今日は東日本大震災・原発事故から5年です。みなさんはあの時どこでどのように過ごしていましたか?犠牲者を悼みながら、減災のために学問が何ができるかを考えながら大学を目指しましょう。あと少しですね。

胎児が「ひと」になる瞬間についての諸説を見てきた。
これらの考え方は、極端に言えば、
ある一点を経過したときに、胎児は「ひと」となる条件を満たすようになるとする。


これに対して、胎児は徐々に連続的に「ひと」になるのであって、
我々はその連続的なプロセスに恣意的な
線を引くことはできないという考え方がある。これを「連続説」と呼びたい。
この考えに立つと、そもそも胎児はいつから「ひと」になるのかという問いの立て方それ自体がナンセンスであることになる。
連続説において我々が言えることは、
たとえば、妊娠22週目を過ぎた胎児は「すでに<ひと>である」ということのみであり、
22週目までのどの時点でそれが「ひと」になるかを決定することはできない。
 連続的なプロセスを重視するこの「連続説」は、確かに決定的に正しい。発生のプロセスは生物学的には連続であり、
決定的な断絶は見られない。しかしながら、その連続のプロセスの途中で、重大な質的変化が何度かおとずれることも
また事実であると言わざるを得ない。
 受精卵は、その連続的発生プロセスにおいて、何度か重大な質的変化を経験しながら、段階的に成長していくのである。(中略)
 「ひと」に関する生命倫理学の議論でよく
話題になるのが「潜在的可能性」の問題、「自己意識」の問題、「痛みの知覚」
の問題である。潜在的可能性の問題とは以下のようなものである。
受精卵をまだ「ひと」とは言えないとしても、
将来一人前の「ひと」になる可能性を秘めた「潜在的なひと」であるので、受精卵をも「ひと」の一員として
扱うべきであるという主張がある。受精卵を、「潜在的状態にあるひと」として「ひと」の一員とみなすべ
きか、それとも受精卵はまだ潜在的な状態にとどまっているのだから「現実のひと」ではないと考えて、
「ひと」の一員に入れるのを拒むべきかという論争が続いている。「自己意識」について言えば、
ある存在者がいやしくも「ひと」であるためには、
その存在者は「自己意識」を所有していなければならないという強力な主張がある。
そうすると、胎児が脳を充分に形成して自己意識が芽生えるまで、胎児は「ひと」ではないことになる。
また胎児が「痛み」を知覚できるようになれば、その胎児を「ひと」として扱うべきであるという主張がある。
痛みの知覚がいつ発生するかについては、正確な答えは出ていない。少なくとも23週目以降の胎児は痛みを感じるものと考えられる。


問1 あなたは生命の「起始」をどの時期と考えますか。
その考えに至った理論的な根拠について述べなさい。(200字以内)
問2 『胎児はいつ「ひと」になるか』。
このようなことが問題になってきた社会的背景について述べなさい。(200字以内)


(考える)



問1小論文なので唯一の答えはありません。
問2 (小論文なので唯一の正解はないとはいえ、1980・90年代からの以下の事実は踏まえて書いたほうよいでしょう。

人口妊娠中絶をいつまで認めるという
古典的な問いかけに加えて、
受精後1週目の胚盤胞の内部細胞塊からES細胞(胚性幹細胞)を作り再生医療に使っていく可能性が出てきた。
また1997年のクローン羊誕生以来、ヒトクローン胚作成にもつながる技術であるES細胞の研究上の
取り扱いをそうするかの議論が出てきた。不妊治療での余剰凍結受精卵(8細胞や胚盤胞)の扱いについても考える必要がでてきた。

●背景
 イギリスにおいては「ひと」の始まりについて論争があり、主な論点は胎児7日目の「胚盤胞」を起源とするか?
14日目の神経管の始まりである頭尾方向の筋「原始線条(原条)」形成年間の議論の末、原始線条形成を
「ひと」の起源とし、それ以前の胚盤胞は研究利用ができることとなった。
の時期を議論とするかであった。
この議論は各国により異なり宗教によっても異なるがおおむねこの方法の議論が多い。
 また、1997年にはクローン羊「ドリー」誕生があり、ヒト・クローン作成をどうするのかについて各国が禁止する方法の
法整備を行う中で再び胚盤胞の研究への取り扱いをどうするのかの議論が起こされた。