって日本の左翼の反日運動を利用し、机を叩いて援助をもらうということをやった。その結果、今の韓国はおかしくなった。韓国に「反韓史観」が蔓延してしまった。今年、韓国で親日的行為をした人間を裁く法律が韓国国会で通った。これは実は北朝鮮の政治工作の成果なのだ。
金日生は日本の統治時代に国内にいなかった。中国共産党の部隊の隊長だった。そのあとソ連に逃げてソ連の情報部隊の将校をやっていた。そういうことをやってソ連軍と一緒に帰ってきた。金日成はソ連の力を背景に北朝鮮地域で地主、企業家、保守派インテリなどを日本統治に協力したとして大規模にパージした。自身の独裁政権樹立の手段として親日派パージを行った。だから、日本軍の通訳をしていた金日成の実弟はまったく罰されなかった。
韓国の李承晩大統領は日本時代、米国に亡命していたが、韓国軍の将軍たちは日本の士官学校を出た人たちが大部分で、警察や行政機関の専門家も日本時代に専門知識を身につけたものが多かった。彼らは、日本時代に学んだ専門知識で大韓民国のために尽くした人たちであり、韓国建国に貢献した愛国者たちだ。その代表が朴正煕大統領だった。満州の軍官学校と日本の陸軍士官学校を出ている。北朝鮮は「李承晩政権は親日派処罰をきちんとせず、朴正煕大統領が親日派だったから、大韓民国というのは生まれたときから穢れている」と、韓国の若者に刷り込む「反日史観」「反韓史観」を二十年間広めてきて、盧武鉉大統領がその流れにのって当選した。
日本はさすがに慰安婦問題で「こんな馬鹿なことがあるか! 事実とあまりにも違う」とみんなで怒り始めて平成9年(1979年)に「つくる会」ができて、巻き返し押し返す運動が始まった。韓国でも昨年以降、反金日生・親米の愛国勢力が左翼政権、自虐史観に対して、このままでは国がつぶれると危機感を強め、巻き返しの運動が始まった。・・・


【正論】2015年7月号より
《反日パフォーマンスを支える従北自虐史観》
しかし、国交正常化50年を迎えても、反日パフォーマンスが支持率上昇につながるという韓国社会の状況は、自然にできあがったものではない。70年代末以降、北朝鮮とそれにつながる韓国内左翼勢力が作り出した反日自虐史観が韓国社会を強く束縛していることが、その根本に存在する。これが私が考える3つ目の日韓関係悪化要因である。そして、この呪縛から韓国社会が抜け出せなければ、今後の日韓関係はより一層悪化し、韓国が自由主義陣営から抜けて、具体的には韓米同盟を破棄し、中国共産党の影響下に入るか、北朝鮮テロ政権主導の統一が実現するという悪夢の可能性さえ存在すると私は危機感を持っている。
韓国社会をここまで反日に縛り付けた契機は、1979年に出版された『解放前後史の認識』という一冊の本だった。それまで韓国の学生運動や反体制運動には容共反米は存在しなかった。反日の半分は、日本の容共的姿勢を糾弾するものだった。ところが、朴正煕大統領が暗殺された年に出たこの本は、その枠組みを大きく揺り動かす歴史認識を若者らに植えつけた。
巻頭論文を書いたのが宋建鎬だ。彼は長く新聞記者として朴正煕政権を激しく批判してきた反政府活動家で、1980年全斗煥政権下、金大中氏らとともに逮捕された。彼は反日を入り口にして、大韓民国は生まれた時から汚れた国で、北朝鮮こそ民族史の正統性の継承者だ、という当時の学生らに歴史観のコペルニクス的転換を求める「解放の民族史的認識」と題する論文を書いた。その結論部分を訳しておく。

『この論文は、8.15が与えられた他律的産物だったという点から、わが民族の運命が強大国によってどれくらい一方的に料理され、酷使され、侮辱され、そのような隙を利用して親日派事大主義者らが、権勢を得て愛国者を踏みつけて、一身の栄達のため、永久化を画策し、民族の悲劇を加重させたかを糾弾しようとするものだ。過去もまた今も、自主的であり得ない民族は必ず、事大主義者らの権勢がもたらされ、民族倫理と民族良心を堕落させ、民族の内紛を激化させ、貧富の格差を拡大させて、腐敗と独裁を欲しいままにし、民衆を苦難の淵に追い込むことになる。民族の真の自主性は広範な民衆が主体として歴史に参与するときだけに実現し、まさにこのような与件下でだけ、民主主義は花開くのだ。
このような観点から、すでに半世紀が過ぎた8.15が、一体どのように民族の正道から逸脱していって、それによって、民衆がどの様な受難を受けるようになったのかを、、冷静に究明しなければならない必要性が生まれるのだ。このような糾明は決して過ぎた歴史の糾明でなく、明日のための生きた教訓になるのだ。8.15の再照明はこのような点で、今日のための研究だと言わなければならない』

論文の中で宋は、韓国の建国の父である李承晩を徹底的に攻撃している。李承晩は手段方法を選ばない権力主義者で、米国をバックに日本の植民地統治に協力した親日派を取り込んで分断の固定化に繋がる韓国単独政府を樹立し、親日派処分を妨害し、土地改革を遅延させ、日本統治時代に利益を得ていた地主勢力と結託したーー。

宋らが提唱した自虐史観の中心にあるのが、実は「親日派」問題だ。ここでいう親日派とは、単純に日本に親近感を持っているという意味ではなく、日本の統治に協力して民族の独立を阻害した勢力という意味だ。「解放前後史の認識」は80年代に韓国学生街で大ベストセラーになった。79年から10年がかりで刊行された6巻のシリーズで合計100万部売れたという。盧武鉉大統領も弁護士時代に同書を手にして雷に打たれたような衝撃を受けたという。その歴史観を李栄薫ソウル大教授は以下のように要約している。

『日本の植民地時代に民族の解放のために犠牲になった、独立運動家たちが建国の主体になることができず、あろうことか、日本と結託して私腹を肥やした親日勢力が、アメリカと結託し国を建てたせいで、民族の正気がかすんだのだ。民族の分断も親日勢力のせいだ。解放後、行き場のない親日勢力がアメリカに擦り寄り、民族の分断を煽った』(「大韓民国の物語」文藝春秋)

この歴史観に立つから、金日成が民族の英雄となり朴槿恵大統領の父親、朴正煕大統領は日本軍出身だとして「親日勢力」の代表として非難されるのだ。そしてこの歴史観は、日本国内の左翼半日自虐観と呼応していることは言うまでもない。

そして恐ろしいことに、この歴史観は北朝鮮が一貫して維持してきた、対南革命戦略と見事に一致している。北朝鮮は韓国を植民地半封建社会と規定し、まず、米国帝国主義とそれに寄生する親日派勢力を打倒し、地主を追い出して農民を解放し、その後、社会主義革命を行うという2段階革命論を取ってきた。宋らが6巻のシリーズで主張した韓国社会認識はまさに、この土台に立っている。北朝鮮の工作がそこに入っていないとみるのはあまりにナイーブな考え方だろう。

この歴史観は90年代以降、各階層に浸透し、現在使われている韓国の小、中、高校で使われている歴史教科書も、この歴史観にもとづき書かれている。2005年以降、一部の実証主義学者らが教科書改善運動を開始したが、彼らが執筆した歴史教科書は今も、採択率ゼロだ。

朴槿恵大統領はまさに親日派の娘という批判を一番恐れている。その政治的資産は選挙に強いことだった。父親に対する絶対的支持層が彼女の基礎票となり、その上に若者らの票をいかに積み上げるかが、これまでの政治活動の根底にあった。だから、朴槿恵大統領は反日自虐史観に正面から対決せず、それと迎合し続けている。慰安婦問題は自虐史観派にとって格好の材料となっている。朴槿恵大統領が慰安婦問題に取り組まないと、慰安婦問題を抜きに日韓国交を正常化させた親日派の朴正煕の悪行を、隠蔽しているという理屈が成り立つからだ。もちろん、当時を生きていた誰もが、慰安婦の強制連行などなかったことを知っており、だから韓国は日韓国交交渉で一度も慰安婦問題を持ち出さなかったのだ。

自虐史観派から激しく非難されている李承晩大統領は「悪質的な独立運動妨害者以外に親日派はありえない」「倭政の時にいくら警察官だった人でも建国事業に参加して大きい功績をたてれば、その人はすでに親日派ではない。著しい親日経歴がない人でも日本語をしばしば口にして、日本食が好きで、日本にしばしば行き来し、日本が再進出してくることを待つ人ならば、彼らこそ清算される親日派だ」と繰り返し明言しつつ、日本時代に教育を受け実務経験を積んだ官僚、軍人、警察官らを建国過程で使い続けた。それが大韓民国建国に役立つと信じたからだ。この李承晩の信念を李栄薫教授は「建国のための未来志向的な精神革命としての親日清算」と呼んだ。

朴槿恵大統領がその立場に立てば、北朝鮮の世襲テロ政権を共通の敵として、歴史観や領土問題等をお互いに譲歩し合う、50年前朴正煕大統領が築いた日韓友好関係に戻ることは十分可能だ。すでに韓国内の自由統一を目標としている逍甲済氏ら健全な保守勢力はそのような立場から日韓関係の改善を提起している。

50年前もそして今も、釜山に赤旗が立つことは日本の安全保障にとって最悪のシナリオだ。韓国が反日自虐史観を清算して自由統一を迎えるのか、あるいは、自虐史観に飲み込まれ、北朝鮮の思うつぼにはまっていくのか、まだ勝負はついていない。

「韓国除外」は関係正常化の一歩(正論、龍谷大学教授、李相哲)
ー産経新聞 令和元年8月6日ーより

この際日本は韓国と普通の国家関係を築くためにも、とりあえず以下3つのことをやるべきだ。
まず、日本は「過去」を引きずるべきでない。過去を忘れろという意味ではない。文政権になって日韓関係が破局寸前の状態に至ったのは一言で言えば、文氏が「過去」を引きずり、解決したはずの過去史までを蒸し返したからだ。今年2月文氏は「親日を清算するのが正義の国へと前進する出発だ」と言った。この言葉だけでも文氏がいかに偏った歴史認識を持っているかがわかる。「親日」を「不義」と考える点だ。韓国と日本は戦後自由民主主義の価値を共有する友邦ではなかったのか。戦前の日本と戦後の日本を同一視しているか、混同しているとしか思えない。そして「親日」勢力は排除(清算)しようとする考えだ。過去史を引きずることなく日本と付き合おうとする多くの自国民を「親日」と決めつけ排除しようとする点だ。文氏のようにこれまで韓国では「過去史」をテコに反日を正当化し、反日こそ正義かのように国民感情をあおり、反日を政治に利用する悪しき慣行があったが、この際それを断ち切るべきではないか。
次に、争いを避けない。韓国はこれまで日本との間に紛争が起こったとき、事実関係を争うのではなく、論点を歴史問題にすり替えるか、「被害者」になりきって国際世論に訴える手段に頼ってきた。今回も真っ先に打ち出した解決策は米国に仲裁を働きかけることだった。そして世界貿易機関で訴え、この事案とは関係のない、東アジア地域包括的経済連携の事務レベル会合でも日本の不当性を訴え、国際的な支持を得ようとしている。今のところ、文政権が事実関係を確認し、日本の意図を理解しようとする気配は一切見えない。日本は、事実関係を争うことはやめるべきではない。
最後に、韓国を特別扱いすべきではない。戦後、日本は償いの気持ちもあって、韓国を特別視してきた節はあった。多くの経済人が韓国経済を底上げするのに力を貸した。韓国の製鉄、自動車、電機・半導体産業の発展に日本の協力がなかったら、韓国の奇跡的な経済発展はなかったのではないか。そのような事実についても日本は遠慮なく指摘し、主張すべきだ。・・・・このような特別な扱いが日韓関係に甘えの構造をつくってしまったのは事実だ。
日韓関係を本当に成熟した普通の2国間関係にするには、このような甘えの構造をなくし、普通の大人の関係をつくることが大事だ。その第一歩が「ホワイト国」から韓国を除外することではないか。

徴用工問題「韓国政府が補償を」、遺族団体会長が訴え
--産経新聞令和元年8月8日より

【ソウル=名村隆寛】
いわゆる元徴用工の遺族らで構成する韓国の社団法人「日帝被害者報償連合会」(会員1万2千人)の金仁成会長(77)は産経新聞の取材に対し、徴用工訴訟で日本企業に賠償を命じた昨年10月の韓国最高裁の判決によって悪化した日韓関係に憂慮を示し「法的責任は韓国政府にあり、問題を解決すべきだ」と訴えた。
韓国政府が2005年に公開した日韓国交正常化(1965)に至る交渉に関する文書には、日本側が個人補償案を出したのに対し、韓国側が断り政府による一括受け取りを主張したことが含まれている。これを踏まえ金氏は、日韓間の財産・請求権の問題が完全かつ最終的に解決したことで両国が合意した65年の日韓請求権協定を守り「韓国政府が元徴用工や遺族らに補償すべきだ」と語った。
・・・・・・
金氏は「道義的責任は日本にあると思う。だが、法的責任を負うのは韓国政府だ。日本政府も主張すべきだ」と断言した。

文大統領演説「慰安婦問題、未解決」、日本は抗議
〜産経新聞平成30年3月1日〜

【ソウル=名村隆寛】
韓国の文在寅大統領は1日、日本による朝鮮半島統治下の1919年に起きた「3・1独立運動」の記念式典で演説。慰安婦問題は解決していないとの立場を強調する一方で、日本に対して特別な要求をしない姿勢を示した。
演説で文氏は、竹島問題について触れ「独島は日本の朝鮮半島侵奪で最初に強制的に占領された地であり、われわれ固有の領土だ」と主張。「今、日本がこの事実を否定していることは、帝国主義の侵略に対する反省を拒否していることにほかならない」と訴えた。
また、文氏は「慰安婦問題解決についても、加害者である日本政府が『終わった』と言ってはならない。戦時の反人倫的な人権犯罪行為は終わったという言葉で覆い隠せない」と日韓合意で問題は解決済みとする日本を批判。さらに「不幸な歴史であるほど、その歴史を記憶し、歴史から学ぶことだけが、真の解決である」と述べた。
一方で、文氏は慰安婦問題の解決に向けて「日本には特別な対応を要求しない」とも言明。「もっとも近い隣国らしく、真の反省と和解のために、共に未来に向かっていきたい」とし、未来志向的な日韓関係を築く考えを示した。
文在寅政権下で同式典が行われたのは初めてで、今年はソウル市内の旧西大門刑務所の歴史記念館で初めて行われた。
西大門刑務所は日本統治時代に独立運動家らが収監された場所でもあり、朝鮮半島の日本統治時代を最も象徴する場所として認識されている。
この日の式典は、李明博政権の2010年に中部・天安市の独立記念館で実施されて以来8年ぶりに屋外で開催された。式典には独立活動家の子孫を含む市民や、韓国駐在の外交官ら大勢が出席した。
韓国政府は、文政権で最初のこの記念日について「国民が参加し共感できる行事にする」としており、首都ソウルをはじめ全国各地で独立運動をたたえる行事が行われた。

慰安婦碑書き換え訴訟、奥被告「罪状判断に重大欠陥」
〜産経新聞平成30年1月17日〜

【ソウル=桜井紀雄】
朝鮮半島で女性を強制連行したと偽証した故吉田清治氏が韓国に建てた謝罪碑を無断で書き換えたとして、公用物損傷罪などに問われた元自衛官、奥茂治被告(69)は16日、懲役6月、執行猶予2年の有罪とした大田地裁天安支部の判決を不服として控訴した。
昨年12月に即日結審した公判では、検察や弁護人と裁判官のやり取りの大半に加え、論告求刑や最終弁論も通訳されなかった。奥被告は「罪状を判断するのに重大な欠落がある」と主張している。
奥被告の出国禁止措置は、昨年6月に韓国警察の出頭要請に応じて入国してから200日を超えているが、控訴を受け、さらに長期化する可能性がある。
判決は、韓国中部、天安市の国立墓地が管理・使用する物件を損傷したとの判断を示したが、奥被告は「どのような過程で公用物となったのか、立証が不十分だ」と主張。検察は求刑で「被告は慰安婦問題を歪曲しようとした」と述べたが、奥被告は「歪曲する意思はなく、(書き換えは)公的施設が嘘の碑文を使い続け、国際的に韓国の信用が低下するのを防ぐ行為だ」とも反論している。

慰安婦合意への追加措置、首相「受け入れられぬ」
〜日本経済新聞平成30年1月12日夕刊〜

安倍晋三首相は12日、韓国の文在寅大統領が従軍慰安婦問題で日本側に求めている謝罪に応じない考えを示した。「日韓合意は国と国との約束だ。これを守ることは国際的かつ普遍的な原則だ。韓国側が一方的にさらなる措置を求めることは、全く受け入れることはできない」と述べた。首相官邸で記者団に語った。
首相は慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した2015年の日韓合意を履行するよう韓国側に求めた。同合意に基づき、日本は元慰安婦や遺族に現金を支給する財団に10億円を拠出した。首相は「日本側は約束したことは全て誠意を持って実行している。韓国側にも実行するよう強く求めていきたい」と語った。
文氏は10日の記者会見で慰安婦問題の解決には「日本が真実を認識し、被害者に心から謝罪」することが必要と指摘していた。

日韓合意、日本の10億円、韓国が拠出案
〜産経新聞夕刊平成30年1月9日〜

【ソウル=名村隆寛】
韓国の康京和外相は9日午後、慰安婦問題をめぐる2015年末の日韓合意の検証結果を受けた韓国政府の方針を発表する。
韓国メデイアは韓国政府消息筋の話として、合意の再交渉や破棄を主張しない一方で、文在寅政権が慰安婦問題で新たに「責任ある措置」を日本政府に求めると伝えた。また、合意に基づいて日本政府が拠出した10億円を、受け取りを拒否している一部の元慰安婦らの主張に従い、韓国政府が拠出し、日本からの拠出分に換える案が有力だという。
日本からの10億円については韓国政府が設置した財団を通して、合意時点で存命だった元慰安婦47人のうち、すでに36人が受け取ったか受け取りの意思を示している。日本政府は合意を「1ミリも動かさない」(菅義偉官房長官)との立場を崩しておらず、韓国側の対応によっては対抗措置を取り、日韓関係が悪化する可能性もある。

美しき強き国へ、憲法は「対日根絶政策」
〜産経新聞平成30年1月8日〜

「旧首相官邸には(2,26事件のときの)銃弾の痕はあっても、(日本の歴史を示すような)絵や展示物がないんです。ドイツも似ています。敗戦国だからでしょうね」政府首脳はこう語る。
「悪い戦争をした」という反省の中で過ごしてきた戦後の日本人の気弱さがうかがえる。奇妙な自己否定の空気が充満し、他国にはあり得ない過ぎたる謝罪が、反省する人々の「良心の証し」として定着しているのではないか。広島の原爆犠牲者の御魂を慰める碑文「過ちは繰り返しませぬから」がその典型ではないか。
過ちを犯した主体が日本国と日本人になっている矛盾を我が国はずっと、問題にしないできた。日本にとって米国は大事な国だ。しかし、そのことと過去の事実の間に、客観的な区切りの線は引いておくべきだろう。
長年、米国に頼ってきた結果か、拉致問題で被害者と家族への同情には深いものがあっても、被害者救出に向けて力を強めるべく日本国のあり方を変えようという国民運動には、なかなかならない。
中韓両国の歴史戦に、有力メデイアのNHKや朝日新聞はいまだに反日歴史観の中に埋没しているかに見える。
米政治学者サミュエル・ハンチントンが米国の「根絶政策」と呼んだ日本国憲法を一文字も変えることなく今日に至っていることと、前述の日本に蔓延する奇妙な自己否定は深くつながっている。憲法改正に関する政界の眠りこけたような鈍感さも同様だ。
安倍晋三首相は3度の衆議院議員選挙、2度の参議院議員選挙を憲法改正を公約として戦い、いずれも大勝した。憲法改正を国民に訴え、国民はそれを支持している。にもかかわらず、なぜ、自民党の動きは鈍いのか。公明党はそれでも国民の命に責任を持つ与党か。
首相は昨年5月、9条1項、2項に加えて自衛隊を憲法に書き込むことを提案した。元日の産経新聞紙上で、これは憲法改正の議論活発化を願っての提案だったこと、自民党には党是である憲法改正を進めていく責任があり、自衛隊の違憲論に終止符を打つことが大事だと、語った。
4日の年頭記者会見でも、国の形、理想の姿を示すのが憲法で、「戌年の今年こそ、新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿を提示し、国民的議論を一層深めていく」と明言した。首相は改正の時期は自民党及び国会に任せるという慎重な姿勢を崩さないが、党総裁の思いに党はなぜ正対しないのか。日本を取り巻く国際環境の厳しさは憲法改正は焦眉の急だと告げているではないか。
世界は軍事力を基盤とした中国の膨張主義に加えて、彼らがこれまでとは全く異なるルールで席巻すべく大戦略を繰り出しているという危機に直面している。
中国の描く世界像は、新たな中華のルールに基づく人類運命共同体である。彼らは歴史も国境線も国際法の定義も、企業の在り方でさえ、およそ全て中国共産党が主軸となった中華民族の価値観に基づいて変えていこうとしている。その中で日本の占める位置は厳しい。
中国は日本の資金や技術、水資源や国土を欲すると同時に、歴史戦によって日本人の精神的屈服を目論んでいると考えてようだろう。中国の対日歴史観はこれまで以上の曲解と捏造に突き進むであろう。中国も韓国も21世紀の歴史修正主義者の国なのである。
日本にとって眼前の歴史戦は韓国である。文在寅大統領は、慰安婦問題では「最終的かつ不可逆的な解決」を確認しあった平成27年末の日韓合意の見直しに傾き、解決済みの徴用工問題でも新たに日本に賠償を求めてくる可能性がある。
そのような韓国の反日歴史戦を中国が主導している。ユネスコの「世界の記憶」に慰安婦関係資料を登録する試みもそうだった。米サンフランシスコ市が民間団体から慰安婦像を設置した土地ごと寄贈を受け入れた件も、市長のエドウイン・リー氏も寄贈した団体「慰安婦正義連合」も共に中国系であることに見られるように中国主導である。
米国のみならず、カナダ、豪州、欧州各国で反日歴史戦を強めるのと同時進行で、中国は歴史を書き換えつつある。習近平国家主席は中華民族の偉大さを強調し、中華民族5000年の歴史を謳う。だが、提唱され始めたのは、約100年前だという(『中国はなぜ軍拡を続けるのか』阿南友亮氏)。
他方、中国にとって都合の悪い歴史は抹殺する。加藤康男氏が『慟哭の通州、昭和12年夏の虐殺事件』 で指摘したように、「通州事件」の痕跡を消し去ったことは、その一例であろう。
修正主義は歴史問題にとどまらず、およそあらゆる分野でルールの変更や事実の歪曲が進みかねない。最も厳しい負の影響を被るのが、恐らく日本であろう。
中国のこのような世界戦略にどう対応すべきか。まず、日本人自身が自らの価値観と立ち位置を確認することが欠かせない。日本人は歴史的にみて、何を大切にして生きてきた民族なのかを問うことだ。我が国は果たして日本本来の価値観に立脚しているかどうかと問うのだ。その第一歩が憲法改正問題だ。国や民族のあり方を示すのが憲法だ。日本国憲法は、米国の根絶政策の結果なのである。ハンチントンの指摘に、もう気づかなければならない。

韓国には、婉曲的な言葉は通じない。日本の怒りを、ストレートに伝えるしかない。
〜産経抄平成29年12月23日〜

「これでソウルの在韓日本大使館前の慰安婦像は撤去できます」「男と男の約束です」。2年前の12月、慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決をうたった日韓合意が結ばれる祭、韓国の李丙h元駐日大使は、日本側担当者にこう語った。国と国同士の重い取り決めである。ところが、この約束は一向に果たされない。慰安婦像は取り去られるどころか、路線バスに乗せられ、韓国内を経巡っている。さらに、韓国議会は先月、8月14日を法定の「日本軍慰安婦被害者をたたえる日」とする決議をした。李氏はというと、 贈賄などの容疑で逮捕されてしまった。政権が代わると、前政権の施政を全否定する傾向は日本の民主党政権でもみられたが、韓国は極端に過ぎよう、毎度、前大統領や側近、幹部らが次々に罪に問われていくのは異様の一言である。今月6日、読売新聞と韓国日報が発表した日韓共同世論調査結果が示唆的だった。今後の日韓関係について「良くなる」と答えた人は、日本ではわずかに5%に止まったのにたいし、韓国では56%にも上った。露骨な嫌がらせをしておいて、相手の憤りを理解できない韓国の姿がよくわかる。韓国の康京和外相が先日来日したのは、安倍晋三首相を来年2月の平昌五輪に招くためだった。日韓合意という国際的な約束を平気で踏みにじりながら、日本の好意と協力が得られると信じる隣国のなんという異質さよ。康氏と会談した河野太郎外相は日韓合意の履行を強く求め、短時間面会した安倍首相も、合意を決してないがしろにしないよう厳しく釘を刺した。感情表現をあらわにすることが当たり前の韓国には、婉曲的な言葉は通じない。日本の怒りを、ストレートに伝えるしかない。

奥氏「何年でも吉田証言の嘘訴える」
謝罪碑書き換えで韓国出獄禁止180日
〜産経新聞平成29年12月24日〜

朝鮮半島で女性らを強制連行したと偽証した故吉田清治氏の謝罪碑を無断で書き換えたとして、韓国で公用物損傷罪などで在宅起訴された元自衛官、奥茂治被告(69)が出国禁止となってから24日で半年となる。公判で検察側は「慰安婦問題を歪曲しようとした」と強調したが、根源となった嘘を正そうと書き換えに及んだ奥被告の前には、異論を許さない韓国社会の“壁”が立ちはだかった。
「非常に長かったが、日韓で応援してくれる人も大勢おり、苦にはならなかった」。21日に公判を終えた奥被告は、韓国警察の出頭要請で訪韓し出獄禁止措置がとられてからの約180日間をこう振り返った。
長く感じたのが9月に在宅起訴を通知されてからの3ヶ月間。高血圧の受診などを理由に一時帰国を申し立てたが認められず、公判が始まる見通しもつかない。裁判所は「共犯者が捕まらないから」と説明した。
検察は碑の撤去を委任した吉田氏の長男の立件にこだわり、日本に滞在したまま教唆罪で在宅起訴するという苦肉の策に出た。奥被告には公判直前の今月10日に正式な起訴状が届いた。
「国際的に認定された慰安婦問題を歪曲しようとし、韓日外交に摩擦を生じさせかねない」。検察は論告求刑でこう指摘したが、奥被告は「日韓友好の妨げになっている吉田氏の嘘の碑文を消そうとしてやったこと。全く逆にとられている」と吐露した。
検察には、朝日新聞が吉田氏の虚偽を認め、記述を取り消した記事などを提出。丁寧に経過を説明し、理解を得られたとの実感があっただけにやるせなさが募る。
だが、事件後、中部の天安市の国立墓地に立つ碑の横には、管理事務所によって「碑を書き換え、蛮行を隠そうとしても日本がわが民族を強制徴用し、蛮行を犯した行為は変わらない事実だ」と書いた看板まで設置された。
韓国メデイアも奥被告が書き換えに至った背景についてほとんど報じていない。慰安婦が日本軍と「同志的関係にあった」などと著書に記し、名誉毀損罪に問われた女性大学教授は10月、控訴審で有罪判決を受けた。韓国社会は、慰安婦問題で客観的な異論さえ受け付けない空気が支配している。奥被告は日韓に立ちはだかる「認識の壁」だと表現する。
一方、天安のホテルに長期滞在を余儀なくされるうちに、多くの韓国人の仲間を得た。近くの市場や喫茶店で働く人たちだ。日本語のできる女性を通じて当初、碑を損傷して出頭したと話すと憤りを示したが、碑には嘘が書かれていたからだと説明すると理解してくれた。「沖縄から来て寒いだろう」と冬の衣服を差し入れてくれ、大勢が公判には「応援に行く」と言い出し、押しとどめたほどだ。
奥被告は「韓国の法律にのっとって罪を犯したというのであれば、免れるつもりはない」と強調する。来年1月11日の判決では、有罪無罪にかかわらず、慰安婦問題の根源に吉田氏の嘘があり、これを取り除くために書き換えを行なったという主張が認定されるかを見定めて、控訴を含む次の法的措置を決めるつもりだ。「出国禁止さえ解かれれば、何年かかってでも、法廷で吉田氏の嘘について訴えていきたい」(ソウル櫻井紀雄)
《吉田氏長男「言葉にできないほど感謝」》
奥茂治被告を「励ます会」が23日、東京都内で行われ、吉田清治氏の長男のメッセージが伝えられた。メッセージは次の通り。
「この度は父の虚偽がもとで日本の皆様方に多大なるご迷惑をおかけし、大変申し訳ございませんでした。せめてもの償いに私が決意したことが父の謝罪碑を撤去することでした。その願いを実現してくださったのが奥茂治さんだったのです。私の人生に奇跡を起こしてくださった奥さんには言葉で表現できないほど感謝しております。今はただ一刻も早く奥さんが無事に帰国されることを願っております」

謝罪碑書き換え事件
韓国済州島で「奴隷狩りのように女性らを強制連行した」と偽証した故吉田清治氏が1983年に著書の印税で韓国・天安市の国立墓地「望郷の丘」に強制連行を謝罪する石碑を建立。那覇市に住む奥茂治被告は今年3月、吉田氏の長男の委任を受け、碑の上に別の石板を貼り付けて「慰霊碑」に書き換えた。今月21日に初公判が開かれ、検察は懲役1年を求刑した。

河野氏、慰安婦合意「着実な実施を」、
韓国外相、検証の現状説明、「対北圧力」一致
〜時事通信平成29年12月19日15:52配信〜

河野太郎外相は19日、初来日した韓国の康京和外相と東京都内の外務省飯倉公館で会談した。
慰安婦問題の「最終的で不可逆的な解決」を謳った2015年の日韓合意について、河野氏は「着実な実施が重要だ」と強調。これに対し、康氏は合意の検証作業の現状を説明するにとどまった。北朝鮮への圧力継続や、未来志向の関係構築に向けた協力では一致した。
慰安婦合意をめぐり、文在寅大統領はこれまで「わが国の大多数が情緒的に受け入れられないでいる」と指摘。韓国は交渉過程などについて検証中で、年内にも結果を発表する予定だ。
北朝鮮の核・ミサイル開発に関し、両外相は日韓、日米韓で緊密に連携し、圧力をかけ続ける方針を確認。中国にさらなる役割を求めていく必要があるとの認識を共有した。河野氏は、北朝鮮への圧力を強化するために、日中韓3ヶ国の首脳会談を早期に開催するよう呼びかけた。
韓国大統領府高官は先に、日中韓会談開催が遅れるならば、文大統領が単独で来日することも検討する意向を明らかにした。だが、河野氏は会談後、大統領来日は議題にならなかったと記者団に説明した。
康氏は来年2月の平昌冬期五輪に合わせた安倍晋三首相の訪韓を要請した。

吉田氏長男も在宅起訴、強制連行碑書き換え依頼、韓国
〜産経新聞平成29年12月16日〜

朝鮮半島で女性を強制連行したと虚偽の証言をした故吉田清治氏が韓国中部天安に建立した謝罪碑を書き換えたとして、公用物損壊罪などで在宅起訴された元自衛官の奥茂治氏(69)は15日、自身に書き換えを依頼した吉田氏の長男も教唆罪で在宅起訴されたと明らかにした。21日に大田地裁天安支部で2人に対する初公判が開かれるという。
吉田氏の長男は日本に住んでおり、出廷の意思はないとしている。奥氏は出獄禁止措置をとられ、韓国に滞在中。
奥氏は今年3月、吉田氏の長男の依頼を受け、謝罪碑の上に「慰霊碑 吉田雄兎(吉田氏の本名)日本国福岡」と韓国語で記した別の碑を張り付けた。
在宅起訴に先立ち、奥氏は産経新聞の取材に「韓国では吉田証言の嘘について認知されていない。裁判ではっきりと説明したい」と話していた。

《吉田清治氏の碑書き換え問題》
朝鮮人慰安婦らを「奴隷のように」強制連行したとする故吉田清治氏の証言を1980〜90年代に集中的に報じた朝日新聞が2014年に「虚偽」と判断、関連記事を削除した。吉田氏が1983年に「強制連行」への謝罪文を刻み韓国国立墓地に建立した石碑について、吉田氏の長男が奥茂治氏に撤去を依頼。奥氏が今年3月、碑文の上に吉田氏の本名や出身地、「慰霊碑」とだけ記した別の石板を貼り付けた。

大阪市、姉妹都市解消を決定、サンフランシスコと、通知は来年6月以降
〜産経新聞平成29年12月14日〜

米カリフォルニア州サンフランシスコ市が慰安婦を「性奴隷」と記した碑文や像を公共の場所に展示している問題で、大阪市は13日、市の幹部会議を開き、姉妹都市提携の解消を決定した。サンフランシスコ市側への通知は、エドウイン・M・リー市長が12日に急逝したことを受け、来年6月の次期市長選後、新市長に対して行う方針。

新聞に喝!朝日は国際社会に向けて発信を、作家・ジャーナリスト門田隆将
〜産経新聞平成29年12月10日〜

もはや国民全体で考え、「将来」に備える覚悟を持つべき時が来たことは間違いない。
民間団体が建てた慰安婦像が米サンフランシスコ市の公共物となり、60年にわたって続いてきた大阪市との姉妹都市としての友好も断たれることになった。本当に残念なことだ。政治的な意図を持つ韓国や中国が、虚偽の史実に基づいて日本と日本人を貶めている。今や世界各地の慰安婦像は60を超え、これからも増え続けるだろう。現在だけでなく、将来の日本の若者の国際進出の障壁となる慰安婦問題は、昨年2月にジュネーブでの国連女子差別撤廃委員会で、外務省が初めて公式に軍や官憲によるいわゆる「強制連行」を否定するまで広がるがままにされていた。その間に、国連でマクラスワミ報告が出され、日本軍に強制連行された〈慰安婦=性奴隷〉という誤った認識が世界に流布されてきた。
しかし、当欄でも何度も記述してきた通り、慰安婦は業者によって当時の兵隊の約30倍もの給与を保証されて募集された女性たちである。あの貧困の時代に、春を鬻(ひさ)ぐ商売につかざるを得なかった薄幸な女性たちは、欧米にも、アジアにも、たくさんいた。女性の人権問題として大いに議論されるべきだろう。だが、日本は国家として嫌がる婦女子を強制連行して慰安婦にしたという虚偽の史実によって糾弾されている。
サンフランシスコの碑文にも〈この記念碑は日本軍に性奴隷にされた何十万人の女性と少女の苦しみを表している。囚われの身のまま、大多数は命を落とした〉と記されている。
この誤った認識には朝日新聞の報道が大きく関わっている。後に取り消したが、「私は慰安婦狩りをした」という吉田清治なる人物の虚偽証言を長期間にわたって記事にし、また平成3年8月11日には、「元朝鮮人従軍慰安婦、戦後半世紀重い口開く」という見出しの下、元慰安婦が「女子挺身隊の名で戦場に連行された」と記し、4年1月11日には、宮沢喜一首相の訪韓に合わせて慰安婦問題を一面トップで報じ、解説記事の中で、強制連行された女性たちの数を「8万とも20万ともいわれる」と記述した。これらの報道を受けて、韓国では「国民学校の生徒まで慰安婦にした日帝の蛮行」と世論が沸騰した。
大阪市のサンフランシスコ市との姉妹都市破棄に対しても、朝日は〈姉妹都市、市民交流を続けてこそ〉という社説(11月19日付)を掲げ、吉村洋文大阪市長を糾弾した。だが、吉村市長はツイッターで〈(朝日は)僕を批判する前にやることがあるでしょう〉と、痛烈な反論を行なった。
活字がもたらす影響と波紋はとてつもなく大きい。だからこそ真実を求める記者たちの日頃の活動が貴重なのだ。日本の若者の将来のためにも、朝日には、国際社会に向けての訂正と謝罪記事の掲載を強く求めたい。
〈かどた・りゅうしょう〉昭和33年高知県出身。中央大法卒。作家・ジャーナリスト。最新刊は、『奇跡の歌、戦争と望郷とペギー葉山』。

サンフランシスコ慰安婦像、産経西論より

サンフランシスコ慰安婦像、姉妹都市解消もやむを得ない
論説委員 河村直哉
慰安婦についての歴史の捏造を、これ以上許してはならない。米サンフランシスコ市議会が、慰安婦像と碑文の寄贈受け入れを全会一致で決めた。今後、まず同市のリー市長が拒否しなければ、寄贈されることになる。姉妹都市関係にある大阪市の吉村洋文市長は、関係解消について改めて述べた。この判断を支持する。紳士的にふるまいつつ、通すべき筋はきっちりと通してもらいたい。
(友好を損ねるもの)
碑文は慰安婦を「性奴隷」とし、「ほとんどが戦時中の捕らわれの身のまま亡くなった」などとしている。事実の歪曲は明らかである。
おさらいしておくと、像と碑は私有地である展示スペースに中国系民間団体が設置した。スペースはサンフランシスコ市に寄贈されることになっていた。吉村氏は再三、リー氏に慎重な対応を求める書簡を送ってきた。しかし寄贈受け入れの流れは止まらなかった。リー氏は10月、「地域に応えるのが私の責務」などどする返信を吉村氏に送っている。スペースはすでに寄贈されて市有地になった。なおリー氏の「良識」に期待したいが、拒否されない公算が大きい。寄贈されればアメリカの公有地の慰安婦像は、グレンデール市、ブルックヘブン市に続いて3つ目になるという。民有地であっても誤った歴史が像や碑の形で後世に伝えられることは許されない。しかし公有地に置かれることは、さらにゆゆしい事態である。その公共団体のs意思として、事実ではない歴史を伝えることになる。市の「お墨付き」が反日運動に利用されることもあり得るだろうし、教育の場に持ち込まれないともかぎらない。両市の姉妹関係は今年60年となった。サンフランシスコでも、慰安婦問題のおかしさに気付いている市民もいるだろう。今後も民間レベルでの交流があってよい。しかし、公共団体が虚偽の歴史を認めることがあってはならない。そもそも市議会は2年前、像や碑の設置を支持することを決議している。碑文の内容も市の機関が承認したものだ。市議会は今年、9月22日を「慰安婦の日」とすることも全会一致で決議している。すでに両市の友好を大いに損ねていると言わねばならない。その上、寄贈を認めるのであれば、そのような都市と自治体として「姉妹」である必要などない。
(歴史戦は終わらず)
慰安婦問題に関する一昨年の日韓合意で、この問題は「最終的かつ不可逆的に解決」はずだったが、実態はそうではない。韓国では合意見直しの声がある。国際常識の通用しない国である。それと呼応するかのように、サンフランシスコ以外でも、海外でなお日本をおとしめようとする動きは止まっていない。10月にはニューヨークの韓国系団体の建物でも、慰安婦像が除幕された。慰安婦問題ではないが、カナダのオンタリオ州議会では、中国系議員の主導で「南京大虐殺記念日」なるものも設定された。「大虐殺」も、歪曲された歴史であることは実証研究が示している。サンフランシスコでもそうであるように、現地の韓国系や中国系の人・団体が動いていることを見落としてはならない。そのような住民が多いところでは、議会や自治体がやすやすとその意に迎合してしまう。歴史戦は終わるどころか、なお荒れ狂っている。歴史戦には、いくつかの要素がある。中国は2003年、中国人民解放軍工作条例を改正し、世論戦、心理戦、法律戦を工作に加えた。日本の内外で反日世論をかきたて、外国と日本との関係を離間させようとする。日本国内では反日史観を増長させ、祖国への誇り、国民の士気をくじく。これらが世論戦であり心理戦である。要するに歴史戦とは政治工作であり、偽り欺く「詭道きどう」(孫子)である。日本を弱体化させ、あるいは日本と友好国を離間させようとする目論見が背後にはある。中国は韓国をうまく使っている。
(毅然とした対応を)
国内ではこのような構図の理解が、かなり共有されるようになっている。しかし海外ではまだまだと言わねばならない。サンフランシスコの碑文にも見られるように。歪曲されて世界に広められた慰安婦についての認識を改めていくことは、容易ではない。この問題での対外発信で、政府は後手に回ってきた。世界の誤解を正す、より積極的な行動を政府に求める。同時に腰の重い政府を待たず、市民や自治体のレベルで、この問題に対応していくことが必要である。姉妹都市解消という吉村氏の判断を支持する理由である。慰安婦問題の誤解を正す声を上げている人々は、すでに国内外に多い。自治体も腰を引いてはいけない。歴史戦という戦略的な観点からだけではない。慰安婦問題は何より、先祖、子孫を含めた日本人の名誉に関わる問題である。毅然とした対応こそ望ましい。2013年に慰安婦像が設置されたグレンデールには、姉妹都市の大阪府東大阪市が抗議文を送ったが前向きな反応はなかった。実質的な交流がないまま提携は続いているという。こちらも関係を解消したほうがいい。



総力大特集、朝日はなぜ日本が嫌いなのか?植村隆元記者「捏造」裁判
櫻井よしこ意見陳述書、全文掲載!〜Hanada2016.7月号〜
元朝日新聞記者で「元慰安婦・金学順」の記事を初めて書いた植村隆氏が、櫻井よしこさんと新潮社、ダイヤモンド社など出版3社を相手取り、名誉毀損による損害賠償請求裁判を起こしています。

《植村氏が書かなかったこと》
裁判の冒頭にあたって、意見を述べる機会を与えてくださりありがとうございます。日本は今、旧日本軍が戦時中に朝鮮半島から女性たちを強制連行し、慰安婦という性奴隷にし、その挙げ句、約75%の女性たちを殺害したといういわれなき非難を浴びています。
朝鮮半島から20万人、中国から20万人、合わせて40万人もの女性をそのような悲惨な運命に突き落としたという濡れ衣が、主にアメリカを舞台として韓国系及び中国系団体によって流布されています。
その原因を作ったのは朝日新聞です。植村隆氏もその中で重要な役割を担いました。世に言う「従軍慰安婦問題」と、悲惨で非人道的な強制連行の話は、朝日新聞が社を挙げて作り出したものであります。
朝日新聞は1982年9月2日の記事で、吉田清治氏を取り上げました。吉田氏は軍命で済州島に出向き200人の女性たちを強制連行したという許しがたい嘘をつき続けた人物です。その嘘を朝日新聞は複数回にわたり報道し続けました。
たしかに朝日新聞は吉田氏の証言は虚偽であったと認めて、関連記事を取り消しました。しかし、それは最初の吉田清治氏の紹介記事から、実に32年も後のことでした。この間、吉田氏の証言は、韓国済州島の現地新聞によって、あるいは現代日本史の権威である秦郁彦氏によって、事実無根であると証明され、その内容も報道されました。それらの指摘と報道は、朝日にとって、吉田証言を虚偽であると認め、取り消し、訂正する機会であったにもかかわらず、朝日はそうはしませんでした。
自らの間違いに目をつぶり続けることは言論機関として許されないだけでなく、日本と日本国民の名誉を傷つけた点で重い責任を負うものです。
吉田氏は虚構の強制連行を具体的に語ってみせ、日本政府及び日本軍を加害者と位置付けました。加害者としての日本軍のイメージが広がる中で、今度は植村隆氏が91年8月11日、金学順さんという女性についての記事を書きました。
この記事には彼女の名前は出てきませんが、植村氏は、金学順さんが「女子挺身隊の名で戦場に連行され」たと書きました。一方、母親によってキーセンに売られたと言う事実には触れませんでした。
朝日新聞が加害者としての日本軍による強制連行説を確立し、次に、植村氏が被害者として、「戦場に連行された」女性の存在を報じたのです。ここに加害者としての日本軍、被害者としての朝鮮の女性という形が実例を以って整えられたことになります。

《元慰安婦は何を語ったか》
ちなみに初めて名乗り出た慰安婦を報じた植村氏の記事は世紀のスクープでした。しかし、それからわずか3日後、彼女はソウルで記者会見に臨み、実名を公表し、貧しさ故に親によってキーセンの検番に売られた事実、検番の義父によって中国に連れて行かれた事実を語っています。同年8月15日付で韓国の「ハンギョレ新聞」も金さんの発言を伝えています。しかし植村氏が報道した「女子挺身隊の名で戦場に連行された」という事実は報じていません。
植村氏が聞いたというテープの中で、彼女は果たしてキーセンの検番に売られたといっていなかったのか。女子挺身隊の名で戦場に連行されたと本当に語っていたのか。金学順さんはその後も複数の発言を重ねています。8月14日の記者会見をはじめ、その同じ年に起こした日本政府への訴えでも、彼女は植村氏が報道した「女子挺身隊の名で戦場に連行された」という発言はしていません。 裁判では訴状に一番有利な事柄を書くのが当然です。日本軍による強制連行が事実であれば、彼女が日本政府を糾弾するのにこれ以上強力な攻めの材料はないはずです。しかし、訴状にはそんなことは書かれていません。書かなかった理由は強制連行はなかったからです。

《日本人が負わされた不名誉》
植村氏は91年12月に再び金学順さんの記事を、今度は、実名を出して書いています。その中でもこの間違いを訂正していません。むしろ、キーセンの検番のあった平壌から中国に連れて行かれた時のことを、植村氏は「『そこへ行けば金儲けができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました」と金さんが語ったと報じました。「地区の仕事をしている人」とは一体誰か。それは彼女が語っています。検番の主人のことです。しかし植村氏は「地区の仕事をしている人」という曖昧な表現を用い、彼女がキーセンに売られたことを報じませんでした。植村氏はキーセン学校に通っていたことは必ず慰安婦になることではないと考えたから書かなかったと、朝日の第三者委員会に説明しています。
しかし、真の理由はキーセンに売られた経歴を書けば、植村氏が8月に書いた「女子挺身隊の名で戦場に連行」されたという記述と矛盾し、記事が間違いであることが判明するから書かなかったのではないでしょうか。植村氏は自分は捏造記者ではないと弁明しています。なお、私はこの記事について捏造と評したのであって捏造記者と評したわけではありません。仮に百歩譲って、91年8月11日の記事が捏造と評されるのもではなく、単なる誤報であったと仮定します。では12月の記事はどうでしょうか。すでに述べたようにこの時点ではすでに金学順さんのソウルでの記者会見も日本政府を訴えた訴状も明らかにされ、植村氏の報道内容が間違いであることが判明しています。にもかかわらず、訂正はされていません。取材対象が語らなかったことを書き、語ったことを省いた。それが誤りであることが判明したにもかかわらず、訂正しなかった。そこには、意図があると思うのは当然です。事実とは異なる事を書き、意図を持って訂正しなかったとすれば、それを捏造記事と評したことのどこが間違いでしょうか。植村氏は捏造と書かれて名誉が毀損されたと訴えています。しかし植村氏は、自身の記事がどれだけ多くの先人たち、私たちの父や祖父、いま歴史の濡れ衣を着せられている無数の日本人、アメリカをはじめ海外で暮らす日本人、学校でいじめにあっている在外日本人の子供達、そうした人々がどれほどの不名誉に苦しんでいるか、未来の日本人たちがどれ程の不名誉に苦しまなければならないか、こうしたことを考えたことがあるのでしょうか。植村氏の記事は、32年間も慰安婦報道の誤りを正さなかった朝日新聞の罪とともに、多くの日本人の心の中で許しがたい報道として記憶されることでしょう。

《なぜ言論で応じないのか》
植村氏は私の記事によって、ご家族が被害を被った。お嬢さんがひどい言葉を投げつけられたと、私を論難しています。言論に携わる者として、新聞、雑誌、テレビ、ネット、すべてのメデイアを含めて、本人以外の家族に対する暴言を弄することは絶対に許されません。その点で私は植村氏のご家族に対する同情の念を禁じ得ません。同時に、それらが私の記事ゆえであるとする植村氏の主張は受け入れられません。むしろ、私はこれまで植村氏の家族に対する暴言は許されないと言い続けてきました。今日、この法廷に立って、感慨深いものがあります。私はかって「慰安婦は強制連行ではない」と発言して糾弾されました。20年ほど前の私の発言は、今になってみれば真実であると多くの人が納得しています。しかし、当時は凄まじい攻撃の嵐にさらされました。仕事場には無数のFAXが、紙がなくなるまで送りつけられました。抗議のハガキも、仕事ができなくなる程の抗議の電話も、ありました。当時ネットはありませんでしたが、ネットがあれば、炎上していたかもしれません。その無数の抗議の中でひときわ目立っていたのが北海道発のものでした。主として北海道教職員組合の方々から、ほぼ同じ文言の抗議が、多数届いたのです。そのようなことがあったこの北海道の札幌の地で、植村氏を相手に同じ慰安婦問題で法廷で闘うのには、何か特別の意味があると、この頃、思うようになりました。私は断固として、植村氏の記事に対する評価を変えません。それを言われるのが嫌であるならば、植村氏には正しい事実を報道せよと助言するのみです。

《民主主義の根本とは》
最後に強調したい事があります。私は植村氏の訴え自体を極めて遺憾だととらえています。氏が、言論人であるならば自らの書いた記事を批判されたとき、なぜ言論で応じないのか。言論人が署名入りの記事を書くとき、もしくは実名で論評するとき、その覚悟は、如何なる批判にも自分の責任で対応するということでしょう。言論においてはそれが当たり前のことです。しかし、植村氏はそうはせずに、裁判に訴えました。内外で少なからず私の名誉を傷つける講演を重ね、まるで運動家であるかのように司法闘争に持ち込んだ植村氏の手法は、むしろ、言論・報道の自由を害するものであり、言論人の名にもとる行為ではないでしょうか。民主主義の根本は、自由なる言論の闘いによって、より強化されます。発言の場を有する記者がこのような訴訟を起こすことを、私は心から残念に思うものであります。当裁判所におかれましては、公正なる判断を下していただけるものと期待し、私の意見陳述を終わります。










「国連を反日で利用」我那覇氏が左翼非難
〜産経新聞平成29年6月17日〜

スイス・ジュネーブで開催中の国連人権理事会に参加した、沖縄県名護市出身の専門チャンネルキャスター、我那覇真子氏が16日、東京都内で帰国報告を行い「これ以上、左翼の人たちに国連を反日の場として利用させることは許さない」と訴えた。
我那覇氏は、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の名護市辺野古移設の反対派リーダー、山城博治被告(64)=傷害などの罪で起訴、保釈=が、15日の同理事会で「米軍基地による人権侵害に対し平和的な抗議運動を行なっている」と説明したことについて「本来、命を失うような人権弾圧を受けている国の人たちが訴えていく場なのに、自分たちの政治闘争のために誤った情報を訴えるのは非常に問題だ」と非難した。「 加害者が被害者ぶって、さらなる過激な活動をしようとしている」とも述べた。

朴大統領対日改善示す「3.1節」演説、北の核強く避難
〜産経新聞平成28年3月1日〜

【ソウル=名村隆寛】韓国の朴クネ大統領は1日、日本の朝鮮半島統治からの独立運動記念日「3.1節」の式典で演説した。朴大統領は慰安婦問題の解決に向けた昨年末の日韓合意を踏まえ、「日本政府も歴史の過ちを忘れずに、合意の趣旨と精神を完全に実践し(慰安婦問題が)未来の世代へ教訓として記憶されるよう努力しなけてばならない」と述べた。
演説のポイント
・慰安婦問題の日韓合意は、被害者が一人でも多く存命中に解決しなければならないとの切実な心情で努力を傾けた結果。
・日本政府も歴史の過ちを忘れず、合意の趣旨と精神を完全に実践し、未来の世代に教訓として記憶されるよう努力しなければならない。
・北朝鮮との対話の扉は閉じないが、北朝鮮が核を放棄する他ないような状況を作る。

韓国、小6用の国定教科書、「慰安婦」表現や写真撤回
〜日本経済新聞平成28年2月26日〜

【ソウル=小倉健太郎】旧日本軍の従軍慰安婦問題で韓国教育省は25日までに、2016年に改訂する小学校6年生用の国定社会科教科書に「慰安婦」や「性奴隷」といった表現や慰安婦の写真を使う方針を撤回したと明らかにした。改定準備として14年に作った試験版ではこれらを採用していた。昨年末の日韓合意を受けて対日批判を抑制する方針の一環とみられる。
実際の改訂版では 「強制的に戦場に連れていかれた若い女性たちは日本軍から多くの苦痛を与えられた」などとしている。改定前に比べると「強制的に」を追加したが「小学生には適切でない」との理由で「慰安婦」などの採用は見送った。韓国の教科書は学年や科目により国定と検定が混在している。

「売春婦」表記、巧妙に隠す〜産経新聞平成28年2月21日〜

国連などで韓国系によって配布されてきた英語の小冊子がある。韓国政府系の反日政策研究・推進機関「東北アジア歴史財団」がまとめた『日本軍[慰安婦]の真実』。全ページカラー刷りの立派な装丁だ。
その中に、ビルマ(現ミャンマー)で米軍が捕らえられた朝鮮人慰安婦からの聞き取り調査内容をまとめた報告書(1944年作成)の写真が掲載されている。
この報告書は「慰安婦イコール性奴隷」説を否定する『証拠』として扱われることが多い。なぜそんな資料が韓国系団体の作成した小冊子に掲載されたのか。
実は、報告書には「慰安婦は売春婦もしくは(兵士のためについてくる)プロのキャンプフォロワー以外の何物でもない・・・」と明記されているのだが、小冊子ではその部分に米兵が慰安婦を聴取している写真が置かれ、そうした記述が隠れてしまっている。「真実」を告発する小冊子なのに韓国系団体にとって都合の悪い部分は隠されていたわけだ。
平成4(1992)年1月11日付けの朝日新聞一面に掲載された「慰安所軍関与示す資料」の写真も掲載。「中央大学教授の吉見義明は、日本軍が慰安婦募集に直接関与していたことを示す文書を発見した」と英語で説明している。しかし、吉見が発見したという文書は実際には悪質な業者には気をつけろという通達で、少なくとも、強制連行とは何の関係もない。
慰安婦問題についてそれほど知識のない外国人は『工作』に気づくはずもないし、立派な小冊子を受け取れば、書かれている内容を事実であると受け止めるのは想像に難くない。
小冊子を入手したのは近現代史研究家の細谷清。昨年3月にニューヨークで開催された女性の地位委員会で韓国側が開催した行事で受け取った。
これに対抗して、細谷と反日活動の阻止を目指す民間グループ「なでしこアクション」代表の山本優美子は「From misunderstandings to SOLUTION(誤解から解決に向けて)」と題するカラー刷りの英語の小冊子を作成。今月中旬にジュネーブで開かれた国連女子差別撤廃委員会で委員全員に配布した。
東北アジア歴史財団の小冊子と同じサイズで、「慰安婦狩り」の捏造などを写真やデータ入りで説明した。「慰安婦問題の真実を外国の人に少しでも理解してもらいたい」と山本は話す。

橋下市長、米慰安婦像巡り、懸念の公開書簡〜日本経済新聞平成27年9月4日〜

橋下徹大阪市長は3日の記者会見で、慰安婦の碑又は像設置を支持する決議案の審議入りを決めた姉妹都市の米サンフランシスコ市議会に対し、懸念を表明する公開書簡を送ったことを明らかにした。書簡は8月27日付けで、同31日に同市議会に送達されたことを確認したという。
書簡で橋下氏は「戦場において、日本だけではなく世界各国の軍によって、女性が性の対象とされてきたも厳然たる歴史的事実」とし、「日本の事例のみを取り上げることによる矮小化は世界各国の問題解決につながらない」と主張した。

橋下徹大阪市長の書簡に盛り込まれた主な意見〜産経新聞より〜
・女性の尊厳と人権が戦場でも守られる世界を目指す。
・「強制的に性的奴隷にされた」「20万人」といった誤ったキーワードが碑文に刻まれることへの懸念。
・米英仏独や旧ソ連、韓国軍にも旧日本軍と同様の問題は存在した。
・日本の事例のみを取り上げる矮小化は世界各国の問題解決につながらない。
・日本に法的責任があるのならば、各国も同様。

「私は捏造記者ではない」元朝日記者の植村氏、ソウルで記者会見し
「自分は有名な記者になる」と述べる。
〜産経新聞平成27年8月14日〜

【ソウル=名村隆寛】元朝日記者で慰安婦報道に関わった北星学園大(札幌市)の非常勤講師、植村隆氏が13日、ソウル市内で記者会見し「私は捏造記者ではない。不当なバッシングには絶対に屈しない」と改めて強調した。
植村氏は、自らが1991年に書いた記事で、当時韓国で慰安婦の意味で使われていた「挺身隊」という表現を使ったことが「日本国内で『捏造だ』などと批判を受けてきた」と主張。「当時、他のメディアも同様の表現を使っていたにもかかわらず、私だけが標的とされた」とし、「日本の異常なジャーナリズムの状況」として批判した。自らの報道への批判をめぐり、名誉毀損の訴訟を起こした植村氏は「(自分の記事が)捏造でないことが証明されれば、(自分は)ひとりの有名な記者になる」と述べた。

サンフランシスコ慰安婦決議案、大阪市書簡で懸念伝達、月内発送へ
〜産経新聞平成27年8月11日〜

米カルフォルニア州サンフランシスコ市議会の委員会で、審議される慰安婦の碑または像の設置を支持する決議案に「性奴隷を強制された20万人」という表現が盛り込まれた問題で、姉妹都市の大阪市がサンフランシスコ市議会宛に慎重な対応を求める書簡を今月内に発送する方針を固めたことが10日分かった。橋下徹市長の意向で、サンフランシスコ側に事実関係の検証を行ったのか尋ね、決議案が日米関係に与える影響への懸念を伝える。
決議案は慰安婦を「旧日本軍に誘拐され、強制的に性奴隷にされた推定20万人のアジアと太平洋諸島の女性や少女」と表現し、旧日本軍を批判。サンフランシスコ市で市民グループが慰安婦の碑または像の設置に向けて動いていることを支持し、同市に協力を促す内容になっている。
エリック・マ市議ら8人が連盟で7月14日の市議会で提案し、同21日に委員会付託された。委員会は次回、9月8日の市議会再開後の同17日に開かれ、決議案が審議される見込み。大阪市は審議までに書簡を届けるため、月内に発送する方針を決めた。
橋下市長はこれまで、戦時中には日本だけではなく各国が女性を性的に利用していたと指摘してきた。書簡では、戦場での女性の性の問題を繰り返してはいけないという価値観は当然とするが、旧日本軍だけを特別に避難することが両市関係、日米関係に影響を与えるとの懸念を盛り込む方向だ。
大阪市の橋下徹市長が問題視し、書簡送付に踏み切る方針を固めた米カルフォルニア州サンフランシスコ市議会の決議案には慰安婦に関する表現だけでなく、「旧日本軍の支配地域全域で、集団レイプや大量虐殺、凶悪な拷問といった残虐行為がなされた」などの主張が書かれている。
決議案では「旧日本軍の指導者たちは戦争犯罪人として調べられることも、有罪判決を受けることもほとんどなく、訴追を免れた」など旧日本軍を批判。慰安婦問題をめぐる米連邦下院議会(2007年)とサンフランシスコ市議会(13年)の対日避難決議や、米国内での慰安婦像設立の動きなどを紹介している。
そして、サンフランシスコ市民の多くがアジアと太平洋諸島に祖先を持ち、「日本の過去の性奴隷制度を何らかの形で体験した」と記載。慰安婦の窮状と被害が歴史から忘れられないようにするためなどとして、市民グループの碑または像の設置に市当局が協力するよう促し、「戦後70年の今年中の建立を強く支持する」と結んでいる。
《事実に反する》西岡力東京基督教教授の話
決議案の「旧日本軍に誘拐され、強制的に性奴隷にされた推定20万人」などの旧日本軍を行為主体とした表現は事実に反することがすでに学会で証明されている。20万人の数は多すぎるし、業者は慰安婦に対価を支払っていた。旧日本軍の指導者がほとんど訴追されなかったのは業者がやっていたからで、インドネシアでオランダ人捕虜を慰安婦にした将校は戦犯として死刑になっている。外務省や現地の総領事館は何をやっているのか。サンフランシスコ市議会に働きかけるべきだ。

「河野発言は重大問題」自民提言案
慰安婦「強制連行」虚偽是正へ発信強化〜産経新聞平成27年7月28日〜

自民党の「日本の名誉と信頼を回復するための特命委員会」(委員長・中曽根弘文元外相)が慰安婦問題をめぐる誤った認識を正すため策定した提言の最終案の内容が27日、分かった。平成5年に河野洋平官房長官(当時)が慰安婦募集の強制性を認めた談話を発表後に「(強制連行の)事実があった」と発言したことを批判し、政府に日本の立場、取り組みなどの発信を強化するよう求めた。
自民党は28日の党総務会で提言を正式決定し、安倍晋三首相に提出する。提言は、河野氏の発言や吉田清治氏の虚偽の証言に基づく朝日新聞の一連の誤報を「事実に反する認識を韓国をはじめ国際社会に広めた大きな原因になった」とし、「重大な問題だ」と非難した。
韓国や米国で進む慰安婦像や碑の設置について「著しく日本の名誉を毀損し、国益を損なうものとして看過できない」と指摘。米国の公立高校で使われる教科書に「日本軍は14〜20歳の約20万人の女性を慰安所で働かせるために強制的に募集、徴用した」などの記述があることについては「教科書などで虚偽を教えて、いたずらに日本の名誉を毀損することは許されることではない」と批判した。
慰安婦を強制連行された「性奴隷」と認定した国連人権委員会の「クマラスワミ報告書」について「(誤った認識が国際社会に流布され)近年でも人権に関する国際的なフォーラムなどで誤った認識に基づく言及が行われることが少なくない」と懸念を示した。
そして、海外に広まった誤解を正すため、政府に対し、慰安婦問題について偏りのない出版物の翻訳や国連などでの情報発信、慰安婦像や碑を設置している自治体への働きかけを積極的に行うよう求めたほか、姉妹都市交流や企業間交流などを通じた「『親日派かっこの開拓」なども盛り込んだ。
ただ、戦時中の慰安所設置については「根本的に女性の人権と尊厳を著しく傷つけたという点に議論の余地はない」とも指摘した。

慰安婦問題めぐる自民提言 最終案要旨
《総論》かねて事実関係に基づかない報道などで、戦時中の慰安婦問題などについて日本の名誉と信頼が大きく損なわれてきた。長期にわたり(慰安婦の強制連行があったとする)いわゆる「吉田証言」の十分な検証もせず記事を捏造し続け、国際社会に誤った認識を植え付けた朝日新聞の責任は大きい。
われわれは、将来の子供達のためにも早急に日本人と日本の名誉と信頼を回復する必要がある。特命委として@日本は戦後一貫した平和国家で、人権を重視する国家だとの実績を示すA客観的な事実に基づき慰安婦問題をめぐる誤りを正すB道義国家・文化国家として信頼される国家を目指すーことを提言する。
《事実関係》朝日新聞が昭和57年に吉田証言を紹介し、平成4年の社説では慰安婦が「挺身隊」の名の下に勧誘、強制連行されたと論じた。平成5年の河野洋平官房長官談話は「強制連行は確認できない」との認識で作成されたが、河野氏はその後の記者会見で「(強制連行の)事実はあった」と述べた。事実に反する認識を、国際社会に広めた大きな原因になったと言わざるを得ず、重大な問題である。
現在、米国やフィリピン、オランダなどの立法府で慰安婦問題に関する決議が提出、採択され、韓国や米国で慰安婦像や碑が設置されるなど、日本政府の立場と相入れない極めて残念なことが起きている。
《日本の平和国家としての歩み》戦前から一貫して人権を重んじ、平和を尊ぶ国として歩んできた。戦後は法の支配の実現を目指し、開発途上国の法整備などに積極的に取り組んでいる。現在は、安倍晋三首相のリーダーシップの下、「女性の輝く社会」の構築を目指している。
《求められる対応》歪曲された憂うべき状況を一刻も早く除去することが必要だ。@事実誤認などへの説明・反論、法的対応A国際社会の理解の増進B国際交流の枠組みの活用ーなどの取り組みを政府、関係主体が効果的な形で推進すべきだ。
日本はアジアの平和と発展のために中核的な役割を果たしていかなければならず、人権国家としての歩みを強固なものにし、女性が活躍できる社会を構築していく。国際社会から信頼を受ける文化国家を目指すべきだ。

産経新聞主張
反日宣伝に黙さず発信を〜産経新聞平成27年7月24日〜

米カリフォルニア州サンフランシスコ市議会で、慰安婦の碑や像の設置を支持する決議案が審議されている。決議案は慰安婦を「性的奴隷」などとする誤解に基づいている。日本をおとしめる反日宣伝を後押しするものであり、看過できない。
市議11人のうち8人が共同提案した。慰安婦について「日本軍に拉致され、性的奴隷の扱いを受けることを強制された20万人のアジアの女性や少女」と事実無根の説明をしたうえで、像の設置を支持するものだ。
市民らから意見を聞いた21日の議会では、像設置に反対する在米の日本人らが「性的奴隷という表現は不適切」などと意見を述べ、ひとまず採決は先送りされた。
決議が採択されれば、日本の国民感情を害し、米国との友好関係も損なわれかねない。日本政府は事実の発信を強め、決議が採択されぬよう働きかけるべきだ。
米国では韓国系団体による慰安婦像設置が問題となってきたが、同市では、中国系団体などが中華街に像の設置を計画し、署名活動を進めている。
中華街には、中国国外では初めて「抗日戦争記念館」が8月15日に開館することも発表された。中国側が、国際社会に影響の大きい米国で反日宣伝を強める表れとして懸念されている。
決議案の「性的奴隷」といった言葉は、韓国系団体などによる慰安婦像などにも刻まれてきた。
慰安婦を巡る誤解、曲解を世界に広めた大きな要因は「慰安婦狩り」に関わったとする吉田清治氏の証言だ。慰安婦と挺身隊の混同も「20万人」といった荒唐無稽な数字を一人歩きさせてきた。
1年近く前に朝日新聞が吉田証言の虚偽や挺身隊との混同を認め、一連の記事を取り消すなどしたが、世界に広がった誤解はいまだに解けていない。日本政府が「反論はかえって反発を招く」と適切な対応を怠ってきたことも誤解を増幅させた要因だ。黙っていては、誤りが国際社会で定着するだけである。
戦後70年の節目に、米国を舞台として、中国や韓国系団体による不当な反日宣伝の動きが続いている。今回のサンフランシスコ市のように、心を痛める在外日本人も少なくない。日本の名誉を守る客観的な事実の発信を官民で粘り強く続けたい。

慰安婦像サンフランシスコで審議
橋下市長「アンフェア」質問送付ヘ〜産経新聞平成27年7月24日〜

米カリフォルニア州サンフランシスコ市議会の委員会で、慰安婦の碑または像の設置を支持する決議案が審議される問題で、姉妹都市の橋下徹大阪市長は23日の定例記者会見で、「旧日本軍だけを取り上げるのだとすればアンフェア」と述べ、決議案の内容を確認し、見解をただす文書を送る方針を明らかにした。
決議案は複数のサンフランシスコ市議が共同提案し、慰安婦を「(先の大戦で)日本軍に拉致され、性的奴隷の扱いを受けることを強制された20万人のアジアの女性や少女」などと表現。市議会は21日に反対派と賛成派の市民の見解を聞き、今後、委員会で審議することを決めた。
橋下氏は「先の戦争で女性の人権が蹂躙されたのは事実。今も紛争地帯で苦しんでいる女性がおり、二度とやってはいけないと表明するのは当然」との認識を示す一方、「先の大戦時に世界各国がどうしていたのか。日本だけ特別に非難することはあってはならない」と強調。決議案が旧日本軍だけを取り上げているのが事実なら「アンフェアだ。おかしい」と問題視し、「(碑か像に)刻み込む文言によっては姉妹都市や日米関係に影響する」と懸念を表明した。見解をただす文書は、決議案の趣旨を確認するもので、抗議ではないという。
サンフランシスコ市議会は平成25年6月、橋下氏の慰安婦をめぐる発言に対して非難決議を採択した。この際も「20万人の性的奴隷」との表現を用いており、橋下氏は当時、決議撤回を求める書簡を送っていた。

歴史戦ー米サンフランシスコ市議会、中国系団体を後押し
慰安婦像設置採択の公算〜産経新聞平成27年7月20日〜

【ロサンゼルス=中村将】
米カリフォルニア州サンフランシスコ市議会が今月21日、慰安婦の碑、または像の設置を支持する決議案を採択することが分かった。同市では中国系の反日団体が公共の場に慰安婦像の設置を推進する署名活動を展開、決議案はこの動きを後押しする意味合いがある。戦後70年を機に、日本政府に圧力を掛ける狙いもありそうだ。
決議案は、市議、11人のうち8人が共同提案し、14日の市議会でエリック・マ市議が提示。慰安婦を「(先の大戦で)日本軍に拉致され、性的奴隷の扱いを受けることを強制された20万人のアジアの女性や少女」などと説明し、同市に慰安婦碑(像)を設置することを支持している。
決議案の採択は全会一致が原則だが、反対者が出た場合は再審議を経て改めて採択され、過半数(6人)の「賛成」で採択されるといい、決議案が採択される公算は大きくなっている。
採択を受けて直ちに碑や像が設置されるわけではない。だが、サンフランシスコ近郊を拠点とする中国系反日団体などは昨年8月、慰安婦像設置のための準備委員会を設立、今年3月には米国最大とされるサンフランシスコ中華街に像を設置しようと署名活動を始めており、こうした動きが一層活発化する恐れがある。
米国では韓国系による慰安婦像や碑が設置されてきたが、実現すれば中国系としては初。同中華街では中国国外で初の「抗日戦争記念館」が8月15日に開館することが発表されている。

徴用をめぐる日本政府代表の発言〜産経新聞平成27年7月6日〜

【和文】日本は、1940年代にいくつかのサイトにおいて、その意志に反して連れてこられ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいたこと、また、第二次世界大戦中に日本政府としても徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる所存である。
【英文】Japan is prepared to take measures that allow an understanding that
there were a large number of Koreans and others who were brought against their
will and forced to work under harsh conditions in the 1940s at some of the sites,
and that, during World War II, the Goverment of Japan also implemented its policy
of requisition.

韓国側は、産業革命遺産を構成する官営八幡製鉄所など7施設で、戦時中の昭和19年〜20年の間に朝鮮半島出身者に対する「強制徴用が行われた」と主張。韓国側が固執する強制性の表現が日韓の交渉難航の原因となった。
議場では、日本政府代表側は焦点になった歴史的な事実関係について、「自らの意志に反して連れてこられ、厳しい条件で労働を強いられた」と表現した。
外務省によると、朝鮮半島出身者の徴用問題について、政府見解や公式文書に「強制」の文言が使用されたケースはない。政府関係者は「徴用は国内法にもとづき、朝鮮人だけでなく日本人や台湾人など当時の『日本国民』に等しく適用されたからだ」と説明する。
政府は昭和14年に国民徴用令を制定。当時は朝鮮半島出身者は除外されたが、戦況悪化に伴う労働力不足から19年9月以降は適用された。法令には給与の支払いも明記されていた。
戦後、一部の徴用工への賃金未払い問題が浮上したが、40年の日韓基本条約により解決済みとなっている。

『世界遺産登録決定岸田外相発言要旨』
登録を確実なものとするためぎりぎりの調整を行ってきた。登録決定は誠に喜ばしいことで、関係者の皆様とともにこの決定を歓迎し、祝意を表したい。
試行錯誤の中、非西洋で初めて産業化に成功した先人たちの努力に心から敬意を表するとともに、遺産群の果たした世界的役割が一層広く世界に知られる契機となることを期待する。
登録決定後、わが国は世界遺産委員会の責任あるメンバーとしてイコモス(国際記念物遺跡会議)の勧告に真摯に対応して行く姿を示すため、発言を行った。発言はこれまでの日本政府の認識を述べたものであり、1965年の韓国との国交正常化の際に締結された日韓請求権経済協力協定により、朝鮮半島出身者の徴用の問題を含め、日韓間の財産請求権の問題は完全かつ最終的に解決済みとの立場に変わりはない。外交上のやり取りを通じ、韓国政府は今回のわが国代表の発言を日韓間の請求権の文脈において利用する意図はない、と理解している。わが国代表の発言における『forced to work』との表現は強制労働を意味するものではない。

ベトナム封じられた「事件」、「韓国兵相手の売春婦死亡」
〜産経新聞平成27年7月5日〜

ベトナムの「韓国軍慰安所」について記した米公文書には、ホーチミン(旧サイゴン)のデイエンビエンフー通り以外の施設の名称もあった。チャンフンダオ通り沿にそのうちの一つの建物が残っている。近所に長年住むバイクタクシー運転手の男性(59)は施設をマッサージを意味する「マッサー」と呼んだ。実態は売春宿だった。
営業していたのは1960年代末70年代初め。五階建ての1階には受付があり、約20人の若いベトナム人女性がつめていた。18歳ぐらいの女性もいたという。
同じく近くに住むグエン・ゴック・ビン(67)にも話を聞いた。
元憲兵だったというビンは、これまで複数の日本メディアの取材に応じてきた人物だが、この日のビンは何かを気にしたよう様子で口が重かった。
4月に同じ場所でビンを取材したフォトジャーナリストの村山康文によれば、施設の成り立ちについてビンはこう説明した。
「韓国軍幹部らしき人物が、親しい関係にあったベトナム人女性から建物を譲り受け、68年ごろにオープンした」
「貧しい農村出身の10代の少女らが毎日のように大勢の韓国兵の相手をさせられていた」
しかし、今回の取材にビンは「分からない」を繰り返した。カメラを向けると、やんわりと右手を2回横に振り、これまでは応じてきた写真撮影を拒んだ。
ベトナムでは、韓国との友好的な経済関係の維持に配慮する政府が2000年に入って、「歴史は脇において未来をみよう」との方針を強く打ち出した。ベトナム戦争中に韓国軍が各地で引き起こした民間人虐殺事件などの歴史問題に関する言論も統制されている。
ビンは第三者による口止めは否定したが「付近をよく軍の関係者が通るので、心配しているんだ」とつぶやいた。
韓国軍士官らが関与したとされる米軍票の不正操作などの拠点の一つに挙げられた「ハングック・クラブ」(韓国クラブ)があった建物も、ホテルとして現存していた。近くで飲食店を営む男性(56)によれば、音楽や酒を提供する韓国軍向けのクラブだったが、売春宿もおり、他の外国軍も利用できたという。
この男性によれば、1970〜73年にかけて、店の女性が死亡する事件が頻発した。当局が調べたところ、韓国兵の相手をした売春婦ばかりだったという共通点が判明し、当時の南ベトナムの有力紙「白黒」に掲載された。
「白黒」を探したところ、65〜75年に発行されたすべての号を所蔵する図書館を見つけた。だが、南ベトナム時代の史料は原則非公開で閲覧することはできなかった。
「子供を3人抱いていたら3、4人の韓国軍兵士が入ってきて、私を捕まえて、頭に銃を突きつけた。子供たちを庭にほうり投げ、私を裏に連れて行って強姦した」
「塹壕に3日間閉じ込められ、韓国軍(兵士)から『服を脱げ』といわれ、繰り返し強姦された」
「とても怖かった。私は今もまだ、あなた方韓国人が怖い」
4月25日付けの韓国紙ハンギョレは、60〜80代の8人のベトナム人女性の証言を写真入りで大きく取り上げた。ベトナム戦争中、韓国軍兵士から性暴力を受けたと告白した被害者たちだ。
女性らが語った被害当時の具体的な状況や韓国兵に対する恐怖は生々しく、記事は聞き取りをした韓国の団体代表のこんな感想も伝えた。
「韓国軍が行った犯罪は明らかに幹部の命令なしには不可能で、組織的なレイプという疑惑を持たざるをえなかった」
ハンギョレが掲載した被害女性の証言は、韓国挺身隊問題対策協議会が3月中旬、ベトナム中部で集めたものだ。
挺対協は、ソウルの日本大使館前で毎週水曜、日本政府に慰安婦への謝罪を求めるデモを行う団体として知られる。韓国軍によるベトナムでの戦争犯罪の調査に取り組み、韓国政府に対しベトナム国民に謝罪し、方的責任を果たすよう求めている。
韓国軍による民間人虐殺事件や女性への暴行事件は1966年ごろから、サイゴン(現在のホーチミン市)で連日報じられていたとされる。だが、今なお全容は明らかになっていない。
今回名乗り出た8人のベトナム人女性は氷山の一角とみられる。挺対協は12月にも再度調査を行う予定だ。
「韓国の人々はこのような事実を知らないの?韓国政府が認めないの?」
「私は韓国政府に、謝罪して賠償するよう求める権利があります。今でも受けている痛みにふさわしい賠償をすべきです」
ハンギョレは被害者のこんな訴えも伝えていた。
父親である元大統領、朴チョンヒの時代に韓国兵がベトナムで繰り広げた性暴力を娘の現大統領、朴クネはどう受け止めるのか。
2000年6月末、ソウルにあるハンギョレの本社ビルは、迷彩服に身を包んだ男ら約2400人に取り囲まれた。
男らはベトナム戦争の退役軍人。ハンギョレが発行する週刊誌『ハンギョレ21』が、ベトナムを舞台に韓国軍が繰り広げた虐殺行為の検証キャンペーンを展開していたことに反発し、抗議のために集まったのだ。一部はハンギョレ社内に侵入し、パソコンや駐車場の車を次々に破壊。ハンギョレの幹部らが監禁され、逮捕者が出る事態に発展した。
『ハンギョレ21』による検証キャンペーンのきっかけは、ホーチミンの大学院に留学し、歴史を専攻していた韓国人、ク・スジョンによる現地調査だった。
各国軍が各地で引き起こした民間人虐殺事件は、中部ビンデイン省の「ビンアンの虐殺」(1966年2〜3月)、中部クアンナム省ハミ村の虐殺事件(68年2月)など、少なくとも80件に上り、9千人が犠牲になったとされる。犠牲者を1万〜3万人とする推計もある。
だが、韓国内で「加害の歴史」はタブーとなってきた。この問題を取り上げるとハンギョレの例に見られるように特定の団体が反発し、脅迫や襲撃の対象となりかねない。
今年4月、韓国の団体が韓国軍による虐殺を逃れたベトナム人2人をソウルに招き、何が起こったかを伝える行事を企画した。ハンギョレ(4月7日、電子版)によると、退役軍人の団体が、「歴史を歪曲する不純勢力の半民族的行為」などと反発し、行事の「粉砕」や「完全封鎖」を宣言。行事は中止に追い込まれた。
朴クネが自国の軍隊の加害の歴史に真摯に向き合い、ベトナム人被害者に謝罪した形跡は見られない。
慰安婦問題をはじめ執拗に歴史問題を持ち出して、日本に「歴史の正視」や謝罪を迫れば迫るほど、朴の「ダブルスタンダード」は際立って見える。

挺対協の姿勢、元慰安婦が批判
「事実と異なる証言集」「日本との協議拒否」
〜産経新聞平成27年7月4日〜

【ソウル=名村隆寛】
慰安婦問題で日本政府に謝罪や賠償を要求している「韓国挺身隊問題対策協議会」に対し、挺対協から“支援”されているはずの元慰安婦の女性が、韓国メデイアとのインタビューで「当事者(元慰安婦)の意見も聞かず、日本との協議を拒否している」と強く批判している。
元慰安婦の李容珠さん(86)は、最近発行された週刊誌「未来韓国」の中で「日本が話し合おうと言っているのに。会わずに問題が解決できようか」と挺対協のかたくなな姿勢を問題視した。
また、挺対協が在韓日本大使館前で毎週行っている抗議集会について「何のためにしているのかわからない。ただ、『謝罪しろ』『賠償しろ』と叫んで集会の回数をこなせばいいというものではない」と疑問を呈した。
一方、「証言は私の命同然なのに、挺対協は本人に確認もせず、事実とは異なる証言集を出した」と挺対協の情報収集のずさんさも指摘。「静かな場所で証言を聞かねばならないのに、食事をしながら問答したのが大部分。そのために、(自分の)証言にはめちゃくちゃになったものが多い」とも語っている。
李さんは「問題を解決するなら、韓国政府が慰安婦団体と被害者らを一つの場に集めて議論し、意見を聞かなければならない。そうすれば、被害者らが何を望んでいるかが分かり、解決策が出てくる」と訴えている。

ベトナム戦争時の「韓国軍慰安所」、「売春宿、だまされて来た女性も」
〜産経新聞平成27年7月3日〜

韓国軍がベトナム戦争中(1960-75年)に南部サイゴン(現ホーチミン)に「慰安所」を設けていたー。「週刊文春」(4月2日号)が報じた米公文書の存在は、韓国内で波紋を広げた。韓国紙ハンギョレは朴クネ政権に実態解明を求めた。日本統治下の慰安婦問題で日本政府を批判しながら、ベトナムで韓国兵が利用する「慰安所」を運営していたとの指摘に無視を決め込んでいいのかという疑問からだ。
6月中旬、公文書に記されていたホーチミンの「韓国軍慰安所」を訪れた。
市の中心部からバイクで10分。衣料品店が立ち並ぶデイエンビエンフー通り沿に公文書にある番地を見つけた。住民に尋ねると、向かい合って建つ2つの商店をさした。
「当時店の看板は『マッサージ』でしたが、実際は売春宿でした」
現在は婦人服店と子供服店だが、外観は当時とほとんど変わらないという。子供服店の隣に住むグエン・マン・ダン(90)は述懐した。
「支配人はがっしりした体格の韓国人のキムという人物で、韓国軍を辞めて店をやっていました」
ダンによれば、キムは当時30〜40代。2つの店は戦時中に営業し、若いベトナム人女性十数人が働いていた。ダンは断定を避けながらもこう語った。
「所有者のベトナム人女性と韓国軍が一緒に経営していたと思いますよ」
ベトナムの「韓国軍慰安所」について記した米公文書は、米軍がベトナム駐留韓国軍最高司令官、チェ・ミョンシンに宛てて、韓国軍士官らが関与した米ドルや米軍票の不正操作、米軍物資の横流しなどの経済事犯を通報した書簡だ。69年に作成されたとみられ週刊文春でTBSワシントン支局長(掲載時)の山口敬之が報じた。
韓国は65年から73年にかけて米軍に次ぐ規模になる約32万人をベトナムに派兵した。「青竜」「猛虎」などの主力部隊は中部に展開したが、司令部はサイゴンに置かれた。
公文書は、米軍とベトナム通関当局による捜査結果として、事件に関わった韓国陸軍の大佐ら6人と米軍兵3人の実名を列挙。加えて、不正事案の舞台となったサイゴンと中部ダナンにある韓国系施設約10箇所の名称も明らかにした。
捜査対象の中心となったのがデイエンビエンフー通りの施設だった。韓国軍大佐ソ・ユンウオンが署名した書類を建物の所有者が提出しており、そのなかで「トルコ風呂(Turkish Bath)は韓国兵専用の慰安所(Welfare Center)」と説明されていた。
バイクタクシー運転手、ボー・バン・マオ(58)は12歳のころ、施設の客用の駐輪所でアルバイトをしていた。当時のことを覚えているという。
「店の前の道路には、軍用車両がよく止まっていましたよ」
マオによると、店では米軍票と米ドル紙幣が使え、韓国兵も利用していた。通常では軍施設でしか通用しない軍票を、有利なレートで現地通貨や米ドルに交換するといったヤミ両替が行われていたとみられる。
公文書は後の捜査で判明した事実として、施設について、38ドルで売春婦と一晩をともにできること、韓国兵以外の外国人も利用できたことも記してある。
戦時中、歩兵部隊を率いていた元米軍将校は、施設を利用したことはなく伝聞だと断った上で、「慰安所は売春宿だった。それ以外の何物でもない」と言い切った。女性たちについては「主にベトナムの地方出身者だった。貧困から家族によって送り出される場合もあれば、自発的にやってくる女性もいた。だまされて連れてこられた人もいただろう」と述べた。

米軍慰安婦、韓国メディア黙殺、朴政権にふりかかる「戦争と性」
〜産経新聞平成27年7月2日〜

「(原告は)基地村を(韓国政府が)つくり、助長したということを認定しろというが、認定するための証拠がありません」
5月29日、ソウル中央地裁民事部560号法定。被告席に座った韓国政府の代理人は、国に責任があったとする原告側に主張を裏付ける証拠を提出するよう求めた。原告は朝鮮戦争(1950-53年)の休戦後、韓国内で米兵相手に買春をしていた元慰安婦達。日本統治下での慰安婦問題を巡っては、日本政府に賠償と謝罪を求めている韓国政府が、国内では米軍慰安婦問題で「被告」の立場にある。
原告の元米軍慰安婦122人は昨年6月25日、1人あたり1千万ウオン(約110万円)の国家賠償を求めて集団で提訴した。韓国政府が在韓米軍基地周辺に米軍慰安婦が暮らす「基地村」を設置し、慰安婦の健康管理などをしたことが人権の侵害にあたると主張する。
元米軍慰安婦が国家の責任を問うのは初めてのこと。慰安婦問題への関心が高い韓国での提訴だけに注目度は高いはずだが、訴訟をめぐる韓国主要メディアの扱いは冷たい。
提訴を報じたメディアは10社あまりあったが、朝鮮日報、中央日報、東亜日報などの主要紙や地上波の民放局は一様に黙殺した。昨年7月には、左派系のハンギョレ紙やSBSテレビなどが伝えたが、第一回口頭弁論について聯合ニュース以外の主要メディアは報じようとしなかった。
日本に対しては慰安婦問題の解決を執拗に要求している韓国のメディアがこれだけ無関心を決め込むには理由がある。韓国の野党系国会議員のスタッフはこんな分析をして見せた。
「臭いものにはフタ、ですよ。この問題を突き詰めると元大統領、朴チョンヒの責任論につながり、ひいては娘である現大統領、朴クネの正当性にもかかわる問題なのです」スタッフは続けた。
「騒げば、韓国社会がかって女性に米兵の性欲処理をおしつけて、切り捨てたという目にしたくない事実が表面化してしまう」
朴チョンヒの責任はどういうことか。
休戦後、韓国各地の米軍基地周辺に米軍を中心とする国連軍兵士を客としていた売春婦が多数存在した。間もなく「基地村」がつくられた。そこに、朴チョンヒが関与していたことは国会でも取り上げられた。
2013年11月6日の国会国政監査で野党議員が「基地村」への国家関与を示す文書を突きつけた。
「基地村浄化対策」と題されたその文書は、国立公文書館に相当する国家記録院から取り寄せた非公開記録。1977年5月2日付けで、米軍慰安婦が居住していた「基地村」が62カ所あり、慰安婦が9935人いたとの記載があった。
議員は文書の右上に朴チョンヒのサインがあったことから、朴政権が「基地村」の維持・管理に関与していたと指摘したのだ。
“歴史的な記録文書”が初めて提示された国会審議だったが、元米軍慰安婦による裁判同様、韓国社会ではほとんど話題にならなかった。
韓国は日本に慰安婦問題の解決を求めるが、「戦争と性」の問題は韓国にもふりかかる。「歴史戦」第11部は海外の事例に焦点をあてる。

【不都合な歴史世界に語らず。朴チョンヒ政権が合法化した米軍慰安婦】
米軍慰安婦の事実解明に初めて系統的に挑んだのは漢城大准教授、金貴玉(キムキオク)だ。それまで米軍慰安婦の存在が公の場で語られることはほとんどなかった。慰安婦達が買春行為の背徳性から「被害者」として名乗り出ることはできなかったが、政治への「市民」の発言力が相対的に増大し、国家の責任が語られるようになる。
女性の性搾取問題の研究者である金は2002年、朴チョンヒ政権が性病検査など米軍慰安婦の管理政策を行っていた研究結果を発表した。
韓国政府は金が日本統治下の慰安婦問題に対して厳しい見方をしているにもかかわらず、米軍慰安婦の研究は好ましく思わなかったようだ。研究発表後、政府は研究活動を自粛させたほか、国防省書蔵の米軍慰安婦政策に関する文献資料を禁書化した。この問題が社会的に広く認知されることを嫌ったのだ。
その理由について、金は13年に出版した『米軍慰安婦基地村の隠された事実』のなかで、日本の慰安婦問題を追求している韓国政府が、国内では米軍用の「慰安所」を運営していたことが世界に知られては、日本側から「韓国に日本を追及する資格などない」と避難されると懸念したためではないかと推測している。
金は著書の中で、資料と聞き取り調査に基づき、韓国政府の米軍慰安婦への関与を次のように記した。
「(1961年に朴チョンヒらが起こした)5.16クーデターの直後、米軍との友好関係の維持が重要だと判断した『国会再建最高会議』は、米軍駐屯地の実態調査を実施。関係省庁に『慰安婦の教養の向上と保健診療所の拡大』を含む主要な措置を指示した」
韓国ではクーデターの翌年の62年12月に「倫落(買春)行為防止法」が制定され、買春は全面禁止されていた。だが、金の研究によれば朴チョンヒ政権は、米軍を韓国に引きとどめるため、(買春)関係法令の再整備▽慰安所登録制の導入▽保健所による性病検査強化▽専用の収容施設の設置ーなどの措置を取って、買春を米(国連)軍相手に限り合法化したのだった。
米軍慰安婦たちの生活は実に悲惨なものだった。韓国紙は1950-70年代に起きた数々の悲劇を伝えている。
57年7月21日付けの東亜日報によれば、釜山では将来を悲観した慰安婦2人が心中した。遺書には「終わりがないこの生活にうんざり。増えるのは借金だけだ」とあったという。70年2月11日付けの毎日経済紙によると、京畿道安養にある米軍基地前で、米将校が兵士の外出制限と外泊禁止措置をとったことに対し、「倫落女性会」の会長=当時(27)=ら慰安婦70人がデモ。「(客が来なくなって)飯が食えない」と措置の解除を要求する事件も起きている。
62年9月26日付けの東亜日報は、週2回義務付けられている検診を守らない慰安婦4人が拘束されたことに対し、なじみ客だった国連(タイ)軍兵士が武装して拘束先の警察署を襲撃し、慰安婦の解放を要求した事件を報じた。
元慰安婦の中には当時、「外貨を獲得する愛国者だ」とたたえられた人もいたという。米軍慰安婦が時代に翻弄された存在であることは間違いない。
元米軍慰安婦の集団訴訟を支援しているのは、米軍将兵による犯罪の告発や米韓合同軍事演習に反対する左派系の「基地村女性人権連帯」などの団体だ。
同連帯の代表は2012年、日本統治下の慰安婦問題での責任追及を主導する「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」主催の集会に参加し、共同声明を発表するほど挺対協と親密だ。
もっとも、挺対協は日本統治下の慰安婦問題を重視し「世界1億人署名運動」を行うなど国際世論への働きかけをしているが、運動の中で米軍慰安婦問題は積極的に訴えていない。
挺対協から突き上げられている形の大統領、朴クネも外国要人らとの会談では日本統治下の慰安婦問題にしばしば言及する。6月25日に国連人権高等弁務官、ゼイドと会談した際も「一生涯を苦痛の中で過ごしてきた被害者が生きているうちに名誉と尊厳を回復することが重要だ」と強調した。ゼイドは挺対協が運営する「戦争と女性の人権博物館」を訪れ、元慰安婦3人と面会したが、そこに米軍慰安婦の姿はなかった。

日本政府が財政支援、韓国は最終解決を保証
合意には高いハードル〜日本経済新聞平成27年6月18日〜

慰安婦問題をめぐる日韓協議の概要が分かった。日本が取る措置には元慰安婦への財政支援や、安倍晋三首相による謝罪や責任への言及を含む声明が挙がる。韓国がとる措置には朴クネ政権での慰安婦問題の最終解決への保証などを列挙している。いずれも合意に向けたハードルが高く、結論は出ていない。
日韓両政府の外務省局長による昨年4月からの協議で、ネックになってきたのは損害賠償を含む請求権の問題だ。日本は日韓請求権協定により「完全かつ最終的に解決した」との立場。韓国は元慰安婦の個人請求権がなお残っているとして日本の法的責任を明確にすべきだとしてきた。日本は法的責任をあくまで否定している。
論争の結論は出ていないとみられるが、判明した日韓協議の議題からは、それぞれがとるべき具体的な措置を議論している状況が分かる。
たとへば元慰安婦への財政支援。韓国政府関係者は「政府予算を使うことで『日本政府が国家の責任を事実上認めカネを出した』と韓国国内に説明できる」と期待する。
日本は90年代半ばにアジア女性基金をつくり、募金で集めた償い金を元慰安婦に支給した。人道措置との位置づけだった。韓国側が法的責任を帯びた財政支援にこだわるなら、着地は難しい。
謝罪や責任への言及を含む首相声明も焦点だ。首相は4月の訪米時の講演で「人身売買の犠牲となった筆舌に尽くし難い、つらい思いをされた方々を思うと非常に心が痛む」と語った。旧日本軍の関与を認めた93年の河野洋平官房長官談話も見直さないと明言している。首相声明でさらに踏み込めば法的責任も絡んでくる。韓国側には「実質的に日本が責任を認めたと受け取れる表現でよい」との意見もある。
韓国がとる措置もハードルが高い。日本側は「本当に朴政権がこの問題を蒸し返すことなく終わりにできるのか」と疑問視する。韓国世論の反発により一方的に撤回される危険があるからだ。
ソウルの日本大使館前や米国で慰安婦を象徴する少女像を撤去することや、米国で慰安婦をテーマに集会を開く市民団体などを後押ししているとされることをやめるこよも、韓国がとる措置だ。いずれも日本を納得させる根拠が必要だ。
協議は慰安婦問題の包括的な解決を探っており、最終決着には安倍首相と朴大統領の決断が欠かせない。朴大統領は11日の米紙インタビューで、「相当な進展があった」と述べた。日韓がとる措置をめぐる話し合いを踏まえたと見られている。
韓国がとる措置:海外での反日キャンペーンの関与停止。国内外にある慰安婦像の撤去。現政権での最終解決への保証。
日本がとる措置:駐韓日本大使による元慰安婦への面会。首相による謝罪や責任への言及を含む声明。日本政府の財政支出による元慰安婦への支援。

中韓系計画、首相訪米時に抗議活動
元慰安婦も参加〜産経新聞平成27年4月22日〜

【ロスアンゼルス=中村将来】
安倍晋三首相の今月下旬の訪米に合わせ、反日活動を展開している在米の中韓系団体が「糾弾」集会や抗議デモを各地で組織的に計画していることが分かった。韓国からは元慰安婦も訪米するとされる。歴史認識問題に特化し、安倍首相の訪米を攻撃する異様な姿勢が際立っている。
安倍首相はホワイトハウスで28日、オバマ大統領と会談し、29日上下両院合同会議で演説。その後、米西海岸を訪問する予定だ。
関係者によると、反日宣伝活動を行う中国系の「世界抗日戦争史実維護連合会(抗日連合会)」はサンフランシスコの華僑系団体と共同で、「軍国主義復活」への抗議活動を行うことを決めた。首相の議会演説に合わせ、日本大使館や総領事館前で抗議デモを開催することを全米各地にある中国系反日団体に提案。中国系メディアは「抗議の声は全米を覆うことになる」と報じた。
安倍首相の演説内容も分かっていないにもかかわらず、翌日には「演説に対する反論会見を行う」(中国系メディア)という。
また、韓国系は首都ワシントンを含む米東海岸を中心に活動する反日団体などが、日米首脳会談と議会演説が行われる両日、ホワイトハウス近くで「糾弾大会」を開くことを発表。韓国系メディアは複数の反日団体から「少なくとも300人以上が参加すると見込まれる」としている。
韓国系団体は、集会開催に合わせて記者会見も計画。2007年の慰安婦問題での日本非難決議を主導したマイク・ホンダ連邦下院議員や韓国から訪米する元慰安婦もこうした場に参加するとしている。
米紙ニューヨーク・タイムズは20日付社説で、安倍首相の訪米の成否は「戦時の歴史に誠実に向き合うかどうかにかかっている」と指摘した。
一方、米紙ウオールストリート・ジャーナル(電子版)は、韓国政府が安倍首相の議会演説を前に、米国のPR会社と契約したと報じた。

カナダに慰安婦像「保留」
日系の反対奏功、市長表明〜産経新聞平成27年4月18日〜

【ロサンゼルス=中村将】
カナダ西部のプリテッシュコロンビア州バーナビー市に、韓国の姉妹都市や現地の韓国系住民らが慰安婦像の設置を提案していた問題で、同市のコーリガン市長がぞう設置の判断を当面保留する決断をしたことが分かった。地元日系住民らの反対が奏功した形だ。
コーリガン市長は15日に発表した声明で、「(韓国側からの)提案を検討する初期段階で、情報収集したり、住民らの意見を聞いたりした結果、地元の日系カナダ人社会などにおいて懸念が生じる可能性があることに気づいた」とし、現状のままでは設置計画を進めないことを表明した。今後については、「日系と韓国系の双方が納得する提案がなされれば、そのとき検討する」と含みを持たせた。
韓国側からの提案が表面化して以降、日系住民側は直筆の反対署名を少なくとも500人分以上集め、市に提出。このほか、インターネットで1万3千人分以上の反対署名が集まった。市や公園管理当局に現地の日系人らが反対理由を直接説明したほか、米国の日系人らも反対の手紙を送るなどしていた。
韓国側の提案は、バンクーバー市との境にある森林公園「セントラルパーク」内にある朝鮮戦争戦没者記念像の近くに慰安婦像を設置するというもの。2月には除幕式を行い姉妹都市の華城市の市長も参加する計画だったとされる。像を説明する碑文に「韓国の女性が日本軍に強制連行され、性奴隷にされた」などと記されることも提案されていたという。保留になったことで韓国側の働きかけが強まる可能性もある。
一方、声明には「最近、日系社会と韓国系社会が和解と協力を促進するための対話への意思を示している」とし、双方が納得する提案があれば、改めて検討するとしている。ただ実際にそうした動きは見られないため、「懐柔策」との疑念を持つ日系住民もいる。
カナダで慰安婦像設置の動きが浮上したのはバーナビー市が初めて。自民党の「日本の名誉と信頼を回復するための特命委員会」でも取り上げられた。

歴史戦、慰安婦像設置中国系も署名
韓国系と「反日」拡散 サンフランシスコ〜産経新聞平成27年3月19日〜

【ロサンゼルス=中村将】米カリフォルニア州サンフランシスコで、中国系による初の慰安婦像設置に向けた署名活動が始まった。反日宣伝活動を行う「世界抗日戦争史実維護連合会」(抗日連合会)など複数の団体が在米華僑に呼びかけるという。抗日連合会は韓国市民団体と共同で、韓国・釜山に慰安婦像2体を設置する計画も進めており、中韓連携による反日活動を加速させている。
署名活動の開始は、抗日連合会や「サンフランシスコ中国統一促進会」、「南京大虐殺賠償請求連盟」などの関係者が14日、サンフランシスコ市内で発表した。地元中国系メディアによると、会見した関係者は「アジア各地で20万人の女性が日本軍の性奴隷として集められた。日本政府は今まで歴史の罪を認めていない。被害国、とりわけ中国人と韓国人の大きな怒りを招いている」 と語った。
抗日連合会などは華僑団体を通じて今月末までに集めた署名を市側に提出。市当局の了解が得られれば、市議会ではかられるという。中国系のエド・リー市長とも関係者がすでに面会し、計画を伝えたとされる。
抗日連合会などの当初の計画では、サンフランシスコの中華街にある「ポーツマス広場」の再開発に合わせて像を設置するとし、「韓国系団体とも連携を取り、支持を求めていく」と表明していた。
一方、抗日連合会のイグナシアス・デイン(丁元)氏は会見で、韓国市民団体と釜山に慰安婦像2体を設置するには抗日連合会だと認めた上で、「中国人慰安婦」と「韓国人慰安婦」の少女像だと説明。韓国の日本統治からの解放記念日に当たる8月15日に除幕式を行うことを明らかにした。中韓共闘の象徴としてアピールする可能性が指摘されている。

櫻井よしこ、美しく強き国へ、中国の「歴史」発信を〜産経新聞平成27年3月2日〜

戦後70年、中国が対日世論戦を激化させている。日本をファシスト国家と決めつけ歴史問題で攻勢をかける。日本の最善の対処は中国の歴史を古代から現代に至るまでしっかりたどり、中国が直接間接に糾弾する「日本の歴史的蛮行」の数々が中国自身の伝統的行動に他ならないことを世界に発信することだ。
慰安婦問題に関して国際社会が日本非難の土台としている文書の一つに、国連人権委員会特別報告者のクマラスワミ氏の報告書がある。
1996年2月6日に同委員会に提出された報告書には数々の「日本軍の蛮行」が列挙されている。実はそれらこそ中国人の所業であることを中国の歴史が教えてくれる。
クマラスワミ氏が95年7月に朝鮮半島の慰安婦16人から聞いたという被害証言の中に北朝鮮のチョン・オクスンのものもある。チョン氏の証言は北朝鮮側から受け取った記録であり、クマラスワミ氏はチョン氏に会っていない。
つまり、伝聞なのだが、その背景に、色濃い中国の影が見て取れる。チョン氏は次のように語っている。
1⃣反抗的な態度をとった慰安婦の少女を日本兵が裸にして手足を縛り、くぎの突き出したいたの上で転がして血だらけにし、最後に首を切り落とした。その遺体を煮て、泣き叫んでいた他の慰安婦に食べさせると言った。
2⃣池を掘って水を張り、蛇でいっぱいにして慰安婦40人を裸にして突き落とし、蛇にかませて死なせ、最後に池を埋めた。こうして部隊にいた少女の半数以上が殺された。
氏は一連の証言を基に慰安婦問題はジェノサイド(大虐殺)と見なすべきだとの見解を打ち出している。日本人は誰しも、これらは絶対に日本人の行為ではないと即座に断定するだろう。ここに描かれているのは私たちの文明には全くそぐわない。
一方、政敵や民衆に対してこのような過酷な罰をいつも与えていたのが中国だったことが中国の歴史書、資治通鑑に書かれている。
前述の1⃣くぎの板による無残な罰は、五代十国時代の閩(びん)の国の軍使、ヵ文傑が考え出した刑罰から始まっていた。罪人をくぎの突き出た狭い箱にいれて揺らして死にいたらしめる刑である。また人肉食、罪人も幼子も殺して食べる事例は数限りなくといえるほど、資治通監に記されている。2⃣の蛇の池の罰も五代十国時代の南漢という国の帝が考案した罰で、「水獄」と呼ばれていた。
慰安婦問題で日本批判の戦略戦術を立てているのは、実は、中国なのである。一方で、中国の実態は、現在習近平主席が挑戦する想像を絶する不正蓄財も、実は何千年来の中国の悪しき伝統であることが、資治通鑑によって明らかである。
国連人権委員会特別報告者のクマラスワミ氏が報告した人間らしからぬ悪魔的所業は日本人の行為ではなく、中国j人の伝統的手法だと、国際社会に証明するにはここに引用した資治通鑑をはじめ、中国の歴史書を忠実に英訳し、世界に紹介していくのがよい。敵を知り、その実態を広く知らせることが、私たちが直面させられている歴史戦に対処する基本である。
実は、私はこの資治通鑑の内容を麻生川静男氏の『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』(角川SSC新書)で学んだ。資治通鑑は司馬光が編んだ中国の史書で、紀元前5世紀から紀元1000年までの約1500年間の中国史を、全294巻1万ページで描いた大著である。毛沢東が17回読み返したという同史書の随所にクマラスワミ報告の世界が広がっている。
クマラスワミ報告の中の蛮行は、中国人の伝統であるのみならず、冊封国家として中国に従属し中華文明の影響を受けた朝鮮民族の行動様式でもあろうか。
私たちはさらに中国政府がチベット人、ウイグル人、モンゴル人をどのように痛めつけ虐殺しているかについても、そこから思いを致すことができる。
日本人はクマラスワミ報告をどのようにして読むのだろうか。外務省の和訳は公表されていない。そこで何人かは、村山富市氏が理事長を務めた「じょせいのためのアジア平和平和国民基金」の訳を見ているのではないかと思う。
だがその訳から、「蛇の池」の事例がスッポリ抜け落ちている。同基金は、2007年3月に活動を停止しており、省略理由を問うことはできなかった。以下は私自身の推測だが、「蛇の池」は日本人にとってあまりにも荒唐無稽で、こんな話を入れればマクラスワミ報告への信頼が失われてしまいかねないと、彼ら(彼女ら)は恐れたのではないか。アジア女性平和国民基金をはじめ、慰安婦問題で日本を糾弾する人々にとってさえ、報告書はそれほど信頼できないものだということか。
それにしても外務省はなぜ当時反論しなかったのか。雑誌『正論』が昨年の6〜7月号で掲載した外務省の反論書は立派にスジが通っている。それを、一旦、人権委員会に配布したあと、取り下げた。村山富市首相がその前年に戦後50年の談話を出しており、時の政権の意向が働いたとしても、外交官の誰一人、立ち上がって反論しなかったのは限りなく情けない。
首相も状況も変わった今、私たちは中国研究を進め、中国文明の巨悪と、その対極にあるに違いない善なる側面も、見て行きたいものだ。中国研究を介して「敵」をよく知り、日本の不名誉を晴らす大目的を実現するときである。

大阪府教育委員会 教科書の慰安婦記述で
「強制連行」訂正を通知 〜産経新聞平成27年2月20日夕刊〜

大阪府教育委員会は20日、朝日新聞が慰安婦報道の一部記事を取り消した問題を受け、高校日本史の教科書の慰安婦に関する記述内容などについて、慰安婦の強制連行を前提にした授業を行ったり、独自教材を使用したりしないよう求める通知を全ての府立高校に出すことを決めた。
通知文は「取り消された内容に依拠した資料・情報を活用した指導が行われている場合は訂正願います」で、20日付け。府教育委員会は「具体的な対応は現場に委ねる」としている。
この問題を巡っては、松井一郎知事が昨年10月、「朝日が誤報だと認めたことで強制連行の証拠がないとわかった。間違った教科書で知識を得ることはマイナスだ」と指摘。教科書の内容を補足する補助教材を作成する意向を示した。
だが府教育委員会は、慰安婦に関する教育について「国の指針が示されておらず、歴史認識に踏み込んだ教材を作成するのは困難」として補助教材作成は見送った。
慰安婦の強制連行説は、朝日新聞が「若い朝鮮人女性を『狩り出した』」などとする自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長、吉田清治氏(故人)の証言を取り上げて以降、国内外に広まり、教科書にも掲載されるようになった。
高校教科書では、慰安婦の強制連行をうかがわせる記述がある教科書を使用しているのは154校中123校。吉田氏の証言について朝日新聞は昨年8月、虚偽と判断し、一部の記事を取り消している。

南京法廷「30万人」東京裁判「20万人」
事件8年後の調査報告が根拠〜産経新聞平成27年2月16日〜

中国が主張する南京事件の犠牲者「30万人」説の起源は、戦後、南京で開かれた国民政府国防部審判戦犯軍事法廷(南京軍事法廷)と東京裁判にさかのぼる。
いずれの裁判にも中国側が作成した「敵人罪行調査報告書」(以下、報告)が提出された。報告は南京軍事法廷に先立つ1945年11月から46年2月にかけて、南京地方法院検察処が、住民の目撃証言や遺体を埋葬した慈善団体などの記録をまとめたもので、この中に被害者数を「34万人」と主張するくだりがある。
だが、同じ報告の別の箇所には「集団虐殺二十余万人」、「確定被殺者既に30万人に達し、なおいまだ確証を得ざる者合計20万人をくだり下らざる」の記載があるなど、異なる数字が混在する。
ほかにも被害者数について「27万9586人」という数が登場するが、その内訳として列挙された目撃証言や埋葬遺体数を足しても27万人には達しないなど不透明な部分が少なくない。(報告の内容は、洞富雄編『日中戦争南京大虐殺事件資料集第1巻=青木書店=参照)
2つの団体が埋葬したとする遺体数も、信憑性への疑問や重複の可能性が研究者から指摘されている。
それでも南京軍事法廷はこの報告の内容を受け入れ、47年3月、南京攻略時の第6師団長(中将)、谷寿夫に対する判決で「集団殺害19万人以上、個別殺害15万人以上、被害総数30万人以上」と認定した。
東京裁判では、弁護団から報告が掲げる死者数に疑義が呈されたが、「大虐殺」自体はあったと認定し、犠牲者数20万人以上とした。ところが大将、松井石根に対する個別判決では「10万人以上」とした。
中国の「30万人」主張は、南京軍事法廷の判決をよりどころにしているとみられる。「30万人」が学術的根拠を欠くことは、日本の研究者だけでなく、中国の研究者にも認識されている。平成19年1月、東京財団が開いた講演で、南京事件を研究する中国人学者が「政治的な問題に影響されたものだ」と指摘したこともある。

歴史戦 兵士たちの証言
南京の住民、日本兵相手に商売
城内に露店「誠に和やか」〜産経新聞平成27年2月16日〜

旧日本軍が昭和12年12月、中国・南京を攻略した後の一時期を、城内で過ごした元海軍第12航空隊の3等航空兵曹で長野市在住の原田要(98)は、当時の雰囲気をこう振り返る。「とても戦争中とは思えなかった。南京は誠に和やかに尽きる、という印象でした」
10日から始まった総攻撃で、九五式艦上戦闘機の操縦桿を握り、頑強だった南京城南東の光華門を攻める陸軍を援護した。両翼に60キロ爆弾をつるして、何度も城を攻撃した。「城壁に爆弾を命中させるとともに、敵兵を機銃で打ちまくりました」
陥落後に城内の飛行場に降り立った原田の印象に残るのは、日常生活を営む住民らの姿だった。露店が立ち、住民らは日本兵を相手に商売を始めていた。原田も豚を一匹買った。「足をひとくくりに縛った子豚で、仲間と一緒に食べました」
城外にあった中国国民党の創始者、孫文が眠る墓「中山陵」に参詣もした。「非常に平和な進駐」という記憶が、原田の脳裏に刻まれている。
攻略のさなか、城内に残った住民らは、欧米人らで作る国際委員会が設けた非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んだが、日がたつにつれ、平穏さを取り戻して行った。原田らの目にはそう映った。
〈同様の証言相次ぐ〉
そのころの様子について平成19年12月に東京で開かれた「軟禁陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る『南京事件』の真実」に出席した元将兵らも同じような証言をしている。「入城して2〜3日後、住民の姿を見かけるようになり、時計の修理のため時計屋を訪れた」(昭和12年12月16日に入城した元陸軍第16師団の獣医少尉、稲垣清)「露店が何軒か出ていて、日本兵相手に商売をしていた。靴修理店、散髪屋などだった」「露店で印鑑を作り、城内は極めて平穏だった」(同月20日頃の城内の様子を語った元第9師団歩兵第36連隊の伍長、近藤平太夫)
中国が主張する「30万人大虐殺」が本当だとするならば、城内の至る所で凄惨な殺戮が行われているはずだが、元将兵らの証言内容はあまりにもかけ離れている。「集い」で近藤は南京で作ったという印鑑を掲げながら強調した。
「住民が平和に商売をしている一方で、毎日たくさんの人が虐殺されているというようなことは全く考えられません」
元海軍第12航空隊の3等航空兵曹、原田要は、零式艦上戦闘機(零戦)のパイロットとして、米ハワイの真珠湾攻撃やミッドウェイ海戦にも参加した。その経験から「戦争は、敵を倒さねば自分がやられてしまう極限状態なんです」と語る。
〈偽装兵潜伏が脅威〉
南京攻略後、住民に平穏な生活が戻る一方で、「便意兵」の存在が依然脅威だった。「便意兵」とは民間人に偽装した兵士を指し、本来非武装地帯である安全区に武器を持って潜伏、隠れ戦闘員として日本兵らを襲ったとされる。
原田は「便意兵はゲリラ。接近してきて日本軍がやられる恐れがあった」と感じていた。休暇で南京城の北を流れる長江の河畔に行ったとき、原田は便意兵を処刑する場面に出くわした。陸軍兵士らがトラックに乗せてきた中国人の男10人ほどを銃剣で突いたりした。観念した様子の男もいれば、川の中に逃げ込んで撃たれたり、泣きながら命ごいしたりする男もいた。
〈国際法に従い対応〉
東京裁判は兵役年齢の男性約2万人を機関銃と銃剣で殺害した、と認定したが、原田は首をかしげる。処刑の場面を目撃したのは、この一度きりなのだ。
東京裁判に出廷した元将校の証言によると、城内で捕虜にした残存兵は4千人に上り、半数を収容所に送り、残り半数を後に釈放した。
武器を持って潜んでいた便意兵を軍法会議にかけて処刑することはあるにはあったが、国際法に従って対応していたという。
多くの戦闘を経験し、さまざまな感情を胸に刻んだ原田は今も講演で戦争の恐ろしさを訴える。それでも戦後浮上した「南京大虐殺」には納得できない。「何十万人もの大虐殺は信用できない。もし、大虐殺があれば、中国人はわれわれに和やかに接しただろうか」

治安回復、日本軍指揮官に感謝
住民が嘆願書「転任延期を」
盧溝橋事件を発端に昭和12年7月に始まった日中戦争は、局地紛争にとどめようとした日本政府の思惑と裏腹に中国全土に飛び火し、抗日運動を活発化させた。そんな中、占領した地域の治安を回復させ、これに感謝した中国人が留任を求めた日本軍指揮官もいた。
福建省厦門を海軍第5艦隊の作戦部隊が占領したのは南京事件から約5ヶ月後の13年5月のことだった。14年11月から島嶼部、木山地区の海軍陸戦隊司令(部隊長)を務めた大佐(当時は少佐)、堀内豊秋は住民と交流を深め、荒廃した地域を復興させた。公正な裁判を実施し、治安を回復させ住民の信望を集めた。15年5月、堀内交代の報が伝わると、住民は転任延期を求める嘆願書を現地最高司令官の少将、牧田覚三郎に提出した。広島県呉市江田島にある海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)内にある教育参考館には嘆願書の複製がある。元館長、三村広志(97)が見つけた。黄李通ほか103人の連名、押印の中華民国29(昭和15)年5月1日付嘆願書にはこう書かれていた。「蒋介石政権が無理に抗日を唱えて民衆を扇動したことから禍が始まった。彼らは強制的に壮年男子を徴兵し、献金を強要するなど区民は痛ましい不幸に遭遇した。事変(日中戦争)が起こって住民は離散し、田畑は荒れて家々は傾き、見る影もなくなった」「堀内部隊が本島に駐留して以来、利を起こして弊害を取り除き、信賞必罰を徹底して教育を普及し、農業を振興して橋や道路をつくり、荒れていた衛生設備を直し、短期間に荒廃の区をよく栄える域に戻した。海外に出ていた多くの華僑も(中略)善政のもとに復興しつつあることを知って、島に帰って(中略)昨年1年間に復帰定住した人の数は10年来の記録となった」「堀内部隊長らを長期にわたって駐留させて頂ければ、島民を幸福に導き、種々の業務がさらに復興すると考える(中略)。全島の住民が安住して生活を楽しみ、東亜和平の人民となろう。謹んで衷心から転勤延期を切望するものである」
〈善政たたえ碑を建立〉
堀内が15年10月に去るに当たり、住民108人は寄付を募り「去思碑」という記念碑を建立し、堀内の徳をたたえた。しかし、戦後、中国共産党によって碑は破壊され、残存していない。三村は「占領した地域を復興させ、治安を回復させ、中国の住民から感謝された堀内大佐の遺勲を忘れず、語り継いで欲しい」と話している。

南京「人おらん以上、虐殺ない」陥落直後に入城の曹長
城内は空っぽ。兵隊どころか住民も〜歴史戦.産経新聞平成27年2月15日〜

「城内は空っぽでした。兵隊どころか、住民も、誰もおらんでした」南京攻略戦に参加し、昭和12年12月13日の陥落後に南京城に中華門から入城した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(98)=熊本県山鹿市、の目の前には、無人の市街地が広がっていた。
少し前まで、門をめぐって日中両軍の激しい攻防戦が繰り広げられていたが、壊滅状態になった中国軍兵士が城外へ一斉に逃げ、城内は一転して静寂に包まれていた。中にはいると、厚さが約40センチもある門扉の内側に、侵入を阻むための土嚢ががっちりと積まれていたのを覚えている。
南京城の広さは約40平方キロメートル、JR山手線が囲む面積の3分の2程度だ。城内には、れんが造の平屋の民家が多かったが、どれも無人だった。住民らは城内に非武装中立地帯として設けられた「安全区」に逃げ込んでいた。「無抵抗の民間人を殺すのが虐殺。だが、人がおらん以上、虐殺があるはずがなか」と城は断言する。
〈蒋介石ら次々脱出〉
当時の軍隊に欠かせない馬を管理する任務を帯び、前線部隊と行動を共にしてきた城は、戦闘の様子をつぶさに見てきた。多数の死傷者を出しながらも11月中旬に上海を攻略した日本軍は、長江(揚子江)の上流約300キロにある南京を目指した。
当時、中華民国の首都だった南京は周囲を堅牢な城壁で囲まれ、約20の門があった。国民党政府を率いた蒋介石は11月中旬、内陸にある重慶への遷都を決断し、12月7日に南京を脱出。南京市長ら要人の脱出が続く中、日本軍は降伏を勧告したが、拒否してきたため12月10日、総攻撃を開始した。
上海攻略戦で杭州湾に敵前上陸した第6師団も、南京に向けて敵と交戦しながら進軍。南京の南側から攻撃に参加した。
「それは激しか戦いでした」。城らの前には、高さ20メートルほどのれんが造の城壁がそそり立っていた。城壁に構えた敵陣地からの攻撃、城壁の前に横たわった水濠が行くてを阻んだ。「銃砲や野砲で徹底的に敵をたたいて、収まったころ壁に梯子をかけて日本の兵隊がよじ登って占領していったとです」
〈一方的な東京裁判〉
戦後、東京裁判はこう断定した。「南京占領直後から最初の2、3日間で少なくとも1万2千人の男女子供を殺害、1ヶ月で2万の強姦事件を起こし、6週間で20万人以上を虐殺、暴行や略奪の限りを尽くした」
その後、中国側は「30万人が虐殺された」と主張するようになったが、城は首を横に振る。「城内では遺体も見とらんです」
上海から南京に進軍する途中では、中国人の遺体を目撃している。塹壕で何十人の中国兵が死んでいることもあった。「そりゃ、敵と交戦しながら進むけん。こっちもあっちにも遺体はありましたが、女や子供、年寄りの遺体は見たことはなかです」
進軍は不眠不休で続き、夜が明けると敵兵約30人が目の前を歩いていたこともある。夜間に敵と交戦した後、同じ連隊の兵士が「多くの敵を斬った」と話しているのを聞いたこともあった。1週間ほど滞在した南京でも何かあれば仲間内で当然耳に入るはずだが、虐殺は一切聞いていない。城が所属した第6師団は熊本で編成された精鋭部隊で、中国では「世界で一番強い」と恐れられていたという。その師団の一員だったことは、城らの誇りだった。だが、南京攻略時に師団長だった中将、谷寿夫は戦後、「南京虐殺の責任者」との罪で戦犯となり、処刑された。
「哀れですばい。師団長は何もしとらんのに」
城は憤りを隠せない。77年たった今も脳裏に浮かぶのは仲間の姿だ。南京城壁から狙い撃ちされ、敵弾に次々と倒れていった。
「それでも日本の兵隊は強かですばい。弾がどんどん降る中でも前進して行く。国のため国民のため突っ込んでいくんですけんね」戦後、獣医師として働き子供4人、孫とひ孫計22人に恵まれたが、当時を語り合える戦友は誰もいなくなった。間もなく99歳を迎える城は、無数のしわが刻まれた手をかざしながら仲間の無念を代弁する。「30万人も虐殺したというのはでっち上げですたい。貶められるのは我慢ならんです」
中国は「30万人虐殺」を喧伝するが、77年前、南京で将兵らが見た実像は大きく異なる。歴史戦第9部では数少ない元兵士らの証言を紡いでいく。

米「慰安婦」教科書で日本総領事館
共著者に「事実誤認」指摘〜産経新聞平成27年2月11日〜

【ワシントン=加納宏幸】
米国の公立高校で使用されている世界史の教科書に「旧日本軍による慰安婦強制連行」など事実と異なる記述がある問題で、ハワイ州ホノルルの日本総領事館は9日、教科書の共著者のハーバード・ジーグラー・ハワイ大学准教授に事実誤認を指摘するなどの申し入れを昨年12月に行ったことを明らかにした。
10日の米紙ワシントン・ポストは申し入れについて報じた。それによると、ジーグラー氏は昨年暮れ、日本総領事館職員から「教科書の記述について協議したい」との申し出を受け、これを断ったが、職員2人が大学を訪れ、「間違い」を指摘されたという。日本政府が教科書の文章の削除を求めることは「私の言論と学問の自由に対する侵害」だと批判している。
一方、日本総領事館は9日、産経新聞の取材に対し、ジーグラー氏とのやり取りの詳細は明かせないとしながらも「昨年12月に慰安婦問題に関して執筆者に申し入れを行い、事実誤認や、わが国の立場と相入れない部分が存在することを指摘した」と述べた。
米歴史学者19人が発表した、教科書に関する「いかなる修正にも応じない」との声明をまとめたコネチカット大のアレクシス・ダデン教授もポスト紙に「声明は日本たたきではなく、日本の仲間を支援するためのものだ」と述べた。
記事は、慰安婦問題で日本政府の責任を追求する吉見義明・中央大教授の研究が声明の根拠になっていると紹介。教科書を出版した米大手教育出版社マグロウヒルが「記述は史的事実に基づく」として修正を拒否したことも伝えている。

米高校歪曲歴史教科書
首相「訂正へ国際発信」〜産経新聞平成27年1月29日〜

安倍晋三首相は29日午前の衆院予算委員会で、米国の公立高校で事実を歪曲した歴史教科書が使われている実態について「愕然とした。主張、訂正すべき点を国際社会に向かってしてこなかった結果だ」と述べ、誤解を解くための国際発信に努める考えを示した。
自民党の稲田朋美政調会長が南京事件の犠牲者について、「40万人虐殺」などと事実とは異なる記述をしている米国の教科書を取り上げ、見解をただした。
首相は「国際社会ではつつましくしていることで評価されることはない。主張すべき点はしっかりと主張していくべきだ」と指摘。
その上で「国益に資するよう、戦略的、効果的な発信に務めていきたい」と語った。

慰安婦報道めぐり、朝日新聞を8700人が提訴〜産経新聞平成27年1月27日〜

慰安婦をめぐる朝日新聞の報道により、誤った事実を国際社会に広め、日本国民の人格権や名誉を傷つけたとして、約8700人が26日、同社に一人当たり一万円の慰謝料と謝罪広告を求める訴訟を東京地裁に起こした。
原告側が問題としているのは「慰安婦を強制連行した」とする吉田清治氏の証言に基づいた記事など13本。朝日新聞は昨年8月に吉田氏の証言を虚偽と判断、記事を取り消した。
原告側は訴状で「日本の官憲が慰安婦を強制連行したという証拠はない」と主張。その上で、問題の記事は「『日本軍に組織的に強制連行された慰安婦』という、ねじ曲げられた歴史を国際社会に拡散させ、我が国が激しい非難を浴びる原因になった」と指摘する。
提訴後に記者会見した原告団長の渡部昇一上智大名誉教授は「朝日新聞が国民に恥ずかしい思いをさせていることに心から怒りを感じている」と述べた。
朝日新聞社広報部は「訴状をよく読んで対応を検討する」とコメントした。

数研出版、高校の公民科
「従軍慰安婦」教科書から削除〜日本経済新聞平成27年1月9日〜

教科書会社「数研出版」(東京)が、現行の高校の公民科の教科書3点で「従軍慰安婦」と「強制連行」を含む記述を削除する訂正を文部科学省に申請し、承認されたことが9日、わかった。訂正は今春から使用される教科書に反映される。同社は訂正についてホームページで「客観的事情の変更等」と説明している。
下村博文文科相は9日の閣議後の記者会見で「教科書会社の独自の判断によるもの」と述べた。
記述が削除されたのは同社の「現代社会」2点と「政治・経済」の計4箇所。文科省は昨年11月に申請を受け付け、同12月に承認した。訂正により、3点からは「従軍慰安婦」と「強制連行」の用語がなくなった。
このうち政治・経済の教科書では「戦時中の日本への強制連行や『従軍慰安婦』などに対するつぐないなど、個人に対するさまざまな戦後補償問題も議論されている」という記述が「韓国については、戦時中に日本から被害を受けた個人が、謝罪を要求したり補償を求める裁判を起こしたりしている(戦後補償問題)」と訂正された。

歴史戦第8部 南京「30万人」の虚妄
誤報に巻き込まれた英国人 〜産経新聞平成26年12月28日〜

中国が主張する「南京大虐殺」は「事実ではない」と主張する英国人ジャーナリストがいる。米紙ニューヨーク・タイムズ元東京支局長で日本滞在50年のヘンリー・S・ストークスだ。「歴史の事実として『南京大虐殺』はなかった。中華民国政府が捏造したプロパガンダ(謀略宣伝)だった」と強調する。
昨年12月に発売した著書『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』(祥伝社新書)は10万部を超えるベストセラーとなった。ところが、この本を巡ってストークスは今年5月、共同通信の記事により「歴史騒動」に巻き込まれた。
共同通信が5月8日に配信した記事で、問題とした記述は次の通りだ。
「国際委員会の報告によれば、南京に残っていた人口は、南京戦の時点で20万人だった。しかし、南京が陥落してから人口が増え始め、翌1月には、25万人に膨れ上がった。戦闘が終わって治安が回復されて、人々が南京へと戻ってきたのだ。このことからも『南京大虐殺』などなかったことは、明白だ」
共同はこの箇所について「著者に無断で翻訳者が書き加えていた」と伝えた。同書は国際ジャーナリストの藤田裕行が翻訳した。
翌9日、ストークスは祥伝社を通じ「共同通信の記事は著者の意見を反映しておらず、誤り」「本書に記載されたことは、全て著者の見解。訂正する必要はない」との声明を発表した。
藤田も「共同の記者には問題とされた部分についてのストークスの英文見解をEメールし、誤解ないよう電話で念押しをした。記者は『指摘があったことは了解した』と答えたが、直後に無視し記事を配信した。明らかに意図的な捏造で悪意のある虚報だ」と語る。
共同通信社総務局は9日、「翻訳者同席の上で元支局長に取材した結果を記事化した。録音もとっている」と反論した。
あれから7ヶ月、ストークスは「記者の質問の趣旨を誤解して答えた。だから共同の記事の内容は自分の意見ではない」としたうえで、「南京大虐殺」がなぜ「事実ではない」との結論にたどり着いたかを語り始めた。
ーーーなぜ『南京大虐殺』は事実ではないのかーーー
「文献によると、南京市内のあちこちで散発的な暴力行為はあったが『大虐殺』という言葉を使って南京で起きたことを語るべきではない。虐殺はとても血なまぐさく目撃した人の記憶に残るものだが、むしろ日本軍が占領したことで、治安が回復した。『虐殺』より『事件』と呼ばれるべきだ」
ーーーその理由はーーー
「そもそも国民政府の蒋介石や軍幹部が首都陥落直前に敵前逃亡し、南京ではあまり戦闘はなかった。中国兵が軍服を脱いで(民間人に偽装した)便衣兵や不良捕虜となったため、日本軍は処断を余儀なくされた。こうした捕虜の処断は国際法に準じて行われたが、大量に処断された。このことは悲惨だった。ただし、日本軍による中国人の処断の数について中国政府が主唱し、一部の識者が追随している万の単位を超えるようなものではなく、20万、30万人という虐殺などあったはずはない。中国の反日プロパガンダだ。(事態を招いた)責任は第一義的に敵前逃亡した国民政府にある。日本軍だけに責任を負わせるのは非道で、蒋介石の責任が問われるべきだ」
ーーー「外交は無形の戦争である」と語った蒋介石は国際情報戦に力を入れたーーー
「国民政府は戦わず情報戦を仕掛けた。中央宣伝部が巧みに欧米のジャーナリストを取り込み『大虐殺』を捏造した」

〈英語で立場発信を〉
ーーー著書では、慰安婦問題について「実体は、『性奴隷』では全くない。『売春婦』だ」と記したーーー
「中国と韓国は日本が反論しないため、捏造してプロパガンダを繰り返し、欧米のメディアが追随している。『南京』も『慰安婦』も、このままでは世界から糾弾され続ける。日本はすべての事実を明らかにし、英語で日本の立場を世界に発信していくべきだ。訴え続けなければ歴史的事実として確定してしまう」
ーーー『虐殺』の存在を否定した欧米ジャーナリストとなったーーー
「この10年で北村稔、東中野修道ら日本の学者によって研究が進み、中国側史料からもいわゆる『虐殺』はなかったということが明白になってきたからだ。日本を深く知れば知るほど、『南京大虐殺』に対する認識が変わった」
ーーー他の欧米ジャーナリストから批判されたかーーー
「出版以来、外国特派員の同僚や英国の友人から『クレージー』『子どもじみている』など多くの批判を受けた。しかし、仲間から『リビジョニスト(歴史修正主義者)』『右翼』などと呼ばれようと自分の主張は変えない。この主張に自分の存在をかけている。たとえ1人で孤立しても、それを誇りに、信念を持って世界に伝えたい」

〈東京裁判は復讐劇〉
ーーー「勝者の裁き」を受け入れた「東京裁判史観」からの脱却を著書で訴えたーー
「来日当時は戦勝国史観を疑うことなく信奉していたが、半世紀にわたり日本と日本人を知るうちに、そもそも東京裁判は戦勝国の復讐劇であると考えるようになった。戦勝国が全能の神であるかのように日本の罪を裁くことに違和感を覚えた。実際にインド人判事のラダ・ビノード・パールは『全員無罪』とした。オーストラリア人高裁判事のデール・スミスは30年研究して『司法殺人?』と題する本を出版している。ところが戦後の日本が東京裁判に基づいた歴史観を受け入れたかのような政治・外交姿勢を取り続けているのは、情けなく愚かなことだ。史実に反するプロパガンダである東京裁判史観から脱却しなければいけない」
ーーー具体策はーーー
「外務省はじめ政府が真実を世界に発信しなければいけない。国を挙げての宣伝のためのシンクタンクを設立するのも一考だ」

マイク・ホンダ議員訪韓、慰安婦問題で朴氏に同調〜産経新聞平成26年12月21日〜

韓国を訪問中の米民主党のマイク・ホンダ下院議員が、慰安婦問題で韓国に同調する発言を繰り返している。ホンダ氏は20日、ソウル近郊の広州市にある元慰安婦の施設「ナヌムの家」を訪問し、元慰安婦の女性らと面会した。
19日には大統領府で、朴クネ大統領と会談。韓国メディアによると「(慰安婦問題は)過去ではなく現在と未来の問題」と指摘した朴大統領に対し、ホンダ氏は「積極的に共感する」と述べ、日本政府が責任を認める必要性を強調した。(ソウル 名村隆寛)

慰安婦問題修正 NYタイムズ 安倍首相を批判〜産経新聞平成26年12月5日〜

【ニューヨーク=共同】
米紙ニューヨーク・タイムズは4日付けで、日本の右派政治勢力が慰安婦という歴史的事実を否定しようと「脅迫キャンペーン」を展開しており、安倍晋三首相は歴史の修正を求める勢力に迎合する「火遊び」をしていると強い表現で批判する社説を掲載した。
社説は、慰安婦が存在し日本兵の性的な虐待の対象になったことは、日本の主流派研究者や外国人の間で「歴史的事実として確立」していると指摘。その上で、慰安婦問題を「戦時の日本の敵がでっち上げたうそ」と扱おうとする政治的動きがあると非難した。同紙は3日付けの1面で、慰安婦報道に関わった朝日新聞元記者に嫌がらせが続く現状を伝えた。

中国の膨張、深刻な危機〜櫻井よしこ、産経新聞平成26年12月1日〜

いま国際社会が直面しているのは世界史上はじめて出現した異質の大国、中国の脅威である。大陸国家でありながら海洋大国を目指し、共産党一党支配の社会主義国でありながら都合のよい形で資本主義を取り入れた。
軍事、経済両分野で世界第二の大国となり、力で現状変更を迫り、膨張を続ける中国の前で、「繁栄し平和で安定した中国の台頭を歓迎する」というオバマ米大統領の言葉ほどむなしいものはない。侵略を続ける中国と交代姿勢を強めるアメリカの2大国が引き起こす世界史的な変化の中で、日本はどのような国になるのかを決するのが、今月14日の衆議院選挙の真の意味であろう。
国際情勢の地殻変動の中で日本は確実に生き残り、繁栄を維持していかなければならない。そのためには戦後約70年間、当然の条件だと見なしてきた国際社会の価値観や体制がどう変化しているか、その現実を認識することが欠かせない。
2020年までの第2列島線の確立を掲げ、アメリカに新型大国関係を迫り、太平洋分割論や核心的利益の相互尊重を主張する中国がわが国の領土領海をうかがう中、アメリカの民主、共和両党が構成する「米中経済安全保障調査委員会」は11月20日、「明らかに習近平には高いレベルの緊張を引き起こす意思がある」と年次報告書で断じた。
中国の大幅な海軍力増強で2020年までにはアメリカの対中抑止力、とりわけ日本に対する抑止力は低下するとの分析は、日本に突きつけられた戦後初めての最も深刻な危機と考えるべきだ。
中国の脅威は経済金融分野にも及び、到底一筋縄ではいかない。今年7月のBRICS開発銀行、11月のアジアインフラ投資銀行(AIIB)、シルクロード経済ベルト基金、韓国、豪州との自由貿易協定(FTA)の実現に加えてアジア太平洋自由貿易協定まで提言した。
東南アジア諸国連合10か国を包み込み、アジア太平洋からユーラシア大陸の西まで、国際通貨基金、世界銀行、アジア開発銀行に対抗する形で中国主導の国際金融制度を打ちたて、日米主導の環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)をも凌駕する意気込みが伝わってくる。4兆ドル近い外貨準備を背景にした中国の金融、経済力にアジア諸国は屈服しつつも、中国の軍事力を恐るあまり、諸国は安全保障面での庇護をアメリカに求めている。
だが、肝心のオバマ氏が中国に位負けしている。11月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で訪れた北京で「太平洋は米中2つの大国を受け入れる十分な広さがある」ちの表現で新型大国関係を求めた習主席に「同意する」と述べ、実質的に中国の要望を受け入れたのだ。

在米華僑が抗日委員会、来年戦後70年、活発化〜産経新聞平成26年12月1日〜

【ロサンゼルス=中村将、北京=矢板明夫】
来年の戦後70年に向けて、米カリフォルニア州などの華僑系住民らが「抗日戦争勝利70周年組織委員会」を立ち上げたことが分かった。委員会には米連邦議員や米政界にパイプを持つ有力者も参加しており、米国における反日活動は一層強まりそうだ。
関係者などによると、「今後、委員会は全米各地で、日本が戦時中に中国や東アジアの国々を侵略して人々を冒涜し、各国の社会や経済に重大な損害を与えたことを振り返り、次世代に語り継ぐイベントを展開して行く」という。
委員会の議長は、サンフランシスコの中華街に中国以外で初めて対日抗戦を顕彰するための「海外抗日記念館」の設置を表明している女性実業家、フローレンス・フアン(中国名・方李邦琴)氏。
名誉顧問には、慰安婦問題での日本非難決議を主導したカリフォルニア州下院17区選出のマイク・ホンダ議員が就任した。反日的な言動で知られ、来年は米議会を舞台に反日工作が活発化する恐れもある。
また、名誉議長にはアンナ・チェン・シェンノート(中国名・陳香梅)氏が就いた。アンナ氏は米政府の対中政策顧問となり、米中の政治交流の橋渡し役を務めた。レーガン大統領の特使として訪中し、ケ小平氏と会談したこともある。
米政府にパイプのあるアンナ氏を担ぎ出すことで、米政権中枢などにも日本の戦争責任を訴える狙いがありそうだ。

日本戦争犯罪調査 3つの教訓 古森義久 〜産経新聞平成2611月29日〜

米国政府が8年もかけて実施したドイツと日本の戦争犯罪再調査の結果(11月27日付朝刊既報)は、日本にとって慰安婦問題での貴重な教訓を与えた。まずはこの問題での国際的な日本糾弾が虚構であること、その日本糾弾の真の主役が中国系勢力であること、そして日本が次世代の国民のためにも冤罪を晴らす対外発信を欠かせないこと、などだと言える。
クリントン政権下での1999年からのこの大規模な調査は、対象になった書類がなんと850万ページ。あくまでドイツが主体だったが、日本についても合計14万ページ余の戦争犯罪関連の書類の存在が報告された。その総括はIWG(各省庁作業班)報告と呼ばれた。
事前の指示は日本の慰安婦制度の犯罪性、強制性や奴隷化に関する書類をも探すことを具体的に求めていたが、なんとその種の書類は、一点も発見されなかったというのだ。
調査の当事者たちもこの結果に仰天し、当惑したことを最終報告で率直に認めていた。結果の分析に参加したジョージ・ワシントン大学の楊大慶教授らは最終報告の付属文書で慰安婦問題について「その種の書類は今回の調査では発見できなかったが、存在しないわけではない」と、種々の仮説を弁解として記していた。
だが最終報告は同時に、慰安婦制度は当時、日本国内で合法だった買春制度の国外への延長であり、日本軍は将兵の一般女性への暴行や性病の拡散を防ぐためにその制度を始めたという経緯をも記し、米軍側はそこに犯罪性を認めていなかった実態をも伝えていた。
さて、ここでの日本側への第一の教訓は米国政府がここまで努力して証拠や資料が何もないということは、実態がなかったということだろう。「日本軍が20万人の女性を組織的に強制連行して性的奴隷にした」という避難の虚構は米側の調査でも証明されたのだ。
第二には、この米国政府をあげての大調査の推進には、在米中国系の反日組織「世界抗日戦争史実維護連合会」(抗日連合会)が、異様なほど大きな役割を果たしていた。
IWG報告の序文では、調査の責任者が冒頭に近い部分で抗日連合会の名を具体的にあげて、この組織が代表するとする戦争の犠牲者たちへの同情を繰り返し、今回の調査が慰安婦問題などで日本の残虐性を証明する新たな書類を発見できなかったことを謝罪に近い形でくどいほど弁解していた。
抗日連合会は在米中国系の活動家中心の組織だが、中国政府との絆も緊密で、日本の「戦時の残虐行為の糾弾」を使命として掲げ、1990年代から戦争捕虜、南京事件、731部隊などを提起して、日本をたたいてきた。IWG調査でもクリントン政権に強力なロビー活動を仕掛けていたという。慰安婦問題でも、主役は表面では韓国系にも見えるが実際は抗日連合会を主軸とする中国系だという実態がここでも証されたと言える。
そして第三の教訓は、慰安婦問題での日本避難の虚構が米側でもここまで実証された以上、日本側にとってのぬれぎぬ晴らしの必要性がさらに鮮明になったことである。このままでは日本の国家も国民も20万人の女性をセックスの奴隷へと強制したという無実の罪を次世代へと残していくことになるのだ。(ワシントン駐在客員特派員)

米政府調査07年報告、慰安婦「奴隷化」文書なし〜産経新聞平成26年11月27日〜

米政府がクリントン、ブッシュ両政権下で8年かけて実施したドイツと日本の戦争犯罪の大規模な再調査で、日本の慰安婦に関わる戦争犯罪や「女性の組織的な奴隷化」の主張を裏付ける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったことが明らかとなった。戦時の米軍は慰安婦制度を日本国内の買春制度の単なる延長と見ていたという。調査結果は、日本側の慰安婦問題での主張の強力な補強になることも期待される。(ワシントン駐在客員特派員 古森義久)
米政府の調査結果は「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)米国議会あて最終報告」として、2007年4月にまとめられた。米側で提起されることはほとんどなかったが、慰安婦問題の分析を進める米国人ジャーナリスト、マイケル・ヨン氏とその調査班と産経新聞の取材により、慰安婦問題に関する調査結果部分の全容が確認された。
調査対象となった未公開や秘密の公式文書は計850万ページ。そのうち14万2千ページが日本の戦争犯罪に関わる文書だった。日本に関する文書の点検基準の一つとして「いわゆる慰安婦プログラム=日本軍統治地域女性の性的目的のための組織的奴隷化」に関わる文書の発見と報告が指示されていた。だが、報告では日本の官憲による捕虜虐待や民間人殺傷の代表例が数十件例記されたが、慰安婦関連は皆無だった。
報告の序文でIWG委員長代行のスチーブン・ガーフィンケル氏は、慰安婦問題で戦争犯罪の裏付けがなかったことを「失望」と表明。調査を促した在米中国系組織「世界抗日戦争史実維護連合会」の名をあげ「こうした結果になったことは残念だ」と記した。IWGは米専門家6人による日本部分の追加論文も発表した。論文は慰安婦問題について1⃣戦争中、米軍は日本の慰安婦制度を国内で合法だった買春制の延長だと見ていた2⃣その結果、米軍は慰安婦制度の実態への理解や注意に欠け、特に調査もせず、関連文書が存在しないこととなったーと指摘した。
ヨン氏は「これだけの規模の調査で何も出てこないことは『20万人の女性を強制連行して性的奴隷にした』という主張が虚構であることを証明した。日本側は調査を材料に、米議会の対日非難決議や国連のクマラスワミ報告などの撤回を求めるべきだ」と語った。以上。
※ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)
クリントン政権時代に成立した「1998年ナチス戦争犯罪開示法」と「2000年日本帝国政府開示法」に基づき、第二次大戦での日独両国の戦争犯罪の情報開示を徹底させる目的で00年に始まった調査。国防総省、国務省、中央情報局(CIA)、連邦捜査局(FBI)などに未公開の公式文書を点検し戦争犯罪に関する資料の公開を指示した。

北海道新聞「吉田証言」記事を撤回、挺身隊と慰安婦 混同〜産経新聞平成26年11月18日〜

慰安婦問題を巡り、北海道新聞は17日付け朝刊で、朝鮮人女性を強制連行したとする吉田清治氏の証言に関する記事を取り消したことを明らかにした。勤労のための挺身隊と慰安婦を混同していたことも記す一方、最初の「吉田証言」報道の韓国世論への影響については「大きな影響を与えたものではないとの見方が一般的」と釈明している。
「まるで奴隷狩り」
北海道新聞によると、同紙が最初に吉田証言を報じたのは平成3年11月22日の朝刊。吉田氏に直接取材した内容について「朝鮮人従軍慰安婦の強制連行『まるで奴隷狩りだった』」との見出しで掲載した。
吉田証言の検証で「内容を裏付ける証言や文書は得られなかった。日本の研究者の間でも証言は学術資料たりえないとの見方が強く、信憑性は薄いと判断した」と結論付けた。
吉田証言に関する記事とは別に、3年8月15日の朝刊で元慰安婦の韓国人女性が初めて実名で名乗り出たことを報じた際、「女子挺身隊の美名のもとに」などと挺身隊と慰安婦を混同していたことも記した。
混同の理由について「韓国では勤労のための挺身隊と慰安婦を混同していた時期があり、女性もそう語っていた」とし、「4年1月には韓国では同義語として使われてきたことを伝え、その後は混同しないようにしてきた」と説明した。
『韓国紙が後追い』
北海道新聞が吉田証言について最初に書いた3年11月22日の記事は、韓国メディアが後追いしたという。同紙も同月27日の朝刊でこの記事が韓国紙「東亜日報」に紹介されたことを取り上げている。
しかし、検証では記事の影響について「韓国の元外交官やメディア関係者、研究者らに尋ねたところ、世論に大きな影響を与えたものではないとの見方が一般的だった」とした。
確かに朝日新聞はこの記事が出る9年前の昭和57年9月から吉田氏の記事を掲載している。北海道新聞が吉田証言を報道する以前から、韓国のメディアや反日団体が日本統治時代の先の大戦当時の慰安婦の存在を反日に利用しようとする動きもあり、そうした経緯を踏まえた見解と見られる。
『続く検証、謝罪』
北海道新聞は今回、吉田証言に関する記事8本を掲載していたことを明らかにしたが、他の地方紙なども吉田証言をめぐる記事を掲載している。
沖縄タイムスは9月13日付け社説で、共同通信の配信を受けて3年12月6日に掲載しているとした上で「(朝日新聞の)記事の取り消しや謝罪が新聞への信頼を著しく低下させたことを私たちも戒めとして深く胸に刻みたい」と記した。
朝日新聞に続き、記事を取り消したのは、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」。同紙は4〜5年、3回にわたり、吉田氏の証言や著書を取り上げたといい、9月27日付けの紙面で「『吉田証言』は信憑性がなく、記事を取り消します」とのおわび記事を掲載した。以上産経新聞より。

慰安婦「強制連行」虚偽記述、米教科書の是正要請、出版社に外務省〜産経新聞平成26年11月18日〜

米カリフォルニア州ロサンゼルス市や同市近郊の公立高校で使用されている世界史の教科書に、旧日本軍が慰安婦を「強制連行」したとする史実と異なる記述がされている問題で、外務省が同教科書の使用実態の調査に着手し、出版社に記述内容の是正を要請したことが17日、分かった。執筆者にも修正を申し入れる方針だ。
問題の教科書は、米大手教育出版社「マグロウヒル」(本社・ニューヨーク)が出版した「伝統と交流」。先の大戦を扱った章で「日本軍は14〜20歳の約20万人の女性を慰安所で働かせるために強制的に募集、徴用した」「逃げようとして殺害された慰安婦もいた」などと、強制連行があったかのように記述されている。「日本軍は慰安婦を天皇からの贈り物として軍隊に捧げた」と明白な虚偽内容も含まれている。
また、日本の江戸時代を考察する項目で用いている地図に「日本海(東海)」と韓国側の呼称も併記されている。慰安婦と日本海呼称の箇所は、同じ執筆者が記述したという。
産経新聞が11月3日付けで報じたことを受けて外務省は同日、在米の大使館、全総領事館を通じて米国の使用実態についてちょうさに入った。
ただ、外務省は「一部高校に設置された専門課程で使用が認められている2冊のうち1冊で、具体的な使用実態の把握は困難な状況だ」としている。
さらに外務省は7日、在米公館を介し、マグロウヒル社に「慰安婦と日本海呼称問題で重大な事実誤認や日本政府の立場と相入れない記述がある」として記述内容の是正を申し入れた。
これに対し出版社サイドは「日本政府の問題意識は共有した」として、責任者が17日以降に協議したいと回答してきた。執筆者とは同日現在、面会の調整を続けている段階だという。

慰安婦問題、米から支援の声〜産経新聞平成26年11月1日、「緯度経度」古森義久より〜

マイケル・ヨン氏といえば、全米で知られたフリーのジャーナリストである。2003年からの米軍のイラク介入で前線に長期滞在し、迫真の報道と論評で声価をあげた。09年ごろからはアフガニスタンでも同様に活動し、米国内での知名度をさらに高めた。名前からアジア系を連想させるが、先祖は欧州系、数世代が米国民だという。
ヨン氏のリポートは米紙ウオールストリート・ジャーナル、ニューヨーク・タイムズや雑誌多数に掲載され、大手テレビ各局でも放映された。「イラクの真実の時」といった著書なども話題を集めてきた。
そんな著名な米国のジャーナリストが日本の慰安婦問題の調査に本格的に取り組み始めた。米国、日本、韓国、タイ、シンガポールなどでの取材をすでに済ませた段階で、ヨン氏は「米欧大手メデイアの『日本軍が組織的に女性を強制連行して性的奴隷にした』という主張は作り話としか思えない」と明言する。
ヨン氏はこの趣旨の調査報告を間もなく米国系のメデイアで公表するというが、自分自身のホームページでは「慰安婦問題での日本糾弾は特定の政治勢力の日本叩きだ」とまで断言する。慰安婦問題での世紀の冤罪を晴らそうとする日本の対外発信の試みにとっても、やっと一条の光が米国側から差してきたようだ。
そのヨン氏と10月前半、2回にわたって東京で会った。慰安婦問題などの情報や意見の交換ということで、かなりの時間をかけて話し合った。日本では慰安婦問題の研究や調査の関係者に多数会い、日本側の資料にもあたったという。
米国でも、国立公文書館での資料調査やグレンデール市の慰安婦像設置の経過取材などを済ませたとのことであった。
「日本軍が組織的に20万の女性を強制連行して性的奴隷にしたというならば国家犯罪となるが、そんな事実は出ていない」「どの時代でも軍隊に買春はつきものであり、日本の慰安婦も大多数は普通の意味の売春婦だったのだろう」「それでもなお、『日本軍の強制連行による性的奴隷』と断じる主張は政治的意図のにじむ捏造であり、日本を同盟国の米国や韓国と離反させるための日本叩きだだろう」
ヨン氏のこうした主張は、米陸軍の1944年のビルマ(現ミャンマー)での慰安婦尋問書や日本の新聞の慰安婦募集広告の検証の結果だともいう。その上で同氏は現代の日本について以下のようにも述べるのだった。
「現在の日本ほど人道主義、民主主義、平和主義に徹した国は全世界でも珍しい。米国にとっても貴重な同盟国だ。であるのに米側が慰安婦問題で日本を叩くのは敵性勢力を強め、友邦を弱めることに等しい」
ヨン氏は、オバマ政権が安倍晋三首相の靖国神社参拝を非難したことも日本側の慣行への干渉だからおかしいとして、「自国の戦死者の霊に弔意を捧げることは万国共通であり、戦犯という概念もその当事者が死ねばなくなるはずだ」と語る。
ヨン氏自身も10月中旬、靖国神社を参拝した。今度は各国の元軍人たちに呼びかけて、集団で靖国参拝をしたいともいう。米国側にこうした意見が存在することは日本側の官民も改めて認識すべきだろう。(ワシントン駐在客員特派員)

「慰安婦像、日本人を侮辱」グレンデール議会 テキサス親父が批判〜産経新聞平成26年10月23日〜

【ロサンゼルス=中村将】米カリフォルニア州グレンデール市の市議会で21日、「テキサスの親父」の呼び名で知られるテキサス州在住の評論家、トニー・マラーノ氏が発言する機会を与えられ、韓国系団体の強い要請で設置された慰安婦像を批判した。
慰安婦問題で韓国側の主張を否定し、日本擁護の立場をとっているマラーノ氏は、慰安婦像設置に賛成した市議らを前に「慰安婦像は日本人の名誉を毀損、侮辱している」と切り出し、在韓米軍基地周辺で米兵を相手に買春をさせられたと主張する100人以上の韓国人女性らが今年6月、韓国政府に賠償を求める訴訟をソウル中央地裁に起こしたことを紹介した。
その上で、「グレンデール市は日本や日本の人々に対し、一貫性があることを表明する好機を得た」と述べ、「この新しい慰安婦たちのために2つ目の像の設置を考えたらどうだろうか」と提案。新たな像の設置で、「今ある慰安婦像が日本を侮辱する目的で設置したわけではないということを証明できる」とも主張し、設置場所については「1体目の慰安婦像の隣を勧める」とした。

日本政府が行ったクマラスワミ報告書の一部を撤回するように求めたことについて、韓国政府は「許されぬ」と非難。〜産経新聞平成26年10月17日〜

【ソウル=名村隆寛】慰安婦を強制連行された「性奴隷」と認定した1996(平成8)年の国連人権委員会(当時、現在は国連人権理事会)の「マクラスラミ報告書」をめぐり、日本政府が一部撤回を求めたことに対し、韓国外務省報道官は16日の定例会見で「慰安婦問題の本質をごまかすことは決して許されない」と避難した。
同報告書の一部撤回については、菅義偉官房長官が16日の記者会見で、スリランカの女性法律家、クマラスワミ元特別報告者に直接求めたと明らかにした。
外務省によれば、佐藤・人権人道担当大使が14日に米ニューヨークでクマラスワミ氏に面会。韓国の慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏の証言が虚偽だったとして、関連記事を朝日新聞が取り消したことを説明し、「吉田証言」の引用部分の撤回を求めたが、菅氏は「先方は『修正には応じられない』ということだった」と述べた。
政府は慰安婦を含む歴史認識に関する対外広報戦略の強化を進めており、今年度の政府国際広報予算を昨年度の2倍に引き上げ、来年度はさらに2倍以上にする方針だ。
このほか、同報告書が提出された直後に当時の日本政府が作成した「反論文書」の公開も検討している。
こうした一連の日本政府の動きを踏まえた上で、同報道官はさらに、「(日本で慰安婦の)強制性を否定しようとする動きが続いている」と述べ、「深刻な憂慮」を表明した。

阿比留瑠比の極言御免、慰安婦問題 幻の反論文書公開を〜産経新聞平成26年10月9日〜

慰安婦を強制連行された「性奴隷」と認定した1996年(平成8年)の「クマラスワミ報告書」について、6日の衆院予算委員会で興味深い質疑があったので紹介したい。次世代の党の山田宏幹事長が、日本政府がいったん明解な反論文書を作成しておきながら、なぜかすぐに引っ込めた経緯をただすと、岸田文雄外相はこう答弁した。
「文書に関し、詳細すぎるといくつかの国から指摘を受けて、簡潔な文書を改めて出した。(はじめの)文書は、現状では取り扱いは非公開とmなっている」
この幻の反論文書のm内容については産経新聞は今年4月1日付け紙面で既報だ。簡単におさらいすると、クマラスワミ報告書に対して、具体的な事例を示して次のように反駁している。「客観的資料は無視し」「事実調査に対する姿勢は甚だ不誠実」「無責任かつ予断に満ちた」「軽率のそしりを免れるない」「歴史の歪曲に等しい」・・・・
〈「定義は不適当」〉
その上で国際法上、「いわゆる『従軍慰安婦』の制度を『性奴隷』と定義することは法的観点からは極めて不適当である」と指摘し、クマラスワミ報告書は「かえって問題の真の解決の妨げとなることを深く懸念する」と結論する。
報告書は、慰安婦狩りを証言し、朝日新聞もこのほど記事を取り消した吉田清治氏の著書などに依拠しているのだから当然だろう。
今月6日の質疑で山田氏が「なかなか良く書けている。日本の立場を説明できる文書だ。ぜひ公開してほしい」と求めたほどで、今読んでも違和感はない。
ところが、現実にはこの反論文書は撤回され、慰安婦募集の強制性を認めた河野談話や、元慰安婦への支援を行うアジア女性基金の取り組みを紹介した簡略版の文書に差し替えられる。
クマラスワミ報告書への直接的な批判は圧縮され、抑制的なものとなった。
歴史の事実関係は一切争わず、「法的には決着済み」「もうすでに謝罪してる」で片付けようという、われわれが見慣れた日本の「事なかれ外交」に落ち着いたわけである。
とはいえ不思議なのは、当初は日本側も「日本政府として法的に反論すべきことはしていく」(当時の橋本龍太郎首相)などと強気だったのに、その後は反論文書自体をなかったことにしていることだ。
〈方針転換藪の中〉
そもそも、一度は関係各国に配布された公の文書だったはずの反論文書が、現在では日本国民にも「非公開」とされている理由がさっぱり分からない。
当時、反論文書に対して中国や韓国、北朝鮮などの国や日本の人権派弁護士やNGO(非政府組織)が反発したことはわかっている。
ただ、それと政府の方針転換が直接結びついているかは藪の中だ。
反論文書が取り下げられた経緯について、現在の外務省幹部はこういう。
「われわれがが調べても分からない。だが、きちんと間違いを指摘したもとの反論文書と簡略版はまるで別のシロモノだ。いつか反論文書は公開すべきだ」
反論文書を公開すれば、安倍晋三政権が歴史を修正しようとしているのではなく、日本政府は平成8年当時から、慰安婦問題の事実関係についてこう認識していたのだと内外に示すことができる。無意味な非公開指定はさっさと解くべきである。

「朝日、解体・出直しも」第三者委員会、2ヶ月後めどに提言〜産経新聞平成26年10月10日〜

朝日新聞の慰安婦報道を検証する第三者委員会の初会合が9日、東京都内で開かれ、委員長に就任した元名古屋高裁長官の中込秀樹弁護士は「事実関係を検証し、改めるべき点を提案していただく。場合によっては『解体して出直せ』ということになるかも知れない」とあいさつした。第三者委員会は2ヶ月後をめどに提言をまとめる方針。
会合は冒頭を除き非公開で、中込氏によると、委員からは「都合の良い事実だけ拾って報道する朝日や新聞業界全体の体質に問題があったのではないか」との意見が出たという。次回以降の会合は原則、公開しないとしている。
一方、朝日新聞は、木村伊量社長が「委員の皆様には検証結果を踏まえて、いかなる前提もつけず、忌憚のないご批判、ご意見、具体的な提言を賜りたいと切望しております」などと各委員にあてたコメントを発表した。
第三者委員会は今後、吉田清治氏の証言を記事にした記者らに聞き取り調査を実施し、現代史家の秦郁彦氏ら専門家にも意見を聞く。吉田証言をめぐる報道が長年取り消されなかった理由に加え、国際社会への影響やジャーナリストの池上彰さんのコラム掲載を拒否した問題についても検証する。
委員は中込氏のほか、外交評論家の岡本行夫氏、国際大学長の北岡伸一氏、ジャーナリストの田原総一朗氏、筑波大名誉教授の波多野澄雄氏、東大大学院教授の林香里氏、ノンフィクション作家の保阪正康氏。

朝日新聞社は慰安婦報道第三者委員会の委員7人を発表した。委員に田原総一朗氏ら7人〜産経新聞平成26年10月3日〜

朝日新聞社は2日、慰安婦問題をめぐる過去の報道を検証する第三者委員会の委員7人を決定したと発表した。委員長は元名古屋高裁長官の中込秀樹弁護士で、委員はジャーナリストの田原総一朗氏ら。9日午後に最初の会議を開く。
同社が9月に開いた記者会見で、木村伊量社長が第三者委員会を設置すると明らかにしていた。
同社によると、第三者委員会は取材や記事執筆に当たった記者らからヒアリングする他、慰安婦問題に詳しい現代史家の秦郁彦氏らを招いて意見を聞く。
その上で、慰安婦に関する過去の記事執筆の背景を始め、8月に掲載した検証記事の妥当性や、報道が日韓関係と国際社会に与えた影響などを検証。2ヶ月をめどに報告をまとめる。
ほかの5人は、外交評論家の岡本行氏、国際大学長の北岡伸一氏、筑波大学名誉教授の波多野澄雄氏、東大大学院教授の林香里氏、ノンフィクション作家の保阪正康氏。

あめりかノート「慰安婦問題、国辱晴らす時」〜古森義久、産経新聞平成26年9月29日〜

朝日新聞の慰安婦問題での誤報の訂正と記事取り消しがついに米国側の関係者らに直接のインパクトを及ぼし始めた。2007年7月の連邦議会下院での慰安婦問題での日本糾弾決議を推した米側の活動家たちが同決議の作成は吉田清治証言にも朝日新聞報道にも全く影響されなかった、という苦しい弁明を9月25日に発表したのだ。しかもこの弁明は同決議推進側が最大の標的としてきた「日本軍による組織的な女性の強制連行」への非難を後退させ、日本軍の慰安所への「関与」や「運営」に焦点をシフトしてしまった。この種のうろたえは日本側の国辱を晴らすための対外発信が効果をあげる展望を示すとも言えそうだ。
ワシントンのアジア関連のニュース・評論サイト「ネルソン・リポート」に「毎日新聞記事への共同の対応」と題する声明が載った。下院の慰安婦決議案の作成にかかわったアジア関連の民主党系活動家ミンデイ・カトラー氏ら4人の連名による、毎日新聞9月11日付けの「朝日報道が国際社会に誤解を広める」という趣旨の長文の検証記事への反論だった。
この記事は下院決議もその審議の最中に「議員説明用の資料にも途中段階で吉田清治氏の著書が出てくる」と記していた。だが同声明はそれでも吉田証言には頼らなかったと述べ、最大焦点の強制連行は「日本帝国が軍隊用の性的奴隷システムを組織し、運営したことを示す書類上と口述の証拠はインド・太平洋地域に多数存在する」として、直接の言及を避けていた。
この対応は同決議を主唱したマイク・ホンダ議員(民主党)らが当時、日本側の「罪」を「日本軍による強制連行」だけに絞り切っていたのとは、がらりと異なる。「強制」を朝日報道のように旗色が悪くなって「狭義」から「広義」へと議論をすり替えるというふうなのだ。
カトラー氏といえば、安倍晋三首相を「危険な右翼の軍国主義者」などと断じ続け、下院の決議案審議の公聴会にインドネシアの「スマラン慰安所事件」の被害者女性を登場させた張本人だ。この事件は日本軍の末端の将校が軍の方針に反して女性を強制連行し、2ヶ月後に上層部に判明して停止され、戦後は死刑になった戦争犯罪だった。「日本軍の組織的な強制連行」がなかったことを証する実例なのに正反対の目的に利用されたのだ。
なおカトラー氏周辺では「朝日報道攻撃はジャーナリズムとは無縁の歴史糊塗を狙う右翼の策謀」(東洋経済新報社系英文サイトのピーター・エニス記者)という主張も盛んである。
しかし米国側の反応も一枚岩ではない。ブッシュ前政権の高官だった知日派の法律家がこんなことを述べた。
「日本政府の調査結果、吉田証言や朝日報道の虚偽、そしてインドネシアでの事件の意味を対外的に丁寧に説明していけば、『慰安婦の強制連行は日本の国家犯罪』だとする国際的な日本へのぬれぎぬも晴らせるだろう。そのためには日本側の主張や記録を公正に理解する新たな国際第三者委員会の設置が望ましいかもしれない」
さあ、安倍政権、どうするか。(ワシントン駐在客員特派員)

大前研一氏「朝日新聞の『転落』、足で調べて真実を伝えなければ存在意義はない」〜nikkei BPnet平成26年9月24日より〜

大前研一氏の記事より、朝日とNHKの問題点を指摘した部分。
「誤りを認めたら自分たちの無謬性が崩壊するので、できれば認めたくない、謝りたくないというのが、マスコミに共通した態度なのだ。
そうしたマスコミ共通の問題点を踏まえたうえで、一連の朝日新聞の失態を見ると、2つの問題点を指摘できる。
1つは、慰安婦『吉田証言の誤報にしろ、原発事故『吉田調書』の誤報にしろ、朝日新聞社内の左翼勢力が論調を牛耳り、事実をねじ曲げて伝えようとした点だ。こうした報道を中国や韓国が喜んで受け止め、そういう日本というものを‘真実‘と思いこんで、国民にも擦りこんでしまったのである。
2つ目は、とりわけ慰安婦問題について、朝日新聞の報道に追従してきた他の大手マスコミがダンマリを決め込んでいる点だ。その典型がNHKである。
NHKも長年、朝日新聞の報道に乗る形で、慰安婦問題に関するニュースや番組を制作してきた。しかし、朝日新聞が誤報を認めても、NHKはまるで他人事のような顔をしている。NHKも慰安婦問題と自らが制作した番組について検証することが必要だろう。
考えてみれば、戦前の大本営発表垂れ流し報道でも、朝日新聞とNHKが主な役割を果たしていた。それが戦後、いつの間にか両者ともに政府に批判的な立場になっている。
そうすることで朝日新聞もNHKも免罪されたつもりでいるのだろうが、本質的な反省は何もなされていない。国民を騙し続けたことに関する反省の弁は一切ない。あとになって振り返ってみれば、ミッドウエ―海戦以降は負け戦の連続であったので、いくらなんでも敗北を転戦と報道するよりは、「筆を折る」くらいの気概がなければ、報道機関とは言えない。
慰安婦問題などで誤報を繰り返しながら、それが発覚しても当事者意識を欠いているという点では、朝日新聞もNHKも何ら成長していないと言える」。
「福島第一原発事故の場合には、私自身が事故究明をしたのでよく分かっているが、マスコミには保安院と東電の毎日の発表以外の『視点』を求める姿勢は全くなかった。
1年以上たってから私の指摘が正しかったと東電が正式に認めても『今さら書けない』とマスコミは開き直った。彼らにとっては自分たちの過去の行為を正当化するのが先で、後になって分かっても『事実はこうだった』という記事は書けないのである。これは朝日とNHKに顕著であるが、福島に関してはすべての大新聞に共通していた。
結局のところ、発表された情報をそのまま垂れ流して、自分たちの足で調べ書くことをあまりしない、悪しき記者クラブのエリート感覚が、マスコミの誤報を生んでいるのだ」。

「朝日は日本人をおとしめる」〜百田尚樹、産経新聞より〜

九州「正論」懇話会の第114回講演会が20日、福岡市中央区のホテルニューオオタニ博多で開かれ、作家でNHK経営委員の百田尚樹氏が「日本の誇り」題して講演した。
百田氏は、東京電力福島第一原発所長だった吉田昌郎氏=昨年7月死去=の「聴取結果書」(吉田調書)をめぐり、朝日新聞が記事の誤りを認めて撤回したことについて「政府が吉田調書の公開に踏み切らなければ、絶対に黙っていた」との見方を示した。
朝日新聞が8月、慰安婦を強制連行したとする自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長、吉田清治氏の証言を虚偽と認め、記事を取り消したことにも言及し、「チェック機能がおろそかだったという問題ではない。朝日は日本人をおとしめ、日本はひどい国だと言いたい。この目的のためにどんな嘘もつく」と断じた。以上平成26年9月21日産経新聞より。

クマラスワミ氏「修正必要ない」慰安婦で日本に賠償勧告の国連報告書〜産経新聞平成26年9月5日〜

【コロンボ=共同】慰安婦を「性奴隷」と位置付け、日本政府に謝罪や賠償を勧告した1996年の国連報告書(クマラスワミ報告書)を作成したスリランカの女性法律家、クマラスワミ元特別報告者が4日までに、共同通信と会見し、報告書の内容について「修正は必要ない」との考えを示した。
朝日新聞は8月、韓国・済州島で女性を慰安婦にするために強制連行したとする、元山口県労務報国会下関支部動員部長の故吉田清治氏の証言を虚偽だったと判断し、報道の一部を取り消した。
報告書は吉田氏の著書を引用しているが、クマラスワミ氏は吉田証言について「証拠の一つにすぎない」と主張。元慰安婦への聞き取り調査などに基づき、「日本軍が雇った民間業者が(元慰安婦らを)誘拐した」事例があったと主張した。
朝日新聞の報道取り消し後、クマラスワミ氏が日本メデイアと会見したのは初めて。
クマラスワミ報告書については、吉田氏の証言など信頼できない情報にも立脚しているとの批判があるが、スリランカのコロンボで会見したクマラスワミ氏は調査に基づき、「慰安婦たちには逃げる自由がなかった」と強調。慰安婦を「性奴隷」と定義したのは妥当だったと述べた。以上産経新聞より

追求キャンペーン第3弾
木村伊量社長、大本営発表、メール公開
〜週刊文春2014,9,11〜

8月28日は「朝日が死んだ日」として語り継がれることになるかもしれない。「裸の王様」メールを配信、気に入らない広告は掲載拒否、火に油を注ぐお粗末な検証第二弾を載せた。吉田調書で追い詰められ、ジャーナリストの論評を封殺する朝日の惨状をレポート。
雨が続き、真夏の暑さも遠のいた8月下旬。東京・築地にそびえたつ朝日新聞本社ビルの周囲には不穏な空気が流れていた。正面玄関には街宣活動をする右翼団体が現れ、警備員らが社員に、裏口から出入りするよう声をかける。8月5、6日の慰安婦報道検証記事の掲載以来、とどまるところを知らない朝日への批判。だが、どうやらその声も「15階」には届かないようだ。
朝日関係者が語る。「『15階』は役員フロア。上司から思わぬ指示が飛んできたときなどに『15階のご意向らしいよ』などと使う隠語です。エレベータを降りると、目の前にガードマンが立っていてものもしい雰囲気です。あの事件以降、警備が厳重になったといわれています」
「あの事件」とは、1993年に右翼活動家の野村秋介氏が当時の中江利忠社長のもとに抗議に訪れ、その場で拳銃自殺を図った一件(後に死亡)だ。一昨年6月、中江氏から4代後の社長に就任した木村伊量氏(60)は、今いかなる思いでその椅子に座っているのだろうか。
8月28日、ある記者は会社支給のパソコンをのぞき、思わず目を疑った。「揺るがぬ決意で」と題された木村氏の手による檄文が目に飛び込んでくる。
≪長年にわたる朝日新聞のファンの読者や企業、官僚、メデイア各社のトップ、ASA幹部の皆さんなど多くの方から「今回の記事は朝日新聞への信頼をさらに高めた」「理不尽な圧力に絶対に負けるな。とことん応援します」といった激励をいただいています≫(以下≪≫内は木村氏のメールより)

「この国賊が!」と罵倒
現場が日々感じている風当たりの強さとは乖離した長文。これを全社員に向けて配信した「8月28日」は、木村氏が3つの致命的な判断ミスを犯した「朝日新聞が死んだ日」として、後世語り継がれるようになるのかもしれない。
一つ目のミスは、自らが「裸の王様」だと自白したに等しいこの文章だ。木村氏は社内専用ホームページ「風月動天」に、ひと月に一度、自ら文章をアップする。全社員にメールでメールでその通知が送られてくるのだが、同ページは外部の人間には閲覧不可能。また小誌のような他メデイアに内容が漏れないよう、「閲覧する際には、個々人のパスワードを打ち込まなければならず、誰が印刷したかまで会社側が把握できる」(現役社員)という。
・・・・
《2年前に社長に就任した折から、若い世代の記者が臆することなく慰安婦問題を報道し続け、読者や販売店ASAの皆さんの間にくすぶる漠然とした不安を取り除くためにも、本社の過去の慰安婦報道にひとつの「けじめ」をつけた上で、反転攻勢に打って出る態勢を整えるべきだと思っていました。今回の紙面は、これからも揺るぎない姿勢で慰安婦問題を問い続けるための、朝日新聞の決意表明だと考えています》
・・・・・・
《「慰安婦問題を世界に広げた諸悪の根源は朝日新聞」といった誤った情報を撒き散らし、反朝日キャンペーンを繰り広げる勢力には断じて屈するわけにはいきません》
・・・・・・
《私の決意はみじんも揺らぎません。絶対にぶれません。偏狭なナショナリズムを鼓舞して韓国や中国への敵意を煽る彼らと、歴史の負の部分を直視した上で違いを尊重し、アジアの近隣諸国との信頼関係を築こうとする私たちと、どちらが国益にかなうアプローチなのか》
・・・・・
《本日28日付朝刊でも、慰安婦問をめぐる議論のポイントの整理が掲載されましたが、これからも反論すべきは朝日新聞らしく節度と品位をもって反論しつつ、自信を持って、ジャーナリズムの使命を果たしていくことが大切です》
・・・・・
福島第1原発事故の吉田調書問題では、
《地道な取材に裏付けられた、朝日新聞が書かなければ永久に世の中に知られることがなかったかもしれない衝撃の事実の連打で、これぞ価値ある第1級のスクープというべきでしょう。(略)「朝日新聞のぶっちぎりの特ダネ」に終わらせることなく、公共財として社会全体で証言を共有できないものか、様々な方策を検討してもらいます》(5月17日付)
《安倍政権は故吉田氏の上申書をたてに調書内容の開示を拒み、他の新聞は手元に調書資料がないこともあってか、後追いもせずにほぼ黙殺。一方で、海外の有力メデイアは朝日新聞の報道を直ちに転電して世界の多くの人が事実を知る、という倒錯した状況も起きています》(同)
・・・・
《戦後の歴代政権が封印してきた集団的自衛権行使に、国民世論も顧みず、軽々しくバタバタと踏み出そうとする動きは、突き詰めると、「戦後レジームからの脱却」とやらに取り憑かれた安倍首相の独りよがりの情念(妄執)に帰着する》

慰安婦「誤報」記者、韓国人義母ソウルで直撃
〜週刊文春、2014年9月4日号〜

朝日新聞が8月5日、6日の2日間にわたって過去の慰安婦報道を検証してから三週間余りが経過した。当の朝日は潔く一部の記事を虚偽と認めたつもりかもしれないが、検証を高く評価する論調はほとんど見られず、批判の嵐が吹き荒れるばかりだ。
謝罪や処分がなされていないこともあるだろうが、最も大きな理由は検証内容そのものに疑問が残ったままだからではないか。検証のポイントは2つあった。@「吉田証言」の真偽。A元記者・植村隆氏による元慰安婦の記事の“捏造疑惑”だ。@の「吉田証言」については、遅きに失したとはいえ虚偽と認め、記事を取り消した。
問題はAの植村記事だ。植村氏が91年8月に書いた、元慰安婦が自らの経験を初めて語ったというスクープである。だが、記事の約半年前に彼が韓国人女性と結婚、その母親が慰安婦支援団体の幹部を務めており、後にはその元慰安婦とともに裁判を起こしたことから、〈義母から便宜を図ってもらった〉(以下〈〉内は朝日検証より)のではないかと疑問視されてきた。さらに〈元慰安婦がキーセン(妓生)学校に通っていたことを隠し、人身売買であるのに強制連行されたように書いた〉との捏造疑惑も再三指摘されてきた。記事の翌年には、宮澤喜一首相が訪韓時に慰安婦問題を謝罪。さらに翌翌年には慰安婦の強制連行を認める河野洋平官房長官談話が出された。こうした動きに連なる重要な記事であり、緻密な検証が求められるはずだった。
だが朝日の検証は、植村氏に聞き取りを行った結果、〈意図的な事実の捻じ曲げなどはありません。・・取材のきっかけは、当時のソウル支局長からの情報提供でした。義母との姻戚関係を利用して特別な情報を得たことはありません〉とし、当時大阪社会部の一記者だった植村氏が、なぜわざわざソウルに出向いて取材したのかも明らかにしなかった。
当の植村氏は再三にわたる小誌の取材に逃げ続けているが、義母に国産電話をかけるとこう言った。「電話で話すことはできない。聞きたいのなら、こちらに来な
さい」。小誌記者はすぐさまソウルに飛んだ。
ソウル中心地、光化門から徒歩5分ほどの裏路地。一階にカフェが入る雑居ビルの最上階にある太平洋戦争犠牲者遺族会の事務所はあった。笑顔で現れたのは現在遺族会会長を務める梁順任氏(66)、植村氏の義母である。まずは今回の検証について聞いてみた。
「検証記事を書くにあたっては、朝日から韓国側に相談があったほうが良かったと思います。その点は残念、コミュニケーション不足が露呈しましたね。朝日は今回、私たち遺族会とも意見交換をしていません。被害者団体である私たちとの意思疎通が欠けていたのではないでしょうか」
のっけから、朝日と自分たちは相談すべき間柄だと語る。やはり植村記事の情報提供者は彼女だったのか。91年8月の当該記事を見せながら問いただすと
「この記事の存在は今まで知りませんでした。記事が書かれた当時、彼とは会っていませんし、連絡も取っていません」
だが記事の約半年前に梁氏の娘と植村氏は結婚した。新婚の娘婿がソウルに来たのに、会うことはおろか連絡も取らず、彼女の活動にも影響するスクープを知らなかったとは信じがたい。
「私は、40年間戦争被害者に関する活動をしてきましたが、植村氏に限らず縁戚関係を利用して何かをしたことはありません。我々は正しい主張をしなければいけないわけですから、誰か一人をひいきすることはあってはならない。たくさんのメデイアから取材を受けましたが、全て公平に接しています。隆からも1、2度取材を受けたことはありますが、義理の息子ということでひいきしないよう、特に注意して接してきました。彼も、私のために事実をねじ曲げたり、情報を得るために親戚関係を利用するような男ではありません」
植村氏は87年から1年間、朝日に籍を置きながらソウルに留学。帰国後、大阪社会部時代の90年夏には「清算されない昭和」という写真集の取材で韓国を訪れ、慰安婦探しに精を出したが、結局その時は見つけられなかったという。
「彼が当時、遺族会の事務所に出入りする中で手伝いをする私の娘と知り合って仲良くなったようです。付き合っていると聞いた時は驚きました。植村自身も付き合っている相手が私も娘だとは知らなかったようです。韓国の風習で、娘は私の夫の名字を名乗っていましたから」
植村記事の問題点は、情報提供者が義母か否かだけではない。元慰安婦が人身売買されたことを意図的に隠し、挺身隊と慰安婦をあえて混同して、元慰安婦が挺身隊として国家によって強制連行されたかのように書いた、との批判がある。
梁氏はこう力説した。
「検証でも挺身隊と慰安婦の混同が問題視されたようですが、当時慰安婦の方たちが慣例的に、挺身隊と慰安婦を一緒くたにして使っていたのです。厳密にいえば、『挺身隊』として現場に行ったにしても実際には慰安婦になった人もたくさんいた。ですから混同しても仕方がない。大きな間違いとは思いません」
朝日検証とうり二つのろんりだが、西岡力東京基督教大学教授はこう指摘する。「慰安婦と挺身隊を被害者の方たちが誤って使っていたというのは嘘です。植村記事の報道後に実名で記者会見した元慰安婦の金学順さんを含め『挺身隊という名目で連行され、慰安婦にされた』と言っている慰安婦は一人もいない。植村記事の最大の問題点は金さんをさして『「女子挺身隊」の名で戦場に連行され』たと書いたこと。金さんは訴状でも一度も自らを挺身隊だといったことはありません。これは明らかに経歴の捏造です。梁さんは植村氏をかばって、そのような嘘を述べたのではないでしょうか」
二時間半の及ぶ取材を終えた記者に、梁氏は最後にこう言った。
「嘘は書かないで」
梁氏のメッセージを、朝日新聞にこそ贈りたい。

週刊文春追及キャンペーン第1弾
「慰安婦誤報」木村社長が謝罪を拒んだ夜

8月5日、6日の二日間にわたり、突如掲載された朝日新聞の慰安婦報道検証記事。32年前の「吉田証言」を今さら虚偽とし、取り消しはしたものの、どこを見ても「謝罪」の言葉はなく、関係者の処分もない。この空虚な「検証」は、いかにして生まれたのか。
朝日新聞が、これまでの慰安婦報道に関する検証記事を掲載した8月5日夜。東京・赤坂の小料理屋の一室で、ある会合が開かれようとしていた。
若い時分から同じ現場を回った60代のベテラン政治部記者らが、旬の著名人を招いて開く、2か月に1度の勉強会。その日のゲストは、9月頭の内閣改造を前に、その去就が注目の的になっている石破茂自民党幹事長だったh
定刻よりややはやく集まった面々の中に、朝日新聞社の代表取締役社長・木村伊量(ただかず)氏(60)の姿があった。向かい側に座っていたのは、時事通信政治部記者時代からの旧友で、政治評論家の加藤清隆氏。彼は木村氏にこう声をかけた。
「今朝の記事を読んだよ。朝日はちゃんと謝った方がいいんじゃないか」
木村氏は答えた。
「歴史的事実は変えられない。したがって謝罪する必要はない」
加藤氏は驚いて
「それは違うんじゃないの。記事を取り消すのであれば、きちんと謝らなければいけないよ」
だが、木村は淡々と
「謝罪の必要はない」と繰り返すばかりだった。
8月5日、6日の2日間にわたり、計5面もの紙面を割いて、過去30年余にわたる慰安婦報道の問題点を突如検証し始めた朝日新聞。その内幕を朝日の政治部記者が語る。
「号令を発したのは一昨年に社長に就任した木村氏です。彼は、東大卒のエリートタイプが多い朝日ではめずらしく早稲田大卒。旧帝大卒以外の社長は45年ぶりだそうです。政治部一筋で、旧田中派を担当。政界のドンだった金丸信元幹事長に深く食い込み、他の記者が家の前で待っているのに、木村氏だけが家中に呼ばれることもありました。リベラルな朝日の中にあって保守派として知られ、彼自身も『自分は朝日の極右だ』と辞任しています」
この3月に行われた「人事異動」が直接の契機となったようだ。
「3月の人事で、編集担当執行役員に杉浦信之氏、その下のゼネラルエデイター兼編成局長に渡辺勉氏が就任しました。入社が木村氏の2期上で、目の上のたんこぶだった吉田真一元編集担当上席執行役員がテレビ朝日の社長に転出したことで、検証しやすい環境が整った。問題記事を書いた植村隆記者(後述)が3月に早期退職したのも追い風となり、春先に号令をかけたのです。実際の検証作業は渡辺氏が主導しました。『慰安婦問題について、事実関係を徹底的に調べろ』という指令のもと、特報部を中心に、社会部や政治部からも人が集められ、10人ほどのチームが極秘で結成されました」(同前)。
負の遺産にケリをつけるべく掲載されたはずの、検証記事。だがそのどこを見ても、木村氏が冒頭で語った通り「謝罪」はない。
「当時は研究が乏しかった」「記者が参考にした資料にも混同があり、誤用した」などと言い訳を並べ立て、挙げ句の果てには論点を、自社の誤報などでなく〈慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです〉とすり替えている。
検証記事のポイントは、次の2つに絞られる。@「吉田証言」の真偽。A元記者・植村隆氏による元慰安婦の記事の“捏造疑惑”だ。
まず、@の「吉田証言」についてみていこう。
82年9月2日、朝日は大阪版の朝刊で、吉田清治氏の大阪市内での講演をもとに〈済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』〉と報じた。吉田証言の登場回数は確認できるだけで16回にのぼり、この証言こそが日本軍による強制連行の根拠とされてきた。
だが92年、現代史家の秦邦彦氏の済州島での調査結果をもとに、産経が吉田証言を疑問視する記事を掲載。以降、吉田氏は“職業的詐話師” と呼ばれるに至った。
検証記事は〈執筆した大阪社会部の記者(66)は「講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」と話す〉とする。
これに呆れるのは、朝日の元ソウル特派員でジャーナリストの前川恵司氏だ。
「実は私は80年に吉田さんに会っています。当時川崎支局にいて、硫黄島から生還してきた朝鮮人たちをテーマに記事を書いていた。すると吉田さんが『自分は徴用工のことを知っている』と自ら電話で売り込んできたのです。一度会いましたが、徴用工をどこへ連れて行ったのか尋ねても、行き先をはっきりと言えないなど疑問を感じる部分があったので、彼の話は記事にはしませんでした」
ところが2年後、大阪市内での吉田氏の講演が記事になった。
「82年の当該記事は、吉田さんの講演をうのみにして書かれています。普通『この講演内容が事実かどうか、徹底的に調べろ』となるのが常識でしょう」(同前)
32年後の今になって、ようやく吉田証言が虚偽だったことを認め、記事の取り消しを決めた朝日。だが朝日の報道が、韓国をはじめとする他国の反日感情に火をつけ、93年には慰安婦の強制性を認める「河野談話」が出された。96年に国連に提出されたクマラスワミ報告書や、07年の米下院での対日非難決議でも、吉田証言が有力な論拠とされた。
社会部長や論説委員を歴任した朝日OBの柴田鉄治氏はこういう。
「誤報はないほうがいいに決まっていますが、残念ながら時として起こり得る。問題はいつおかしいと気付いたか、です。吉田証言がおかしいという指摘はずいぶん前からあり、秦邦彦さんの検証も22年前です。検証があまりに遅すぎたため、朝日の誠意が読者に伝わらなかったのではないか」
実は、今回の検証記事に至っても、いまだに朝日が「隠蔽」している事実を小誌はつかんだ。17年前にも、朝日が吉田証言を取り消す寸前までいっていたのに社内の「セクショナリズム」で潰えたのだ。当時の政治部関係者の話。
「朝日は、歴史教科書に従軍慰安婦問題についての記述が登場した97年にも“従軍慰安婦問題取材班”を立ち上げた。この時は政治部と社会部、外報部の混成チームが作られました」
だが、当時の紙面では、「(吉田証言の)真偽は確認できない」と記されたのみ。
「実はチーム内で喧々囂々たる議論になったんです。これは虚偽だと完全に否定したほうが、この際はっきりとけじめがつけられるじゃないかと政治部は主張したのですが、社会部からは『絶対にない、という証明はできない』という主張があった。吉田証言を報じてきたのは社会部サイドでしたから、彼らの『完全否定したくない』という主張が結果的には反映された形です」(同前)
97年当時の政治部長で、昨年まで主筆を務め、竹島を韓国に譲るという「夢想」をコラムにするなど、朝日きっての「親韓派」として知られる若宮啓文氏に聞くと、こう反論が返ってきた。「吉田証言は朝日だけが報道しているんじゃない。彼は本を書いているし、韓国に行って、慰安婦たちに謝ったりもしている。韓国国内ではそのことが報じられているのであって、何も朝日の記事を引用して問題が大きくなったわけじゃないんですよ。それが、何で朝日の責任になるのか。そこまで朝日の責任にするのはアンフエアだと思います。

17年間でさらに失われた国益
若宮氏からは朝日が「吉田証言」の大きな影響力の源泉となったことへの反省は感じられなかったが、一方、取り消しについては、率直にこう語った。
「個人的には、97年に取り消しをやっておけば、すっきりしたと思う」
97年からの17年間で、さらにどれだけの誤解が世界中に広まったことか。
朝日の「無謬主義」の罪深さに、慰安婦問題を長年取材する産経新聞政治部編集委員の阿比留瑠比も嘆息する。
「朝日は産経も含め、他紙も吉田証言を書いてきただろう、と主張しますが、その中身は、質量ともにとても比較になりません。さらに、検証に決定的に欠落しているのが、日韓関係の悪化にどれだけ影響を及ぼしてきたことか、という視点です。その点について何の言及もないことが、この検証の無内容さを象徴しています」

次に、Aの上村隆記事についてみていこう。
問題とされているのは、91年8月11日の植村氏の署名記事。元慰安婦が自らの経験をはじめて語ったという“スクープ”だ。だがのちに多くの問題点が指摘され、植村氏の妻が韓国人で、義母にあたる人物が慰安婦支援団体の幹部である事実も明らかになっている。
検証記事では批判側の主な論点として〈元慰安婦の裁判支援をした団体の幹部である義母から便宜を図ってもらった〉〈元慰安婦がキーセン(妓生)学校に通っていたことを隠し、人身売買であるのに強制連行されたように書いた〉という2点があげられ、これに反論する形で〈意図的な事実のねじ曲げなどはありません〉と結論づけられた。
しかし、この反論には疑問点がおおい。まず取材の経緯について、検証で植村氏はこう話している。
〈挺対協から元慰安婦の証言のことを聞いた、当時のソウル支局長からの連絡で韓国に向かった。義母からの情報提供はなかった〉
これについて、前出の元朝日ソウル特派員・前川氏が指摘する。
「このとき、植村さんは大阪社会部の一記者です。なぜソウル支局長が、部下を使わず、わざわざ大阪社会部の記者を呼ぶ必要があるのでしょうか」
91年当時のソウル支局長・小田川興氏に聞くと、「広報を通してください」の一点張りだった。おかしな点はまだある。ジャーナリストの櫻井よしこ氏が言う。
「検証記事では、元慰安婦・金学順さんの証言テープを聞いた植村記者は、『テープの中で金さんがキーセン学校について語るのを聞いていない』と話しています。しかし、本当にそんな重要な話が出ていなかったのか。また、植村記者は、彼女が〈『女子挺身隊』の名で戦場に連行された〉と書いています。ですが、金さんはその後様々な取材に応じたり、裁判で訴状を提出する中で、一度も『私は挺身隊だった』とは言っていない。植村さんが『挺身隊』と書いたからには、金さんがそう語ったか、植村さんの捏造か、どちらかしかありえません。捏造ではなく金さんが語ったとするなら、取材テープを証拠として提出すべきです」
また、朝日は検証記事で「当時は研究も乏しく、挺身隊と慰安婦という言葉が混同されていた」と釈明しているが、東京基督教大学の西岡力氏はその欺瞞を喝破する。
「朝日は『学会が混同していたから自分たちも混同した』という論理を展開していますが、70年代までは慰安婦と挺身隊の混同は学会でなされていなかった。実際の過程は逆で、朝日の報道によって学説が影響を受け、変更されてしまったのです」
またもう一つの「欺瞞」も西岡氏は指摘する。
「植村氏は、金さんが自分は義父に売買されたと会見で明かした後の、91年12月25日の記事で『地区の仕事をしている人』に騙されたと書いています。しかし金さんは一貫して『自分を買った義理の父に連れられて、中国の日本人基地があるところへ行った』と言っている。この点も捏造と言っています」
3月に朝日を退職した植村氏。彼は自らの捏造疑惑にどう対応してきたのか。小誌は今年1月、植村氏に直撃取材を試みたが、記者の呼びかけに、氏は猛然と走って逃げ出した。8月14・21日号では、植村氏が現在北海道の私立大学で非常勤講師をしていると報じ、同記事でも捏造疑惑に触れた。すると朝日は小誌にに抗議書を送付してきた。そこのは、〈根拠なく「記者による捏造」と決めつけて当社の名誉と信用を著しく毀損しており、到底看過できません〉と記してある。

《サンゴ事件では社長が引責》
だが、捏造ではないと主張するならば、前述の疑問点について、まずきちんと説明すべきなのは朝日のほうだろう。朝日に対し、紙面に誤報への謝罪がないことや、なぜ91年に大阪社会部にいた植村氏がわざわざソウルに行ったのかなどを質すも、「慰安婦問題に対する社としての見解などは、5日付朝刊の特集紙面で詳しく示した通りです。取材の経過などに係るお尋ねについては、回答を差し控えます」(朝日新聞社広報部)と答えるのみだった。
検証記事に謝罪が一言もなく、関係者の処分も一切なされていないことに、批判の声が続々と上がっている。拓殖大学客員教授の藤岡信勝氏が指摘する。
「89年、朝日のカメラマンが西表島でサンゴに自ら傷をつけ、その写真を基に記事をねつ造したサンゴ事件の際には、一柳東一郎社長が引責辞任しました。だが、サンゴ事件で日本に実害があったかといえば、ほぼありません。ところが日本の名誉をこれだけ傷つけた慰安婦問題について、朝日は誰一人背k人を取らず第三者による検証もない。こんなバカな話は在りません」
冒頭で木村氏と会談した加藤氏もこう語る。
「私は朝日がこの問題を真摯に反省して、社として変わっていってほしい
と思っている。木村君にはそれができると期待しているだけに、あの中途半端な検証記事は残念でした。きちんと謝り、そのうえで関係者を処分しなければならない。このままでは解決どころか新たな火種を生み出しただけ。この憲章が、朝日にとって致命傷になるのではないかと心配です」
検証記事が掲載された5日の一面にはこうある
〈読者への説明責任を果たすことが、未来に向けた新たな議論を始める一歩となると考える〉
謝罪なき言い逃れや、処分なき責任転嫁を繰り返していては、朝日はいつまでも新たな一歩を踏み出せないのではないか。(「週刊文春」2014年8月28日号)

潰すべきは「河野談話」 櫻井よしこ氏‘美しき勁き国へ‘産経新聞平成26年9月1日

米国サンフランシスコ中華街に新たな慰安婦像を設立する準備が進行中だ。中国系団体「世界抗日戦争史実維護連合会」による初の像設立は米国での対日歴史戦で中国が前面に躍り出たことを意味する。8月29日、国連人種差別撤廃委員会が最終見解を発表、元慰安婦と家族に謝罪と十分な補償、日本の責任者の法的責任追及を求めた。これからも私たちは中韓のいやな動きに直面するだろう。
「朝日新聞」の慰安婦強制連行という世紀の大嘘が判明しても、国際社会の対日認識は既に、異次元に飛び、不気味な進化を続ける。その元凶は、一にも二にも河野談話にある。河野談話の取り消しなくしてぬれぎぬは晴らせない。潰すべき本丸は河野談話なのである。
談話取り消しに躊躇する人々は以下のような実態に耐えられるのか。1996年(平成8年)、国連人権委員会のクマラスワミ報告は河野談話を引用し、慰安婦問題を「日本軍の性奴隷制度」と断じ、吉田清治証言も引用して国際社会を対日憤怒に駆り立てた。
同報告書にはこんな記述がある。「連行された村の少女たちは非常に若く、大半が14歳から18歳だった」「1日60人から70人の相手をさせた」、朝鮮人の少女が抗議すると「中隊長ヤマモト」が命令し「彼女を裸にし手足を縛り、釘の突き出た板の上で、釘が彼女の血や肉片で覆われるまで転がし、最後に彼女の首を切り落とした」。これは元慰安婦チョン・オクスン氏の証言だが、彼女はもう一人の「ヤマモト」もこういったと主張する。
「お前ら全員を殺すのは、犬を殺すより簡単だ」「朝鮮人女が泣いているのは食べていないからだ。この人間の肉を煮て食わせてやれ」
性病の拡散防止のため「殺菌消毒」として「少女の局部に熱した鉄の棒を突っ込んだ」「少女の半数以上が殺害された」とも語っている。
こんな証言は日本人は誰も信じない。古来、日本人はどんな罪人にもこれほど野蛮な責め苦を与えたことはない。しかし、これは同報告書一部にすぎず、同報告は英語で展開される世界の対日批判の序章に過ぎない。
同報告書から2年後、国連人権委員会のマクドウ―ガル氏の「現代的形態の奴隷制」最終報告書が出された。A4で18ページの報告は慰安所を「レイプ・センター」と定義、「奴隷にされた女性たちの多くは11歳から20歳」「多くは子どもだった」「毎日強制的にレイプ」「厳しい肉体的虐待」「生き延びた女性はわずか25%」と明記し、「日本軍の行為」を「人道に対する罪」だと断じている。
同報告は日本の責任者を訴追すべきで国連人権高等弁務官が乗り出し、他国も協力し、訴追の立法化を進めよと勧告しているのである。
マクドウ―ガル報告書も河野談話を重視する。談話で日本政府は慰安所設立に深く関与したと認めているにもかかわらず、日本政府は責任を否定し続けていると、告発しているのだ。朝日が協力に支えた河野談話を確固たる拠り所として、国際社会の認識が極限まで悪化しているのである。
だからこそ中国も韓国も、決して日本の河野談話否定を許さない。両国はアメリカを舞台にした対日歴史戦で手を組み陰謀を深化、かつ加速させた。彼らは成功し、2007年(平成19年)には米下院が河野談話を引用して対日非難決議を採択した。オランダ、カナダ、EU等も続いた。中韓両国の高笑いが聞こえるではないか。その高笑いに対して日本は闘わないのか。
今年8月中旬にも、ワシントンで保守系シンクタンク主催の2つのシンポジュームが開かれ、韓国の元政府要人や現役の駐米大使が基調演説で激しく日本を批判した。
一方、日本政府を代表する人物は駐米日本大使を含めて誰一人出席しなかった。恐るべき日本外交の怠慢の中で、日本政府の河野談話検証が日韓関係の阻害要因だとして避難されたのだ。主催者の保守的シンクタンク、ヘリテ―ジ財団の上級研究員でさえ、「日本軍による女性の強制連行は事実」と主張し、韓国の主張に足並みをそろえるありさまだ。
河野談話という日本政府の正式談話を取り消さない限り、「日本政府が認めている」として、逆に日本は永久に攻められ続けるのがオチである。それでも我慢せよと言うのか。
今、私たちは、日本の不名誉を晴らすための情報発信に、幾周回もの遅れを承知で、本腰を入れなければならない。10年20年単位の時間をかけ、国家の重大責務として歴史の事実を広め、究極的に河野談話を粉々に打ち砕くのだ。
その大仕事を、長年結果を出すどころか最悪の事態を招いた、外務省にまかせるわけにはいかない。短期決戦では決して達成できない仕事だからこそ、有為の人材を集め、外務省とは別個に恒久的な情報発信組織を打ち立てることが重要だ。その組織の喫緊の課題は、事実を世界に拡散徹底することで、歴史戦争に正統的勝利をおさめることとし、中韓両国の汚いねつ造に、熱い心と王道で闘うのだ。
日本を不必要に飾る必要はない。国際社会が事実関係を通して公正な目で日本を見ることを、可能にする情報発信に努めるのだ。朝日批判で満足することなく、河野談話取り消しを目指して、また一歩踏み出す時なのである。
日本の示す事実に国際社会は激情にかられた反発をするかもしれない。けれど、事実ほど強いものはない。冷静に着実に、事実を広げていくことに徹したい。以上産経新聞平成26年9月1日‘美しき勁き国へ‘(櫻井よしこ氏)より

歴史戦第6部 「主戦場」米国の 朝日報道後に火が付く〜産経新聞平成26年8月31日〜

慰安婦問題など歴史認識での日本に対する韓国や中国からの不当な非難の主舞台はいまや米國に移った。超大国、そして同盟国である米国での動きは日本にとって特別の重みを持つ。米国内で勢いを増す日本級弾はどう始まり、拡大してきたのか。その軌跡をたどることは日本側の今後の対策への有力な指針となろう。

〈「慰安婦連合」を組織〉
米国内で慰安婦問題を公開の場で最初に提起したのは「ワシントン慰安婦問題連合」(慰安婦連合)という組織だった。活動家タイプの少数の在米韓国人らが主体となり、1992年12月に創設された。
この年は慰安婦問題で大きな動きがあった。朝日新聞による「強制連行」報道で火が付き、官房長官、加藤紘一が「従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた方々に衷心よりおわびの気持ちと反省の気持ち」を表明する談話を発表。首相、宮沢喜一は同年1月に訪韓した際、8回にわたり謝罪した。
慰安婦連合は日本国内での盛り上がりに連動するように、活動目標に「日本政府に慰安婦に対する犯罪への責任を取らせ、公式の謝罪と賠償を求める」ことを掲げた。そのために当面は「日本の犯罪についての一般への教育を広める」と宣言した。活動の大前提も「日本軍が朝鮮半島などの女性を組織的に強制連行して、約20万人の性的奴隷にし、虐待した」という主張だった。

〈議員の陰に韓国女性〉
慰安婦連合は議会や教育機関へのアプローチを着実に広げていった。このプロセスに深く関わったのがレイン・エバンズ(民主党・イリノイ州選出)だ。
エバンズは同連合の会長となったワシントン近郊にある大学の教授、徐玉子(ソオクジャ)と交際。2人は公の場にもパートナーとして頻繁に顔を出した。ホワイトハウスでの夕食会にも招かれ、あでやかな民族衣装チマチョゴリ姿の徐とタキシード姿のエバンズが、当時のクリントン大統領夫妻とともに親しげに並んだ写真は同連合の活動にも利用された。
リベラル派とはいえエバンズは過去の戦争にも韓国にも特に関係はなかったが、徐らの意向を反映する形で93年11月、連邦議員24人から当時の首相、細川護煕に「日本軍の性的奴隷の詳しい調査」を要求する主唱者の一人となった。その後、エバンズらは日本政府に慰安婦への謝罪を要求する活動を米議会で強めて行く。

中韓組織連携で反日拡大

韓国系を中心とする「ワシントン慰安婦問題連合」(慰安婦連合)は発足後2年余こそ静かだったが、その後、中国系団体の協力を得て勢を増し、反日の活動を広げる。中国系団体とは、1994年にカリフォルニア州で創設された「世界抗日戦争史実維護連合会」(抗日連合会)である。表向きには中国系米国人らにより組織され、同州クパチーノ市に本部を置いた。
設立の前年、日本では官房長官、河野洋平の談話が発表された。慰安婦募集の強制性を認めた河野談話は、米国内で「性的奴隷」攻撃を始めた韓国、中国の組織を勢いづけた。「強制連行は日本政府も認めたではないか」という主張だ。その基になったのは、朝日新聞の一連の「強制連行」報道だった。
抗日連合会はその使命として「日本に戦争での犯罪と残虐行為を率直かつ明白に謝罪させ、公正な賠償をさせる」ことをうたった。具体的には「南京大虐殺、米兵捕虜虐待、731細菌部隊、性的奴隷」などを糾弾するとした。日本の戦犯裁判や講和条約、戦時賠償など戦後の処理や清算を一切、認めないのだから「反日団体」と呼ぶほかない。

〈河野談話が追い風〉
慰安婦連合は河野談話を追い風に一気に攻勢を強めた。95年から真偽の不確実な慰安婦たちの映像や資料を公開する「慰安婦展」を首都ワシントンの教会や、ジョージタウン大学の校内で開くようになった。ワシントンやペンシルベニア州最大都市のフィラデルフィアの公立図書館、さらには連邦議会の下院議員会館のロビーでも開催した。
在米日本人や留学生から反対の声も出たが、「日本政府も河野談話で非を認めた残虐行為への批判だ」という主張に圧せられた。
慰安婦連合ははその後、抗日連合会との連帯をさらに強め、息の長い反日活動を続けて行く。国連へのロビー活動も進める。2014年5月のバージニア州フェアファクス郡の慰安婦碑設置でも中心として動くなど、今も活発である。

〈大学・図書館浸透〉
1990年代後半からは、米国内で日本の戦時の行動を材料に現在の日本を糾弾しようとする動きの主役は抗日連合会に代わった。主体が変わっても、慰安婦は「性的奴隷」としていつも糾弾対象に含まれていた。
活動も多様となる。抗日連合会は96年12月、カルフォルニア州のスタンフォード大学で「第二次世界大戦での日本の残虐行為への責任」と題する大規模なシンポジウムを3日にわたり開いた。慰安婦問題も主要議題だった。戦争当事国などから多数の学者や活動家が集まったが、中国系が最も多く、日本人参加者も日本の戦時の行動を全て非難する「自虐派」だった。
この集まりで発言の機会を多く与えられた人物が、中国系米国人の女性ジャーナリスト、アイリス・チャンだった。「日本軍が最高司令部からの命令で中国民間人30万人以上を殺した」などと誇張した97年の彼女の著作『ザ・レイプ・オブ・南京』は、抗日連合会が全組織をあげて宣伝し、販売することとなった。その結果、米国各地の大学や図書館、そしてマスコミと、「日本軍の残虐さ」が着実に広まった。
抗日連合会と慰安婦連合が連携しての議会への働きかけも始まった。97年7月には、米下院議員のレイン・エバンズが下院に元慰安婦など「日本軍の戦争犯罪の犠牲者全てへの公式謝罪」を日本政府に求める決議案を提出した。
この中韓両組織は2000年12月の東京での悪名高い「女性国際戦犯裁判」(英語の原題は「日本軍性的奴隷に対する女性国際戦犯犯罪裁判」)にも関与した。
両組織を中心に事実に基づかない反日宣伝が広まる中で、日本側は反論することもなかった。河野談話が旧日本軍の非を認め、「心からのお詫びと反省の気持ち」だけを強調したことも、沈黙の主要な理由だったと言えよう。

歴史戦第6部、「主戦場」米国。中国系も慰安婦計画、米サンフランシスコ中華街広場。〜産経新聞平成26年8月30日〜

中国系も慰安婦像計画
米サンフランシスコ中華街の広場
【ロサンゼルス=中村将】
米カリフォルニア州サンフランシスコ市で中国系住民らが慰安婦像の設計計画を始動したことが29日までに、明らかになった。すでに準備委員会を設立し、公共スペースでの設置を目指している。これまで米国内の慰安婦像や碑は韓国系が推進しており、計画が実現すれば中国系による初の設置となる。米国における慰安婦問題で中韓連携が一層強化される恐れもある。
関係者によると、中国系の準備委が像の設置場所として選んだのは、観光名所の一つ、チャイナタウン(中華街)の中心にある「ポーツマス広場」。市が進める広場の再開発事業に合わせて、像を設置しようとしている。
像のデザインは慰安婦を連想させる女性の胸像で、その下に「日本軍によって強制的に性奴隷にさせられた数十万人のアジア女性の痛みを忘れない」という趣旨の碑も設置するという。
市は12月まで広場のデザインなどの再開発案を一般から募集。準備委は署名を集めたうえで、市側に像設置の計画案を提出する。準備委は中国系のエド・リ―市長にも直接、像設置の計画案を送付するとしている。
中国メデイアによると、準備委関係者は「韓国系団体とも連携を取り、支持を求めていく」としている。
関係者によれば、同洲を拠点に反日宣伝活動を行う中国系団他「世界抗日戦争史実維護連合会(抗日連合会)」が準備委を支援しており、中国系のサンフランシスコ市議も像設置案への支持を表明している。産経新聞平成26年8月30日

歴史戦第六部「主戦場」米国(1)
観光名所に「反日拠点」
米国で最も古く、最大規模を誇るサンフランシスコの中華街。屋台が歩道を埋め尽くし、所狭しと並ぶ中華料理店や土産物店から中国語で掛け声が上がる。米国でありながら、そこは異国。その一角にある「ポーツマス広場」。中国系住民は慰安婦像を設置する場所として、この広場に目を付けた。
1848年には米国人男性がここで「金をみつけたぞ」と叫び、ゴールドラッシュが始まった。という記録も残っている。1980年代後半にサンフランシスコ市が手を入れて以降、未整備のため殺風景な感じがただよう。
「再開発で見違えるようになれば、観光客も頻繁に出入りするだろう。慰安婦像があれば、『これは何』と立ち止まる。市長が中国系米国人ということもあり、市当局も中華街人脈の意見を無視するわけにはいかないかもしれない」。サンフランシスコ近郊に住む日本人はそう話す。
米西海岸でも人気のサンフランシスコの観光名所に慰安婦像が設置されれば、その衝撃は韓国系団体の強い意向で像が設置された同洲グレンデ―ル市の比ではない。
一般からの再開発事業案を受け付ける市関係者は「年末までに集まった案について、パブリックミーテイングを開き、広く意見を聞いてみたい」とし、決定までにはまだ時間を要すると説明するが、慰安婦像を設置しようとする中国系の声は署名などを通じて急速に広がることが懸念される。
「ポーツマス広場」から中華街を歩くこと5分。中華料理店などが並ぶ路地にベージュの二階建ての建物が見えた。この建物は間もなく改修工事が行われ、日中戦争での対日抗戦を顕彰する「海外抗日戦争記念館」が戦後70年となる来年9月にオープンする。
「戦時中の日本軍の残虐行為を示す歴史的な写真と記録を公開、展示していく」という触れ込みの記念館だが、中国系が所有する土地・建物に日本側が抗議するわけにもいかない。
中華街を舞台にした反日拠点構想が着々と進んでいる。

慰安婦問題は今や米国が主戦場になっている。この問題を長く追及していたワシントン駐在客員特派員、古森義久と、カリフォルニア州等での動きを追っているロサンゼルス支局長、中村将が報告する。

海外初の「抗日戦争記念館」の設置は、盧溝橋事件(1937年)から77年にあたる今年7月7日のレセプションで発表された。
館長に就任する米カリフォルニア州在住の女性実業家フローレンス・ファン(中国名・方李邦琴)と、中国の駐サンフランシスコ総領事、袁南生、反日団体「世界抗日戦争史実維護連合会」(抗日連合会)のイグナシアス・デイン(丁元)らは手を握り合った。
ファンは設置目的について「日本に対する中国と米国の同盟の歴史を人々に思い出させるためだ。中国は日本の侵略戦争と1対1で戦ったのではなく、米国の友人とともに戦った」と語り、米国社会で‘反日‘の浸透を図っていく姿勢を示した。

<地元老舗紙を買収>
関係者によると、ファンは35年、中国河南省生まれ。国共内戦によって49年に台湾に逃れ、60年に米国に移住した。幅広い事業で成功し、2000年には地元老舗紙「サンフランシスコ・エグザミナー」の買収で一躍有名になった。
カリフォルニア大バークレー校や北京大学に日本円で数億単位の寄付をしてきたことでも知られ、前国務長官ヒラリー・クリントンら民主党の大物との親交もあるとされる。ファンは今年1月以降、中国を3度訪れ、北京市郊外にある盧溝橋近くの「中国人民抗日戦争記念館」や、江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」を訪れた。
デインが率いる抗日連合会は、中華街を舞台にした反日拠点化に水面下で大きな役割を果たしている。中国系と韓国系を結びつける存在でもある。同州グレンデ―ルの慰安婦像をめぐっても、在米日本人らが撤去を求める訴訟を起こすと抗日連合会は「提訴不当」を訴える意見書を裁判所に提出。韓国系の要望を受けて像を設置した市を擁護した。提訴が棄却されるとデインは嬉々として語った。「慰安婦像や碑は今後もたくさんできるだろう」
同州での慰安婦像や碑の設置に反対する在米日本人は危機感を募らせる。
「同時多発的に像や碑が設置され始めた。すべての街の情報をわれわれが細かく把握することは不可能だ。後手後手どころか、対応が追いつかなくなる」

<朝日の訂正無視>
慰安婦問題は地方にとどまらない。首都ワシントンでも8月中旬、大手研究機関で日韓の歴史問題を論じるシンポジウムが相次いで開かれた。
慰安婦問題をめぐり、朝日新聞が朝鮮半島での「強制連行」の報道を撤回してから2週間が過ぎた8月19日、「ヘリテ―ジ財団」が開いた「歴史が北東アジアの将来の前進を阻む」と題するシンポジウムで、基調演説者の駐米韓国大使、安豪栄は、日韓関係の悪化の原因は「日本側指導者の慰安婦問題など過去の事実の否定」だと述べた。
安は記者(古森)の朝日の「強制連行」報道撤回に関する質問にも「強制連行の証拠は多数ある。(平成5年の官房長官、河野洋平による)河野談話自体も強制性を認めている」と答え、朝日の訂正を無視した。
在米韓国人学者でタフツ大学教授の委ソンユンも慰安婦問題での日本の動きを非難し「日本軍の強制連行」を前提とする「性的奴隷」との言葉を繰り返した。
ヘリテ―ジ財団の上級研究員であるブルース・クリングナーやウヲルター・ローマンらからも「日本軍による女性の強制連行は事実」という趣旨の主張が出て、米韓による「強制連行」糾弾の合唱となった。
ワシントンのもう一つの大手研究機関「戦略国際問題研究所(CSIA)」でも8月13日、「米韓日3国関係」と題するシンポジウムが開かれた。基調演説者の元韓国国会外交通商統一委員長、朴振は日本の歴史認識を非難し、とくに慰安婦問題での河野談話検証などを日韓関係の正常化を阻む要因として批判した。
朴は慰安婦問題について「日本軍による強制連行」だと強調し、阿倍政権にその受け入れを求めた。
朝日による記事訂正後の米国での2つの討論集会では、日本側代表の発言は皆無だった。ヘリテ―ジ財団では、参加者から「日本の駐米大使はなぜいないのか」との質問が出たほどで、議論は韓国側の日本非難ばかりが目立った。
〜以上産経新聞平成26年8月30日より〜




産経新聞の主張〜慰安婦問題〜平成26年8月28日
新談話と河野氏の招致を!

自民党の政務調査会は政府に対して、慰安婦募集の強制性を認めた河野洋平官房長官談話に代わる新たな談話を出すよう要請した。
事実を無視してつくられた虚構の談話を継承することは国民への背信である。政府の検証結果を踏まえた新談話によって国際的に広がった誤解を正すべきだ。
自民党の高市早苗政調会長は、26日に管義偉官房長官と会い、戦後70年の節目となる来年に向け、新たな官房長官談話を出すよう文書で申し入れた。政府が6月に公表した河野談話の検証結果等を受け、新談話によって河野談話の見直しを求めたものだ。
しかし、管氏は、河野談話をこれまで通り継承するとし、新談話には消極艇だという。
政府の検証で、河野談話は強制性を裏付ける証拠のないまま政治決着を急いでつくられた虚構性が明確にされた。
また朝日新聞は自身の報道検証を行い、暴力で無理やり女性を強制連行したなどとする吉田清治氏の証言を虚偽と認めて、一連の記事を取り消した。「慰安婦」と「挺身隊」の「混同による誤用」も認め、「軍などが組織的に人さらいのように連行した資料はみつかっていません」とも記した。
日韓関係悪化の発端となった慰安婦問題追及の根幹は、すでに破綻している。河野談話を継承するとしているのは韓国への外交的な配慮などからだろうが、談話の存在こそが日本の近隣外交を縛ってきたのだ。これを継承しては、日本が「甚だしい人権侵害した」などという誤解の独り歩きを止めることはできない。
事実を踏まえず、相手の意向ばかりを気遣う姿勢は国際的にも信用されない。根拠なき謝罪を繰り返しても、新たな謝罪や補償要求が蒸し返されることは、これまでの経緯から明らかだ。
新たな談話によって「おわび」を繰り返す外交に終止符を打つ時ではないか。長期的には日韓関係の改善にもつながるはずだ。
河野氏も説明責任を果たしていない。同氏は談話発表の際、強制連行の事実があったか認識を問われ、「そういう事実があった」と認めている。河野談話は、宮沢喜一内閣の謝罪外交の過程で出された。自民党は責任を自覚し、新談話作成の前提として、河野氏の国会招致を実施すべきだ。

慰安婦と挺身隊混同、朝日記者、22年前に指摘〜歴史戦〜産経新聞平成26年8月23日より

慰安婦問題が日韓間で政治問題化していた平成4年1月の段階で、朝日新聞が女子挺身隊と慰安婦は別の存在だと認識を示すソウル発の記事を掲載していたことが分かった。朝日新聞は今月5日付けの「慰安婦問題を考える」と題した特集で「当時は研究が乏しく同一視」と書き、全く異なる両者を混同し、誤用してきたことを認めたが、22年以上前に社内で両用語の使用法をめぐり疑義が提起されていたことがうかがえる。
記事は4年1月16日付け朝日新聞朝刊の社会面に掲載されたもので【ソウル15日=波佐場清】の署名で、宮沢喜一首相(当時)訪韓直前の韓国世論の動向を伝えている。そこには「韓国のマスコミには、挺身隊イコール従軍慰安婦としてとらえているものが目立ち、韓国民の多くは『日本は小学生までを慰安婦にしていた』と受け止めている」と書かれている。
その5日前の1月11日付け朝日新聞朝刊は、「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した」と両者を混同していたが、直後に「異論」が掲載された形だ。
ただ、ソウル発のこの記事は、東京本社版の早版に掲載されたが、紙面が確定する最終版からは抜け落ちていた。大阪本社版、西部本社版は同様の記事を掲載したが、名古屋本社版が掲載した記事では、韓国内での挺身隊と慰安婦の混同を指摘するくだりが削られていた。
産経新聞は当時の朝日新聞の認識を正すため、現在、波佐場氏が上席研究員を務める立命館大学コリア研究センターを通じて取材を申し込んだが、波佐場氏は取材に応じなかった。
朝日新聞社にも、東京最終版記事を掲載しなかった事情などを質問したが回答はなかった。同社広報部は、東京電力福島第一原発事故で、当時の吉田昌郎所長が政府の事故調査・検証委員会の聴取に答えた「吉田調書」に関する本紙記事に内容をめぐって、小林毅・東京編集局長に宛てた抗議書の中で「納得のいく回答が得られるまで、貴社の取材には応じられません。回答は保留させていただきます」とした。

歴史戦第五部 「朝日検証」の波紋

平成4年1月16日付けの朝日新聞朝刊で、韓国では「挺身隊イコール慰安婦としてとらえているものが目立つ」と書いた元ソウル特派員、波佐場清は、同年3月7日付け朝刊コラム「透視鏡」でもこう指摘した。
「挺身隊と慰安婦の混同に見られるように、歴史の掘り起こしによる事実関係の正確な把握と、それについての(日韓)両国間の情報交換の欠如が今日の事態を招いた」

<気づいたはず>
波佐場は産経新聞の取材申し込みに対し、所属する立命館大学コリア研究センターを通じ「お断りしたい。新聞紙上に自分のクレジットで載ったものがすべてです」と回答した。
社内からも慰安婦と挺身隊の混同を指摘する意見が出ていたのに、なぜ朝日新聞は今まで放置してきたのか。この混同こそが、韓国の反日団体などが主張する「慰安婦20万人強制連行」説のおおもとになったにもかかわらずだ。
今月5日付けの朝日新聞は自社が女子挺身隊と慰安婦を混同し、誤用した理由について「原因は研究の乏しさにあった」と説明した。
「当時、慰安婦を研究する専門家はほとんどなく、歴史の掘り起こしが十分でなかった」「参考にした資料等にも混同が見られた」などとも記した。
元朝日新聞ソウル特派員の前川恵司(現在ジャーナリスト)は首をかしげる。
「研究が乏しかったというが、当時は戦時中を知る人がたくさんいた。そうした人たちに取材すればすぐ違いに気付いたはずだ」

<事実ねじ曲げ>
前川は、5日付け朝日新聞の特集が、韓国人元慰安婦、金学順を初めて取り上げた「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」(3年8月11日付け)について、「意図的な事実のねじ曲げなどはない」あとしたことにも疑問を呈す。
「普遍的な人権を考えれば、元慰安婦の側に立つことは大事だ。でも、本当にそうならば、例えば金さんの話が『どうも違う』となったら、確認して報じるのが金さんのためだ。結局、金さんは、最後まで批判者から嘘つき呼ばわりされてなくなった」
「誇張した被害宣伝をすると、かえって信用されないと指摘するのも記者の役目ではないか。その記者(植村隆)は、後にソウル特派員にもなっているのだから、いくらでも確認が取れたではないか」
植村は3年12月25日付け朝刊(大阪版)で、金の「証言テープを再現する」として、金が慰安婦とされたきっかけをこう書いている。
「『そこへ行けば金儲けが出来る』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身は言いませんでした」
だが、金がこの記事が出る直前に日本政府を相手取って起こした、慰安婦賠償請求訴訟の訴状では「養父に説得され、連れられて行った」と証言している。植村が書いた「女子挺身隊の名で戦場に連行」が「事実のねじ曲げ」でなくて何なのか。
3年5月22日付け朝日新聞朝刊(大阪版)は連載記事「女たちの太平洋戦争」で、自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長、吉田清治が朝鮮半島で行ったと証言した女性の強制連行を取り上げた。記事は、吉田の述懐を事細かに紹介している。
「私が今日、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題の一つは、従軍慰安婦を950人強制連行したことです」
「若い女性を強制的に、というか事実は、皆、木剣を持っていましたから殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、一つの村から三人、五人、あるいは十人と連行していきます」
反響は大きく、「読者から驚きの電話が何十本も届いた」という。数日後には、吉田証言に対する読者の感想が掲載された。
これら吉田の証言や読者の感想を伝えた連載は『女たちの太平洋戦争』(朝日新聞社)として刊行され、4年、日本ジャーナリスト会議賞を受賞した。

<16本の記事いつ掲載>
吉田証言の虚偽性は現地調査をした現代史家、秦郁彦によって4年4月の時点で提起され、産経新聞も報じた。
朝日新聞元ソウル支局長で現在は東京本社報道局長の市川速水は、産経新聞ソウル駐在客員論説委員の黒田勝弘との対談『朝日vs産経 ソウル発』(朝日新書、平成18年)で、3〜4年に慰安婦問題取材班の中心的存在だったことを明らかにしている。市川は「貧乏な家で、女衒にだまされて、気が付いたら戦地に行かされて、中国などで慰安婦をさせられた」との証言はあたとしながら「僕の取材でも、腕を引っ張られて、猿ぐつわはめられて、連行されたという人は一人も現れていません」と語った。
だが朝日新聞が吉田証言を虚偽だと判断し、記事を取り消したのは、秦の指摘から22年以上もたった今月の5日のことだ。朝日新聞は5日付け朝刊の特集記事「慰安婦問題を考える」で、吉田について「確認できただけで、16回、記事にした」と説明したものの、具体的にどんな記事だったかほとんど明らかにしていない。
産経新聞は朝日新聞社に対し、16本の掲載期日や、紙面上でそれらを示す予定があるかなど書面で質問した。同社広報部は18日、産経新聞の福島第一原発事故をめぐる「吉田調書」報道に対する抗議書の中で回答を保留するとした。重ねて見解を示すよう求めたが、提示した期限までに回答はなかった。
元朝日新聞編集委員の川村二郎はかたる。「朝日新聞は国民の知る権利と二言目には言うが、読者の知る権利もちゃんと保障すべきだ。報道機関として間違っている」

<疑問にコラムで反論>
以前、朝日新聞は吉田証言をめぐる読者の声に反応した。4年1月23日付け夕刊1面コラム「窓 論説委員室から」で、吉田証言を無批判に紹介。読者から
(強制連行について)そんなことは見たことも聞いたこともない。軍律、兵隊の心情にてらしても、それはありえない」との疑問が寄せられると、3月3日付けの同コラムでこう反論した。
「知りたくない、信じたくないことがある。だが、その思いと格闘しないことには、歴史は残せない」
吉田の嘘は朝日にとって「知りたくない、信じたくない」ことだったろうが、今朝日は「その思いと格闘」しているだろうか。

吉田清治証言に関する朝日新聞の主な報道
●昭和57年9月2日朝刊、大阪本社版社会面
「朝鮮の女性 私も連行」「暴行加え無理やり」
・済州島で200人の若い朝鮮人女性を「狩り出した」
・集落を見つけると、まず兵士が包囲し、部下9人が一斉に突入し、若い女性の手をねじ上げ路地に引きずり出した。
●昭和58年10月19日夕刊
「韓国の丘に謝罪の碑」「『徴用の鬼』いま建立」
・軍や警察の協力を得て、田んぼや工場、結婚式場にまで踏み込み、若者たちを木刀や銃剣で手当たり次第に駆り立てた。
●昭和58年11月10日朝刊総合面「ひと」
朝鮮人を強制連行した謝罪碑を勧告に建てる 吉田清治さん
・「国家による人狩り、としかおおようのない徴用が、歴史のヤミに葬られようとしている」
●平成3年5月22日朝刊(大阪本社版)「語り合うページ」欄
「木剣ふるい無理やり動員」
・従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、殴る蹴るの暴力によてトラックに連れ込み連行した」
●平成3年10月10日朝刊(大阪本社版)「語り合うページ」欄
「従軍慰安婦 加害者側から再び証言」「乳飲み子から母引き裂いた」
・「若い母親の手をねじ上げ、蹴ったり殴ったりして護送車に乗せた」


産経新聞平成26年8月23日



2014,8,9放送、ウエークアップぷらすより、前川恵司元朝日新聞記者の発言。

<前川恵司(元朝日新聞記者・ジャーナリスト、1971年朝日新聞社入社、元ソウル特派員、元慰安婦や「吉田証言」本人らを取材)>

辛坊氏:吉田証言について、朝日の社内で、これはおかしのではないかということに、いつごろから気づき始めたのか?

前川氏:正直言って、その、朝日の中でもおかしいと思っている人と、いやそうだと思っている人と二派あったわけだから、いつからということは限定できない。

辛坊氏:社内の中にもおかしいと思っている人はいたと。

前川氏:この問題は、会社の合意として、意思決定してやっているわけではない。いろんな人たちが、いろんな記者がいろんなことを書くわけですよ。ただその正直言って、おかしいと思っている記者もいたし、そうだと思っている記者もいた。

前川氏:強制連行の概念が広がったのは、私が知っている限り宮沢内閣の時のですね、加藤官房長官の発言で広がったのです。

辛坊氏:前川さんは吉田清治に直接会ったことは?

前川氏:最初は80年にあった。その2年ぐらい前なんですが、彼は徴用工、徴用工というのは工場、炭鉱で働く、そういう人の話はしたんだけれど、慰安婦の話は一つもしていなかったですね。

辛坊氏:慰安婦の話は出てこなかった?

前川氏:全く出てこなかったですね。ぼくにはこの話はぜんぜんしていないので、おかしな人だなと思ったんですけど、後から考えてみれば、結局そのことを言ってたら、自分の話がおかしくなっちゃうというのか。そのときすでに本を書いていたんです。その本は僕には見せなくて知らなかったんですけれど、その本にちょこって出ていたんです。

(77年に本は出ていた。)

前川氏:77年に出したときは特別に取り上げられなかった。だから、彼はタイミングをみていったんだと思うんです。

(朝日の記事になったのは82年)

前川氏:河野談話というのは、お互いの政府がここら辺で歩み寄ろうよと、妥協しよう、ということで一種の示談みたいなものですから、ということは外交交渉ではよくあることなんです。それが結果的にまとまらなかったのは、韓国側のですね、問題であって日本側の問題ではないと思います。まとめようというのがお互いの意思であったんですけれど、韓国側の、政権が変わったりとか、そういうことでまとまらなかった。というんで、河野談話がまとまらなかったのは第一義的に韓国側だと。今後はことしの暮れに、韓国では女性華族庁、そこが白書を出すといっているですね、だから日本側も正式に共同調査をしましょうと、真相究明やりましょうと、持ちかければいいと思いますよ。各国が応じなければ、応じないと国際社会に訴えていけばいいと思いますよ。

前川氏:国際社会が懸念しているのは、日本はこのようなことはなかったといっていると、思われているんですね。だから日本はちゃんと女性基金をつくって、お金を渡して、61人が受け取っていると、首相の手紙で謝罪していると、知られていないんですね。それを国際社会に訴えていく。




河野氏「検証報告は正しい」〜産経新聞平成26年6月22日〜

河野洋平元官房長官は21日、山口市内で講演し、平成5年に自らが発表した官房長官談話(河野談話)に関する検証報告書について「報告書には引くべき所も足すべき所もない。すべて正しい。日韓関係を良好なものにするために談話を出した」と述べた。
慰安婦募集での日本軍の強制性については「当時、軍に慰安所があったのは事実だ。慰安婦の中には自分の意思できた人もいるかもしれないが、中に入ってしまえば軍の命令には逆らえない。そうした意味での強制性があった」と反論。
「『昔はよその国もやっていた』と口にするのは卑怯なことだ」とも述べた。
談話を作成した理由についても「資料や関係者の話はもとより、被害者である従軍慰安婦本人の口から当時の話を聞き、日本は反省しなければならないと感じた。官房長官として日本をおとしめるわけがない」と述べた。

尊厳無視「反日」に利用、「日本びいき」元慰安婦の死
〜産経新聞平成26年6月22日〜

慰安婦募集の強制性を認めた平成5年8月の官房長官、河野洋平の談話作成経緯と韓国の関与について、日本政府が20日に民間の有識者による検証結果を発表すると、韓国政府は早速反発し「深い遺憾」を表明した。大統領、朴クネが慰安婦問題に絡めて日本に「歴史の直視」を要求しているのと矛盾している。慰安婦問題をはじめとする歴史問題で冷え切った日韓関係に和解の糸口はあるのか。果たして問題解決は可能なのか。
政治部編集委員、阿比留瑠比が今月9日から12日まで前ソウル特派員、水沼啓子とともに韓国を訪ねて各界の識者と意見を戦わせ、韓国側の本音と実情を探った。
〈到着後いきなり洗礼〉
韓国は慰安婦問題をどうとらえ、どう位置付けているのか。ーー
9日に韓国に着いて最初に受けた洗礼が大手紙、中央日報の同日付け1面トップ記事だった。「日本軍慰安婦被害者、「春姫さんが8日死去」。記事は、韓国政府に登録された237人の元慰安婦の一人で91歳の「が亡くなり、生存者は残り54人になったと報じていた。同紙は、これがこの日一番のニュースだと判断したことになる。
記事には、ソウルの駐韓日本大使館前に建てられた慰安婦の少女像の写真と、登録元慰安婦の生存者の名前と年齢も添えられていた。中には、現在80歳と記され、終戦時には10歳か11歳だった計算になる女性もいる。日本人からみれば信じがたいが、韓国では、それが受け入れられている。
元慰安婦女性が共同生活を送る「ナムヌの家」で晩年を過ごしたペは実は戦後、自ら韓国から日本に渡って約30年間、日本で暮らしており、日本の演歌や軍歌が上手だった。「日本びいきなので、ナムヌの家では少し浮いていた」(関係者)という。ペと以前から交友があり、葬儀にも参列してきたという人物にあった。
「彼女は『(朝鮮人女性を)強制的に連れて行ったなんて見てないよ』と言っていた。『日本を許したい』とも話していた」
だが、韓国のメディアではこうしたペの一面は報じられない。彼女の人なりには触れず、代わりにナムヌの家所長、安信権のこんなコメントを掲載していた。
「一日も早く日本政府の公式的謝罪が行われ、元慰安婦の被害女性たちが人生の恨みを晴らし、心安らかに余生を送れるといい」
慰安婦となった経緯も考え方も生き方もそれぞれ違う女性達を、「日本軍被害者」という観念的な枠組みでひとくくりにし、画一的に取り扱う。そんな韓国社会の姿勢は、それぞれの事情も複雑な心境もある元慰安婦を一人の女性として尊重しているのではなく、ただ「反日」のために利用しているのではないかとの疑問を禁じ得なかった。
そんなことを思いながらソウル市街から車で1時間余りの広州市にあるナムヌの家を訪れた。するとそこには、ペの死去を悼む大統領、朴の名前を冠した白い花輪が飾られていた。
元慰安婦の女性が共同生活を送るソウル近郊、広州市の「ナムヌの家」に着くと、立ち並ぶ元慰安婦の胸像に圧倒される。顔のしわや髪のなでつけ方までリアルに再現されており、彼女らはまるで民族の英雄のように位置付けられている。
〈朝日新聞の記事も〉
「安倍昭恵夫人を施設に招待したい」
韓国メディアは3月、ナムヌの家の所長、安信権が外務省アジア大洋州局地域政策課長、山本恭司らと面会し、こんな意向を伝えたと報じた。
外務省は「事実無根」と否定したが、こんな話が出るほど韓国ではナムヌの家は有名だ。今年1月にはユン・ビョンセも韓国外相として初めてここを訪れ、河野談話を認めず「過去の悪行を正当化している」と日本を批判した。
「彼女たちは慰安婦ではなく、性奴隷だったと訪問者にきちんと伝えるようにしている」
ナムヌの家で案内してくれた日本人ボランティアはこう淡々と語った。
日本人はここにいくとまず、共産党元参議院議員、吉川春子が代表世話人を務める団体が企画し、反日団体「韓国挺身隊問題対策協議会」が協力したビデオ「15のときは戻らない ナムヌの家のハルモニ(おばあさん)たちの証言」を見せられる。
例えば、李玉善はこう訴える。
「15歳のときに養女となり、その家の手伝いをしていた。そこから他の家の養女に売られ、お使いに出たところを日本人に連れされれた」
ナムヌの家の前庭に掲げられた李の紹介文(日本語)には、「朝鮮人と日本人の2人によって連れていかれた 」と書いてあるのに、ビデオではなぜか「朝鮮人」は省かれている。
李はまた、「慰安所は人を殺すところです」「天皇は私たちの前にきて謝罪しなくてはならない」などと激高した様子で話す。これを日本から修学旅行で来た高校生らが見るのだ。
ビデオを見終わると、今度は「日本軍『慰安婦』歴史館」という展示場に案内される。
入り口には韓国で初めて元慰安婦だったと名乗り出て、朝日新聞が平成3年8月に大きく取り上げたことで慰安婦問題が日韓間の政治問題化するきっかけとなった金学順の次の言葉が記されている。
「私たちが無理強いされて抗えずにしてしまったことを、歴史に残さなければならない」
もっとも、金は自ら「母親に40円でキーセン(芸妓・娼婦)に売られた」と証言しており、無理強いの主体は誰だというのか。
場内には朝日新聞が4年1月に軍関与の証拠として”スクープ“した「軍慰安所従業婦募集に関する件」という文書も展示されているが、これは悪質な業者には気をつけろという内容にすぎない。
5年8月の河野談話発表を「慰安婦『強制』認め謝罪」と報じた朝日新聞のコピーや、共産党系の団体の寄せ書きもある。
ソウルの中韓日本大使館前で毎週開かれる、慰安婦問題で日本を糾弾する「水曜デモ」に参加した民主党の元国家公安委員長、岡崎トミ子の写真パネルも掲げられていた。
「(慰安婦の)その数は5万から30万程度と推定されている」「日帝は特に朝鮮の女性達を軍“慰安婦“として広範囲に動員」
日本語で書かれた解説文を読んでも、慰安婦問題が日韓両国の左派勢力の合作であることがよく分かる。彼らは日韓の和解のためだと言いつつ、逆に両国の対立をあおり離反させているのではないかー。
少なくとも、対日憎悪を増幅させるような展示がごく当たり前のものとされているうちは、日韓のすれ違いは続くと感じた。
夕食をともにした日本に詳しい韓国人歴史学者は次のような反応を示した。
「中国みたいに、ソウルの真ん中で反日団体が暴れていたり、日本人の悪口を言ったりとかは一つもない。日本の対韓ヘイトスピーチのようなものは韓国にはない。韓国には日本の嫌韓本みたいに日本を批判する本もない」
そのうえで「対立をあおるばかりのマスコミは悪いが…」と付け加えた。
国立外交院院長、尹徳敏(ユンドンミン)も「韓国の反日は日常的なもので、爆発するような感情ではない。実際に日本の観光客とか隣に住む日本人に対する嫌がらせはない」と指摘し、同様に「韓国に対日ヘイトスピーチのようなものはない」と語る。韓国では日本風居酒屋が流行するなど、日本そのものを排斥しようという動きは目立たない。
だが、反日が日常の中に当たり前のように溶け込んでいることこそが、問題の根の深さを表している。

「上から目線」の河野談話〜平成26年6月19日、産経新聞、阿比留瑠比〜

慰安婦募集の強制性を認めた平成5年8月の河野洋平官房長官談話の問題点は枚挙にいとまがない。中でも談話が国民不在の密室で作られ、発表後は慰安婦問題で対外折衝しなければならない政府内の担当者にすら、作成経緯や実態が秘密にされてきたことは、弊害が大きい。
〈関係者が情報密封〉
本来は引き継がれるべき情報を、河野談話作成に直接関わった少数の関係者が囲い込み、密封してきたのだ。その結果、後進は談話の事実関係や発表に至る事情もわからないまま、談話に縛られてきた。ある外務省幹部との会話で以前、こんなことがあった。産経新聞がこれまで、取材してきた河野談話をめぐる日韓両国政府のすりあわせの実情が話題になると、こう求められたのだ。「一度きちんと中身を教えて欲しい。われわれも(関係文書を)見せてもらえないんです」。
河野談話発表から2年後の7年8月に内閣外政審議室長になった平林博氏も今年3月、同僚記者の取材に対し、驚くべきことを語った。談話のほとんど唯一の根拠となった韓国での元慰安婦16人の聞き取り調査結果について、こう明かしたのである。
「慰安婦の証言は、実は見ていない。あれは『秘』だというのです。『マル秘』なんだと」河野談話の原案は、前任の内閣外政審議室長である谷野作太郎氏が「言葉使いも含めて中心になって作成した」(元同室関係者)とされる。にもかかわらず、後任の登誠一郎室長時代の10年3月には、わざわざ谷野氏らOBを呼んで懇談し、慰安婦問題に関する政府調査や河野談話作成過程などについて問いただしている。
これも、文書その他できちんと引き継ぎがなされていれば、必要がなかったはずである。この場で谷野氏が河野談話をめぐる日韓のすりあわせについて「根も葉もない噂」と事実と異なる話をしたことは17日付け本紙で書いた通りだ。
韓国の団体が仕掛ける宣伝戦に対し、外務省の反論は及び腰で弱々しく見えるが、そもそも反撃するための具体的材料を与えられていないという部分もある。
〈首相を厳しく批判〉
このように国民にも、後の担当者らにも事実関係を伝えず、もちろん学識経験者の検証も受けないまま、河野談話は左派・リベラル勢力に神格化されてきた。そして、河野氏自身は談話を自賛し続けて今日に至る。「(安倍晋三首相は)議員に上から目線で接していることが少なくない。議員の背後にいる国民に著しく礼を失している」「批判に耳を傾ける謙虚さも自分を抑制する姿勢も見られない」
河野氏は月刊誌「世界」5月号のインタビューで、こう安倍首相を厳しく批判していた。だが、国民は事実を知る必要はないとばかりに「上から目線で」河野談話を作り、世界に「性奴隷の国」とのイメージを広めたことへの批判にも、一切耳を傾けようとしてこなかったのは誰だろうか。
河野氏に国民に対する「心からのお詫びと反省の気持ち」(河野談話)を求めても、もはや無駄だろう。せめて、もう少し自分を抑制し、これ以上、日本の足を引っ張らないで欲しい。(政治部編集委員)

米バージニア州、慰安婦碑の除幕式、日本は意義唱える〜産経新聞平成26年5月31日〜

【ワシントン=青木伸行】韓国系団体が、米バージニア州フェアバンクス郡に設置した「慰安婦」碑の除幕式が30日行われた。韓国から現地入りした元慰安婦も参加した式典で、関係者は慰安婦が「人身売買の犠牲者」だと主張した。
郡庁舎の敷地内に置かれた碑には、「20万人を超える女性と少女が、強制的に性的奴隷にさせられた」など、史実を歪曲した文が刻まれている。
碑の設置を認めたことについて、群のシャロン・ブロバ議長は「碑は『人身売買』の犠牲者を追悼するものだ。人身売買は人権侵害であり、群の主要な関心事だ」と述べた。
また、碑を設置した韓国系団体「ワシントン慰安婦問題連合」のキム・クヮンジャ会長は、オバマ大統領が訪韓した際に表明した「甚だしい人権侵害だ」などの言葉を引用しつつ、「人身売買の犠牲者を追悼する碑は、将来の世代の教育になる」と語った。在米日本大使館は郡と連邦政府、議会の関係者などに1⃣日本政府は公式に謝罪している2⃣「アジア女性基金」を通じ「償い金」を届けている3⃣「20万人」は根拠がないなど、韓国側の主張には誤りがあるーことなどを説明している。

バージニア州に新たな慰安婦碑 9・11碑に隣接、「虚偽」一人歩きの恐れ〜産経新聞平成26年5月25日〜

【ワシントン=青木伸行】米国にまた一つ、「慰安婦碑」ができた。日本政府は韓国側を刺激しないよう水面下での対応に徹している。だが、もはや公然と問題を提起し反論しない限り、誤った主張を覆すことは困難だ。
ワシントンから西へ約20キロ。バージニア州のフェアバンクス郡庁舎の敷地に完成した碑は、30日の除幕式を前に緑色の薄いビニールシートで覆われていた。
「日本政府は、歴史的な責任を公式に認め謝罪し、受け入れるべきだ」透けて見える碑文には、マイク・ホンダ連邦下院議員が、かって議会に提出し可決された慰安婦決議の文面も刻まれている。
日本政府が幾たびも公式に謝罪し、「アジア女性基金」を通じ「償い金」を届けたことなど、無視されている。慰安婦募集の強制性の文句も、相変わらずだ。
碑の前を通りかかった夫婦は、「『慰安婦』って何?」と首をかしげた。一般のほとんどの米国民は、慰安婦について知らない。彼らが、公的機関の場所に建つ碑の文を読めば、事実だと容易に信じ込む。
碑の数メートル横には、2001年の米中枢同時テロの犠牲になった州民の追悼碑がある。「慰安婦」碑が追悼碑と同等に扱われているのだ。人々はなおさら碑文に疑問を抱くまい。郡当局も、韓国系団体などに洗脳され、その主張を鵜呑みにしているフシがある。米国には、慰安婦の募集に際し、日本の斡旋業者が「『奉仕』の性格を明確に示さなかった」としつつ、強制性はなかったことを示唆する米戦時情報局の調査報告書(1944)がある。米議会調査局も、「償い金」などを含む包括的な報告書(2007年)をまとめている。
だが、これらの報告書は大多数の議員はもとより、市民の目に触れることはまずない。オバマ大統領が先に訪問した韓国で、慰安婦問題を「甚だしい人権侵害」などと批判した背景にも、史実への理解、認識不足があると見られる。大統領から市民に至るまで、日本政府には公に問題を提起し反論する「説明責任」がある。

「日本だけ悪」周到な演出、河野談話導いたアジア連帯会議〜産経新聞平成26年5月25
日、歴史戦〜

「なぜ日本政府が、前年のソウルでの女性会議の『反日決議』とそっくりな談話を出すのか」平成5年8月、慰安婦募集の強制性を認め、日本の悪行を強調した河野洋平官房長官談話が発表された際、フリージャーナリスト、館雅子(87)はこう戸惑った。
〈朝日記者や弁護士〉
前年の女性会議とは、4年8月に開かれた「挺身隊問題アジア連帯会議」(現・「日本軍『慰安婦』問題アジア連帯会議」)のことだ。館はこの会議が「慰安婦問題で事実にもよる日本の悪評を広める出発点になった」と振り返る。
会議を主催したのは、韓国の反日団体「韓国挺身隊問題対策協議会」とアジア女性神学教育院。日本からは「日本軍『慰安婦』問題行動ネットワーク」と「売買春問題と取り組む会」が参加し、日韓のほか、台湾、フィリピン、香港、タイから計数百人が出席した。
社会党参院議員の清水澄子や弁護士の福島瑞穂、12年に昭和天皇を有罪とした女性国際戦犯法定の共同代表の一人も務めた朝日新聞記者の松井やよりらも参加し、報告に立った。
この会議に参加した館は会場で迷い、ドアの開いていたある小さな部屋に足を踏み入れてしまった。そこでは、韓国の伝統衣装、チマ・チョゴリを着た4.5人の元慰安婦女性が一人ずつ立って、活動家と見られる日本人女性や韓国人女性の言葉を「オウム返し」に繰り返していた。「元慰安婦に(シナリオ通りに)言わせるのは大変なのよね」
日本からの参加者がこう話すのを耳にしていた館は、あの部屋で見たのは「元慰安婦女性たちの振り付けだ」と確信した。
〈「黙りなさい」〉
この日の午前中の会議は紛糾を極めた。各代表が発表に立った際のことだった。
「私たちは韓国の女性と違って、優しくて従順なので日本の兵隊さんにかわいがってもらい、遠足にも一緒に行きました。だから韓国の強い姿勢とは違う」台湾代表がこう主張し、韓国側が要求する個人保証を求めない考えを表明すると、激しいヤジが飛んだ。声を荒げて怒る人、議長席に詰め寄る人などで会場は騒然となった。
続いて、インドに住むタイ人女性が「日本軍さえ叩けばいいのか。インドに来た英国兵はもっと悪いことをしたのに」と泣きながら訴えると、日本語の怒鳴り声が会場に響いた。「黙りなさい。余計なことを言うな!」
館はこの時の様子を「日本だけが悪いというストーリーを作り上げていた」と述懐する。
会議では、慰安婦問題のためのアジア連帯を結成し、今後の連帯行動を進めることが決まった。さらに、日本に対し1⃣歴史認識を改める2⃣謝罪する3⃣元慰安婦に賠償金を支払う4⃣再発防止のための教育を行う。などを求めることで一致したという。
日本からの参加者は帰国後、日本政府に事実の調査と個人補償を要請する活動を展開した。館は、この時の会議の決議が「河野談話の基になったことを疑う余地はない」と断言する。

火付け、たきつけた日本人たち。恫喝「余計なこと言うな」〜産経新聞平成26年5月25日、歴史戦〜

平成4年8月にソウルで開かれた「挺身隊問題アジア連隊会議」で、日本だけを叩く韓国とは違う視点を示した台湾やタイの女性に対し、「余計なことを言うな!」と怒鳴った人物が誰かを、ジャーナリストの館雅子は記憶している。
館によると、声の主は日本キリスト教婦人矯風会メンバーで「買春問題と取り組む会」事務局長を務める高橋喜久江。明治19年に発足した矯風会の初期の主な活動の一つに公娼制度の廃止運動(廃娼運動)がある。
高橋によると、矯風会が慰安婦問題に関わるようになったのは昭和63年のことだ。高橋が、のちに韓国の挺身隊問題対策協議会共同代表になる梨花女子大教授の尹貞玉に出会ったことがきっかけだった。
この年の春、高橋は韓国・済州島で尹の講演を聞き、「講演で挙げた資料に(日本の作家の)千田夏光(せんだかこう)の本がないのはなぜか」と尹に話しかけた。帰国後、「従軍慰安婦」という造語を広めた千田の著書を尹に送り、連携を強めていった。高橋は日本国内での慰安婦問題の拡大、過熱について「挺隊協がのろしをあげてくれた」よ評価した上で、こう自負する。「私も火付け役をした」
高橋は平成2年6月6日の参院予算委員会での議事録を尹に送った。それは、社会党参院議員の本岡昭次の質問に、労働省職業安定局長が「(慰安婦の)実態について調査して結果を出すことはできかねる」と答えた部分だった。
この答弁について、現在、挺対協常任代表を務める尹美香は今月20日、日本人記者団にこう評価した。「韓国世論が(慰安婦問題に)関心もなく、被害者自体も(名乗り)出ていなかった中で、世論(の共感)が盛り上がる大きなきっかけは、本岡の国会質問に対する日本政府の答弁だった」
日教組傘下の兵庫県教組委員長出身の本岡は、元年から兵庫県における「朝鮮人強制連行」の実態調査を開始した。その過程で慰安婦問題にも着目し、3年12月に神戸市内で韓国人元慰安婦の金学順と面会した。その時のことを、本岡はこう振り返る。
「『国会議員でしょう。本来ならあなた方が解決しないきゃいかんことじゃないですか』とやられた。『そこまで言われたら、国会議員としてやれるだけのことはやって見せます』とたんかを切ったんですよ」
本岡は以後、慰安婦問題に本格的に取り組む。13年8月に参院副議長に就任するまでの間、慰安婦と日本政府の法的責任をめぐる国会質問は20回以上にのぼった。
「日本で問題にならないなら、ジュネーブの国連委員会に持ち込もう」こう考えた本岡が、白羽の矢を立てたのが、英語に堪能で、国連に人脈を持つ弁護士、戸塚悦朗だった。
戸塚は4年2月、ジュネーブの国連人権委員会に対し、慰安婦問題を取り上げるよう求め、初めて慰安婦は「性奴隷」だと主張した。「龍谷法学第45巻第2号」の中で、戸塚は「この問題も国連に報告すべき時期が到来したと判断した」と説明している。
別の雑誌では「性奴隷」という言葉を用いた理由について、こう記している。
「『従軍慰安婦』問題に関する国際法上の検討がなされていなかったため、これを法的にどのように評価するか、新たに検討せざるを得なかった。結局、日本帝国軍の『性奴隷』(sex slaves)と規定した。直感的な評価だった」
戸塚は、7年までに少なくとも15回以上欧米などに渡航し、国連などで活発なロビー活動を展開した。その結果、8年(1996)4月、国連人権委員会は、慰安婦を性奴隷と認定した「クマラスワミ報告」を採択するに至る。それが2007年7月の米下院慰安婦決議などにもつながった。
戸塚を運動に巻き込んだ本岡だが、慰安婦を性奴隷と規定することには違和感を抱き、「戸塚と言い争った」と語る。
本岡は「国の責任で法律をつくって『慰安婦』問題を解決すべきだ」との立場だ。とはいえ、「20万人強制連行説」や「性奴隷説」が慰安婦像や碑文とともに世界で流布されている現状に対しては不満がある。「納得がいかない。そういうことが一人歩きするのは嫌だし、問題の解決に役立つとは思わない」産経新聞は戸塚に複数回にわたって取材を申し込んだが、「(私の)論文を読んでいただきたい」として応じなかった。
以上。

なぜ「日本人慰安婦」には無関心なのか。言葉に詰まった村山氏。


前回の当欄(6日付)では平成5年8月、政府が慰安婦募集の強制性を認めた河野談話と慰安婦に関する調査結果報告を発表するに際し、内閣外政審議室がまとめた記者会見用の想定問答の「嘘」について指摘した。今回は、同様に情報公開請求で入手した外務省による想定問答の「矛盾」を指摘しておきたい。A4判30枚、計24問について予想される質問と模範解答を記した文書では、こんな質問が記されていた。
「(河野洋平)官房長官談話においては、朝鮮半島出身の従軍慰安婦の募集などについて特記されているが、朝鮮半島と他の地域との間で慰安婦の募集形態などに相違があったのか」
これに対する答えはあっさりとしたものだった。
「朝鮮半島と他の地域との間で、慰安婦の募集形態などに特段の差があったとは考えていない」
また、関連して「朝鮮半島出身の従軍慰安婦の募集などについては、『総じて本人たちの意思に反して行われた』と記述されているが、これは、朝鮮半島と他の地域との間で、慰安婦の募集形態に相違があったことを示しているのではないか」と追及された場合の回答文も全く同じだった。
ここから、外務省が河野談話の発表時点で、朝鮮半島もそれ以外の地域も、慰安婦の募集形態は基本的に同じだったと明確に認識していたことがわかる。
現代史家の秦郁彦氏にとると、慰安婦の約4割は日本人で、朝鮮半島出身者は約2割だった。想定問答に依拠すると河野談話は、理屈の上ではこの日本人慰安婦についても募集の強制性を認めたものだとなる。
河野談話は慰安婦募集に関し「業者が主としてこれに当たった」とした上で、こう記述している。
「官憲等が直接これに加担したこともあった」
だが、進んで慰安婦になった者は少ないにしろ、日本では官憲(警察官や役人)が慰安婦の強制的な募集に直接加担した悪辣(あくらつ)な事例があったと、これまで耳目にしたことがない。
日本がそうであるならば、想定問答が「募集形態は同じだった」と明言する朝鮮半島でも、そんなことはなかったとしなければおかしいが、河野談話の趣旨は明らかに異なる。
相互に矛盾する河野談話と想定問答の書きぶりから浮かび上がるのは、結局、当時の宮沢喜一政権が韓国のご機嫌をとるために、やってもいないことをやったと認めただけであり、そのことを外務省も十分、自覚していたということだろう。
そう考えると、慰安婦問題の追及に熱心ないわゆる人権派が、なぜ日本人慰安婦には無関心なのかという疑問も氷解する。彼らは韓国をはじめ諸外国の元慰安婦に謝罪することで、「私は良心的だ」との満足をえたいだけなのでゃないか。
筆者は12年10月、元慰安婦に一時金(償い金)を支給するアジア女性基金の理事長だった村山富市元首相にインタビューし、こう問いかけたことがある。
「慰安婦の多くが日本人だったことはどう考えるのか。今後は、日本人も一時金の支給対象とするつもりはあるのか」
すると、それまで能弁だった村山氏は「うっ」と言葉に詰まったきり、何も答えられなかった。同胞の元慰安婦のことなど、それまで意識になかったのだろう。(政治部編集委員)

SAPIO,2014年2月号、李登輝氏「自国内の政治に利用する『慰安婦』問題に惑わされるな」より引用。

<台湾にいた朝鮮人売春婦はみずから戦地へ赴いた>
「ここで改めて日韓関係の問題に視線を戻そう。台湾が親日だからと言って、同じような統治政策をとった韓国でも親日であるべきだという考え方はすべきではない。
台湾と違って、韓国は曲がりなりにも一つの「国」であった。そのプライドを踏みにじったというのは事実として認識しなければならない。
ただその一方で、韓国や中国は、自国の宣伝工作の一環として捏造した「歴史」を利用する。その最たる例が「慰安婦」だ。
戦時中、台湾の東北地方には売春婦がたくさんいたが、その多くが朝鮮人女性だった。戦争が激化して兵士が南方に行ってしまうと、売春宿では閑古鳥が鳴き始めた。そこで彼女たちはグループを作り、軍隊がいる場所に集団で移動していった。みずから望んで戦地に向かったわけで、強制などなかった」。
韓国は常に強い国に寄り添って生き延びてきた国である。それは真横に中国という強大な国家があったからで、日清戦争、日露戦争で日本が中国、ロシアを破り、日本が強い国として彼らの目に映ったからこそ日韓併合を呑んだのだ。
そういう考え方を踏まえて、現在の日韓関係が悪化していることを見ると、彼らが「力のある国」と認めている国が変わったことが分かる。
朴クネ大統領の父、朴正煕は日本の士官学校で教育を受けた人で、彼女も親日的かと思いきや、むしろ反日の姿勢を明確にして再び中国に寄り添おうとしている。今は日本よりも中国の方が強いと彼らが考えているからだ。だから彼らは日本に対して罵詈雑言を投げかけ、中国におもねっている。
中国も同様で、都市部と農村部で極限まで貧富の格差が広がって暴動が頻発している状況で、13億人とも18億人ともいわれる人民を束ねていくには仮想敵が必要になる。アヘン戦争までさかのぼってイギリスを敵に据えても、話が古すぎて誰も感情移入できないから、より最近の日中戦争の敵にその役割を求めているだけだ。
日本は否定すべきは否定し、毅然と応じなくてはならない。
21世紀初頭、世界は米中の「G2の時代」に入ると言われていた。しかし、中国という国は南京大虐殺のようなホラ話しを世界に広め、日本の尖閣諸島や南沙諸島や西砂諸島の領有を主張するなど、近隣諸国との間できれつを生み続ける有様で、グローバルなリーダーたる資格などない。
私はむしろ、政治学者のイアン・ブレマー氏が、『「Gゼロ」後の世界』(日本経済新聞社刊)で予見したように、グローバルなリーダー不在の中で調停機能が失われ、アジアや中東で地政学的な対立が激化するGゼロの時代に突入するとみている。
新たな世界で日本はどのように生き残っていくべきか。
私は東日本大震災の後、復興のために力を尽くしている若者たちに会い、彼らの中に今も日本精神が息づいていることを感じ取った。日本人は世界のどこにもない優れた精神文化を持っていることに自信を持っていい。
問題は日本の指導者たちで、物事を大局的に捉え、国の進むべき方向を決められる政治家がいないことである。しかし、私は心配していない。日本の若者の中から新たなリーダーが現れると信じている」。

慰安婦発言ご都合主義批判、異彩放つ橋下氏〜阿比留瑠比の極言御免産経新聞平成26年1月30日〜

ああ、またかとうんざりしてしまう。慰安婦問題について「当時の戦争地域には大体つきものだったと思う」と個人的見解を表明したNHK新会長no
籾井勝人氏に対し、野党や一部メディアが激しく攻撃している件のことである。
日ごろ、表現の自由を声高に主張する政党やメディアに限って気に食わない言論は真っ先に封殺しようとするという、いつものパターンが繰り返されている。
そして、彼らのご注進を受けた韓国が脊髄反射的に「妄言だ」と反発する。冒頭から筋書きも結末も全部読めてしまうマンネリの時代劇を見るかのようだ。

〈異彩放つ橋下氏〉
そんな中で異彩を放ったのが、日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長の言葉だった。橋下氏は、籾井発言を「正論」と指摘し、NHKの政治的中立性を損なう「失言」と位置付けようとする一部メディアに、こう反論したのだった。
「朝日新聞や毎日新聞が言うような主張をいえば、政治的中立性を害さない。そんなのはおかしい」「韓国だって、朝鮮戦争の時には慰安婦制度をしっかり設けていた。韓国の軍事史のなかでもはっきり位置づけられている」
全くその通りである。ただ、これだけでは韓国の慰安婦制度が何を指すのか分かりにくいかもしれないので、少し補足したい。
韓国軍が朝鮮戦争期と重なる1951年夏頃から54年3月まで、慰安所を運営していたことは、韓国陸軍本部が56年に刊行した「後方戦史(人事編)」に明確に記述されている。
金貴玉・漢城大教授の論文「朝鮮戦争時の『慰安婦』制度について」によると、韓国陸軍は軍慰安所を「特殊慰安隊」と呼び、小隊形式で編成した。
軍慰安婦は書類上は「第5種補給品」と位置付けられ、52年には「ソウル地区第一小隊に19人、ソウル第二小隊に27人、ソウル第三小隊に13人、江陵第一小隊に30人」などと支給され、1日平均で6回以上の性的サービスを「強要」されたとされる。
朝鮮戦争時だけではない。ベトナム戦争でも、参加諸国が慰安所やそれに類する施設を運営していたのは否定しようがない事実だ。
つまり、籾井氏の個人的見解は、説明不足や言わずもがなの部分はあるにしろ、ことさら問題視すべき性質のものではない。
それどころか、野党やメディアの安易でご都合主義的な批判は海外に発信されて、中韓が根拠なく唱える「日本の軍国主義化論」や「日本悪玉論」に利用されるだけではないか。

〈中韓に反論を〉
実際、中国は現在、「日本のA級戦犯はアジアのナチスだ」(王毅外相)、「東条英機元首相はアジアのヒトラー」(高燕平駐イスラエル大使)などと日本にレッテルを貼り、ナチス・ドイツと同一視されるよう宣伝戦を仕掛けている。
ちなみに中国の「日本はナチス」論には簡単に反駁できる。ドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク裁判では、有罪となった19人のうち16人までが、ユダヤ民族の絶滅政策などへの関与を追求され、「人道に対する罪」に問われた。一方、東京裁判では有罪とされた25人のうち、誰もこの罪は適用されていないのである。
メディアや野党は、籾井氏をたたくぐらいなら、中韓の言いがかりにきちんと反論した方が建設的ではないか。

産経新聞”靖国後”(上)2014,1,30より

米副大統領の電話に衝撃
「参拝ない」朴氏に言っておいた

昨年12月12日夜、安倍晋三首相は日本、中国、韓国を歴訪して帰国した米国のバイデン副大統領から電話を受けた。事実関係を知る政府関係者によると、首相はその内容に驚きを隠さなかったという。バイデン氏はこう述べたのだ。
「韓国の朴クネ大統領には『安倍氏は靖国神社に参拝しないと思う』と言っておいた。あなたが不参拝を表明すれば、朴氏は会談に応じるのではないか」
どうして頭越しに朴氏にそんなことを言ったのかー。首相は直ちに自身の真意を告げた。
「私は第一次政権の時に靖国に参拝しなかったことを『痛恨の極み』だといって、衆院選に勝った。参拝は国民との約束だと思っている。いずれかの段階で行くつもりだ」
参拝の意思を明確に伝えたものだったが、バイデン氏はあっさりと「行くか行かないかは当然、首相の判断だ」と答えたという。
首相はさらに、日韓首脳会談を阻む最大の壁は靖国問題ではなく、むしろ慰安婦問題だとも説明したが、バイデン氏がどこまで理解したかは分からなかった。
ただ、靖国参拝に関して「首相の判断だ」と認めていたことから、日本側は米国が同月26日の首相の参拝に「失望」まで表明するとは予想していなかった。

<会談前に「失望」発表>

参拝から数時間後、外務省幹部は在日米大使館が「失望」という強い表現の声明を出そうとしていることを察知した。
「今夕には岸田文雄外相とケネデイー駐日大使の電話会談がある。会談前に声明を出すのはおかしい」
外務省は在日米大使館と米国務省に声明を出さないよう、働きかけた。だが、声明は「ホワイトハウスの指示」として電話会談の前に発表され、「日米に溝」と世界中に報道された。
複数の日米外交筋によれば、声明発表にこだわったのは、首相から事前に参拝意向を聞いていたはずのバイデン氏だった。日米間のパイプは微妙に目詰まりを起こし、「同盟国同士の常識」(政府高官)が通じなくなっている。
年が明けると、米側は一転して靖国参拝を「もう済んだ話」と位置付け、日米間の融和を演出するようになった。外務省には、米国務省からこんな反省も聞こえてくるようになった。
「在日大使館がDISAPOINTEDを『失望』と訳したのは表現が強すぎた。攻めて『落胆』とすべきだった」
声明が中韓の半日を勢いづかせただけで、「米国の世界戦略として全く意味がなかった」(政府高官)ことに、米側もようやく気付いたからだ。

<対韓関係の修復せまる>

ただし、その後も米要人らは示し合わせたように、韓国との関係修復を迫っている。
1月24日に来日したバーンズ米国務副長官は、岸田外相との会談で「韓国との関係だけは改善してほしい」とクギを刺した。小野寺五典防衛相には「失望」とのメッセージを出した理由について「米にとって、韓国と日本との関係が重要だから」とも明言した。
バーンズ氏は、日本側との一連の会談でこう付け加えることも忘れなかった。「日本が(東アジア)地域の安定と繁栄のため、微妙な問題について、建設的な方法を見つけることを、米政府は奨励したい」
「建設的な方法」との表現には、靖国参拝を再検討してほしいとの米側の思いがにじむ。日韓関係が冷え込む理由に関する、日米間の認識の隔たりを埋める作業は容易ではない。
安倍首相による昨年末の靖国神社参拝の波紋を、米中露の視点を交えて3回にわたり検証する。

今月8日から10日まで、日米議員連盟の日本側訪米団(団長・中曽根弘文前参議院議員会長)が米ワシントンを訪れ、20人以上の米政府高官や元高官、上下両院議員らと意見を交わした。狙いの一つは、安倍晋三首相の靖国神社参拝の意義と真意を伝え、米側の理解を得ることだった。
同行筋によると、ラッセル国務次官補(東アジア・太平洋担当)は首相の靖国参拝と東アジアの地域情勢について、こう率直に胸の内を明かした。
「われわれは、まず中国が『日本は軍国主義化している』というまやかしを宣伝することを防がなければならない」
あくまでアジア地域の脅威は中国であり、日米が足並みをそろえて対中政策を勧める必要があるという主張だ。これには中曽根氏もうなずいた。
ただ、ラセル氏の口調は、日韓関係のくだりにさしかかると、途端に厳しくなった。
「首相の靖国参拝は一時的だが、アジアでの日本の影響力に損害を与えた」
ラッセル氏は「米側に怒りはない」と強調しながらも「中国に付け入る隙を与え、日韓関係の改善が遅れた」と嘆いてみせた。

<あまりにも軽視>

バイデン副大統領やラッセル氏が懸念するように、靖国参拝が日韓関係悪化や東アジア情勢の緊張の主因なのか。
政府筋は「米側は、日本は韓国とは戦争しておらず、韓国は本来、靖国問題とは関係ないことを分かっていない。また、日本で靖国がもつ意味をあまりに軽視している」と語り、その上でこう指摘する。
「韓国のことは米国よりわれわれの方が分かっている。朴クネ大統領がこだわっているのは第一に慰安婦問題であり、靖国に行かなければ関係が改善されるというものではない」
靖国参拝に過剰なまでに反応し、日本に自制を求めるオバマ政権は、米国内での市民団体による慰安婦像の設置など韓国側のエスカレートする「反日行為」は放置している。こうした米国の「ダブルスタンダード(二重基準)」が、結果的に日韓関係の悪化につながっている部分もある。
さらに中曽根氏ら訪米団は、会談した複数の米政府関係者らが表明した意見に耳を疑った。それは、韓国が不法占拠する竹島(島根県隠岐の島町)に関する2月の同県主催式典への対応や、中学や高校で指導の指針となる学習指導要領解説書における領土問題の記述改定に関する懸念だった。
韓国のロビー活動が功を奏しているのか、韓国側の主張が浸透していたのだ。
知日派として知られるアーミテージ元国務副長官は「下手をすれば、(4月に想定される)オバマ大統領の訪日にも支障が出かねない」と説いた。ある米政府高官は「韓国は関係改善の材料を欲しがっている」と述べ、日本側に進んできっかけをつくるよう促した。

<アマチュア外交>

とはいえ、これまで長年にわたってさまざまな問題で韓国に譲り続けてきた日本にとって、これ以上、譲歩する余地は乏しい。
竹島の式典こそ、今年も昨年と同様に首相出席は見合わせるが、解説書の改定は、教育再生を最重要政策に掲げる安倍政権の一丁目一番地だ。文部科学省は28日、竹島と尖閣諸島(沖縄県石垣市)について、「我が国固有の領土」と明記する改定を行った。
首相はじめ、日本政府がとる現在の対韓基本姿勢は対話のドアは開きつつの「放置」だ。慰安婦問題で日本側がさらなる経済支援や謝罪を行う考えもない。靖国参拝に激怒し、日韓関係の改善をせかすバイデン副大統領について首相周辺は、ゲーツ元国防長官が今月出版した回顧録の一文を引き合いに出す。そこにはこう記されている。
「バイデン氏は過去40年間、すべての重要な外交政策と安全保障に関する判断でミスを犯した」
外務省筋は「一連のオバマ政権の外交はまるでアマチュアだ」と嘆く。ただそれでも、米国が死活的に重要な同盟関係であることには全く変わりはない。安倍外交のジレンマは続く。

中国の対日攻撃激化、中国、研究者・外交官も総動員。「もう事なかれでは済まない」〜産経新聞平成26年1月31日〜

正月休み明けの1月初旬、東京・霞が関の外務省の一室に集まった同省幹部らは、一様に厳しい表情を浮かべていた。机上には、世界各国に駐在する中国大使らが、赴任国のメデイアに投稿した安倍晋三首相の靖国参拝を批判する記事のファイルがあった。
「日本は第二次世界大戦後の国際秩序をいまだに受け入れない」
「中英両国は一緒に戦争に勝った」
中国に大使による投稿記事を分析していくと、共通した特徴が見つかった。
まず、首相の個人攻撃を行った上で「日本は軍国主義に戻りつつある」などと論理を飛躍させる。そして最後に「第二次世界大戦をともに戦ったわれわれに挑戦しようとしている」と相手国に中国は「戦友」であると呼びかけ、日本が「戦後秩序への挑戦」をしているのだと印象付ける論法だ。
これまでの日本の対外広報戦略は、感情的な反応は避けて、関係国への水面下の根回しで問題の沈静化を図るというものだった。それは「相手の土俵に乗る必要はない。下手に事を荒立て、かえって問題が大きくなるのはまずい」(幹部)との考えからだった。
とはいえ、今回は過去の事例とは事情が違う。中国は外務省が温度を取り、組織的に「世論戦」を仕掛けてきた。日本の戦後の平和の歩みを意図的に歪曲しつつ、「戦勝国」と「敗戦国」という枠組みを使って対日包囲網を敷こうとしている。

〈例外なく反論を投稿〉

「これほど下品な行為は見過ごせない。今回は売られたケンカは間髪いれずかわなければならない」
会議では幹部の一人がこう発言し、中国大使の投稿先の各国メデイアに対しては、日本も例外なく反論の投稿を行う方針を決めた。
反論文では、中国が急速に軍備拡張を行っていることや、南シナ海で力による領土・領海の現状変更を迫っていることなど、具体例を挙げて「国際社会にとって危険なのはどちらか」と訴えることも決定した。
また、靖国参拝はあくまで戦没者追悼のためであり、日本は戦後、他国に向けて一発の銃弾も撃ったことはなく、軍国主義に戻ることはないーなどと淡々と説明することにした。
外務省はただちに各国の在外公館に対し、こうした指針を「マニュアル」形式にまとめ、通達を出した。

〈アジアは静かに歓迎〉

中国外務省のホームページなどによると、30日時点で、中国の在外大使が現地メデイアを通じて首相の靖国参拝批判を行った国は74カ国・地域(インタビューも含む)にのぼる。日本側は46カ国・地域で反論投稿を行った他、インタビューに際しても中国側と同分量での出演を求めている。
こうした日本の努力によって「アジアの国々は安倍首相の防衛予算拡大を静かに歓迎しており、むしろ中国の軍拡と海洋上の強固な主張をより懸念している」(英エコノミスト誌)という評価も目立ち始めた。
ある外務省幹部はいう。「以前は事を荒立てる不利益の方が注目されたが、現在は国際的に力をつけた中国が、日本に真正面の戦いを挑んでいる。もう『事なかれ』では済まない」
「春節(旧正月)前というのに、次々と新しい仕事が降りかかってくる。うちの会社は人使いが荒い」
1月下旬のある夜。北京市中心部の日本料理店で、中国の政府系シンクタンクに勤務する日中関係史の研究者は、焼き魚を箸でつつきながらつぶやいた。
店内の大型テレビは「安倍晋三首相のダボス会議における発言を批判する討論番組」を流していた。この研究者の同僚がゲスト出演し「今の日本は大変危ない方向に向かっている」などと口角泡を飛ばしていた。

〈結論ありきの指令〉

昨年12月26日の首相靖国神社参拝後、研究者が所属する部署は当局から「歴代日本首相の靖国参拝の比較」「靖国参拝に関する日本世論の変化」「神道が軍国主義思想に与える影響」といった複数の研究プロジェクトが与えられた。締め切りまで時間が少なくみんなで手分けして執筆しているという。研究者は「これで旧正月は休めなくなった」とぼやき、「昨年は本当に忙しい一年だった」と振り返った。
昨年の年初は尖閣諸島の歴史的経緯、次は沖縄の帰属問題、年末になってからは靖国関連の仕事が与えられ、日中関係の変化に伴い、研究テーマも次々と変更されたのだという。
2012年11月に発足した習近平指導部は、胡錦濤前政権と違って日本との対決姿勢を強めた。日本を論破するために、この研究者のような日本問題の専門家の重要性が高まり、仕事が急増したのだ。
ただ、中国の学者による国際関係や歴史問題に関する研究は、事実関係より政治目的が優先され、着手する前に結論が出ているのがほとんどだといわれる。
例えば、中国の指導者が日中戦争中の南京事件の死者が30万人と発言すると、その後、中国の研究者がいくら研究を進めても違う数字は出せなくなる。先行研究をわざと無視し、都合のいい資料だけを引用する中国の学術論文は、中国国内だけで通用するといわれる。
このため、中国の学者が歴代や領土問題でいくら新しい成果を出しても、国際社会ではほとんど影響力がない。「国内向けのパフォーマンスにすぎない」と指摘する声もある。
首相の靖国参拝はまた、軍事科学院などの軍系シンクタンクに所属する専門家のメデイアにおける露出度を急増させもした。
各テレビ局は連日のように軍事番組を流し、自衛隊が保有する戦闘機、護衛艦の性能分析や中国軍との比較も行われている。軍事専門家らはしばしば「日本との戦争勃発の可能性」などに言及している。

〈国内向けアピール〉

世界中に駐在する中国の外交官も忙しくなった。中国外務省は昨年末から、各国に駐在する外交官を総動員し、世界規模で安倍首相を批判するキャンペーンを展開中だ。
韓国やベトナム、マレーシアなどアジア各国をはじめ、米国、英国、ドイツなどの主要国、マダガスカルやコンゴ、エチオピアなど地理的にも歴史的にも日本とほとんど関係のない国々の大使らも、この宣伝活動に参加している。
もっともこうした大々的な日本批判に対し、戸惑いを見せる欧米の外交官は少なくない。北京駐在のある欧州主要国の大使館員はこういぶかる。
「中国は、日本とも良い関係を維持したい私たちを無理やりにトラブルに巻き込もうとしている」
実際、習政権が国内外で展開する大規模な反日キャンペーンは、実際に日本外交に与えるダメージはほとんどないとの見方もあるくらいだ。
共産党筋は「日本の首相の靖国参拝は、日中関係の問題であると同時に、中国の国内問題でもある」と指摘し、その意味を説明する。
「中国政府が日本に強い姿勢を示さないと、国民による政府批判が高まりかねない。内政で成果を挙げられない習政権は、一連の派手な抗議を通じて、自身の対日強行姿勢を国内にアピールする目的がある」
「反日」は中国の構造的な内部矛盾の反映であるならば、日本が靖国で譲歩すれば収まるという性質のものではないことになる。

安重根記念館 中韓「設立は正当」、日本抗議も対応後手〜産経新聞平成26年1月21日〜

初代韓国統監の伊藤博文を暗殺した安重根の記念館が中国北東部のハルビン駅に開設されたことに日本政府が中韓両国に行った抗議などについて、両国外務省は20日、相次いで反論した。一連の動きは昨年6月から表面化していただけに、日本側の対応が後手に回った側面は否めない。
中国外務省の洪磊報道官は20日、定例記者会見で、「記念館設立は完全に正当で筋が通っている」と述べた。韓国外務省の報道官も同日、菅義偉官房長官が安重根を「テロリスト」と呼んだことなどについて、「非常識で歴史を無視した発言に驚きを禁じ得ない」と批判する論評を発表した。
記念館の開設は、昨年6月に韓国の朴クネ大統領が中国の習近平国家主席に記念碑設置への協力を要請したのがきっかけだ。外務省は韓国側の動きが表面化するたびに、両国に日本の立場を説明し、計画の撤回を求めてきた。ハルビン駅がある黒竜江省を管轄する在瀋陽の日本総領事館員も、地元関係者に日本の国民感情が悪化する懸念を伝えていたという。
しかし、当初は中国側が記念碑建立に消極的な姿勢だったこともあり、「先手を打った大規模な抗議活動は行わなかった」(政府関係者)。結果は、「記念碑」どころか記念館の建設となり、外務省幹部は「情報入手が遅くなったことは否めない」と情報収集が後手に回ったことを認めた。
外務省は各国に駐在する日本大使に中韓両国の誤った主張に積極的に反論するよう指示を出している。今年に入り、米英両国駐在大使が現地メディアで、中国大使による対日批判に反論するなどその機会は増えつつある。ただ省内には「目立ちすぎるとかえって反日活動に火をつけかねない」との消極論も消えない。
洪報道官は安重根を「著名な抗日義士で、中国人民の尊敬を受けている」と言い切り、安倍晋三首相の靖国神社参拝と関連づけて「歴史を適切に正視して反省し、参拝問題に関する誤った立場を修正するよう、日本側に要求する」と訴えた。
中韓の宣伝戦に対し、日本政府の踏み込んだ対策が求められる。(水内茂幸、北京 川越一、ソウル支局長)

朝日新聞の社説です。慰安婦の強制連行問題で安倍さんを追及。「慰安婦決議ー首相談話でけじめを」と題している。

米下院本会議が、旧日本軍の慰安婦問題で日本政府に謝罪を求める決議を採択した。決議は「残虐性と規模は前例がない。20世紀最悪の人身売買事件の一つ」とまで述べている。
日本政府は93年の河野洋平官房長官談話で、旧日本軍の関与を認め、謝罪した。それを受けて官民合同のアジア女性基金を設立し、元慰安婦に償い金と一緒に、首相名のおわびの手紙も渡している。米側がこうした取り組みを十分に評価していないのは、残念なことだ。
しかし過去の日本をこれほど糾弾する決議が採択されたのは、日本の側にも原因がある。そのことを厳しく見つめなければならない。
河野談話は、様々な証言や証拠を吟味した結果、軍の関与を認めたうえで、慰安婦の募集や移送、管理などで全体として強制性があったと述べた。日本政府としての公式見解である。
ところがその後、一部の政治家やメデイア、学者らから、河野談話を否定したり攻撃したりする発言が相次いだ。そうした勢力の中心メンバーの一人が、首相になる前の安倍氏だった。
米国内には、日本が戦前の価値観を引きずっているのではないか、という不安がある。小泉元首相の靖国参拝に対し、有力議員が日本の駐米大使に懸念を伝える書簡を送ったのは、その表れだ。安倍首相の登場は米国の警戒感を高めた。
首相になった安倍氏は「河野談話の継承」を表明した。ところが、当局が人さらいのように連行する「狭義の強制性」はなかった、などというものだから、決議の動きに弾みをつけてしまった。木を見て森を見ない抗弁だった。
さらに決定的だったのは、国会議員や首相の外交ブレーンらが反論広告をワシントン・ポスト紙に掲載したことだ。
今回の決議を採択した本会議で、民主党のラントス下院外交委員長は、こうした反論広告などについて、「歴史をゆがめ否定する日本の一部の試みには吐き気をもよおす」と述べた。
「価値観外交」を掲げる安倍首相は「日米は価値観を共有する同盟だ」というのが持論だ。自由や民主主義といった理念で共通していると強調する。
だが、こうした価値観を共有するためには、自由や人権の抑圧を肯定するかのように受け取られてしまう。それはいま日米が共有するはずの価値観に反するということを、安倍首相らは知るべきだ。
決議は首相に謝罪を求めている。首相の沈黙は逆効果になるだけだ。河野談話の継承を疑われているのならば、同じような内容を安倍首相の談話として内外に表明してはどうか。それがいま取りうる最善の道だろう。

1991年8月11日、朝日新聞記事(植村隆記者)

「日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、16団体約30万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は10日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。
尹代表らによると、この女性は68歳で、ソウル市内に一人で住んでいる。(中略)女性の話によると、中国東北部で生まれ、17歳の時だまされて慰安婦にされた。2・3百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。5人の朝鮮人女性がおり。一人に一室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校の相手をしていた。残りの4人が一般の兵士2・3百人を受け持ち、毎日3・4人の相手をさせられたという。「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思うつづけた」という。また、週に一回は軍医の検診があった。数か月働かされたが、逃げることができ、戦後になってソウルへ戻った。結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしている」。

※記事にある女性とは金学順であるが、アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件における金学順の陳実には異なる点も多い。池田信夫氏は「金学順が日本政府に対する訴訟の原告として名乗り出たときは『親に40円でキーセンに売られた』と訴状には書いてある。これは誤報ではなく意図的なねつ造であり、植村記者の妻は韓国人で義母が訴訟の原告団長だったので、義母の訴訟を有利にするために『日本軍の強制連行』という話にした」と批判している。
また、その義母であるヤン・スニムは裁判費用を詐取した件で韓国内で摘発・立件されている。2014年2月証拠不十分で不起訴。
本郷美則(元朝日新聞研修所長)は、植村のこの金学順についての記事を、「その連中は、日本から賠償金取ってやろうという魂胆で始めたんだから」と、渡部昇一との対談で発言している。朝日新聞は8月の検証記事で「植村は義母からの便宜供与を受けたことはない。また意図的な事実のねじ曲げではなかった」と主張。
以上Wikipediaより

歴史戦、南京「30万人」の虚妄
国威発揚 授業は口外禁止 〜産経新聞平成26年12月24日〜

南京事件
1937(昭和12)年12月13日、当時の中華民国の首都・南京陥落後、旧日本軍の占領下にあった最初の6週間に起きたとされる事件。犠牲者数について中国側は「30万人」と主張するが、平成22年に発表された日中歴史共同研究の報告書には「日本側の研究では20万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がなされている」とある。

《「記者証を」迫った女子中学生》
「あなたの記者証をまず見せなさい」。南京市内で本紙記者が「南京事件」について話を聞こうと「外国の報道機関だが」と声を掛けると、ジャージー姿の女子中学生はいぶかしげにこう言った。中国各地の取材現場で公安関係者らに誰何(すいか)されたことは何度もあるが、女子中学生に記者証提示を求められたのは初めてだった。
1937年12月の南京陥落の際に旧日本軍が引き起こしたされると南京事件に焦点を当てた初の教材が9月以降、南京市内の学校で配布された。生徒らの受け止めを知りたく、2ヶ月近く江蘇省や南京市の関係当局にかけあったが、取材申請は却下された。かくなる上は生徒への直接取材を試みるしかないと目立たないように声をかけたが、その女子中学生は「南京大虐殺の教材と授業について一切、外部の人に話してはいけないと学校で命じられている」とだけ答え、足早に立ち去った。その前にも10人以上に声をかけたものの、「外国の報道機関」と聞くだけでみなクモの子を散らすように逃げて行った。

《扶桑社教科書やり玉》
94年から南京市などは毎年、旧日本軍が南京を占領した12月13日に、「南京大虐殺記念館」で犠牲者の追悼式典を行ってきたが、習近平政権は今年、「国家哀悼日」に格上げした。記念行事として記念館の館長、朱成山らが新たに作った教材が「南京大虐殺死難者国家公祭読本」だった。
教材は3種類ある。小学5年生「灰火記憶」と中学2年生向け「歴史真相」、そして高校2年生向け「警示思考」だ。
中国共産党機関紙、人民日報(電子版)によると、南京市内で約12万人がこの教材を使って学習した。同紙は「青少年に南京大虐殺の苦しみの歴史教育を強化することは、非常に重要」とする朱の話も伝えた。
高校2年生の教材は「日本の右翼勢力が南京大虐殺を否定している」との項目を10ページにわたって記述。扶桑社が出版した『新しい歴史教科書』をやり玉にあげて「右翼勢力が歴史を歪曲した」と指摘したうえで、生徒に考え方を述べさせる授業を行っているようだ。
《「模範解答」の発言》
国営新華社通信が報じた南京第一中学(中国では高校も含めて中学と呼ぶ)の高校2年生の授業では、日本に短期留学した経験があるという女子生徒が、「少数だが日本人には軍国主義の血が流れており、日本の右翼分子は強烈な反中感情を見せる」と話した。男子生徒は、「国家は真に強大となり他国を心服させて初めて世界の最前線に立てる」と答えた。新華社電の伝える発言が「模範解答」だとすると、教材の狙いが透けて見える。
匿名を条件に取材に応じた教材作成に関わった学識経験者は「生徒に日本への抱かせることを目的にはしていない。南京大虐殺の歴史的事実を教えるとともに、中国がいまや強大な国になったことを伝えるための読本だ」と語った。今年に「国家哀悼日」と特別な教材がそろったのは、来年の戦後70周年に向け、国威発揚の狙いがあると言えそうだ。
「国家の統一見解」以外の個人の感想や考え方が外国人、ましてや日本人に漏れ伝わることは不利だと考えた当局が、学校側に生徒への「口外禁止」を厳命したと考えれば、生徒が話をしたがらなかった訳が分かる。教材の配布は来年以降、江蘇省から全土の学校へと広げられる計画だ。
中国内外で南京事件などを使った「宣伝戦」が活発に繰り広げられている。歴史戦第8部はこれらの動きに焦点を当てる。

国家レベルに格上げされた南京事件をめぐる宣伝戦は教育現場だけにとどまらない。江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」は7月、インターネット上で事件を多角的に取り扱ったサイト「国家公祭網」を開設した。擬似的な献花ができるほか、生存者の証言などさまざまな情報を公開している。
9月に同サイトはスマートフォンのアプリでも見られるようになった。若者への浸透を狙ったものだ。
7月にはマンガ『南京1937』が出版された。事件の生存者、夏淑琴(85)の証言などが基で、133ページ全編を通じ、旧日本兵が行ったという強姦や殺戮も含む残虐なシーンが一方的に“史実“として描かれている。
夏は12月13日に「南京大虐殺記念館」で行われた追悼式典で国家主席、習近平とともに、青銅製の巨大な鼎の追悼モニュメントの序幕に立ち会った。
12月7日には歴史公文書を扱う国家檔案局が公式サイトでネット動画の配信を始め、当時の南京住民が残したとする写真や記録などを公開した。その中でも注目されたのが、陥落前後の南京の様子をつづった日記を紹介した映像だ。
37年当時、62歳だった執筆者の程瑞芳は南京城内の金陵女子文理学院で学生寮の監督をしていたという。戦時下におかれた女性による日記という観点から、中国版「アンネの日記」と呼ばれ始めている。中国が南京事件を、ナチス・ドイツのホロコーストと同列に扱おうとする狙いがうかがえる。


【創氏】
創氏の義務
当時において日本や欧米諸国の慣習や法制度では、一部を除き、結婚し家族を形成すると、男女のどちらかが姓を変えて、家族で姓を統一する。一方儒教では、先祖の祭祀を行う関係上、子孫は先祖姓を引き継ぐものであり、血統が個人の姓を決定した。先祖の異なるものが婚姻により家族となっても、各個人の姓は同一にならない。朝鮮・中国・ベトナムなど儒教文化圏が基本的に夫婦別姓なのはこのためで、朝鮮人の姓は、父を通じ始祖にまで遡る男系血統を表す。
一方、創氏改名における「氏」とは、家族を表す名称である。創氏が行われる以前、朝鮮には家族名という概念は存在しなかった。

【改名】
改名の権利、許可制
従来、姓名の変更には裁判所の許可が必要であった。これを届け出のみで変更できるよう、創氏と同時に法制化されたものが改名である。実施期間の定めはなく、そのため設定創氏の届け出期間経過後も、朝鮮式の名を比較的簡易な届け出で日本名に改名することが可能になった。また設定創氏した者が、日本式の氏に合うよう下の名前を改名することができた。改名は任意で希望者のみであるため、提出書類は「改名許可願書」と題され、また当時としては安くない1人50銭の手数料が必要であった。創氏と同時に改名したものの割合は⒐6%であった。

【無効宣言】
米軍軍政下の南朝鮮では1946年10月の朝鮮姓名復旧令により、戸籍に掲載された創氏改名を遡及無効とし、戸籍上の日本名を抹消した。ソ連軍政下の北朝鮮でも同様の法的措置がとられ、朝鮮人の日本名はわずか5年余りで戸籍から消滅した。
日本の内地で日本名で生活していた朝鮮人も、本国における戸籍上の本名は民族名に戻ることとなった。しかし戦後も内地に残留した者、およびその子孫である在日韓国朝鮮人の多数が、現在でも当時の日本姓を通称として使用している。

【強制性論争】
「創氏制度」は王族など特殊な例外を除き、全朝鮮人民に法規で適用されたものであった。しかし金や朴などの朝鮮名から、設定創氏や改名制度による伊藤や井上など日本風の名への変更が強制であったかについては論争がある。


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